オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~   作:空想病

18 / 103


/Wyvern Rider …vol.7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見張り台の物見やぐらが崩れ、小屋の屋根板が引き剥がされるほどの怒濤の暴風を伴って、それは現れた。

 

「どうされるおつもりで?」

「──今さら、それを聞くか?」

 

 カワウソは隠形したまま追走するミカに応えつつ、漆黒の戦士らと共に通りを走る。

 黒い影は、確実に街に住まう人々の脅威であると推定される。通りで遊んでいた母子が屋内に身を隠し、そこいらに存在する飛竜たちが一斉に威嚇の蛮声を張り上げていた。

 あれは──特徴的な前肢部分の大きな翼をはじめ、身体の各所を黒い腫瘍と斑点に侵されながら、空を引き裂くその姿形は──確かに飛竜の特徴に酷似していた。だが、異様と異常と異形に膨れ、悪魔の外皮で仕立てた鎧を幾重にも纏い武装しているかのようで、そのありさまは不気味に過ぎる。まるで魔王の乗りこなす邪悪極まる騎乗生物のようにも見えるが、醜く膨れた背筋には、何者も乗せることを拒絶するかのような肉腫が剣板のごとく突き出しており、乗り心地などまったく考慮してよい造りをしていなかった。鞍も手綱もなく、無論、騎手となるべき人影も存在しない黒竜は、孤独に、青い空を恨むような暴音を奏で続けている。

 

「コォア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ァァァァァァァッ!」

 

 暗く重く、そして脳髄をひっかくほど耳障りに轟く、黒飛竜の声。

 恐慌すら覚える竜の吼声に、無論、里にいる住人たちは黙って強襲を受け入れるはずもない。

 突如として現れた黒い飛竜一体に応戦しようと、慌ただしく武器のみを装備したセークの飛竜騎兵たちが包囲戦を挑むが、その飛竜の膨れた鱗は見た目よりも頑強なようだ。飛竜騎兵の投鎗(ランス)や矢礫は、その悉くを弾かれ、痛痒どころか飛行の妨害すら儘ならない。顔面は面覆い(フェイスガード)でも被ったのかと思えるほどに変貌していて、竜の眼の色すら窺い知れない。スリットすらないあのような形状で、一体どうやって周囲にある障害物を認識し、騎兵たちの攻撃を躱しているのか、軽く疑問さえ覚える。

 狂ったように()えまくり()えまくる黒飛竜の突撃によって、二騎の飛竜騎兵が墜落を余儀なくされる。余りの衝撃で飛行姿勢を維持できない二体の飛竜。周囲にいた十数騎の飛竜と騎兵は、余波に耐えるのに精いっぱいで、同僚の救助など望めはしない。宙に放り出される二人の女騎兵と共に、二匹の飛竜の巨体が放物線を描き、その落下地点には、軒先で遊んでいた子供らが、二人、一人……子に駆け寄る母親だろう女性も含めると、合計四人。あの重量が落下したら、当然、まずい。

 

「ミカ!」鋭くも僅かな声で、女天使に命じる。「あっちの子どもを!」

 

 天使の応答を聞く間も惜しんで、カワウソは駆け出す。

 一足先に、墜落する女騎兵らをモモンらが救出に向かっている為、カワウソたちは飛竜の方に集中できた。

 転移魔法などは、魔導国において一般普及しているような類ではなさそうなので、衆人環視の前では使うべきではない。

 ならば、これしかないだろう。

 神器級(ゴッズ)アイテムの足甲が装備者の意志に応えるように黒く淡く輝いた瞬間、速度のステータスを急激に上昇させる効果を発揮。驚異的な跳躍力を確保する。

 

「ッ!」

 

 跳ぶ。

 他の者には──特に、カワウソたちを追っていたハラルドやマルコの目には──いきなり黒い男が消え去ったようにさえ錯覚するほどの速度。割れ砕けた大地の足跡だけが、彼がそこにいたことを証明する。

 落下する飛竜二体の内一体に、追突する勢いで接近。沈黙の森でヴェルを助けた時と同じ要領で、カワウソは落下する飛竜の鞍の革帯を掴みあげ、強引に落下軌道を修正。

 革帯は堕天使の速度と放擲に耐え切れずに引き千切れるが、致し方ない。空中でいきなり方向を転換された飛竜は宙を跳ねるような軌跡につんのめりつつ、大地に激突する事態は回避された。飛竜はわけのわからない調子で首を巡らせ、翼をはためかせながら、上空で飛行態勢を整え終える。

 カワウソは壊れた鞍を放り出し、空に身を投げ出すように落ちていく。

 

「あっちは!」

 

 無事か。

 カワウソは振り向いた。

 遠く彼方で、翼を広げた女騎士が、飛竜の巨体を巧みに持ち上げ、墜落地点にいた子供らを救っていた。不思議そうに頭上の現象──姿を消しているミカに持ち上げられた竜は、宙で不自然に静止している──を眺める子供らに構うでもなく、女天使は意識を失っていた飛竜を子供らの脇に降ろす。

