オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~   作:空想病

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今週の投稿が40000字を超え、読むのが大変そうなので分割した
解決編2
昨日の更新が解決編1なので、読んでいない方は御注意ください。




/Wyvern Rider …vol.14

 

 

 

 

 

 ×

 

 

 

 

 

 地底湖──飛竜洞(ひりゅうどう)と呼ばれる巨大洞窟、セーク部族の聖域とやらにまで落ちてきたカワウソたちは、一等冒険者たちとの合流を果たし、そうして、この地に降りてきた族長らの危機に馳せ参じた。

 催眠だか魔法だか、あるいは何らかの理由で黒竜──奴本人が語るところの邪竜とやら──を支配下におく一連の事件の首謀者と思しき老人に、カワウソは無感動・無感情極まる声音を投げる。

 

「すべて、聞かせてもらったよ──ホーコン・シグルツ、長老」

 

 いいや、元長老か。

 転移によってヴォル達の窮地に駆けつけたカワウソは、ある人物らと共にすべて聞いていたが、一応の確認として再確認を求める。

 

「全部、アンタの仕業ってことで、いいんだよな?」

「ふん? だとしたら何だ? どうせ、貴様らはここで死ぬ。私のかわいい邪竜たちによって、貴様ら一人残らず食い散らかしてくれるわ!」

 

 老人が増長し、居丈高になるのも無理はない。

 彼が率いるモノは、それほどの威を誇って然るべき暴力の化身たち。

 しかし、カワウソにとっては。

 

「──邪竜? 邪竜だと? ……邪竜、ね」

 

 黒々と隆起した、棘とも剣とも言えない(こぶ)みたいな鱗に覆われ啼き吠える飛竜たちの姿は、カワウソの知る邪竜のモンスター……代表的なものだと「世界樹(ユグドラシル)に噛みつく“ニーズヘッグ”」などとは似ても似つかない。大きさも造形も”ユグドラシルの邪竜”と比べてしまうと、稚拙かつ、矮小の一言。ただ数だけ揃えられた、黒いイボイボの蜥蜴──極太に膨れ上がったヤモリにしか見えない。

 つい先ほどまで、秀逸な造形とも見えた黒い飛竜も、あれだけの数が並び、おまけにさらなる巨体と重量を構築すべく膨れ上がり過ぎた者が大半となると、もはや一種の慣れの境地にすら至ってしまう。あれだ、序盤のボスキャラが、次のダンジョンで雑魚の量産品になっていた、みたいな。

 さらに言うなら、あれらはユグドラシルにいた強力無比な竜種(ドラゴン)とは似て非なる存在。

 防御重視のミカの特殊技術(スキル)による攻撃一発程度で斬砕され瞬殺されるだけのモンスター。

 カワウソという堕天使プレイヤーでは手も足も出ない「本物の邪竜」とは、あまりにも遠い。

 そう結論付けられた。

 

「殺すなよ、ミカ」

 

 まだ、殺してよいとは思えない。

 ミカが殺したデカブツに比べれば、明らかに群れている黒竜らは微妙だが(それでも、通常の竜より少し大きいくらいだ)、デカブツを殺った時のように大量の黒い濁流になられるのも面倒極まる。ミカの誇る他の特殊技術(スキル)で黒い肉腫ごと抹消させるにしても、ここにいるので全部とは限らない。彼女の力は温存させておいた方が、後処理は楽になるだろう。

 女天使はかすかに首肯し、とりあえず邪竜らの行動を抑止する壁を、解く。

 彼女の発生させた特殊技術(スキル)に、永続性はないのだからしようがなかった。

 堕天使の背後に舞い降りるミカは、抜剣していない。カワウソの命令で、戦闘行為は極力控えさせている。

 

「カワウソ殿! お、御聞かせ願いたい!」

 

 堕天使の意識に、女族長の悲痛な訴えがよく響いた。

 族長は、共に回復を果たした部下の女騎兵らに支えられつつ、先の回復をもたらした男のことを訊ねる。

 

「ヘズナの族長──ウルヴは、何処に?」

「彼なら心配ない。安全圏に避難させた」

 

 そう告げる。

 たて続けに、ヴォルは堕天使の装備に……その付着物に目を凝らしながら、問いを続ける。

 

「……ヴェルは──私の妹がどこにいるか……御存じないか?」

 

 カワウソは、少しだけ迷う。

 研究所の僅かな明かりに照らされたヴェルの姉たる族長に、自分の剣と鎧に付着する赤色を、傲然(ごうぜん)と見せつけた。

 

 

 

「殺したよ」

 

 

 

 一言一句、聞き違えようのない厳正な声で、宣告する。

 

「最後に、そこにいる邪竜モドキと同じ変化が身体中に現れて……だから、俺が、殺した」

 

 すまないと真剣に詫びておく。

 純白の聖剣──天界の門を鍔に意匠した神器級(ゴッズ)アイテムを、族長の目の前に投げて転がし、それに付着する色が妹のそれだと、明確に示す。

 ヴォルは目の前の剣にこびりつくそれを──血と脂を、指先で撫でる。

 次の瞬間、ヴェルの姉は見開いた眼からハラハラと大粒の涙をこぼし、ただでさえ汚れていた顔面が、さらに水滴と土埃でグズグズになる。嗚咽をこらえる様は実に憐れっぽい感じだったが、カワウソはとりあえず、彼女の方は無視する。当初、予想していたような、カワウソという「妹の殺戮者」への暴走もなかったから、大いに安堵してしまった──そんな自分が、とてつもなく薄情に思える。

 

「元長老。ホーコン・シグルツ。少し答え合わせをしたい」

「答え合わせ?」

 

 何を悠長なことを、と誰もが思っただろう。

 それだけ、状況は最悪に思われた。カワウソがどんな強者であろうとも、これだけの黒竜の数。すべてを御するだけの力があるとは思えない。一等冒険者と協力して、里の幼竜を狩ることができた彼ならば、あるいは……そう思えないほどの数の暴力が、この空間には(ひし)めいていた。

 あれらが大人しいのは、ホーコンの魔法、あるいは命令が効いているから。

 だが、カワウソは状況に臆することなく、この一件の諸悪の根源に語り掛ける。

 

「この黒い飛竜の腫瘍……これ、実は飛竜の肉以外が混じっているな?」

「飛竜以外の肉だと? ──はて、何の肉だ?」

「人間の血肉」

 

 観衆となる族長と騎兵らが、愕然と彼等の遣り取りを見た。

 しかし、ホーコンだけは侮り蔑むように言いのける。

 

「ふん。かまをかけたつもりか知らんが」

「正確には」

 

 カワウソは、より厳密な表現を言の葉に紡ぐ。

 

「狂戦士の血肉──いわば、“細胞”だろう。違うか?」

「な……キ、キサマ……それを、どうやって知って?」

「ウチに、色々と詳しいのがいて」

「ふざけるな!」

 

 はっきりと怒声を張り上げるホーコン。

 自分の部族の長すらもが知り得ない情報を、見ず知らずの、自称・旅人が解析と分析をこなしたなど、悪い冗談としか認められない。ヴォルがカワウソらに懐いた懸念──「国の枢要に近いのでは?」という情報は、勿論、奴の知るところではなかった。

 対して、カワウソは冷たく静かな応答を送りつける。

 カワウソは、自分の拠点NPCに詳細な鑑定を依頼した肉腫の成分を、“狂戦士の細胞”──生物の最小構成因子だという報告を受けていた。報告が遅れていたのは、単純に鑑定結果の裏付け作業に没頭し、他の結果が出てこないか徹底的に鑑定を続けていた結果に過ぎない。

 

「ふざけちゃいないさ。“細胞組織培養”の特殊技術(スキル)……ユグドラシルだと、医者(ドクター)とか科学者(サイエンティスト)とか、そういう専門職しか取得・使用できない固有スキルだったはずだが。セークの族長家の主治医であるアンタなら、まぁ、できなくはないかなと思った」

「? サイエ? ……いったい、何を……ふん──」

 

