オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~   作:空想病

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/Wyvern Rider …vol.11

 

 

 

 

 

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「どういうことだ! 何故、ヴェルが牢から!」

 

 厳しく詰問する族長ヴォルに対し、邸に留まっていた一番騎兵隊の皆は、一様に委縮してしまう。相棒の翼を駆り、邸へと舞い戻った族長は、妹の失踪──脱獄──という事態に直面し、あっという間に感情の沸点を超えて、当直警備にあたっていた部下らを叱りつけた。

 しかし。

 族長邸地下の深層に位置する幽閉所の様子を見て、ヴォルは納得を懐かずにはいられない。

 彼等の失態は、無理からぬ出来事であったのだという事実を。

 

「そんな、まさか……」

 

 ヴォルは立ち尽くし、その牢屋の綺麗なままの様子を確かめる。

 暴力、暴走、暴虐の気配は何処にもない。牢内部の質素な調度品は記憶にある通りの配置に並び、鉄格子自体にも、それらしい破壊の痕跡は見受けられなかった。

 ただ、一点を除いて。

 

「あの子……鍵だけを、壊して?」

 

 牢の鍵は四連固定。四つの鍵で扉の四隅をしっかりと固定された出入口は、狂戦士の暴走で破壊されたというよりも、熟練の牢破りの犯行のように、ひとつひとつが丁寧に牢内部から鍵の部分をねじ切られ床に転がり落ちている。その証拠に、扉は蝶番どころか格子部分にも歪んだ形跡はない。鍵さえ新調すればすぐに再利用できる。つまり、中の人物……族長であるヴォルの妹にして、狂戦士ヴェル・セークは、鍵だけを外して脱走してみせたというのだ。ただ暴れ狂うことでしか戦闘や破壊行動を取れない狂戦士の手管では、ありえない。そこには純粋な知性と理性が働いていることを認めざるを得なかった。

 だが、そうするとヴェルは、狂戦士化して牢を破ったわけではない、のか?

 

「ありえない」

 

 妹の力に、何か新たな要素が加わったのか?

 狂戦士の詳細な能力を知るのは、戦死した先代族長と巫女、魔導国上層部。そして、

 

「ウルヴ。こんなことが、可能なの?」

 

 予定では、ヘズナの領地に戻り、彼の直轄地にも黒い飛竜の痕跡がないか調べる予定だった男。当代で随一と評される“狂戦士”の彼に、ヴォルは儀礼など無視して──というか忘れて──問い質した。

 

「ありえない」

 

 ウルヴもまた、ヴォルとまったく同じ心理を懐いていた。

 

「狂戦士化しながら、理性を保つというのは、俺にも不可能な技法だ。いや、一瞬から数秒なら何とか可能だが、まさか四つの鍵を一個一個落とし、扉を開け閉めする理性を保つなんて──どんな数秒だ、それは」

 

 ウルヴにすら不可能な芸当を、ヴェル・セークはここで行い、おまけに飛竜用の牢屋にまで誰にも気づかれずに赴き、そこを破って鎖に繋がれていた相棒を解放して逃げ果せた。

 どう考えても、そこまでを邸内の騎兵たちに気づかれない隠密裏に、警備の薄くなる時間帯やルートを計算したうえで、すべての行程をやり遂げようと思えば、軽く見積もっても五分以上は経過する。

 以上の行動が、狂乱する戦士のやったことであるものか。

 誰もが、そう感じざるを得ない。

 

「ホーコンッ! 薬は!」

 

 呼ばれた車椅子の御仁も、戦々恐々という具合だ。

 変に裏返りかけた声音で、族長の問いに応える。

 

「ぞ、族長。た、確かに処方した。処方したが、それは朝方だけのもの。無論、あれひとつでも、十分狂戦士化は抑えられるはず。ゆ、夕餉に予定していたものと合わせることができれば、まず狂化なんぞ起こすわけがなかったのだが」

「では、これはなんだ?! ヴェルに一体、何が起こっている!!」

 

 車椅子に座る老体に掴みかからんばかりの語気で、ヴォルは問い質した。

 ホーコンは泡を喰ったように慌てふためく。

 

「族長、お鎮まりを」

 

 ヴェストが両者の間に割り込み、ヴォルを強引にさがらせた。

 

「ホーコン……本当に、ヴェルは薬を飲んだのだろうな?」

「あ、ああ。ハラルドが、朝食当番として見届けたと」

「……ハラルドが嘘をついている可能性は?」

 

 ホーコンを含む誰もが唖然となる。

 その可能性を失念してしまうほどに、一番騎兵隊の長となった少年への信頼は篤かった。だが、こうなっては疑念は残る。

 ハラルドが狂戦士に薬を与えた場面に、この場にいる誰も、立ち会ってはいなかった。

 

「ハラルドをすぐに呼び戻すべきか? 否……」

 

 それよりも、ヴェルの行方を探るのが最優先だ。

 彼女は魔導国に不逞を為した咎人の疑いがかけられている。

 そんな折に牢を破って脱走し、ヴォル達の前から姿を消すなど、どう言い繕うこともできない叛逆行為。

 早く見つけ出し、拘束せねば。

 だが、どうやって?

 妹の狂戦士の能力は、もはや自分が知っているそれではない。数少ない人員でヴェルの拘束に向かうというのは、彼女との実力の差が歴然とし過ぎている。狂戦士は下手をすれば、一騎で当千の働きをする怪物であり、戦の権化。たった数人の騎兵を投入したところで、太刀打ちできるわけもない。

 では、モモンやカワウソに助力を?

 駄目だ。彼等は今、飛竜の巣の中。向こうの状況が不明の中で〈伝言(メッセージ)〉を飛ばしても、彼等の邪魔にしかなるまい。モンスターの巣の調査は危険と隣り合わせ。こちらの都合を優先させて、彼等の状況を悪化させる要因を運び込むなど、愚の骨頂である。

 じゃあ、どうすれば?

 どうすればッ!?