 とりあえずの安堵を覚えた、瞬間。

 ミカが何かを叫ぶように、落ちるカワウソの方へ振り向いて──

 

「コォア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ァァァッ!」

 

 喧しい竜声が、堕天使に向かって空を滑走してきた。

 

「ちッ!」

 

 カワウソの意識は安堵に弛緩していた。

 セークの軽量種よりも膨れた見た目だが、その速度はどの飛竜騎兵にも追随できない速度だと容易に知れた。直感だが、倍以上は性能差がある。魔法都市の空で、セーク族の里の上空で、彼らの速度は瞼の裏に焼き付いていたから。

 咄嗟のことで、魔法を使うか特殊技術(スキル)を使うかの判断が遅れる。〈空中歩行(エア・ウォーク)〉では速度が減退して今の状況での回避には向かない。〈飛行〉できる特殊技術(スキル)についてはできれば使うべきじゃない。

 黒飛竜(アレ)のレベルが六十以下なら物理無効化Ⅲでしのげるが、確信は持てない。

 何より、竜の牙並ぶ(あぎと)が近づく様は、「捕食される」という根源的な恐怖を想起されてしまってしようがない。

 思考が、判断が、動作のすべてが、遅れ──

 

「ギャア˝ァ!?」

 

 竜の一鳴。

 強烈な金属音。

 ついで、カワウソは何もしていないのに、黒い飛竜が顔を斜め上に()らして軌道を変えていた。

 堕天使の眼には、巨大な両手剣(グレートソード)の剣尖が一本、眼前の飛竜に叩きつけられたことが容易に判った。濁った瞳の動体視力で確認。飛竜騎兵のハラルドでは一本持つのがやっとだろうと道すがら言われていた重量の塊は、下にいた人物から放り投げられた勢いで目標に衝突し、クルクルと宙を舞っている。

 

「遅くなって申し訳ない」

 

 その剣を掴み回収した戦士の声が、至近から謝辞を述べる。

 カワウソと共に、空中を降下する漆黒の戦士。

 

「モモンさん」

 

 放り出された女騎兵らの方を救出し終えて駆け参じてくれたモモンが、戦列に加わった。

 共に地上へと降下し、黒い襲撃者の脅威から距離を取る。

 あの飛竜は投擲された剣の威力に体勢を崩されていたが、すぐさま暴意に満ちた声を張り上げ、“敵”と見定めたカワウソたちの方に分厚く膨れた鎌首を巡らせた。翼が大気に悲鳴をあげさせ、ありえない速度と衝撃を伴って降下してくる。

 街はずれの倒れた尖塔のような岩塊に降り立ったカワウソは、努めて冷静に、分析した状況を隣に立つ戦士と共有する。

 

「アレの頭、かなり頑強なようだ。剣を投げてぶつけた程度では、通らない」

「ええ。おまけに脳震盪(のうしんとう)の類も見られない。普通、竜とは言っても、あの衝撃を受けたら数秒以上、活動不能になるはずなんです──が!」

 

 会話もそこそこに、二人は共に大きく跳躍する。

 二人が数瞬前までいた場所に、暴走機関車のごとき勢いのまま竜が殺到し、その下の岩塊を砕いて散らせてブチ壊していた。

 

「モモンさん。そちらの状況は?」

「放り出された飛竜騎兵の女性方は皆、私とエルで救助できました。二人はマルコ──さんが治療中です」

 

 一方で、ミカはカワウソの指示通りに子供らを護った後、カワウソたちに向かって飛行してきている。

 

「〈伝言(メッセージ)〉」女天使の主として、カワウソは新たな指示を送る。「ミカ。こっちには来なくていい。それよりも、他にコイツと同じモンスターが周囲にいないか、警戒してくれ。周囲1キロを念入りに。場合によっては、作成召喚の特殊技術(スキル)の使用も許可する」

 

 魔法の会話越しに一瞬ながら躊躇の反応を見せるミカだが、「頼む」と念押しすると「……了解」と応じてくれる。

 彼女との魔法の繋がりが断ち切れた、瞬間。

 

「コォア˝ア˝ア˝ア˝ア˝────ッ!」

 

 背後から迫り来る音の暴力。

 街からだいぶ離れた地点であるが、まだ民家らしき建物が周囲にある中で突撃されてはたまらない。

 

「このあたりで反撃しましょうか」

「……やるしかない、でしょうね」

 

 大地に着地する前、カワウソは白い聖剣を空間から抜き放った。

 少しだけ、モモンの方から感嘆する声音が漏れた気がするが、振り返った先にある竜声の圧が吹き飛ばしていた。

 

「では、まず私から!」

 

 言って、漆黒の戦士が黒竜の蹂躙に真っ向から切ってかかる。

 短くも鋭い戦士の一刀、一声。

 飛竜騎兵の鎗を弾き返していた黒い肉腫を、モモンの双剣はバターのように引き裂き落とす。あっという間に片翼を二分割されて失墜しかける黒飛竜。そのもう片方の翼を、跳び上がったカワウソは聖剣の刃で引き裂いてみせた。攻撃系特殊技術(スキル)を発動するまでもない。神器級(ゴッズ)アイテムの一撃が、黒斑に染まる皮膜を削いで落とす。