 抗弁するのも馬鹿らしくなったのか、ホーコンはただ、己の研究成果のもたらした邪悪な竜の兵団を身振りで示す。

 

「ああ、そうとも。そうだとも。私は、20年の研究と50年の魔法研鑽によって、飛竜騎兵に時折発生する狂戦士の力を、他者に移植するための培養片の生成にこぎつけたのだ。この邪竜たちは、私が培養した狂化組織を組み込まれた野生の飛竜共、その成れの果てよ」

 

 ヴォル達に幼竜の黒竜化を実演してみせたように、ここに居並ぶ通称・邪竜たちは、ホーコンの研究成果……長年に渡りヴェル・セークという天然物の狂戦士に対する治療と封印を続けた過程で採取してきた血肉を生かし、それらを極小世界の培養物“狂戦士の細胞”として生成することに成功。

 彼が注射器で狂化黒化を施された飛竜らは、いうなれば彼女と字義どおりに血肉を分けた“兄弟姉妹”か、あるいは無数に分裂したヴェル・セーク自身──“分身”とも言うべきだろう。

 黒竜たちは、もともとは正常な飛竜として暮らしていたところに、ホーコンとその相棒によって感知不可の毒を盛られ、魔法で操られ、研究所の秘匿領域……聖域の片隅で次々と悪辣な研究の犠牲者と成り果てていったものたち。

 ヴェルが、彼女が聞こえた黒竜の悲嘆と自滅を望む声というのは、同じ狂戦士としての感応が働いた結果の、精神的な繋がりによるものか。

 カワウソはとりあえず、確定的な情報の確認に勤める。

 

「上の飛竜の巣が、“ありえないくらい空いていた”理由は、それか。

 実験材料+被験体の食料……巣から連れられた奴もそうだが、今も巣にいる飛竜たちは、催眠魔法の影響で巣の異変に気づけないってところか?」

「魔法は魔法だが、大半は私が調合し、水源に染み込ませた“薬”の効果よ」

 

 飛竜の巣内部に流れ込む水源に細工して、催眠の薬を投与。それによって野生の飛竜はいつもと変わらない日常を送っているように認識されていた。いつの間にか、知っている顔が減っていることにも気づかないで。

 巣の直下の汚穢喰い(アティアグ)らの量が多かったのは、邪竜共の残飯や排泄物を、わざわざ上に上げていたからか。

 カワウソは──自分でも驚くべきことに──彼等を、巣にいた飛竜や、肉腫まみれの邪竜と成り果てた目の前の飛竜たちのことを、『かわいそうだ』とは思わない。

 

「努力は認めてもいい。けどな」

 

 飛竜らの被害も何も慮外にあるような軽妙さで、カワウソは起動済みだったアイテムのひとつを、掌に握りっぱなしだったそれを、指先に摘まんで見せつける。それは一見すると、鉄色のピンポン玉にしか見えない。

 それは、ヴォルが朝餉の席で用意した、魔導国軍部のアイテムに似ていた。

 

「ご愁傷様だ」

「──何だ、それは?」

「証拠品」

 

 カチリと再生スイッチを押す。

 

《先代や先々代をはじめ、貴女方姉妹には世話になった。それだけは感謝に絶えんよ、本当に。里の重要機密に触れさせてくれたこと。さらには、天然ものの狂戦士の血を存分に採血させていただいたこと…………だが、もはやアレは、用済みよ》

 

 驚き(おのの)くホーコン。彼と同じ音声が零れ、球体の上には小規模な映像(ムービー)が投影されており、族長であるヴォルやウルヴ、一番騎兵隊の窮状もバッチリ映り込んでいた。

 カワウソはアイテムを停止し、早送りして、別の場面を再生させる。

 

《おお、憐れな狂戦士(ヴェル・セーク)よ。だが、悲しむ必要はない。すぐに、お優しい姉上たちと会えるとも》

 

 さらに、別の場面を再生。

 

《ふん? だとしたら何だ? どうせ、貴様らはここで死ぬ。私のかわいい邪竜たちによって、貴様ら一人残らず食い散らかしてくれるわ!》

 

 証拠としては、十分な言質(げんち)が取れていた。

 

「ば、馬鹿な! 何故、それほどのアイテムを貴様が!」

 

 無論、これはカワウソの持つ〈記録(レコード)〉の課金アイテム──と言いたいところだが、実際はつい先ほど、とある冒険者から持たされた程度の道具だった。

記録(レコード)〉に似た魔法を発動し、一連の暴露は完全に動画映像として記録済み。

 これを然るべきところに提出すれば、とりあえず今回の事件の首謀者は丸わかりになるだろう、と彼が提案してくれたのだ。

 一等冒険者よりも警戒されないだろうカワウソの前であれば、あの長老が何もかも自白してくれるだろうと思われたから。

 

「くそっ! ならば、その証拠ごと消えろ!」

 

 ホーコンは支配下に置く黒い飛竜たちに命じる。

 

「『奴を喰え、邪竜共!』」

 

 しかし、邪竜はカワウソの護衛として侍る黄金の女騎士に阻まれる。

 まるで不可視の壁が築かれたように、邪竜たちは一歩も前に進めない。

 

「くそ。ならば族長を、奴らを人質に……!」

 

 そんな企図を砕くような飛竜の翼が、一同の眼前に舞い降りた。

 騎上の人物は、二人。

 調査に向かわせた一番騎兵隊隊長のハラルドと、彼を運ぶ飛竜(ラベンダ)──彼女の騎乗者である”相棒”。

 

「お姉ちゃん、みんな!」

 

 女族長は、そこに突如として現れた者が信じられなくて、目をしきりに瞬かせた。

 涙で濡れた眼が見せた幻想だろうか。

 

「ヴェ、ヴェル……どうして? ……生きて?」

 

 妹の頬に、耳に、髪と額に、ヴェルの姉は手を伸ばし触れて、確かめる。

 そこにある本物の感触──温度──生きている──家族を。

 

「うん、生きてるよ」

 

 薄紫色の髪の乙女が、柔らかく微笑む。

 ヴォルが泣き崩れながら、妹の身体に縋りついた。

 

「皆さん、無事……ではなさそうですね」

 

 飛竜と共に〈飛行〉で降下してきた一等冒険者“黒白”のモモン、その背中がたのもしい。すでに大剣を握り構える偉丈夫──映像記録用のアイテムをカワウソに貸し与えていた人物の隣に、白金の髪の修道女、マルコが体重を感じさせない動作でフワリと着地。彼女の気功によって重傷の身からとりあえず回復したウルヴ・ヘズナも、修道女の肩に担がれる格好で婚約者(ヴォル)の許へ戻ってこれた。

 

「モモン殿──あなたが、ヴェルを?」

 

 恋人の無事まで確認でき、泣き濡れっぱなしの女族長は、モモンに訊ねる。

 訊ねられた彼は、首を横に振るだけで示す。

 

「彼女を助けたのは、彼。──カワウソさんです」

 

 冒険者が言って示した黒い男は、族長らの混乱や感涙に構うことなく、ひとつ確認しておくことをヴェルに訊ねる。

 

「ヴェル。黒い飛竜の“声”は?」

「……聞こえます」

 

 ヴェルはまっすぐに言いのけてみせる。やはり、ヴェルにはあの黒竜共の声や気配が判るらしい。この場へ急行できた要因のひとつたる乙女は、不安げな声で、カワウソに自分の感じる声の詳細を報せ続ける。

 

「けれど、これまでよりも、聞こえる声は、その、小さい、です?」

「そうか──どんなことを言っているのか、解るか?」

 

 ヴェルは、かすかに感じ取れる黒竜の絶叫に、悲嘆に、破滅と自滅を望む声色に、耳を傾け、それを唇に紡ぐ。

 

「みんな、こう言ってます。

 ──『怖い』『痛い』『暗い』『嫌だ』

 ──『殺してやる』『殺してくれ』『死んじまえ』『死なせて』

 ──『帰りたい』『戻りたい』『おかあさん』『おとうさん』

 ──『助けて』『たすけて』

 あ……」

 