 

「──ヴォル」

 

 優しくも逞しい男の声に、女はハッと顔をあげる。

 

「大丈夫だ。落ち着いて、考えろ」ウルヴが、ヴォルの肩をゆするようにしながら見つめてくる。「何故、ヴェルは牢の鍵だけを壊した?」

「………………気づかれないようにするため?」

「何故、ヴェルは気づかれないように牢を出た?」

「…………誰にも、知られたくない、から?」

「何故、ヴェルは相棒の拘束を解いた?」

「……空を飛ぶ、ため」

「空を飛ぶなら、確実に里の誰かの目にとまるだろう。違うか?」

 

 ウルヴの理路整然とした主張に、ヴォルは瞳を一瞬だけ輝かせた。

 それに応じるでもなく、ヘズナの男はセークの騎兵たちに依頼する。

 

「皆、直轄領や周辺領地の夜間警備兵に連絡を。ヴェル、あるいはラベンダの姿を見たという情報を集めてくれ」

「りょ、了解!」

 

 思わず他の部族長に返礼する一番騎兵隊。〈伝言(メッセージ)〉を使い、領内の警備などと連絡を取る。

 一挙に連携を示し、ヴェルの行方を探るべき最前の行動を取るセークの精鋭たち。

 そんな彼女らの長たる女が、婚約者の男に頭を下げた。

 

「ごめん、ウルヴ……取り乱して」

「テンパると何もできなくなるのは、相変わらずだな」

 

 ウルヴが自分の右眼に走る傷跡を数回叩く。

 ヴォルは、男の大きな掌に前髪をくすぐられる。

 

「うん。ごめんね」

「謝らなくていい」ウルヴは微笑みを強める。「ヘズナとセークは和合(わごう)すべし──陛下の御言葉だからな」

 

 ヴォルとウルヴは共犯者めいた笑みで、頷き合う。

 

 

 

 程なくして。

 族長の妹であるヴェル・セークと、その相棒ラベンダが、族長邸の飛竜発着場とは別の隠し扉(緊急脱出路)から飛び立ったところを見た夜更かしの子供や、外縁部で壊された物見やぐらの再建にあたっていた作業員──領内の巡回警備などから寄せられた情報をもとに、ヴェルが直立奇岩の“真下”に向かって降下したことが判明した。

 

「まさか。モモン殿やカワウソ殿の後を追われたのか?」

 

 ウルヴはそう推測するが、ヴォルはそれを否定した。

 

「あの子は邸内に入ってから、カワウソ殿らとの接触は控えさせてきた。今夜、巣の調査に赴くことは、知りようがない……はず」

 

 だが、この奇岩の真下にあるものと言えば、中腹部にある巨大な“巣”か、麓に広がる“森”くらいのもの。

 であれば。

 

「まさか、その“下”?」

 

 ヴォルは気づいた瞬間、まさかと思った。しかし、仮にも族長家に連なるあの娘(ヴェル)であれば、“あそこ”のことを知っていたのかも。しかし、その可能性は族長家に長く使える老兵ですら疑問する類のものだった。

 

「お嬢様。まさか、そのようなことが?」

「あの子も、親父(オヤジ)……先代たちから何か聞いていたのかも」

 

 少なくとも、(ヴォル)世話役(ヴェスト)は教えていない。

 セーク部族の直轄領たる直立奇岩。

 その、最深部──飛竜の巣よりも、奥底にあるもの。

 ヴェルのたどったのだろう航跡は、それ以外の可能性を考えにくい。脱走し、里から逃げ出し、一刻も早く離れようとするならば、”下”になど向かわず、上へ上へと向かって、雲に隠れながらどこかへ飛びすさればよいだけ。ならば、わざわざ人の目につきやすい里の空を駆け、外縁部を下に向かって飛ぶ意味はないし、発見されるリスクが大きすぎる。ヴェルはひょっとすると、逃げているのではないのか?

 無論、ヴェルは何も知らない可能性もある。

 あの娘はやはり狂っていて、何の目的もあてもなく、空を下へ向かって降りているだけなのかも。

 あるいは、ヴェル本人の特別な知覚能力か、直感かによって、あそこを目指しているとしたら。

 

「私は“下”に行く。皆、準備を」

 

 言った瞬間、ヴェストをはじめとした部下たちが、一斉に動き出す。

 族長の甲冑を運び、アイテムを整え、“下”に赴くための準備のために、「ある部屋」の鍵を取りに駆ける。

 

「ホーコン」ヴォルはその場に残された老人へ、謝罪するべく頭を下げた。「先ほどは、ごめんなさい。少し熱くなってしまって」

 

 苦く笑う老人は、手を振って族長の謝罪を柔らかく流した。

 

「私の方こそ、結局なんの力添えにもならず、申し訳ない」

「恐縮することはありません。あなたの薬学の力に、あの子も、そして私や、里の皆も救われております。あなたの腕を疑った族長の不徳を、許していただけるだろうか?」

「……勿体ないお言葉です。老いさばらえた我が身には、過分な心遣い」

 

 老学者ホーコンは、そう恐縮しきってしまう。実に長老らしい。部族内でも学問や魔法への理解に深い老成した御仁の態度に、ヴォルは改めて敬服する。彼と、立てなくなり車いすでの生活を余儀なくされた彼の”相棒”であり続ける飛竜にも、これが終わったあとにでも、何か御礼の品を送ろうと思う。

 そうしてから、女族長は最も頼れる婚約者──恋人をまっすぐ見る。

 

「ウルヴ」ヴォルは最後に、この場には元来そぐわない……だが、近い内に住居を共有する関係を結ぶことになる男性、ヘズナの長に対し、正直に、頼る。「一緒に来て」

 

 頼られた男は、女の良く知る笑みを浮かべた。

 

「もちろんだ、ヴォル……セーク族長」

 

 素で応えかけるウルヴの様子が、ヴォルにはたまらなく痛快だった。

 

 

 

 

 

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 飛竜の巣へ調査に赴いたモモンたち一行は、飛竜たちの巣を下へ下へ降り進んでいく。

 飛竜らは、意外にも清潔で綺麗好きな性格らしい。食い残したモンスターの死骸などの残飯、さらに糞尿などは、巣穴の割れ目から下へと野放図に垂れ流している──ということはないという。巣の内部には、上層から落ちてくる水流の溜まる泉のような水飲み場があり、さらにその泉から溢れ下へ水が流れている。飛竜たちはその下に流れる水の流れを下水処理──トイレに用いているありさまだった。ここまでくると、まるで飛竜たちを住まわせるのに最適化すべく、この直立奇岩は加工ないしは創造されたような疑いを懐かずにはいられない。何らかの人の手が加わった印象を覚えるのだが、詳しいことはハラルドも判らないという。おそらく里の族長や長老会も知らないのだと断言されている。300年から以前の歴史を持つ以上、そんな昔の情報を正確に伝達するのは難しいのだ。

 下へ落ちる下水や残飯は、岩壁に住まう蟲や鼠などで綺麗に舐めすくわれており、一滴一片も見当たらない。飛竜と彼らの共生関係は完璧といっていいのかもしれない。

 下へ降りるほど、巣を煌々と照らしていた発光鉱石の輝きは消え入り、やがて何の光も届かない闇の底に降り立つ。まるで〈暗黒(ダークネス)〉の状態異常を被ったような純黒の世界で、互いの息遣いだけがはっきりと感じ取れる程度。