 両腕をもがれた蜥蜴のような様で墜落の軌道を描く黒竜──だったが、

 

「……はぁ?」

「嘘、だろ?」

 

 モモンとカワウソは同時に呟いた。

 赤い血飛沫(ちしぶき)もなく、黒い肉腫ばかりが泡の如く盛り上がり、瞬く内に飛竜の被膜に覆われた翼を再生させていた。テラテラと輝く粘液までも黒く、羽ばたきによって小規模な雨を降らせる。竜の生命力はユグドラシルでも極めて高いが、あんなグロテスクな再生能力など、飛竜には存在しないはず。ああいうのは魔竜とか邪竜とか、そういった一部のレアな個体で見かける程度だったが、目の前の暴走竜の形状は紛れもなく飛竜のそれだ。巨大長大な体躯の中に、多腕多脚に多翼で多眼を纏う魔竜や邪竜よりかは、まだまだ大人しい形状である。

 再生した翼は、さらに内側から泡立つ肉腫を鎧のように纏いながら、その機動力は衰えるどころか、加速の一途を辿っていった。

 

「ふむ。──これは、珍しい」

 

 冷静に状況を見定める戦士に、カワウソは(たず)ねる。

 

「モモンさんは、やはり竜と戦ったことが?」

「ええ。経験は豊富だと、自負しております」

「じゃあ、竜の致命傷になるのは何処か、御存じで?」

 

 カワウソは、この異世界での竜と、ゲームでの竜の違いをそれとなく探る。

 漆黒の戦士は穏やかな闘気を宿した微笑で頷きを返すのみ。

 

「狙いにくいですが、比較的柔らかな“眼”。堅牢な鱗と筋肉に守られた“心臓”。あとは──」

 

 正解を紡ぐ一等冒険者とカワウソのもとへ、竜が肉薄する。

 

「──“首”を落とせば、大抵のモンスターは倒せる!」

 

 カワウソは頷くしかない。

 眼や心臓は勿論、首は、ユグドラシルでは有名な弱点(クリティカル・ポイント)として有名だった。人間も亜人も異形も、首を切られ、頭と胴体が泣き別れては、そのダメージ量はかなりのものになる。場合によっては即死させることも可能なほどだ。首無し騎士(デュラハン)のように元から首が分かれていたり、粘体(スライム)のように首のない存在だったり、あるいは首から上の部分(あたま)は飾りだったりしなければ、大抵の敵は行動不能になるもの。非生命のアンデッドや機械的なゴーレムですら、その思考行動を司る部位を破壊されたら、著しく活動停滞に追い込まれる仕様だった。

 そして、その原則は、この異世界でも通用するはず。

 特に、分厚く膨れた肉腫の壁に守られた、黒い飛竜の鎌首。

 その防御の厚さこそが、その下にある弱点の存在を雄弁に物語っていた。

 カワウソは、もはや慣れた調子で、跳ぶ。

 空を突っ切る暴力の塊と完璧に交差する軌道を跳躍しつつ、ゲームの時の感覚に近い感じでひとつの特殊技術(スキル)を発動。手中の剣を振るい、鉋掛(かんなが)けの要領で首の肉腫をごっそり剥がす。やかましく吠える黒い竜に対する憐れみは、あまり感じていない。聖騎士の肉体能力やステータス増強の特殊技術(スキル)効果などを併用することによって、さらに堕天使の攻撃性能を底上げしていき、精神系ダメージへの耐性をも強化したからか。

 カワウソは振り返り、見る。

 再生が始まる直前、弱点が(あらわ)になったそこへ、間髪入れず続くモモンの握る双剣の一振りが首肉に深く叩き込まれ、さらに二振り目が一振り目の剣を大鎚(ハンマー)のごとく打ち下ろし、完全に生物の頸椎を叩き折った。内部にある筋肉の束も諸共に両断せしめる。

 断末魔をあげる喉や声帯ごと両断された黒飛竜は、その巨体を大地に墜とし、完全に活動を停止。

 落ちた首の下から、血の代わりに再生の肉腫が溢れるといった現象も生じない。その逆も然り。

 黒く穢れた飛竜は、二人の戦士との戦いによって、見事完全に討滅された。

 歓声ともどよめきともつかない声音が、空を舞う飛竜と騎兵たちの間で唱和される。

 

「サポート、ありがとうございます」

 

 並んで息をつくモモンとカワウソ。

 ──二人は特に役割を決めたわけでもなく、何故だろうか、自然と共闘することができていた。

 双剣にこびりつく黒い肉片を払う戦士は、終始余裕な表情で微笑んでいる。

 その笑みにつられ、カワウソも思わず気安く応じてしまう。

 

「いや、こちらこそ。……すごいですね、モモンさん」

 