 耐えきれなくなって泣き震えるヴェル。

 元のレベルだと間違いなく発狂クラスな黒い感情の波濤にさらされて、ぼろぼろと涙を流す……が、彼女は何とか自分の意識を保つことは出来ている。狂吼も狂行もない。姉らを護る最前列で、ラベンダの鼻先に揺すられ、それでも決然とした表情で、己の為すべきことを心得ている。

 カワウソは納得の首肯を落とす。

 あれだけ狂乱し、狂態の限りを尽くしていた乙女は、とりあえず黒い飛竜の成体──その群れを前にして、とりあえず落ち着いた態度で応答を返せている。アレの、黒竜の声というのは、高い狂戦士のレベルを維持した飛竜騎兵でなければ、重篤な狂乱を呼び込むことはないのだろう。

 狂戦士のレベルがある程度まで落ちた結果と、カワウソは分析する。

 死亡処理(デスペナ)によるLv.5ダウン現象は、この異世界でも健在なようだ。

 

「どういうことだ?」

 

 そう訊ねてきたのは、禿頭の老学者だった。

 

「どうなっている……薬は、あの丸薬の、効果は……どうなったっ?!」

 

 いろいろと聞きたいことは山積しているようだが、とにかく、件の女狂戦士が五体満足・健康健在でいる理由が気にかかったらしい。

 堕天使は率直に言う。

 

「言っただろう。『殺した』って」

 

 カワウソは、嘘をついたつもりはなかった。

 ただ、ほんの一言だけ、言い忘れていたことがあったが。

 

「一回“ヴェルを殺して”、そして“蘇生させた”──それだけ」

 

 短く告げられた内容を、しかし、ホーコンは驚嘆と疑念でいっぱいの表情で受け止める。

 

「蘇、生? なにを、馬鹿な! 蘇生魔法を扱えるのは、最低でも第五位階信仰系魔法、の──まさか、貴様?」

「半分正解だが、半分はずれ」

 

 カワウソは一応、説明してやる。

 

「俺は信仰系魔法を扱えるが、蘇生や回復魔法はまったく使えない」堕天使の特性として、そういった魔法に習熟することができないというデメリットがある。「だから代わりに、これを使った」

 

 この場にいる者の大半は、初めて見るような表情を見せる。

 

 取り出して見せたそれは、先端部に黄金を被せた象牙製のアイテム。

 蘇生の短杖(ワンド・オブ・リザレクション)

 

 カワウソはボックス内に詰め込んでいた蘇生アイテムのひとつを使って、殺したヴェルを、その場で即座に蘇生させた。

 蘇生された直後で意識があやふやな少女を湖畔に降ろしている時に、モモンたちと合流。

 彼女の衣服に吸い込まれた血の量でハラルドに詰問されかけたが、ヴェルの無事を確認した瞬間に、誤解は解かれた。

 カワウソは短杖(ワンド)を眺める。

 これに込められた魔法程度だと、対象は死亡処理(デスペナルティ)としての5レベルダウンを被るが、あの時のヴェルの暴走を、狂戦士の力を根本的に抹消するためには、この方法が適確だろうと判断できた。

 何故ならば、

 

「ヴェルの暴走は、俺たちの回復手段を使っても癒しきれなかった。これはつまり、彼女の肉体に生じた変化現象は、状態異常(バッドステータス)の類ではないという結論を得られた──他にあり得る可能性としては弱体化(デバフ)効果だろうが、それだとステータス増強、あの戦闘能力向上は、ありえない」

 

 つまり。カワウソが至った、ヴェルに起こった現象の正体というのは──

 

「俺にはアレは、“モンスターへの転生”と考えられた」

 

 ヴェルの持続的な暴走と、湧きあがった黒い腫瘍。

 あの現象は、カワウソが考えるにおそらく、狂戦士の暴走が慢性化したことによる使用限界か、人間と飛竜……モンスターとの融合、あるいはただ狂戦士の血や細胞が何かしらの異常作用をもたらし、黒い生物への転生をなそうとしたが故の事象なのだろう。

 これは、ユグドラシルには存在しない技術であり法則だと思われる。

 いずれにせよ、あれは状態異常(バッドステータス)……回復可能な現象ではなかった。

 言うならば「狂乱する未知の魔獣」への転生を強要された状態──そんなところだろう。

 転生を回復アイテムで阻止するシステムなど、カワウソは聞いたことがない。だから、回復は無意味だったというのは納得がいく。

 人間種が別の生き物、異形種へ転生するというのは、ゲームだと珍しくもなんともない。天使(エンジェル)への転生には「昇天の羽」が、小悪魔(インプ)へは「堕落の種子」が──という具合に、途中から別の種族への変更・転生を行う条件さえクリアすれば、異形種への生まれ変わりは一応可能であった。

 

「飛竜の黒竜化に「狂戦士の細胞」を。狂戦士ヴェル・セークの黒竜化に「何らかのアイテム」を……おそらくは、昨日の朝餉に用意したとかいう薬に、そういう細工をしやがった……ホーコン(おまえ)が言うところの、狂戦士の暴走を加速・増幅させる効能のそれによって、ヴェルの肉体に著しい変質をもたらした──」

 

 そう、カワウソは理解した。

 ヴェルの耳に届く声というのは、自分と同じ状況……同じ種族へと転生を果たした者達が奏でた、悲嘆の叫喚地獄だったわけだ。同じ存在同士であるが故の感知能力や伝達手段じみた特性によって、アレらの声を、ヴェルだけが、感じ取ることができたとも思えるが、もはや検証することはできまい。

 

「しかし、転生に必要なレベル数値をダウン……減少させてしまえば、転生要件を満たせなくなったヴェルは、その身体の異変は鎮まると思われた」

 

 これは、一種の賭けだった。

 カワウソは常々、この異世界がユグドラシルと同じシステムが生きていると確かめていたが、蘇生については未知数な状態だった。蘇生だけが不可能な世界だったら? 蘇生させてもレベルダウンが起きない法則があったら? そもそもにおいて、レベルダウンが本当にヴェルの異変を鎮静できるのかどうか……様々な懸念や不安があった中で、カワウソはヴェルを殺すことを決めた。

 自分自身の手で。

 

「そして、結果はご覧の通りというわけだ」

 

 振り返った先にいる少女が淡く微笑む。

 殺された割には、自分を殺した男のことを信頼しているような感じなのが、カワウソには少なからず疑問だった。

 そんな堕天使に、ヴェルと並び立つ冒険者がひとつ質問する。

 

「薬は遅効性のものだった。それによって、ヴェル・セークさんは一応、先ほどまで人間の形を保っていたと?」

 

 ヴェルの変異した身体、黒い肉腫が剥がれ落ちるところを共に確認してくれていたモモンが、興味深げに訊ねてくる内容を、カワウソは肯定する。

 

「おそらく。あるいは、昼飯や夕飯にもそういうのを仕込んでおこうとしたのかもだが、ヴェルは朝食を食べた段階で、思いっきり影響を受けた。だが、ヴェルの抵抗力か免疫力か、あるいは何らかの別の要因が働くことで、ギリギリの均衡状態……常時、狂戦士のエフェクトと能力を発動しつつも、理性的な活動を可能とした」

 

 そう考えれば、一応の辻褄は合った。

 そして、先ほどホーコン自らがヴォル達に明かしたネタバラシ。

 もはや抗弁の余地も何もない。

 

「そこまで理解され、証拠も完璧……ならば、こうするより他にない!」

 

 ホーコンは懐から、早撃ちのガンマンじみた速さで教鞭サイズの杖を取り出し、魔法を唱える。

 

「〈催眠(ヒュプノス)〉!」

「ぐ…………」

 

 カワウソの頭部が、ヘッドショットを受けたように仰け反った。

 催眠魔法によって対象となった敵を幻惑させる状態異常発生に、カワウソの身体は呆気なく(くずお)れる……その前に。

 

「チィ……変なモノ見せやがって」

 

 呻き、頭を振ったカワウソ。彼の鎧が、黒い瘴気の霧を一瞬だけ醸し出す。

 ホーコンは即座に起こった現象を結論した。

 

「対策済みか。ならば!」

 