 割れ目は下へ行くにつれ細くなっていくが、これならば飛竜が一匹くらいは通れそうな広がりがあった。

 

「おそらくですが。下に誤って落ちた子を救うための穴なのでしょう」

 

 そう説明したモモンは、上の巣で言っていた「良い考え」──ひとつのマジックアイテムを取り出す。

 

「それが先ほど、モモンさんの言っていた?」

 

 声をかけられた。

 モモン状態──つまり「半受肉」中のアインズは、装備に施された闇視(ダーク・ヴィジョン)能力で、同じように闇視しているらしいカワウソ……堕天使のユグドラシルプレイヤーに振り返り、僅かに頷く。

 

「ええ。魔封じの水晶です」

 

 ユグドラシルにも存在するアイテムの水晶だが、アインズが用意したものは、そこまで大きな輝きを放っているわけではない。これは、魔導国内の兵器廠で開発・生産された、位階としては第四~第七位階程度の魔法を込められる代物だ。100年前までは物珍しい部類のマジックアイテムであるが、この水晶は国内でも一定の需要と供給が確立されて久しく、主に四等以上の冒険者や学園などの魔法研究部門、そして魔術師組合で買い付けが行われており、その恩恵は国民全員に供与されている。

 これと同じ位階の水晶は、モモンとして活動する際の必需品として、アインズは大量に保有している。

 当然、この程度のアイテムを消耗するのは、アインズの懐事情には何の影響も及ぼさない。

 

「これに込められた魔法は〈全体闇視(マス・ダークヴィジョン)〉」

 

 チームパーティ全員に〈闇視(ダークヴィジョン)〉の魔法を浸透させる効果。すでに闇視を発動しているアインズや、異形種のカワウソ(そしてマルコやミカ)には無用なアイテムであったが、自分(アインズ)たちの偽装を維持するためにも、こうして魔法を発動させないとカワウソたちには不審がられるだろうし、飛竜騎兵の隊長のみに闇視を施すための(下等な)クリスタルは、アインズの手持ちには存在しなかったのも大きい。

 アインズは躊躇なくクリスタルを破壊する。

 それによって、内部に込められた魔法が効力を発揮する。

 一行の中で唯一、十分な闇視の力を持っていなかったハラルドが、一挙に明るくなった視界に困惑して、だが、すぐに慣れる。

 他にも風の魔法を応用した不可視不定形の酸素マスクを発動させるアイテムも起動する。これで、地下に毒ガスが立ち込めていたとしても、一行の呼吸・心肺機能には影響を及ぼさない。

 

「すごい。話には聞いておりましたが……凄まじいですね、魔封じの水晶というのは」

 

 闇視と酸素補助の効力を受けたハラルドは、モモンに預けておいた甲冑と武器に身を包んでいる。下に降りる前に、闇の中で突然襲われても最低限自分の身は自分で守る準備は整えさせていた。

 

「これで、我々はあの暗闇の中で調査が行えます」

 

 闇視の効果は、あくまで自己に闇を透視する力を加えるものであるため、実際に周囲が明るくなったということはない。〈永続光〉のランプで周囲を照らしては、闇の中に生きるモンスターにこちらの存在を主張せざるを得なくなるが、これならば隠密行動は継続可能となる。

 

「モモンさん」

 

 カワウソは先頭を行く冒険者──急な襲撃に備えて警戒を続ける男に、ひとつ確認し忘れていたことを口にしてきた。

 

「もしも、黒い飛竜が現れ、それに襲われた時は?」

「なるべくなら捕獲し、調査検分を試みたいところですが……」

 

 アインズはモモンの表情を僅かに上向け、少しだけ虚空を眺めてから頷く。

 

「場合によっては殺傷も可とします」

 

 無論、他の飛竜やモンスター、そして調査の一行──モモンたち全員を傷つけない範囲で、だが。

 カワウソはモモンの注意に首肯し、自分の従者として背後に控える女天使を振り返る。主人の意を汲んだ女騎士が、かすかに顎を引いた。

 一行は闇の奥深くに分け入る。

 人の行くことなど考えているはずもない、岩塊の間にある道なき道を歩いていくと。

 

「何か、います」

 

 小声でアインズは注意を促した。

 近づくにつれ、鼻腔に香るものが湧きたつように現れた。

 それは人であれば不快に思って当然の腐臭や汚臭。とあるモンスター特有の臭いであり、実のところ、彼等の数少ない意思疎通手段(コミュニケーション)の一種である。

 

汚穢喰い(アティアグ)です」

 

 腐肉や汚物の山に鎮座する、丸い肉塊。

 胴体と呼ぶべきそこにはカミソリのような歯が数十本も並び、あらゆる糧を斬砕して食料に出来る。三本の触手の内、一本にのみある眼を探すまでもなく、彼が深い眠りに陥っていると容易に知れた。触手はすべて丸い胴に大人しく巻きついており、これといった活動に使われてはいない。このモンスターは寝床に定めた巣に、自分が縄張りからかき集めた食料を堆積し収集する性質があり、その不潔な城で飲み食いしながら睡眠をとる。

 ちなみに、悪臭を放つというのは汚穢喰い(アティアグ)にとっては「機嫌がいい」というサインであり、逆に良い臭い……花の香りや美味そうな果実の香りを漂わせると、「すこぶる機嫌が悪い」ので近づくべきではない。そうやって彼等の意志を読むこと──コミュニケーションをとることは出来る。

 だが、良い香りに惹かれるのは生命の(さが)でもある。

 彼等に対する知識を持たぬ人間が、それまでの人生で全く嗅いだこともないほど芳醇な香りに誘われ近づけば、大抵は機嫌の悪い汚穢喰い(アティアグ)の領域を侵犯し、その犠牲になることもありえる(というか、機嫌が悪い時というのは傷を負って回復中だったり、あるいは十分な餌に困って飢えていたりするので、釣り餌としても彼等の臭いは利用されている向きがある)。

 

「とすると、ここが、この巣の中で最も深い場所になるはず」

 

 汚穢喰い(アティアグ)は、他のモンスターや生物の活動する土地や拠点の下を、徘徊するようにして縄張りを築く。都市ならば地下の下水道、自然の中だと谷底や洞窟の奥など、糧となるものが転がり落ちてくる立地を好む習性があるのだ。