 そのまま聖剣をアイテムボックスに収納しつつ、モモンの手並みの見事さを讃えた。

 

「“一番騎兵隊隊長(ハラルド)以上の戦士”という話。確かに、本当のようだ」

 

 道すがら、少年が語っていた「当代」におけるモモンの武功。ハラルドたちが英雄視する漆黒の戦士の力量は、素人目にも少年隊長のそれを軽く超えていると判断できる。

 

「いえいえ。私など、まだまだですよ」

 

 謙遜の限りを尽くす漆黒の戦士は、カワウソの剣捌きの方こそを絶妙と評した。

 黒飛竜の腫瘍のごとき鱗だけを引き剥がした手並みは、「力任せな自分には真似できそうにない」などと主張してくる。

 

「あー、それは──」

「……それは?」

 

 カワウソは言いあぐねる。

 信仰系の職業(クラス)特殊技術(スキル)のひとつ“神の啓示”を発動しただけだ。敵対象への攻撃を行う際に、致命傷となる攻撃を加えやすくなる……つまり、「クリティカルヒットの確率を向上させる」特殊技術(スキル)である。たとえ一発目は不発でも、続く攻撃はさらにヒットの可能性が増幅されるという、なかなか利便性に富んだ優れもので、ゲームでもカワウソはよく使っていた。

 しかし、特殊技術(スキル)のことは異世界の住人に説明するには難しい情報だった。神の啓示という名称も悪い。「神の啓示のおかげで戦えた」などと主張すれば、聞く者によっては「こいつ大丈夫か?」などと心配されるオチしか見えない。

 カワウソは誤魔化すように口を開いた。

 

「あー……モモンさんこそ。“武技”という奴も使わずに、あれだけの身体能力を発揮されるとは。驚きです」

「私には、魔導王陛下から下賜された装備があります。国内最高峰の装備の力がなければ、とてもとても」

 

 なるほど。カワウソは一人ごちる。

 モモンの身に着けた鎧や剣は、どれをとっても秀逸な造形が施され、データ量で言えばかなりのものだと容易に判断がつく。とりわけ目立つのは、ルーン文字という、ユグドラシルでも人気だった装飾文字だろう。北欧神話ゆかりの古代文字は紫などに輝き、黒い刀身や鎧の中で冴え冴えと存在感を主張している。聞けば、ドワーフたちの多くが住まう工業都市、その地で指折りの評判を誇るルーン工房“火の髭(ファイアビアド)の炉”で鍛造された一品だとか。

 何はともあれ、彼の、一等冒険者の力の一端は知れた。

 今回の戦闘が全力だったという確証はない(武技とやらも使っていなかったから、多分そうだろう)が、それでもモモン・ザ・ダークウォリアーという存在の力量を把握することができたのは、今後の活動の中で大いに参考にできる要素が多い。

 

「……さて、どうするか」

 

 カワウソは、首切られた黒い竜の死骸を見る。

 同時に、周囲から突き刺さる野次馬のごとき視線が不安を掻き立てた。

 墜落したのは街の外れだが、彼等飛竜騎兵の人々にとっても珍事らしい黒竜を眺めようと人だかりが構築されかけている。

 いくら指輪で認識阻害を施していても、ここまで大っぴらに衆目を集めるのは、正直まずい気しかしない。

 

「大丈夫です、カワウソさん。ほら」

 

 言って、モモンが頭上を指で示す。

 そこでは、数多くの部下を統率した若い隊長が声を張り上げていた。

 

「この場は一番騎兵隊の自分(ハラルド)が預かります! 里の皆様は、どうか負傷者の確認と治癒を願います!」

 

 邸から呼び寄せた己の飛竜に跨り、群衆に空から号令を繰り返し発するのは、飛竜騎兵の部隊長。

 セーク家の誇るハラルド・ホール一番騎兵隊隊長の言は重く、その場にいる全員がハラルドの言に納得したように、黒い竜の死よりも、風圧などで破壊された街や怪我人の確認に急いだ。

 

 

 

 

 

「お二人とも。遅くなって申し訳ない!」

 

 周囲の人だかりを散らし、一番騎兵隊の部下である女性ら三人を連れて馳せ参じた少年の第一声がそれだった。

 

「特に、墜落した十番騎兵隊の二人と二匹の件、本当にありがとうございました!」

「いえいえ」

「困ったときはお互い様だからな」

「はい! ありがとうございます!」

 

 聞けば、町はずれのやぐらや小屋にいた数人が重軽傷を負ったが、命に別状はないとのこと。

 モモンとカワウソは少年の感謝に応じるのもそこそこに、改めて、自分たちが討滅し直立奇岩の大地の上に転がした黒竜の(むくろ)を見る。モモンがとりあえず疑問を紡いだ。

 

「ハラルド隊長。これは飛竜、なのでしょうか?」

「だと思うのですが……こんな飛竜、私は見たことも聞いたこともありません」

「ヘズナの重量種とか、じゃないのか?」

 