 魔法抵抗力を突破するべく、老魔法使いは薬球を投擲。カワウソが払い除けたことで解放された袋の中に詰まったそれは、魔導国が一般に卸している“魔法誘引”薬……薬学者としてホーコンが魔法都市で購入した虎の子であった。

 立て続けに繰り出されたのは、ホーコンが最も得意とする魔法。

 本当は、催眠によってカワウソという戦士をモモンあたりとぶつけてこの場を凌ぐつもりだったが、催眠対策を施している以上、諦める他ない。

 発生したのは、死に至る状態異常──

 

「〈猛毒(ハード・ポイズン)〉!」

「が、ぅあっ!」

 

 カワウソの身体が崩れる。肺腑が毒に汚染され引き裂かれたような赤い血が口腔から吐き散らされる。その様を眺めるだけとなっていたヴェルが悲鳴を上げ、モモンたちも警戒を深めた。

 だが、

 

「あ、キツぃ。現実の毒魔法って、こういう感じかよぉ」

「な、…………なに?」

 

 カワウソは一呼吸、一瞬にして身体の不調から回復したように見えた。

 実際には、毒の状態異常を無効化しただけだが。

 黒い鎧がまたも黒い瘴霧を立ち上らせる。

 

「なんだ、一体……貴様、何をした!」

 

 訊ねながらもホーコンは多種多様な魔法を、歩みを止めない漆黒の男に向け詠唱する。

病気(ディシーズ)〉〈混乱(コンフュージョン)〉〈呪詛(ワード・オブ・カース)〉〈恐怖(フィアー)〉〈盲目化(ブラインドネス)〉〈火傷(バーント)

 およそ奴が唱えられる限りの、ありとあらゆる状態異常発生魔法がカワウソの肉体を蹂躙する──前に、何らかの手段で無効化されていった。

 

「ば、馬鹿な! 状態異常への完全耐性だと?」

 

 完全にはずれ。

 むしろ堕天使は、状態異常(バッドステータス)脆弱Ⅴ──状態異常に対する圧倒的な脆弱性を露呈する。

 堕天使には魅了や狂気系統への完全耐性しかない。それ以外の状態異常には極めて罹患しやすく、魔法攻撃無効化Ⅲまで貫通してしまう。脆弱Ⅴというのは伊達ではない。故に、奴の低位魔法でも、堕天使を蹂躙することは可能……だが、それは「対策をしていない堕天使」という前置きがつく。

 カワウソは、己の脆弱性への対策を、当然の如く用意している。

 だが、

 

「あまり、気分のいいものじゃないな。──現実だと」

 

 困ったように呟くが、仕方がない。

 それが、カワウソの鎧の、神器級(ゴッズ)アイテムの効能なのだから。

 

 

 

 カワウソが保有する六つの神器級(ゴッズ)アイテム──

 

 右手に装備する聖剣……天界門の剣(ソード・オブ・ヘヴンズゲート)

 左手に装備する魔剣……魔獄門の剣(ソード・オブ・デモンズゲート)

 肩から背に纏う外衣(マント)……竜殺しの隠れ蓑(タルンカッペ)

 両脚に装備する“堕天使”専用の黒い足甲……第二天(ラキア)

 

 そして、五つ目となるのは、堕天使の肉体を護る、漆黒の鎧。

 カワウソがユグドラシルで入手した神器級(ゴッズ)アイテムのほとんどは、ユグドラシル末期に解散したランカーギルドからの払い下げ品がほとんどであるが、この“鎧”だけは、カワウソが己の拠点とするヨルムンガルド脱殻(ぬけがら)址地(あとち)城砦(じょうさい)……ギルド:天使の澱(エンジェル・グラウンズ)にて、鍛冶職人系NPCとして創造したアプサラスを大いに利用し、最初(いち)から製造した、“堕天使”専用の神器級(ゴッズ)装備。

 胴体を包み込める漆黒の掌に掴み潰されるような異質極まる造形は、カワウソのデザイン──『すべてを“望み欲する”堕天使の掌』を意匠したもの。

 故に、この鎧の名前は、

 

 

 

欲望(ディザイア)

 

 

 

 主人の声に応えるがごとく、黒い瘴気の霧を醸し出す鎧“欲望(ディザイア)”のエフェクトが、装備者であるカワウソのステータス値のひとつを、またも微増させる。

 この能力は──装備者(カワウソ)の被る全状態異常(バッドステータス)を吸収することで、初めて起動する。

 

 製造者であるカワウソは、自身の『堕天使は、ほとんどあらゆる状態異常に罹患する』という特性を利用し、『特定のダメージ計算……“状態異常の罹患”を、己の利する効能=自らの基礎能力値(ステータス)にランダム変換するという性質』をもつ希少クリスタルを入手、この漆黒の鎧に与え施していた。

 この能力と似たような希少クリスタルだと、『敵に与えたダメージ数値を吸収し、自己のHPを回復する』とか、『自己に与えられた魔法ダメージを吸収・蓄積、その魔法属性攻撃を次ターンより行使可能』などがあるらしい。

 

 状態異常を拒絶し防御するのではなく、状態異常を受容し飲み込み、その力を、弱く脆い堕天使の基礎能力値──ステータスにすべて還元するべく完成された、カワウソ謹製の一点もの(ワンオーダー)

 

 ほとんどのユグドラシルプレイヤーにとって、「状態異常への罹患」には、種族特性や職業スキル、アイテムや装備効果によって防御が勝手に働く場合がほとんどであるため、状態異常への完全対策に労を費やすことは、まずない。人間種であろうとも、Lv.100まで積み上げられる職業レベルが、ある程度の状態異常への耐性を獲得するため、通常こんな装備が市場に出回るはずがないし、自作装備に組み込もうとも考えない。

 おまけに、ひとつの神器級(ゴッズ)アイテム製造にかかるコストを考えれば、防御手段よりも攻撃性能の追求にこそ、入手したレアアイテムやクリスタルを注ぎ込むことを思考して当然の計算。

 だが、堕天使は──自ら望んで“欲望”の虜となった異形種には──ありとあらゆるものを求め欲するという性質が付与される。

 欲得に目が眩み、人間たちへの愛欲や暴欲に焦がれた、堕天使の逸話の通りに。

 たとえ、それが毒酒や病気であろうとも、堕天使は喜んで下界の俗習にまみれ、魅了と狂気に憑かれたまま、その果てに待つ破滅的な饗宴に溺れることを、望み、欲する。

 それが状態異常(バッドステータス)脆弱Ⅴの、由縁(ゆえん)

 

 カワウソはそんな堕天使の特性を、最大限利用するための鎧を造り上げ、堕天使の脆弱性(もろさ)を補強する手段へと昇華させたのである。

 ……だが。

 

「──ユグドラシルだと、ここまでキツいものじゃなかったけどな」

 

 誰にも聞こえないだろう小声で、そう呟いてしまう。

 欲望(ディザイア)の鎧の効果は、状態異常に罹患したことで発動──その状態異常の種類や強度によって、堕天使の能力値を向上させる仕様なのだが、そのためには一度、状態異常を受容する。つまり、催眠や毒の効果を……たとえ一瞬とはいえ……カワウソという罹患者に供給・強制せねばならない。無論、鎧の効果さえ発動してしまえば、その状態異常の影響は完全に無効化され、カワウソの肉体は即座に復調可能。実際、カワウソの体力は一ミリも減少しておらず、むしろステータスの増強効果で、肉体は軽く感じるほどだ。

 しかし、

 

「ッ、ゴホ……」

 

 舌の上に残る、吐血の臭い。口腔と鼻腔に漂う、鉄の香り。

 ほんの一瞬とはいえ、毒や呪詛などの状態異常がカワウソに与える影響は、無視できる領域のものではなかった。状態異常というほどではないカワウソ自身から溢れる恐怖感や不安感も、堕天使の意識からは剥がれ落ちない。

 こればかりは、さすがに我慢するしかなさそうだ。

 

「で。次は、何の魔法だ?」

 