 その理論から行けば、あれが活動領域と定めるこの地は、巣の中で最も深い、様々なごちそう……残飯や汚水が集積する場という結論を生む。

 そして、今のモモンたち一行にとっては、それ以上の存在ではない。

「無視していきましょう」と宣し、アインズは後方のカワウソたちを促した。

 汚穢喰い(アティアグ)は目の前を通り過ぎる冒険者とその一行──五人に、大した興味を示さない。眠っていても、モンスターの触覚や嗅覚は侮るべからず。彼等はよほど飢えていない限り、生物を襲うことはないとしても、何が起こるかわかったものじゃない。警戒は厳に、慎重に。数メートルは伸縮自在の触手は、まったくこちらに気づいた気配を見せない。一等冒険者が全員に貸し与えた装備のおかげであった。

 そうして汚穢喰い(アティアグ)の巣のひとつを何とかやり過ごして、数分もしないで一行は足を止める。

 

「またいます」

 

 飛竜の巨大な巣の地下と言うだけあって、汚穢喰い(アティアグ)は一定の距離を進むと、もう一匹、また一匹と姿を現した。

 だが、その量も指の数を超えた時、アインズはその奇妙さに気づかざるを得ない。

 

「……おかしい」

「何がです?」

 

 アインズの口が紡いだ言葉に、異世界では素人のカワウソが、当然のように問いを投げかけた。

 アインズは一等冒険者としての認識として、この状況の異常さを説明できる。

 

「巣にいた飛竜の数が少なかったのを、皆さん覚えていますか?」

 

 ほぼ全員が首肯してくれる。

 

「あの程度の数の飛竜──モンスターの量であれば、汚穢喰い(アティアグ)の数はそこまで多くなくていい。二匹か三匹ほどで事は足りる。だが、すでに通りすがった汚穢喰いの数は六。今、前方にいるのを含めたら、七匹になる」

「数が多すぎると? 汚穢喰い(アティアグ)の数が?」

 

 カワウソの疑問形で紡がれた正解に、アインズは頷く。

 これは明らかに供給過多だった。少なくとも、これまで得られた情報を総合し、アインズの常識に照らし合わせるなら、これは異常現象と言っても良い。

 上にある飛竜の巣は、この奇岩内部にはひとつきり。

 その巣にいた飛竜の数は通常の「四分の一程度」なのに、巣の下層を棲み処とする汚物処理モンスターは、その量に必要な分量の「倍」はいた。一方は減っているのに、一方は増えている。両者の単純な数量比が一致していないのである。

 アインズはモモンの口で説明する。

 

「餌となるものが少ないところにいる汚穢喰い(アティアグ)は、餌の豊富な別の地に移るか、でないとそこにいる仲間同士で小競り合い、縄張り争いを繰り広げるモンスターです。場合によっては共喰いも。だが、見たところ彼等の縄張りは維持されている上、どの個体も丸々と肥えており、飢えている感じがまったくしない──これは、おかしい」

 

 静かな口調で呻くアインズだったが、それが冒険者モモンの困惑の度合いを一層深いものだと感じさせたようだ。

 

「まさか、どこかに別の食料源が?」

「だと思いますが……」

 

 アインズは上を、厳密には上にあった巣──通常以上に減少していた飛竜の数を意識するが、「それはない」と断定できた。

 カワウソの疑念に、一等冒険者の表情を困惑に歪めつつ、アインズは考える。

 

「やはり、何かがあるのやもしれない」

 

 奇岩の最深部となるこの場所で、一行はさらに奥へと進む。

 汚穢喰い(アティアグ)との邂逅が八を数えたところで、一旦小休止を挟む。

 アインズは一等冒険者に与えられた(という体裁で用意しておいた)アイテムを起動し、〈認識阻害〉の上に近づくモンスターに反応する〈上位警報(グレーター・アラーム)〉を展開。これで、何かが近づけば効果範囲内の一行にのみ、警報を鳴らして報せることになる。さらにアインズは、周囲を偽装の布(カモフラージュ・クロス)という周囲の景色に同化するアイテムで、簡素ながらも大きな天幕を張った。これで、布の内部であれば光や熱を外に漏らす心配はなくなる。淡い光のランタンを灯し、無限の(ポッド・オブ・エンド)湯沸し(レス・ホットウォーター)を用意する。

 一等冒険者の手ずから用意したティータイム──上の邸でもふるまわれていた南方から届く特級茶葉の緑茶を、ここまで案内してくれたセーク部族の少年をはじめ、カワウソとミカの分の湯飲みを差し出した(ミカは例の如く飲食を固辞したが、アインズは気にしていない)。

 現時刻は、調査開始から四時間以上が経過していた。アンデッドであるアインズには疲労はないが、さすがに休息中に喉を潤しておく方がいい。ハラルドとカワウソが一息つくのと同じく、アインズもまた半受肉化した体で緑茶の味覚と芳香を味わった。

 

「モモンさん。少しよろしいですか?」

 

 言って、近づいてきたのはマルコだった。

 何でしょうと問いを返すまでもなく、マルコは無言の圧力で一等冒険者と二人で話ができる場所を欲していた。促される形のまま、モモンとマルコは他の三人を残して天幕の外に。

 

「どうした、マルコ?」

 

 盗聴防止用のアイテムを起動させたアインズは、普段通りの調子でナザリックが誇る混血児(ハーフ)──その先駆けとなった娘に、(たず)ねる。

 

「どう御考えなのです?」

「質問の意図が掴めないぞ、マルコ? 飛竜の巣と、此処でのモンスターの分布図がチグハグな件か? それとも、セークの部族が隠れて何かやっていることについてか?」

「それらもですが、あの──」マルコは盗聴対策済みであると理解していても、慎重に言葉を選んだ。「──彼等(・・)のことです」

 

 彼女の視線の先──天幕の中にいる人物たちを思えば、その疑問は瞭然としていた。

 

彼等(・・)については、確かにマルコの言う通り、人格や性格の面においては、問題なさそうだな」

 

 報告の通り。彼等……カワウソは実に理知的で、危惧されているような暴走や野放図な行いからは遠い思想の持ち主であるようだ。一等冒険者というモモンの身分を慮っての言動は、アインズには──昔懐かしい──サラリーマンの営業じみた丁寧さが見え隠れしてならない。

 

「しかし、いえ、だからこそ……やはり危険なのでは? もしも我々の正体が露見し、彼等に疑心と暗鬼を宿すことになったら?」

 

 そう。マルコの指摘する通り。

 今のマルコとモモン──アインズたちは、本当の身分や立場を偽り、プレイヤーの彼を“騙している”というのが現状だ。それが露見した際に、彼が我々を、アインズ・ウール・ゴウンのやり方をどう受け止めるのかは、未知数。彼と、100年後に現れたユグドラシルプレイヤーと、協調していこうと思えば、どこかの時点で彼等に自分たちの……できればマルコあたりを折衝役として当たらせるべく、身分を改めて伝える機会を得なければなるまい。その時に、カワウソという名の堕天使が、ミカという名の女天使が、アインズ・ウール・ゴウン魔導国に懐く心象は、果たして悪意に染まらないと言えるだろうか?