 カワウソは族長邸の秘密部屋で見たアレと大きさだけは似ていることを指摘。

 しかし、ハラルドのきっぱりとした断言が、その可能性を否定する。

 

「重量種とも違います。頭から尾までの体格は、重量種特有のずんぐりした感じじゃないですし──そもそも、こんな黒い色と腫で覆われた竜なんて」

 

 彼の見解に耳を傾けつつ、敵対部族(ヘズナ)の誰かが解き放った可能性もありえるだろう可能性を脳内に留めておく。

 何はともあれ、この飛竜の出所をはっきりさせなければ。

 ハラルドや部下の女性らが短剣を取り出し、飛竜の尾やら鱗やらを詳しく検分するべく、慣れた手つきで解体していた。少年は首だけになった頭に取りつくと、口内にある舌まで黒く染まった肉を見極めたり、肉腫に隠れて見えなかった眼の様子を見るべく顔周りの腫を切り払ったりして──生きていた時は投げられた鎗すら弾き返した硬度は何処へ行ったのか。死んだことで肉腫の硬さが失われたようだ──そこにあるものを無理矢理に覗き込んだりする。彼はある一点を確認すると、さらに混乱に拍車がかかったようで部下にも確認させているようだが、カワウソは黙って待つ。

 

 そんな飛竜騎兵たちの作業工程を眺めつつ、カワウソは必死に、脳内に残るユグドラシルのモンスター図鑑を紐解いていく。

 だが、それでも、あるひとつの結論に至るしかない。

 こんな飛竜、ユグドラシルでも見たことがないという、至極単純な結論だけだ。

 飛竜と言っても軽量種だの重量種だのがいるように、小型の竜モンスターにはよくある派生パターンとして、「色」だとか「扱う属性」の違いとかで様々な差異がユグドラシルでは存在したはずだが、こんな病的な黒斑の、おまけに腫瘍のごとき肉泡に覆われた飛竜など、カワウソは知らない。竜はユグドラシルでも人気のあるモンスターだった。そのビジュアルの秀逸さ、RPGにおいて「最もポピュラーな敵」である歴史、竜の血肉や毒牙や骨に鱗などのレアな素材ドロップ、他の同レベルモンスターよりも大量に行き渡る経験値の量、狩人のスキルで確保できる新鮮なドラゴンステーキ肉、生け捕りにした際の売買価格の高額ぶりなど、その人気の要因を数え上げればキリがない。

 では、だ。

 

「ハラルド」ひとしきり確認を終えたらしい騎兵隊隊長を呼ぶ。「この黒い飛竜、いったい何だ?」

 

 飛竜と同じ骨格とサイズだが、明らかに飛竜の特徴と合致しない。

 レベル獲得などの法則が変わったように、モンスターなども特異な進化や変貌を遂げている可能性を思い浮かべるが、この中で飛竜の事情に通じているはずのハラルドは首を横に振った。

 

「いいえ。我々も──少なくとも私は、こんな子を見るのは、その、初めてで」

 

 ありえないことを聞いた気がして、カワウソは問い質す。

 

「……“子”? “こんな子”って?」

「ああ、見てください」

 

 ハラルドは黒飛竜の死骸の頭を、肉腫を切り払って確認していたそこ──顎下──にあるひとつの鱗を示した。

 

「これは「逆鱗(げきりん)」というもので、竜種固有の特徴であり、これの大きさで大体の年齢が判別できます」

 

 逆鱗というだけあって、その鱗は他の鱗とはまったく逆方向に生えていることが、かろうじて判った。「かろうじて」というのは、逆鱗のサイズが他に比べて小さく、いかにもか弱そうな存在感しか主張しない程度のものだったからだ。言われなければ、そこにある逆鱗の存在に気づけそうにないほどであるのは、この飛竜の顔面は全域に渡って、黒い肉腫が兜のように覆われていたからだ。肉腫に侵されていない部位にしても、まるで病的な黒い斑点に侵されている鱗ばかりで、これでは元の翠色を探す方が難しいくらい。

 ハラルドは説明に努める。

 

「この子は逆鱗の大きさから察するに、生後一年か、少なくとも二年以下しか経っていない。ほとんど赤ん坊みたいなものです。顔の造形にしても、黒い肉の下はかなり幼い。目は丸く愛くるしいもので、とても成竜のそれでは、ない」

「……いや。この巨体で、赤ん坊ってことは、ないだろう?」

「ええ、確かに。でも翼は並の成竜か、それ以上に成長しています。脚や尾もかなり頑強ですが……ならば、この逆鱗のサイズは、ありえない。黒斑に染まっている牙も成体に比べれば微妙に小さいし、ああ、爪もそうですね。一体、この子はどうなっているのか……わからない」

 

 カワウソは呆れ返った。

 仮にも一番騎兵隊の隊長を務め、部下や里の人々に命令を下す立場の人物ですらもが、この目の前の異形を理解不能な代物と認めるしかないという現実。

 ハラルドは自分で自分の打ち立てた確証に、疑問符を大量に浮かべてならないようだ。彼自身、こんな飛竜が存在する事実が信じられないという風で、目の前に厳然と存在する黒い死骸の検分をひとまず終える。