 奴の誇る魔法のほとんどは、カワウソには無駄打ちに終わった。

 純粋な魔法詠唱者にとっては不利な相手と認めざるを得ないのだろう。カワウソは剣こそ構えていないが、幼い黒竜に善戦できた戦士としての力量があると知れている。この間合いで、魔法の通じない魔法詠唱者が近接戦を挑むのは、愚の骨頂以外の何だというのか。

 ホーコンは苦々し気に頭を振った。

 

「くそ……こうなっては、やむを得ん」

 

 ホーコンは注射針を、薬液を満たしたそれを、指先に握る。

 

「死なば諸共! 私も、この細胞の力によって! 貴様らを蹂躙してくれるわ!」

 

 薬液は、黒い狂気の細胞。

 随分と馬鹿なことを──そう思い、彼の行動をカワウソは止めるでもなく看過してしまう。

 

「ぬ、ぐうぅっ!」

 

 呻き、唸り、それでも彼は注射器内の細胞を、己の血管内に、肉体に一滴残らず注入し尽くした。

 ……普通に考えるなら、……ユグドラシルを基準にするなら、彼の“細胞組織培養”の力は、そこまで強力な強化を見込めない。ゲームにおいて培養された細胞組織には、ある種の治癒効果や強化作用が働く──だが、狂戦士の細胞という培養物は、果たしてユグドラシルに存在したのかどうか。

 

「ぐぅ、ぬぅ、ゴォ、あああっ!」

 

 そのように静かな思考に耽っていたカワウソは、起こる現象を見つめ続けた。

 効果が表れ始める。苦痛に彩られる声をあげ、黒い細胞に侵されるホーコンの腕が膨れ上がり、肩に、胸に、全身に浸透していく。

 そうして、信じられないことが起こった。

 

「……ホーコン?」

 

 ヴォルたちが、老人だった(・・・)人物の名を呼ぶ。

 

「なんだ、あれは?」

 

 痩せ衰えていた四肢に筋骨の隆起が加えられ、肉体の変質に伴う苦痛に歪む面貌までも黒く染まった瞬間──彼を構築する何もかもが、──人肌の輝きを取り戻していた。

 ありえないと誰もが呟きそうな変貌、変化である。

 老人の経年劣化を象徴する、シワまみれイボまみれのたるんだ表情が、端正な顔立ちと、張り艶の良い血色を帯びていく。禿頭(とくとう)には、往年の彼を知る者にとっては馴染み深いだろう黄金と紫の髪が猛々しい様を取り戻し、好色の英雄じみた強壮さを宿すに至る。

 

「これ、は?」

 

 部族の長老の一人だった男は、押せば倒れそうなほどだった老人は、若かりし頃の栄光……全盛期そのものと言える若者の姿に、変貌し尽くしていたのだ。

 

「く、くふ……!」

 

 くすみもあざも消え失せた精悍な手指を撫で眺め、注射器のガラスに映り込む己の美貌を……あろうことか若返った自分を認め、ホーコン・シグルツは狂ったように笑い、咆える。

 

「くはっ! 素晴らしい! なんという力だ! 狂戦士の細胞は! 飛竜の細胞成長を促進させるものと思っていたが! まさか! これほど素晴らしい現象を引き起こすものとは!」

 

 研究を続けていた彼自身にとっても、それは驚くべき情報だったようだ。

 己の内に滾る野望と、若い生命力を諸共に吐き出すような轟笑が(こだま)する。

 考えてみれば、狂戦士の細胞を投与した程度で、幼い飛竜の肉体が、通常の成竜なみに成長する行程要素は不明だった。だが狂戦士の細胞が、幼い飛竜の身体を黒く染めつつも、成体以上の体躯に変容……成長させていた事実から見ても、投与された対象物の成長時間に、何らかの影響を及ぼしていたことは、間違えようのない事実であった。

 

「狂戦士の、特性か?」

 

 いや、そんなものはないはず

 カワウソはユグドラシルの常識として、自分が知り得る狂戦士の情報を思い出そうとするが、すぐに意味がないことに気づく。

 この異世界における独自の法則で生まれ生きる狂戦士。

 その血。

 その肉。

 その細胞。

 そんな存在の及ぼす力など、転移して数日の堕天使プレイヤーに理解できるわけもない。

 

「時間を狂わせる力?」

「──今、なんと?」

 

 カワウソは冒険者に振り返る。

 モモンは、彼の知る狂戦士のことを、普段の様子からは想像できないほど重い──彼自身無意識に紡いでいるような口調で、かいつまみながら説明する。

 

「この世界の狂戦士には、副作用がある。その副作用というのは、増強されたステータスを使った反動によるもの。その反動というのは長らく不明であったが、仮定として、一時的な成長促進現象を生んでいたがためのものだとすれば?」

「……狂戦士のステータス増強は、己の内部時間を一時的に加速させた結果だと?」

「あるいは、己の時間を未来から引っ張ってくるのか。──いや、さすがにそれはないか」

 

 モモンは己の仮説を否定し、カワウソの提言した時間加速による増強効果に同意する。

 だとすると、ホーコンの若返りというのは、まったくその逆……促進された成長の揺り戻し……副作用が、まったく逆方向に働きすぎてしまった結果の、なれの果てだとしたら?

 あるいは、投与者の全盛の力を体現させる力が、狂戦士の血の正体なのやも?

 飛竜の黒化というのも、あの形態形状への化身が、飛竜らの最盛を示す姿形だとすれば?

 

「……若返りの薬、か」

 

 モモンが興味深そうに唸る。

 全人類の夢などと物語に謳われる不老不死……それを可能にするやも知れない現象が、今、この場所で起こった。

 そんな現象が本当に可能なのか疑問でならないカワウソだが、実際に目の前で起こってしまうと何とも言えない。

 

「やれる、やれる、やれるぞ! 黒き邪竜を従え、あまねく飛竜騎兵を屈服させ……この私が──私こそが! 世界の頂点に君臨できるのだ!」

 

 傲岸不遜に笑い吠える金と紫の髪を翻す“元”長老に、一人の女性がつっかかる。

 

「貴様……よもや、魔導国の──魔導王陛下の力を、超えたつもりか?」

 

 世界の頂点に君臨というワードが、あまりにも聞き捨てならない暴言に聞こえたのか。マルコは常の微笑を消し去り、まるで視線だけで目標を呪殺しかねないほど険悪な瞳を向ける。しかし、そんな修道女の剣呑な雰囲気を浴びながらも、若返りし超人──ホーコン・シグルツは、何の痛痒(つうよう)も感じていない調子で、

 

「無論!」

 

 と、一言。

 

「私は今や! 完璧な肉体を手に入れたぁ! 若返り! 不老不死! これほどの奇跡を体現した私ならば! アンデッドの王など何するものぞぉ! 私こそが、あまねくすべての王になれる! 私だけが! 誰にもなしえない永遠を! この若く美しい、人間の姿のままで、生きられるのだ! 永遠! ──“永遠”! そう! 私こそが──“永遠”なのだ!」

 

 高らかに笑い歌う男。

 偶発的に手に入れたも同然な、若く、瑞々しい力を発露するように、ホーコンは己の近くに転がる岩塊を片手で掴み上げ、転がる族長らに向かって暴投する。その重量の突進は、弱体化したヴェルと、ラベンダが盾になったところでどうなるでもない力の一擲。

 モモンの剣とマルコの拳によって破砕された岩塊。

 確かに、とんでもない能力だと、認めざるを得ない。

 だが──

 

 

「くだらない」

 

 

 カワウソは挑むような口調で一歩、二歩、歩みを止めずに前へ踏み出す。

 

「ただ追い詰められて、結果的に摂取した狂戦士の力が働いた結果だけを見て、世界の覇者になったつもりか?」

「フン。貴様がごとき、醜怪な面貌の輩にはわかるまいて」

 

 美貌の男の主張に、カワウソの背後に控えるミカがガチャリと剣を鳴らすのを、振り返る堕天使は目線だけで抑え込む。そうして再び、元長老たる若者に向かい直る。

 

「醜怪なのは認めるさ。俺も、鏡で自分の顔を見るのは怖いぐらいだ」

 

 数日前まで、自分の顔は堕天使の外装(アバター)のそれではなかったのだ。違和感なく、この肉体と顔面が自分自身なのだと感じている反面、実際に慣れているか否かで言えば、どうにも自信がない。ミカやヴェルなどに微笑みかけても、まるでそこにある表情に怯えたように視線をそらされるのも無理はないと、本気で思う。

 しかし、だ。

 

「おまえ程度で、あのアインズ・ウール・ゴウンの『上』だと? 馬鹿も休み休み言え」

「……何だと?」

 

 カワウソは知っている。

 ギルド:アインズ・ウール・ゴウンは、1500人のプレイヤーを全滅させた、伝説の存在。

 カワウソが幾度となく挑み、敗れた──最強の存在たるナザリック地下大墳墓。

 それを、目の前のただの男が、邪竜モドキの飛竜を率いる程度が、超える?