 

「普通に考えれば、我々をさらに警戒するかもしれないな」

 

 それどころか、騙されたことに対する憤懣と疑念で、関係が冷え込む可能性は十分にある。

 

「であるなら、何故このような危険を?」

「──彼等は、明確な敵意を示していないからだ」

 

 アインズは言い募る。

 

「カワウソや、彼のNPCたちは訳もわからず、かつての我々ナザリックと同様、突然に異世界へ飛ばされ、そんな状況で必死に生きようと努力している。己の意志や誰かの差し金で人の家を荒らす盗人などとは違い、彼等はいわば、唐突に飼い主から棄てられた愛玩犬か、あるいは何者かの都合で檻に入れられた野生動物のようなもの。そんな者たちには、まだ猶予が与えられて当然なはず。転移して、まだ数日という期間を考えれば、彼等にも選択の余地を与え、存命の機会を供するべきだ」

 

 そう思わないかと問われるマルコは、釈然としないながらも、カワウソらに猶予を与えるべしという御方の見解には、大いに同意できていた。スレイン平野という空白地帯にして封印領域であっても、カワウソたちのギルドが魔導国内の土地を不法占拠し、あまつさえ魔導国のアンデッド部隊と「知らなかった」とはいえ交戦し、部隊を壊滅掃討した無頼の輩だとしても、マルコにとっては普通の人間と大差ない程度の愛着や信頼を、彼等に対し懐きつつあるのが事実(それでも、魔導王アインズやナザリックの存在、殿下などに対するものとは比べようもなく低い部類だが)。

 彼女が同意できないのは、ただ一点のみ。

 

 ──何故、彼等に100年後の魔導国の実際を供与し、教授する立場に、”魔導王”という国家の最枢要人物が赴かねばならないのかという部分に他ならなかった。

 

「やはり、私一人で彼等と交渉するようにした方がよろしかったはずでは?」

「うむ。だが、そのためには、やはり私自らの目で、彼という人物と人格を、見定めておきたかったからな」

 

 それこそ、(カワウソ)が異世界に転移したことで、唐突に手にした力と配下(NPC)に増長し、拠点周辺を根こそぎ荒らすような暴走と暴虐を繰り広げる類の愚者であったなら、アインズは即刻魔導国全軍を挙兵してでも、そのような蹂躙者を殲滅していただろう。魔導国の臣民に累が及ぶ、その前に。

 ナザリックによる監視によって、彼等はそういった激情とは無縁の、周辺調査において実に理知的な姿勢を(とお)していたからこそ、アインズは彼等と接触するに相応しい力量を備える秘蔵っ子──マルコの派遣を決定。

 任務を果たした彼女が入手した情報をもとに、同じプレイヤーであるアインズが、最終確認の意味を含めての邂逅を果たし、……こうして飛竜の巣のさらに奥深い地の調査に、共に当たっている状況と相成ったわけだ。

 本来の計画だと、マルコの調査の(のち)に、魔導国政府都市管理官やアンデッドの政務官、さらにはナザリックNPC、階層守護者を代表して大宰相や大参謀が十分に間を挟んだ後に、改めてアインズが彼の為人(ひととなり)を直々に精査する──というのが、当初の流れとしてアルベドやデミウルゴスに立案させたもの。

 その途中の段階を、アインズは一等冒険者という偽装身分を使い、すべて省略したわけだ。

 堕天使であるカワウソ……ユグドラシルプレイヤーの不安な胸中を推考しての計画変更は、今のところ何の問題もなく遂行されつつある。

 

「……わかりました」

 

 マルコは嘆息しつつ、己の主人の采配を信頼しつつ、一応釘を刺しておくのを忘れない。

 

「ですが、万が一。彼等が此処で我々に襲い掛かるような事態になれば」

「解っているとも。警戒は大事だ」

「確認しておきますが、“()”の効果時間は?」

「ヘズナの(やしき)で、夕食時に服用しておいたから、あと半日は大事ないとも」

 

 言って、アインズはボックスの中に無数に用意した“半受肉化の果実”のひとつを取り出す。

 アンデッドの“受肉化の果実”を品種改良したこれは、元の黄金に白金がマーブル状に溶けた模様が浮かび上がっており、今もナザリック内で生産されている元の果実(オリジナル)同様、アンデッドの骸骨(スケルトン)系モンスターにしか摂取・使用は不可のままという、不思議な果実。

 これを定期的に服用する限り、アインズは人間としての肉体を維持しつつ、オリジナルとは違い、ある程度の魔法の行使も可能で、尚且つ、アンデッドとしての特性を失う=アンデッドモンスターだと周囲から認識されなくなる。

 これだけを聞くと何やら無敵に近いように思えるかもしれないが、実のところ、割とデメリットが多い。

 肉体のステータスは魔法詠唱者のそれ基準のままだし、扱える魔法はせいぜいが第五位階程度(アイテムで魔法を作動させる場合、アイテムを取り出す一工程(ワンアクション)がどうしても必要)。

 おまけに、これを再摂取するには、一度はアンデッドの姿に戻っておく……リキャストタイムとして「一時間」は元の姿のままでいなければならないため、連続使用は基本不可。衆人環視──カワウソなどの前で効果時間が切れれば、すぐに幻術で誤魔化さない限り、確実に正体がバレるのだ。さらに、摂取し続けると、もともと想定されている効能時間が段階的に減少し、再摂取の機会が増えるという面倒まである。

 アインズはボックス内に果実を収納しつつ、天幕内で休息しているプレイヤーを意識する。

 

「思ったよりも早く、彼と彼のギルドを取り込み、傘下にでも組み込めそうだか……(いや)

 

 焦りは禁物。

 あまりにも急峻な状況の変化は、思いもかけない形で、様々な反動となって顕現することがよくある。火山噴火の起こる前に、マグマが深く重く堆積され続け、内部に暴発の燃料とエネルギーを溜め続けるのと似て、何か途方もない変事が水面下で進行しているやもしれないのだ。

 自分達の意識の影に潜む何かは、現段階ではこれといった実像を持っているわけではない。

 アルベドたちからは、これといった連絡は受けておらず、定時連絡においても、彼の派遣した調査隊と、ギルドの様子は特筆すべき異変はない、と。

 だからこそ、アインズは慎重に、事を運ぶべく努力せねば。

 

「ところで、マルコ。おまえの能力ならば、下等とはいえ飛竜の声を拾えるはずだが?」

 