 無理もない。

 この竜は先ほどまで、成人サイズの飛竜たちを簡単に吹き飛ばすほどの巨躯で空を縦横無尽に駆け回っていたのだ。このサイズで子供以下の赤ん坊というのは、悪い冗談でしかない。これが順調に大人に成長していたら、並みの飛竜の十倍以上の体躯になってもおかしくないが、果たしてそんな巨体が飛竜と呼べるのだろうか。都市で見た霜竜(フロスト・ドラゴン)よりも巨大になりそうな気さえするぞ。

 困惑と疑念に憑かれて眉根をひそめるしかない飛竜騎兵の若者から視線を外し、カワウソは縋るような思いで一等冒険者のモモンを見やるが、彼は無念そうに首を振るのみ。この大陸一の冒険者ですら、知り得ない情報が今、目の前に転がっている。

 

「これは、魔導国の、専門の研究機関にでも送付するしかないのでは? 近い所だと、魔法都市あたりにでも?」

 

 事態をとりあえず進展させようとする声が紡がれる。

 モモンの背後に現れた黒髪の童女が、その小ささ可愛さからはほど遠い冷厳な声で主張するが、それを主人のごとき男が押しとどめた。

 

「いや、エル。今は事を荒立てる時ではない。ただでさえ、一連の事件で飛竜騎兵の立場が危ぶまれている現状では、他の者に報せるのは慎むべきだろう。ハラルド隊長が知らぬだけで、部族の誰かが熟知している可能性も捨てきれない」

「承知しました、モモンさん」

「うむ──ハラルド隊長。セーク族において、この黒い飛竜を知ってそうな人物に心当たりは?」

「……族長や、長老たちに、聞いてみるしかない、かと」

 

 それでも、たとえヴォルや長老であろうとも、これの正体など知らない可能性は十分以上に存在するだろう。

 これは飛竜騎兵たちの中でも特異な状況なのだと、飛竜に詳しいはずのハラルドの混乱ぶりでよく判る。

 

「この死骸……黒い飛竜は、どうするんだ?」

 

 まさか、ここに置きっぱなしというわけにはいくまい。黒く歪んだ鱗の色は不吉極まる。死骸を放置するというのはいかにも不潔で、衛生観念で言っても推奨できる行為ではないだろう。──いや、アンデッドの警備兵がいるから、そんなこともないのか。

 カワウソの問いかけに、ハラルドは悔し気に呻いた。

 

「この子は……かわいそうですが、これでは葬送の儀にも出せません。皆が、嫌がるでしょうから」

 

 皆が嫌がるという言葉に微妙な何かを感じるが、判然としない。

 同じ死体なのだから埋めたり焼いたりして処分すればいいと思うのだが。

 そういえば、飛竜騎兵の街には墓地というものは見かけていない。土地が少ないから存在しないのか、あるいは奇岩の奥まったところにでも埋葬するのか──臣民の義務とやらで「死体の提供」とか言っていたから、ひょっとすると国の共同墓地みたいなものがあって、そこに送付しているのかも。

 

「一度、族長に指示を仰いできます」

 

 そう告げたハラルドは、傍にいる同僚に伝令を頼んだ。どうやらハラルド個人は、〈伝言(メッセージ)〉の魔法などを扱えないらしい。指示を受けた部下が代わりに〈伝言(メッセージ)〉を発動する。

 

「カワウソ様」

 

 一組の飛竜騎兵が邸へ飛び去った直後、周辺警戒に走らせていた女天使が舞い戻ったのをカワウソは迎え入れる。

 

「ミカ。おかえり」

「ぁ……ぇと……ただいま、戻りました」

 

 変な間が生じた気がするが、カワウソはとりあえず、隠形したままの彼女に与えた任務の進捗を確認する。

 

「どうだった? 他に、アレと同じモンスターは、いたか?」

「いいえ。影も形もありやがりませんでした。

 この奇岩は無論ですが、周囲1キロ圏内、隣接する大中小の直立奇岩にも、そういった気配はありません。念のために地図でヘズナの領地とやらも中位天使を隠形させて飛ばし確認しましたが、そこも特に問題は見受けられませんでした」

 

 地図は、昨夜までカワウソたちの周囲を監視観察してくれていたマアトが、この領地に至るまでの行程で把握できた地域を地図化(マッピング)していたものを使用。

 ミカは自身が羽織るマントで存在を隠匿しつつ、上空から見定めた他の領地には、これといった異変や異常はなかったと報告してくれた。

 

「となると。これは、ただの異常個体……ということか?」

 