 ……馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 ……気に入らない。

 

 

「調子に乗るなよ。ただの人間風情が」

 

 

 堕天使は無意識に言っていた。

 自分もまた人間だった……ただのゲームプレイヤーだったことを思い起こせば、絶対に紡ぐはずのない文言を吐き連ねて、その違和感のなさと、脳に響く心地よさに驚いてしまう。

 モモンやマルコが静かに瞠目し、ヴェルたち生き残った飛竜騎兵にしても、愕然とカワウソの主張に聞き入るしかない。

 ミカは黙って、堕天使の背後を護るだけ。

 

「ハッ……だが、この力を前にして! そんな大言壮語が通じると思うなッ!」

 

 逡巡に硬直していたホーコンは挑むように吠え、大地を掴み、ありえない握力と腕力でもって、一個の岩塊を引き出し振るう。竜ほどの大きさを誇るその重量は、人間程度ならば虫のごとく圧壊され、臓物をブチ撒けるほどの暴力の権化。

 カワウソめがけて振り下ろされる巨岩の袈裟斬りが、カワウソの人間サイズの体躯を丸ごと呑み込んだように見えた。岩塊の先端が割れ砕ける衝撃で粉塵が舞い、突風が周囲の人間を引き裂かんばかりに猛り吹く。

 

「ハハハハっ! どうだ! 私の全盛の数倍以上の! この力に、かかれ……ば……?」

 

 黄金と紫の髪を振り乱す“元”老人は、己の振るった巨岩の、その割れた先端部を見る。

 

「所詮は、この程度か」

「な……ああ?」

 

 ホーコンは、気の抜けた声で起こった現象を整理する。

 自分が振り回した岩塊に、目の前の男は吹き飛ばされる……ことはなく、防御するように使われた細い剥き出しの浅黒い二の腕にも、傷ひとつ、走っていない。ありえない。これだけの重量で、狂戦士の膂力に匹敵する──あるいは超越する一撃を、正面から受け止めるなど、そんなことが可能な戦士がいるなど、ありえない。

 

「上位物理無効化Ⅲが働いている以上、Lv.60以下の攻撃は通じるわけもない」

「え……なぁ?」

 

 理解できていない男に対し、カワウソは頭を振った。これ以上は説明するだけ無駄。

 全盛の頃だか狂戦士の力だか知らないが、結局のところ、現地人のレベルでは、Lv.100の異形種には届かないということ。

 カワウソは、もはや説明する価値も意味もないと思い、ホーコンの隆々と膨れた腕に持ち上げられる岩塊を掴み、片手の握力で割り砕いてしまう。聖騎士の腕力は、堕天使であろうとも、この異世界ではとんでもない威力を発揮し得る。

 驚愕に彩られる男の表情。

 彼の感情などすべて無視して、カワウソは軽く間合いを詰め、空いた男の腕を捕らえると、適当に振りまわす。綺麗な一本背負い……ということにはならない。カワウソは現実の格闘技経験者ではない上、ゲームでもそういう純粋な戦士系統ではなかった。だが、この異世界において、Lv.100の異形種の身体能力をもってすれば、それに近い戦闘行為も可能である。

 

「ぎゃ!」

 

 壁に叩きつけられる蛙よりも酷い鳴き声を上げて、ホーコンは岩床(いわとこ)に身を投げ出した。

 カワウソは追撃するでもなく、ただ、ホーコンの真意を探る。

 

「何故、こんな真似をした?」

「くっ……な、に、を」

「何故、おまえはヴェルたちを、セークの部族を、裏切るような真似をした?」

 

 答えろと、暗い瞳で強要する。

 そんなカワウソの態度に、だが、強化されているホーコンは一切、怖じることはない。

 

「は! 貴様らに、何がわかる!?」

 

 言って、彼は己の主張のまま、理解できない者らを拒絶するような距離へと跳ぶ。

 

「我がシグルツの血の悲願を! 魔導王に撃ち砕かれた一族の思いを! 貴様ら風情に邪魔立てされてなるものか!」

 

 あらゆる理解を放棄した言葉が投げかけられた。

 同時に、彼が邪竜(仮)たちに向け、強化魔法を唱え、号令を発する。

 奴等を食らえと、この場にいるものをすべて食いちぎれと、喚き叫ぶ。

 

「あ、そう」

 

 カワウソは肩を竦めながら、轟々と迫り来る邪竜の群れに、歩み寄る。

 わかるわけもない。というか、興味もない。

 最後に理由を聞いたのは、あくまでヴェルたち──飛竜騎兵の部族に対する義理でしかない。

 こいつが彼等を裏切らなければならない理由があったとしても、カワウソには何の関係もなかった。

 また、彼等セークの部族の方にこそ、裏切られて当然の理由があったとしても、そんなことはまったくもって関係がなかった。

 裏切られたから裏切っていいなんて──そんなことが、許されるものだろうか。

 

「でもな」

 

 カワウソにとって重大なことは、たったひとつの事実。

 その確認は、すでに終わった。

 

「おまえは自分の仲間を利用した……いや正確には、“裏切った”な?」

 

 いずれにせよ。どちらにせよ。

 奴のやったことは──変わらない。

 

「いいか?

 どれほど御大層な理由があろうと、

 どれほど御高説をうたれようとも、

 おまえのやったことは、たったひとつ……」

 

 仲間を裏切った。

 

 ──裏切り者だ。

 

「俺は、仲間を裏切る奴が」

 

 

 

 脳裏に浮かぶものは、かつての、──

 

 

 

「死ぬほど、嫌いなんだよ」

 

 

 

 堕天使の肉体が、掌を、横薙ぎに一閃。

 真一文字に生じた光輝の刃(シャイン・エッジ)にも似る特殊技術(スキル)の烈光が幾重にも連なり、憐れにも邪法によって黒く染まった飛竜たちを慰撫するように触れ、──瞬間──すべてを消し飛ばす。

 ほんの一瞬。

 たった一撃。

 それだけで、ホーコンの誇る20年だか50年だかに渡って積み上げた研究と研鑽の結実──カワウソやモモンらに向かって突進していた邪竜の群れは、潰え去る。黒い肉腫が光の中で蒸発・浄化されるように消え去り、邪竜たちは残骸の破片すら残さず、消え果てた。

 

「……え?」

 

 ホーコンの口から、あるいはここにいる人間全員の口から、そんな声が漏れる。

 堕天使の振るった掌が、この閉鎖空間にこもっていた醜悪極まる存念のすべてを、掻き消してしまった。聖剣を握り、攻撃力を上げて使うまでもない。目の前の裏切り者を、一刀のもとで断裁してやる義理も義務もない。

 カワウソの発動した特殊技術(スキル)の名は、“熾天の断罪”という。

 広範囲・全周囲に存在する敵対異形種(モンスター)……この時は邪竜たちが該当しており、人間種のホーコンはカウントされず、騎乗兵(ヴェル・セーク)の騎乗物とシステム上は見做される飛竜・ラベンダなどの異形も対象外となっている……に、神聖属性の致死レベル連続ダメージを負わせるもの。堕天使であるカワウソには、一日一度しか発動できない熾天使(セラフィム)特殊技術(スキル)──だが、ここで使うことへの抵抗や不安は絶無だった。