 ナザリックが誇る竜人の家令(ハウススチュワード)を父に持つ娘は、竜人と人間の混血種(ハーフ)として、当然のように竜種族と会話することができる。マルコが相棒以外の他者に心開くことのない飛竜の声を理解し、あまつさえ騎乗することまで許されるというのは、そこが大いに関係していた。

 彼女であれば、万が一にも飛竜の集団と事を構えることになろうとも、ある程度まで相互理解の機会を得ることが可能。故に、アインズは飛竜の巣の調査にマルコを同伴させたというのが理由のひとつだ。

 しかし、混血の乙女は、白金の髪を掻いて難しい表情を見せる。

 

「いいえ、モモンさん(・・・・・)。一応、彼等の会話や、警備交代の時のやりとりを拾ってはいるのですが、黒い飛竜なんてものについては、特に何も。それに、ここまで降りてきていますけど、やっぱり黒い飛竜の声らしい声は、聞こえませんね」

「そうか」

 

 黒い飛竜について、巣にいる飛竜たちが何も知らないなら知らないで、問題などない。

 問題は別のところにある。

 アインズにとっては意外な事であったが、竜人の娘であるマルコの能力をしても、何故か黒い飛竜の声については、何らかの意味があるようには聞こえなかったという。あれだけ盛大にやかましく吠えていた以上、何かしらの思考や感情くらいは読み取れてもよさそうなものだが、さっぱりわからなかったのだ。まるで、あの黒い飛竜は、“竜”以外のモノであるかのように、マルコの力が適用できないのである。

 さらなる問題は、やはり上の巣の状態である。

 

「しかし、だ。黒い飛竜に喰い荒らされたわけでもなく、上の巣にはあの程度の数の飛竜しかいないというのは」

「ええ。あまりにも不自然です」

「おまけに、地下の汚物処理モンスターの量と質を考えると……あまりにも怪しい、か」

 

 アインズとマルコはひとつの懸念を懐いていた。

 巣にいた飛竜たちは、実に平和そうに、巣での日常を過ごしている。

 おかしい。おかしすぎる。

 あまりにも多くの巣穴が空っぽになっている光景を目の当たりにしているはず……なのに、彼等は、これといった危機感や恐怖心を懐いていなかった。無論、あの程度の数しかいなくても、巣には子供らが、誕生の時を待つ卵も、あった。時が経てば、また元の個体数に戻るだろうと、そう思い込むのは簡単だった。

 だが、問題なのは、何故、この地域での食物連鎖の頂に立つものが、通常だとあり得ないレベルで激減しているのか、だ。

 

「飛竜が通常よりも減っているということは、それだけの飛竜が死んでいる、あるいは失踪しているということになりますが?」

 

 仮に。

 飛竜にのみ蔓延する病気や呪詛が、この巣にはびこっているとしたら、上にいた野生の飛竜らが太平楽に暮らせるわけがない。あるいは恐慌し発狂し、とても安穏と暮らしていけるわけもない。実際、マルコが診断した限りでは、竜に固有の病や呪いの気配は、上には存在していなかった。一応、下に降りて汚穢喰い(アティアグ)の残飯を見た感じ、飛竜の死骸らしき巨大な腐肉はなかった以上、大量死の可能性はないと見て良い。

 では、飛竜が何らかの理由で巣立っていったというのかと言うと、これは微妙過ぎる。飛竜は確かにある程度の数に達すると、新たな王(ないしは女王)と共に、新天地を目指して旅立つ。だが、それはあくまでひとつの巣穴で棲める一定量を超えた時に起こる現象であり、あれだけ巨大な巣から新たな飛竜の群れが生じたとしたら、上に残っている分の量がありえない。巣立ちの際に新たな王(女王)に従って出ていくのは、飛竜の(つがい)が二十組前後。その程度の数であれば、上の大穴で充分暮らし続けることは容易なはず。わざわざ危険な外へ向かって大移動をするリスクを払わねばならない状況では決してない。

 だとすると、残っている可能性は、ほぼひとつ。

 

「飛竜の大量失踪……だが、あの巣に潜ってまで飛竜を密漁する連中(バカ)がいるわけもないし。いたならいたで、巣の彼らは警戒心を剥き出しにしてもいいだろうに。警備連中の穏やかな様子から考えても…………おだやか?」アインズは、自らの目で確認していた飛竜たちの様子をしばし思い返す。「待て、いや、ひょっとすると?」

 

 アインズが顎に手を添えて黙考に耽った、その時。

 

「うわっと!」

 

 目の前の娘が思わずよろめくほどの轟音と、竜の一声が、遠く上の方から響く。

 かすかな震動で砂埃が周囲に舞い落ちる。

 

「何だ? 地震、ではない?」

 

 マルコの肩を支えるように抱いていると、異変を察知したカワウソらが休息の天幕から飛び出してきた。

 

 

 

 

 

 ×

 

 

 

 

 

 モモンたちが天幕外の様子を監視しに出ていった後。

 天幕の中で、ハラルドは最初の仮眠を与えられて、広げた寝袋の上で横になっている。

 一行の中で最もレベル的に弱輩であろう少年の疲労を思えば、まず、彼が仮眠をとるのは当然な順番と言える。

 それに彼は飛竜騎兵の領地に生き、飛竜というモンスターの生態に詳しい現地人。彼が消耗し、いざという時に使い物にならなくなっては、この後に控える調査活動の成果にも、影響を及ぼす。

 天幕中央のランプ越しに、彼の熟睡──「睡眠(スリープ)」状態を魔法で確認したカワウソは、一応盗聴防止用のアイテムを起動して、ミカと話し込むように岩塊のひとつに腰掛けた。思いのほか、カワウソにも疲労がたまっているのか、休息を与えられた両脚が不思議と軽くなった、気がする。

 

「ミカ。マアトと今、連絡は取れるか?」

 

 拠点内にいる部下の時間割(シフト)を管理する立場にあるNPCは、即座に応じる。

 

「今の時間であれば、可能かと」

「うん。じゃあ──〈伝言(メッセージ)〉」

 

 周辺警戒をミカに任せ、カワウソはギルドの観測手(オブザーバー)との連絡を試みる。

 指を側頭部に当てながら聞いた魔法の呼び出し音は、わずか一度で拠点にいる少女と繋がった。

 

『は、はは、はい。カワウソ様』

「マアト。ええと、拠点(そちら)の状況は?」

『えと。げ、現在、地表での監視任務は、ウリさんと、クピドさん、あとシシさんと、コマさんが、担当しております。あの、その、特に変わったことはないですね。見た感じ』

 