 だとしても、この黒竜が棲息生存していた場所というものは確実に存在するはず。モンスターだって生き物である以上、自分の縄張(なわばり)寝床(ねどこ)を確保し、そこで食事睡眠などしている、はず。非生命のアンデッドだったら自然発生してもおかしくはないが、この竜はアンデッドモンスターという印象は薄い。低位の動死体(ゾンビ)であるなら再生能力など持ち合わせるはずもないし、カワウソの知るドラゴンゾンビの腐り落ちた見た目とは、あまりにも違いすぎる。これはカテゴリーとしては、ただの普通の竜と認めて間違いないだろう。どう考えても普通の見た目ではないが。

 

「ハラルド、こいつが何処から現れて飛んできたのかは?」

「見張りやぐらにいた部隊の話を聞いた限りだと、これは下の“巣”から飛んできた、と」

「巣?」

 

 疑問するカワウソを、即座にフォローする男の声が。

 

「野生の飛竜たちの巣ですね?」

 

 ハラルドはモモンの言葉に頷き、野良の──野生下の飛竜の可能性が濃厚だという見解を示した。

 カワウソは率直に訊ねた。

 

「その野生の飛竜の巣って、何処にある?」

「ほとんどは、奇岩の中腹の位置にありますが?」

 

 つまり、奇岩の先端に位置する(ここ)より下の所にあるわけか。

 

「そこへ行くことは?」

「い、行くって──行って、何を?」

「何、って……そりゃあ」

「調べるしかないでしょうね」

 

 意外なことに、モモンがカワウソの言わんとした言葉を先に紡ぐ。

 その様子に、飛竜騎兵の隊長は大きく動揺してしまった。

 

「い──いいえ、それはなりません! 危険すぎます!」

 

 野生の飛竜は、“相棒”を持たない。

 現在における飛竜騎兵の飛竜というのは、“相棒”である騎兵たちと共に暮らすことに“馴れきった”個体たちで、それら飛竜が(つがい)となり、一個から三個ほど卵を産み、その卵から(かえ)った赤ん坊の飛竜が、次世代の飛竜騎兵の乗騎になる──というサイクルのもとで維持されてきた。だが中には、里にいる飛竜とはどうしても折り合いがつかない騎兵が存在しており、そういうあぶれのほとんどは、家業の手伝いなどで一生を送ることが多いという。それだって、親や家族の許しがあればこそのもので、“相棒”を得られなかった騎兵が大量に発生した時代には、口減らしの一環として、若者たちに対して他の土地や他国への強制移住が申し渡されることもあったとか。

 無論、それを甘んじて受け入れるばかりの腰抜けは、そう多くなかった。

 飛竜騎兵は武功の一族。

 力を示すことが、男女を問わず標準的な美徳とされ、“相棒”を持つことこそが、飛竜騎兵として一端(いっぱし)の存在だと認められることの最低条件に見做されている。

 里で“相棒”を見つけられない者たちは、果敢にも野良の飛竜の「巣」へと潜り込み、そこで新たな“相棒”を見つけて里に帰還することで、飛竜騎兵の証をたてることができるのだ。当然のことだが、その道のりは口にするほど簡単なことではない。

 奇岩の中腹までの道は存在しない。大抵の場合は自分たちで断崖絶壁を降りねばならず、野生の飛竜に気取られぬよう留意せねばならない。そのため、ロープなどの小道具や身動きのとりにくい装備などは持っていくことはできない。許される武装は短剣一本のみで、それ以外だと崖を降りている途中で気の敏い飛竜に気づかれ、巣にたどり着く間もなく喰い殺される結果しか生まないのだ。

 野良の飛竜は、基本的に人間単体を食料か玩具のようにしか思っておらず、同族の飛竜と共に飛行する姿を取れる“飛竜騎兵”以外の存在は、基本的に敵対的行動に(はし)る存在だ。小型とは言え危険極まりない竜モンスターの一種に過ぎない。それが巣には、百どころか千単位で生活している。雌雄関わりなく強力な存在であり、多くの生物の例にもれず、彼らは子育てをしている時期が一番凶暴になる。いくら飛竜騎兵の里で生まれ育ったセークの一族と言えど、飛竜の背に乗っていない騎兵など、当然のごとく「一人の人間」でしかない。

 彼ら飛竜の巣に潜入することは、一族としての成人の儀と同等であると同時に、大いなる自殺行為となる場合がほとんどだ。その勇気がない者、生き抜く知恵や力量がない者にとっては、飛竜の巣はただの災害の坩堝(るつぼ)でしかなく、実際、巣に入り込んで無事に“相棒”を見つけられる例はそれほど多くはない。生還できたものは“相棒”を獲得するが、さもなければ「死」あるのみという摂理に、古来より従ってきた存在の末裔が、彼等飛竜騎兵(ワイバーン・ライダー)の部族なのだ。

 故に、魔導国に編入され、「死体の提供」が義務付けられる現在の飛竜騎兵らにとっては、滅多なことでは飛竜の巣に挑むことはしなくなった。提供すべき死体を回収しようにも、“喰い荒らされた後”ではそれは不可能なことであるが故に。