 

「嘘。あれって」

「そんな…………まさか」

「やはり、彼も人間では、なさそうだな」

 

 ヴォルが、ハラルドが、ウルヴが、──カワウソの背中を見つめ、驚嘆の息を吐く。

 

「翼……なの……?」

 

 ヴェルは呟いた。

 黒い男(カワウソ)の背中に現れたそれは、灰色の、ボロクズのように千切れた、あまりにも痛ましく惨たらしい造形の、たった一枚だけの、翼だった。

 

 堕天使の最大レベル15で取得できる特殊技術(スキル)──“堕天の壊翼”。

 天使種族に必須の、基本一対からなる純白の翼。堕天使は、それを天使の輪と共に「奪われた」存在であり、低レベルの堕天使には“輪”と“翼”は与えられない(たとえ課金しても)。だが、堕天使の最大レベル15までを取得したプレイヤーには、一日に一回だけ、時間制限付きだが失った翼を取り戻し、かつての力を取り戻すための特殊技術(スキル)があたえられる。

 それこそが、堕天使の背中から一枚だけ、右片方から空へと延びる特殊技術(スキル)の物体(オブジェクト)

 灰色に薄汚れ、千切れかけの片翼として顕現した──ズタズタのボロボロに壊れた、堕天使の翼。

〈飛行〉不能な堕天使も、この状態になってようやく常時〈飛行〉が可能となり、本来の、堕天前の熾天使の力も“ある程度まで行使可能”となる。カワウソが封じられた熾天使の特殊技術(スキル)を使うためには、この“堕天の壊翼”が絶対必須となる。

 だから、使った。

 熾天使の最大級の攻撃手段を使うために。

 これは、堕天使の最大レベル特殊技術(スキル)であり、よほどの事態にならなければ起動すらさせない。

 それほどまでに、カワウソはこの状況を危機的かつ不利的な状況だと見做したわけでは、断じて、ない。

 他にも、ユグドラシルに存在した“敗者の烙印”を押され、一定条件を満たしたカワウソは、”敗者の烙印”由来のレアな種族や職業レベルを与えられており、それらを駆使することで安全かつ確実に黒竜を狩ることも考えていたが、異世界での実験がまだだったことに加え、この時は「もう一刻も早くホーコンの邪竜とやらを消し飛ばしてやりたくてたまらなかった」ことが、マズかった。

 

「あとは、裏切り者(おまえ)だけだ」

 

 冷たく言いさした片翼の男、カワウソの表情。見る者によってそれは、鬼気迫る戦士の相──冷徹無比な好漢の(かお)──怒れる軍神の顕現だと、横から眺めるだけの現地人たちには感じられたようだ、が。

 実際には、癇癪(かんしゃく)を起こして泣く寸前の子供という方が、近い。

 ただ、彼が振るった超常的かつ神懸った力の発揮を目の当たりにすれば、そんなことに気づく余地など、存在しなかっただけのこと。

 

「──すごい」

 

 彼女は、ヴェルだけは、最初に森であった瞬間に、カワウソの秘める強さを知悉していたおかげだろう。ただ一言ながらヴェルが呟くことができたのに対し、ヴォルやウルヴ、ハラルドたちはまったく反応を返せない。ただ、カワウソのもたらした光の圧力に呑み込まれ、自分たちの目の前にある事象が──翼を持つ英雄の姿が──まさか夢ではあるまいかと疑うほかない。

 傍で見ていた現地人ですら、そうなのだ。

 カワウソと相対する形の裏切り者(ホーコン)は、状況をようやく呑み込むまで、数秒以上の猶予を欲した。

 

「え…………え?」

 

 無論、そんな余暇を楽しませるほど、堕天使は“慈悲”とは無縁である。

 

「ぎゃあああ!」

 

 一拍を置かず響く悲鳴。

 ゴミを踏み潰すように遠慮なく、カワウソは“裏切り者”たる男の膝頭を、真正面から足甲の底で踏みつけていた。ありえない速度で間合いを詰められたことにすら気づけなかった様子。

 何の躊躇も逡巡もないまま、とんでもない力を加えられた男の両脚は、ほんの刹那、完全同時に、たった一撃に込められた圧力によって、膝関節とは違う方向に向かってボギリと折れ曲がり、赤く濡れた白いものが、ねじ折られた木の枝のように飛び出している。

 無論、木の枝に見えるそれは、骨だった。

 

「ギアァァァアァァッ!!??」

 

 苦悶にのたうつ絶叫が、洞内を痛々しく乱響する。傷口を両手で押さえて止血を試みるが、それすらも尋常でない痛苦をもたらすだけ。

 

「た、たのむ! ゆゆ、許しぇ!?」

 

 無様にも懇願の声を奏でる若い風貌を取り戻した男は、実に、醜い。

 先ほどまでこの場を満たしていたモノ──面貌を肉腫で黒く歪め啼いていた飛竜たちより万倍も醜悪で、そして惨めだ。

 カワウソは、しかし、彼を心から安堵させるほど優し気な声と微笑を面に表す。

 

「……許し?

 ──許して、だと?

 アア、そんなことを心配する必要はない」

 

 あまりにも透徹としていて、星夜の空気のように鮮やかな印象さえ含まれた声音で、堕天使は告げる。

 

「俺は、とっくに許している。

 とっっっくの昔に、……許しているとも──裏切り者のことなんて」

 

 微妙に、会話が成立していない。

 敵も味方も、そこに佇む異形(モノ)を、畏怖と恐慌でもって、見つめるしかない。

 赤黒い装備品の環を浮かべ、壊れた片翼を広げる黒い男は、己の顔面の変化が見えるはずもなかった。

 

 真っ黒に染まり果てた双眸は、宇宙に穿たれた穴のよう。

 繊月のように薄く、鋭く、研ぎ澄まされた剣よりも冷たく、堕天使の男は狂ったように──否、最初から“狂っていた”ように口角を耳元まで吊り上げ──ケタケタと微笑(わら)い続ける。

 そんな表情を至近で見止めるホーコンは、若い面を恐怖に歪め、悲鳴を奏でるしか、ない。

 

「た、たすッ、だれ、か、たすけぇ!」

「フフフッ……おいおい。何処へ行くつもりだ?」

 

 虫のごとく地を這って逃げつつ、命乞いする男の声すら打擲(ちょうちゃく)するように、(わら)いっぱなしの堕天使(カワウソ)は、逃げながら腰の荷袋の中を探る男の胴体を、その様の通り地を這う虫のごとく踏み砕こうとして──

 

「……ミカ?」

 

 後ろにいた自分の配下である女天使に割り込まれた。

 何の真似だと疑念する間もなく、不意な衝撃が自分の腰につかまってみせたことに気づく。

 

「あ˝?」

 

 重く歪んだ堕天使の声に、だが、彼女は一歩も退かない。

 

「──やめてください、カワウソさん」

 

 自分が殺して救った乙女が、涙をいっぱいに溜めた瞳で、縋りついていたのだ。

 

「あなたは、こんなことするひとじゃない……」

 

 俺は、ヒトじゃあない。

 異形種(モンスター)の──堕天使だ。

 そう語って聞かせてやろうかと思ったところで、──カワウソの内側に理性が舞い戻る。

 

「そう、でしょう?」

 

 祈りにも似た声と、苦しそうな乙女の微笑に、見上げられてしまう。

 瞬間、吐き気を催したかのように、堕天使は顔面を手で掴むように押さえ、己の悪質を抑える。抑え込むことが、できた。

 

「ああ、悪い……」

 

 暗い声で、だがヴェルの呼びかけに、応えられた。

 千切れかけの片翼を背に畳み、その質感を薄くする……特殊技術(スキル)を解除した。

 酩酊よりも暗く寒い感じが、臓腑を重くした。頭蓋の中の脳髄が求めるものと、胸の内にある何かが拒絶するものとが拮抗し、カワウソの神経はそれらに引っ張られる。まるで脳の神経が無理やり千切れたような気持ち悪い痛みを感じてしまったが、それもすぐに治まった。