 城館(パレス)のモニター室で拠点周囲をモニタリングしているようなたどたどしい口調に、カワウソは存外安心してしまう。

 

「そうか……クピドに渡した黒い肉片、鑑定の方は?」

『ええと、ちょっとお待ちを──』魔法の向こう側で、マアトはアプサラスに連絡を取りつけている気配が。『えと、アプサラスさんは、今、工房で鑑定中だそうで。詳しいことは、その直接お聞きくだされば、あの』

「わかった。ありがとう、マアト」

『は、はわわわわ! わ、は、はい!』

 

 やけに緊張気味に、だがマアトは己の元気を振り絞るような声で頷いてくれた。

 何かおかしなことを言っただろうか──まさか感謝される程度で恐縮した、わけないか。

 巫女との通信のすぐあと、カワウソは魔法を発動し直す。アプサラスの瑞々しい声が脳内に響いた。

 

『はーい、カワウソ様♪ お久しぶりです♪』

「うん。ご苦労さま。鑑定の方は、どんな感じだ?」

『はい♪ 順調です──と、言いたいところですが、申し訳ありません……飛竜(ワイバーン)の死肉ということは解っているのですが、どうも妙な事になっておりまして?』

「……妙、な?」

 

 あれだろうか。

 黒い飛竜のあの肉腫は、やはりこの異世界独自の病気(ディジーズ)的なものだったのか。あるいは呪詛(カース)系統の状態異常か何か──あるいはそれらすべてということもありうるか。

 カワウソの呟く仮説に対し、アプサラスは現段階での見解を述べ始める。

 

『取り急ぎ、鑑定しただけの結果で、まだ精密な鑑定報告とは言えないのですが……』

 

 鑑定役を務める踊り子は告げた。

 それ聞いた瞬間、カワウソは眉をひそめた。

 

「ちょ……ちょっと待て。本当に、そんなことが、ありえるのか?」

『判りかねます──この異世界独自の法則とか、多分、そういう類のものだと思われるのですが?』

 

 だとしても。

 あまりにもおかしい。

 

「あの黒い飛竜が…………うん?」

 

 その時、上の方で激震のような音と、生物の一鳴が響いた。

 

『何事ですか?』

「悪い、アプサラス。引き続き、詳しい鑑定の方を頼む」

『え、ちょ、カワウソ様!?』

 

伝言(メッセージ)〉を半ば強引に断ち切る。

 カワウソたちの前で寝入っていた少年が飛び起きるのとほぼ同時に、天幕の外へ駆け出す。

 

「何事ですか?」

「カワウソさん……我々にも、さっぱり」

 

 モモンがよろけたマルコをしゃんと立たせる。飛び起きたハラルドも、天幕から転がるように外へ。

 その間にも、大量の飛竜の唸り声や喚き声が、上の──巣の場所から大量に零れ落ちてくる。

 まさか、カワウソたちの侵入に気づいて探しているのではと、嫌な発想に至る堕天使。

 

「──安眠妨害?」

「え? なんて?」

「あ、いえ……何か、そんな風な声が聞こえた、ような?」

 

 マルコが苦笑しつつ見上げる先で、またも岩盤が砕けるような音色が。

 あまりの事態に地下の小動物やモンスターたちもが、忙しなく動き回り始めた気配がこだまする。

 

「何か、降りてくる?」

 

 ミカが感じたままに呟いた声は、ほぼ全員が同時に納得できる言葉だった。

 カワウソは問い質した。

 

「何が? ……飛竜か?」

「飛竜にそこまでの破壊能力はないはず……まさか、例の黒い飛竜が?」

「いえ……なんか……違うような?」

 

 ミカが懸念する危険を、しかしマルコが微妙な表情で否定する。

 

「あれ……この声、って──ッ!」

 

 マルコがたまらなくなったように駆け出した。

 

「どうした、マルコ!」モモンがその後に続いて走る。

「ッ、俺達も行くぞ!」カワウソの疾走に、ミカが当然のように従う。

「ええ、ちょ、天幕は片づけなくてもっ?!」

 

 最後に残されたハラルドは、異常事態に声を震わせつつ付いていく。彼はしきりに国内で最高峰の冒険者用アイテムを放置することに後ろ髪を引かれていたが、天幕を張った本人が放っておくのだから、是非もない。

 マルコは激震の中央、竜の鳴き吠える場所へ向かって、走り続ける。

 何が彼女を衝き動かすのか──というか、どうやってマルコは道などない地下空間の闇の底で目的地への進路を定めているのか、まったく迷う調子も見せずに前へと進む。

 岩の隙間を抜け、坑道のような悪路を突っ走り、修道女はついに辿り着いた。

 

「やっぱり……飛竜騎兵です!」

 

 一瞬遅れてマルコを追走したカワウソは、モモンと共に、その光景を見つめる。

 地下の中で、なかなか広い空間に出た。

 上にあった飛竜の巣を上下逆転させたようなV字型の谷底──その中心地に蹲る見事な翠色の鱗を煌かせる雌の飛竜。この地下へと続く割れ目の隙間を、半ば落ちるようにして飛行してきた背中には、一人の少女──と見える彼女は、20歳の立派な女性である──が、(くら)(あぶみ)も、手綱(たづな)どころか自分を護る鎧すらない状態で、この暗闇の底に舞い降りていたのだ。

 

「まさか飛竜騎兵? 何故、こんな場所に?」

「いや、あれは」

 

 面識を持っていないらしいモモンに、カワウソが説明する間もなく、さらに背後から絶叫に近い声が。

 

「ラベンダ! ヴェル!!」

 

 女性騎兵の普段着──族長の妹として相応しい恰好は、今朝方、ハラルドが彼女に朝食を運んだ時とまったく一緒。

 あんな装具も何もない、おまけに転落時の衝撃緩和用の装備すら身につけず、飛竜に鞍や手綱もつけずに飛行するというのは、生半可な技量の持ち主では成し得ない蛮行だが、彼女であれば問題なく、それぐらいの騎乗能力は発揮できる。

 駆け出し、少女らに近づいたハラルドの疑念は別にあった。

 

「どうやって、ここに──いや、というか、牢は?」

 

 族長の命令で、ヴェルは幽閉されていた。

 彼女自身その処遇を受け入れ、大人しく牢に籠っていたはず……なのに。

 ヴェルは応じない──応じる余裕が、今はないと見るしかない。

 荒い呼吸を整える時間を必要とし、相棒共々、無茶な飛行を完遂したことで肉体への負担が容赦なく心臓を啄んでいるように、豊かに実った胸元を押さえていた。

 モモンが状況的にありえるだろう航路にあたりをつける。

 