 さらに言えば、魔導国は魔法詠唱者を代表する「特別な才覚を持つ者」を広く募っており、“相棒”を得られなかった飛竜騎兵でも、運が良ければ、領地の外で「ひとかどの存在」として受容できる受け皿が整えられているからというのも、影響としては大きい。おかげで魔導国の人口と平均寿命は増加の一途を辿っている。

 

「飛竜の巣は、今の我々にとってはただのモンスターの巣窟に過ぎません! いかにモモン殿やカワウソ殿の力が強壮強靭だろうと、無謀すぎる!」

 

 勿論、モモンやカワウソの力量であれば、あるいは無事に済む公算は大きい。

 が、それはそれで、大問題に発展しかねない。

 

「たとえ無事に済むとしても、飛竜を、つまりモンスターを狩る行為は、魔導王陛下が認めた一定の領域、冒険都市などの一部解放区に限定されています。飛竜は魔導王陛下の保護対象モンスター。人の領地内に入り込んだものを自衛目的で討伐する分についてはお咎めをうけませんが、自ら率先して赴いて飛竜を掃滅されては、それこそ法に(もと)る。弁解の余地なく、大罪人として処理されます!」

 

 たとえ一等冒険者の“黒白(こくびゃく)”だろうと、例外とは言えない。そんな超法規的な存在ではないのだ、一等冒険者というのは。

 魔導王の特別な推挙を得た英雄“モモン・ザ・ダークウォリアー”として、王の法に背くことなど、ありえない。

 

「だが。可能性があるのが飛竜の巣だけとなれば、調査は必須事項にあげられるでしょう。私はカワウソさんの案を支持しますよ、ハラルド隊長」

「モ、モモン殿!」

「無論、飛竜たちに危害を加えることは一切しない。竜除けや不可知化のアイテムを使って、調査は隠密裏に遂行するつもりです。巣の中で、これと同じ黒い個体がいても、狩ることなく撤収すると確約しましょう。モンスターを“狩る”のではなく、“調査する”分には、法に背くことではない」

 

 事情を知らなかったまま意見していたカワウソは、内心でモモンの言に感服してしまう。

 なかなか思い切った裏技を使ってきてくれて、純粋に驚いた。

 ハラルドもそこまで約束されてはぐうの音も出ない。「それならば、大丈夫でしょうが……しかし」と懸念はこぼし続けていたが。

 

「それに、このタイミングでの飛竜の異常変異個体の出現……偶然と片づけるのは、危険だと思われる」

 

 モモンの語る内容を、一番隊隊長は疑問する。

 何のタイミングだろうと首を傾げるハラルドに、カワウソは嫌な可能性を口にしてしまう。

 

「……ヴェル・セークと、この黒い竜……何か関係している、と?」

 

 確証はないと呟くモモンに、だが、カワウソは大いに同調する。

 ヴェルの謎の暴走の翌日に現れた、異様に過ぎる謎の黒い飛竜。

 ハラルドは、事態の重みをひしひしと感じたように、黒竜の死相を、ただ見下ろしていた。

 

 

 

 

 

 ×

 

 

 

 

 

 セーク族長邸の地下深く。

 狂戦士を幽閉する独房内で大人しくしていた彼女は、外が騒がしくなるのと同時に、奇妙な“声”を聞いた気がした。

 

「ラベンダ?」

 

 自分の相棒を呼ぶが、聞こえる声は慣れ親しんだ飛竜のそれでは当然ない。その声は、飛竜とは思えないほど変質しており、まるで割れ響く歌声のようにも思える。知っている声では、ない。

 

「……誰?」

 

 声は小さな男の子のように思われる。

 彼女は誰にともなく(たず)ねた。

 同時に、気分が酷く悪くなる。

 彼女の問いに応える声は、答えになっていない悲鳴を奏で続け、その意味を推し量ることすら難しい。

 ただ、その声は、とても幼い狂音は、ひっきりなしに叫んでいた。

 読み取れた言葉は、二つだけ。

 

 ──タスケテ。

 ──コロシテ。

 

 ヴェルは、自分の脳内を無茶苦茶に撹拌(かくはん)するような意志の暴力に対し、額を抑えて耐えようと試みるが、あまりにも酷い頭痛と吐き気に襲われ、ベッドの上にふらつき倒れる。

 その間にも、声は先と同じ二言を吐き出し続けた。

 

「……誰、なの?」

 

 悲しい声の主は答えない。

 己の名すら黒く染められたかのように、その声は我を失っていた。

 自らを抹消することを希求して止まない子供の声は、狂ったように二言を叫びながら戦い続け、そして討たれた。

 ヴェルは半ば意識を失いながら、両目が燃え焦がれるかと思えるほどの涙を流し、その子の死を嘆き、悲しんだ。

 永遠に続くかと思われた苦しみから解放された子の魂が、安らかな声をあげて逝けたことが判って、安堵できた。

 

「何……今の?」

 

 起こった現象の意味を、ヴェルは正確に理解することができない。

 ただ。

 倒れたヴェルは気づいていなかったが、涙でいっぱいの両眼には朧げに、狂戦士の焔の気配が、揺らめいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。