「おそらく。我々が通ったのとは別の、地下に続くルート……あの割れ目を飛行してきたのでしょう」

「あんなところを?」

 

 カワウソは驚嘆してしまう。

 ヴェルたちが通ってきた地下へと続くルートは、一見すると飛竜の飛行には適していない。飛竜が転げ落ちるだけの大きさに広がっているが、それが螺旋階段のように理路整然とした軌道を描いているということはない。鉱山の縦穴という感じからはむしろ遠すぎる、立体迷路のような入り組みようだ。その行程には、鋭利に突き出した岩塊などもある。人程度の大きさが〈飛行〉の魔法を使う分には問題ないだろうが、飛竜がこの隙間を飛ぶというのは、物理的に不可能に思われてならない。

 実際、ヴェルとラベンダの降り立った広い空間には、上から砕け降り注いだのだろう岩塊の破片が散らばっており、それが先ほどの震動の正体と見て間違いなかった。上の割れ目の砕け具合の新しさから言っても、まず間違いない。

 

「だとしても、これだけ崩壊させておいて、どちらも無傷なんて」

「──狂戦士化だ」

 

 幼馴染の言う通り。

 ヴェルが牢を抜け出し、無茶苦茶な飛行をやり遂げた理由は、それ以外にありえない。

 

「また、狂戦士化したのか? そうなんだな、ヴェル!」

「……ハラル、ド」

 

 それを証言することは、ヴェルには不可能に思えた。

 蒼白そうな表情を覆い隠す、乱れた薄紫の髪。覇気の一切感じられない声色は、触れれば折れる花の茎を思わせるほどに、儚い。

 顔を一行に振り向けた少女は、その中で自分の求める助力者を認めると、転がり落ちるようにラベンダから降りた。ハラルドがたまらずに助け起こしにいくのに合わせて、カワウソやモモン、マルコとミカもそれに続く。

 

「しっかりしろ、ヴェル!」

「ちょ──大丈夫なのか、これは?」

 

 カワウソに問われたハラルドは、苦虫を立て続けに噛み砕いたような渋面を浮かべるだけで、何も言わない。厳密には、何も言えないというべきだ。彼にだって、狂戦士の容体など分かりっこないのだから。

 

「カワウソ、さん」

 

 少女の双眸を覗き込むまでもなく、カワウソは片方の瞳に宿る焔を見て取った。

 

「ヴェルおまえ、その眼は、狂戦士の?」

 

 だが、今の彼女は会話が成立している。

 あたりかまわず暴れ狂うという行為にも(はし)らない。

 ハラルドの腕を借りて、カワウソが思わず差し出した二の腕に縋りつく少女は、涙をいっぱいに溜め込んだ瞳の奥で、狂気のエフェクトに支配されつつも、ひとつの言葉を、明確に口にする。

 

「たすけて、ください」

 

 カワウソは勿論困惑した。

 戸惑い、迷い、少女の言おうとしていることの真意が告げられるのを、じっと待つ。

 ヴェル・セークは続けた。

 

「こえが、聞こえるんです」

「声?」

 

 問い返す堕天使に、だが、ヴェルは応答しない。

 応答と呼べるような声を、発することができない。

 

「止めないと。助けないと。みんな、皆が」歯の根が合わないまま、ヴェルは怖気(おぞけ)をこらえた震える声で唱える。「声が、声が……頭、あたまの中、響いて……痛い、痛いって、みんな……殺して、助けてって、あの子、あの子たち、皆、が!」

 

 カワウソは直視する。

 ──狂気が決壊する瞬間を。

 

「 ウァアアアァアアアァァァッ!! 」

 

 人の喉ではありえないような叫喚が、大地の中の裂け目に轟く。

 ラベンダも、彼女に呼応するかのように吼え狂うしかない様子。

 反響し残響する音圧は、可憐な戦乙女というよりも、暴悪な竜の一声に等しかった。

 

「来ル……来ル、来ル! ダメ、逃ゲテ──ミンナ、逃ゲテェッ!」

 

 一心不乱に狂い叫ぶ少女は、わずかに残された理性でもって退避を願う。

 ──その時。

 

「カワウソ様、何かが」

 

 来るとミカが注意を促した先。

 地下深い空間のさらに奥深くから、聞こえる。

 

 奇妙な激震。

 太鼓か足音のように響く破砕音。

 小刻みに発生する地震を思わせる音色に続いて、喘鳴(ぜんめい)のような空気の摩擦が噴き荒れる。

 

「……嘘だよなぁ、おい」

「──まさか、な」

 

 闇の奥を見定めるカワウソとモモンが呟いた。

 

「何だ……何だっていうんだ、あれは!」

「あれが、飛竜? いや──あれじゃあ、まるで本物の……」

 

 ハラルドとマルコも、それぞれの感情を込めた悲鳴と疑念を吐き出してしまう。

 唯一、女天使のミカだけは、彼女らしい深い沈黙を保ち、黒い暴君を見上げる。

 

 彼我との距離は、数百メートルかそこらだ。

 朝方、里の上空に現れた、幼くも屈強極まる暴走竜────アレを十数倍に膨らませたような黒く巨大(デカ)い飛竜が、一同を睥睨する位置にある暗闇の奥深く……ヴェルとラベンダが落ちてきた割れ目とは別の大きな割れ目から、長く武骨な鎌首を伸ばして現れた。

 

 もはやそれは、竜だった。

 竜と決定的に違うのは、アレは竜にあるべき腕はなく、竜よりもさらに巨大に張られた皮膜の翼を岩壁に這わせるようにしながら、喉を重く震わせる。体長の半分以上を占める優雅だったのだろう肉腫にまみれたデコボコな長い尾の先には、鋭く(ひか)る黒い針状の突起。牙の隙間から吐き出される呼気が、蒸気機関のごとき排熱の白煙を漏らしており、その飛竜の顔面は騎士の兜を悪魔的に歪めまくったような、幾多の角に覆われる面覆い(フェイスガード)十重二十重(とえはたえ)と重ねられたような膨れ具合。当然、その下にある表情や目線などは確認不能……だが、アレは確実に、眼下の小さな標的(カワウソ)たちを見据えていると、判る。理解(わか)ってしまう

 

 推定するところ、あれは“成竜”──大人だ。

 里の空で暴れ回った奴が可愛い部類に思えるほど、悪辣かつ膨大なフォルム。

 

 

 

  グォアアアァァァアアアアアッッッ!!!

 

 

 

 おどろおどろしい漆黒の巨竜が、轟く暴声を地下深い谷底に乱響させていく。

 黒い脅威が、今、カワウソたちに向かって翼を広げ、襲来する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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