 主の表情を見止めたミカが安堵の吐息を吐き出し、カワウソの胸に手を添えることで、さらに癒しの力が心臓を温めてくれる。

 

「……迂闊に、血に酔われないことです──あなたは、」

 

 そう、女天使が忠告しかけた時。

 荷袋から探り当てた治癒薬(ポーション)で、両脚を回復させた──切断ではなく、関節が破壊された複雑骨折程度の傷は、彼の秘匿していた治癒薬で即時回復可能な損傷だったようだ──元長老(ホーコン)が、さらに隠し持っていた致死毒の短剣を抜き払って、彼等に襲い掛かってくる。

 

「死ねぇ!」

 

 真っ先に気づけたのは、誰よりも襲撃者の挙動に目を配っていたヴェル。

 カワウソやミカの前に身を躍らせて、盾となるように奇襲を迎え撃つ。

 しかしこの時、彼女の行為と厚意は、無謀である以前に無用だった。

 カワウソの鎧と、ミカの防御力ならば、若返りを果たしたホーコンの襲来は気にする意味がない程度の狼藉──だからこそ、二人とも奴の襲撃を警戒する必要性はなかったのだった……が、生命力の減じたばかりの女狂戦士には、あの毒剣がかすりでもしたら、ひとたまりもあるまい。

 故に、

 彼女を堕天使と女天使が押しのけ庇おうとして、

 

「な?」

 

 カワウソは驚いた。

 ホーコンの老いた相棒──ハイドランジアが、横合いから、カワウソたちへの襲撃者……己の相棒の身体に絡みつくように、突っ込んできた。

 

「何!」

 

 それまで泰然自若に、相棒のなすことを座して見ていた毒竜からは想像もつかない──静かな暴走。

 相棒のありえないタイミングでの乱入を、ありえない反抗劇を、ホーコンは愕然と顔を歪め、問い質す。

 

「な、何故! なぜだ! 何故、おまえが、邪魔を!」

 

 疑念する相棒に組み付き顎力で喰いつく老竜は、囁くような呻き声を僅かに零し、相棒諸共、崖の淵の──さらに向こう側へ。

 ホーコンが必死の形相で「やめろ」と「止まれ」を連呼しながら毒の短剣を突き立てるが、毒の飛竜には何の痛痒にもなりえず、刃は弾き飛ばされ大地を転がる。

 猪突猛進を体現する年経た飛竜の薄い翼では、誰かを乗せるどころか、自分自身すらも、飛行させるには及ばない。

 つまり、これは──

 

「う、うわぁああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

 男の絶叫は、老竜と共に、闇の底へ落ちていく。

 残されたのは、ホーコンの落とした毒剣が一振り。

 全員が、目の前で起こった出来事に言葉を失った。

 

「ッ……心中かよ……」

 

 忌々しげにカワウソは呟くが、目の前で起こった人死には、思いのほか自分の心に暗い影を落としたと、認めざるを得ない。

 いくら死んで当然の悪党であろうとも、あの断末魔の叫喚は、人が聞けばトラウマになるだろう。

 幸か不幸か、カワウソは人間ではないのだが。

 

「カワウソ殿」

 

 堕天使は振り返る。

 腕の中にいるヴェルやミカも、声のする方へ向き直った。

 声の主……マルコの気功によって完全に治癒し尽くしたヴォル・セーク族長と騎兵らが、改まった態度で、カワウソに首を垂れている。

 

「この度は、我々、我が妹の命を救い、さらには我が部族の危機を御救い下さり、感謝の念に絶えません」

 

 そんな大層なことをしたつもりはなかった。

 ただ、そうした方がいいと思った。だから、そうした。

 

「礼を言うなら、モモンさんや、マルコにも」

 

 現地の人々の中でも一線を画す、彼と彼女の協力がなければ、カワウソはここまで辿り着くことはあり得なかった。

 二人は手を振って、カワウソと似た態度で謙遜の言葉を連ねるだけ。

 モモンが訊ねる。

 

「族長……ヴェストさんや他の皆は?」

 

 モモンが振り返った先には、老いた騎兵と、もう何人かの死が、転がっている。

 ヴォルは涙を一雫だけ流し、頭を振った。彼等は、もう……

 毒針の奇襲を受け真っ先に昏倒した族長を護るべく剣を抜き、ホーコンの毒と魔法に立ち向かった騎兵たち──彼等は毒針によって、落命。生き残れたものは、本当に運が良かっただけだ。

 そして、友を誅戮すべく駆けた老騎兵、ヴェスト・ファルも──既に──

 

「モモンさん」

 

 カワウソは、ここまで来る間に聞いておいた魔導国の法を改めて確認する。

 

「確か。蘇生魔法を扱える者が、蘇生魔法を行使するのは」

「ええ。原則、術者の自由が認められています。対象が、公的な犯罪者でないことが条件ですが」

「では。ここで死んだヴェスト等を蘇生させることに、問題はないということで、よろしいでしょうか」

 

 ヴォル達が歓声に近い驚愕の声をあげる。

 

「ミカ」

 

 カワウソは、己の女天使を見つめ、命じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホーコンは生きていた。

 周囲をほのかに見透かせるのは、彼の発動した魔法〈闇視(ダークヴィジョン)〉の恩恵によるもの。

 複雑に入り組んだ谷底の奥深くに落ち切ったため、彼の生存を上の連中が発見することは不可能。

 相棒に殺されそうになったが、その相棒の身体を巧みに利用し、何とか落下の衝撃を緩和できた。若返った肉体能力のおかげである。

 さすがに片腕を骨折してしまい、激痛に支配されては身動きが取りづらい。隠し持っていたポーションは落下の拍子に割れ砕け飛散し、その残骸を舐めすくうことで、少しずつ体力を回復させつつあるのが現状である。

 

「ッハ、くそ、ふざけ、やが、って」

 

 己のかつての乗騎……ハイドランジアの首は「く」の字を超えて、「ク」の字に折れ曲がって息絶えた。死んだ相棒の骸に、ホーコン・シグルツは今にも唾を吐きかけてやりたいほどの憎悪を懐く。

 これまで協力を惜しむことなく、毒を生成してきた共犯者が、今さらになって翻意するとは。

 所詮は、モンスターの一種。

 己のごとく超然的な頭脳を理解することもできない、畜生だったわけだ。

 

 ──ホーコンは、己のかつての力、飛竜騎兵としてのレベルが“老化”と共に減じていることを知らない。否。知っているはずなのだが、それを正しく認識できていない。飛竜騎兵としての力を失い、故に相棒と心を通わせることもできず、相棒が真に望んでいたこと、相棒が常に問いかけ続けていた思いを、彼はついに、この最後の時に至るまで、まったく完全に理解することができなかった。理解しようという気概さえありえなかった。

 代わりに得られた魔法と医学の力、それらを応用し発見した“狂戦士の細胞”という薬液に、ホーコンは酔ってしまったから。

 (ハイドランジア)が、何故こんな心中未遂を働いたのか……上にいるヴェルたちであれば、間違いなく読み違えることはなかっただろう。事実、彼女たちは容易に、毒竜の想いを汲み取ることを可能にしていたのに。

 

 ホーコンは今一度、痛罵の吐息を漏らして苦痛に耐える。

 相棒の真意すら解することなく、ただ己に苦痛を与え、谷底の闇に落とした裏切り者への憤懣を紡ぎつつ、部族の裏切り者がほくそ笑む。

 

「よぉし。ポーションのおかげで、だいぶ楽になってきた」

 

 もう少しだ。

 もう少し回復したら、すぐに脱出してやる。

 脱出を果たした後は決まっている。俺をこんな目に合わせたすべてに、仕返しをせねば。

 あの黒い男──カワウソとやらにはもはや近づきたくもないが、奴に協力した族長や連中は、不幸のドン底に落とさねばならない。今まで俺がどれだけ奴らに良くしてやったと思っている。その見返りがコレでは割に合わないだろう。せめて娘一人、族長の妹くらい犯しておかないと、この興奮は収まりがつかない。いや、さすがに単身ではどうしようもないが、暗殺者のイジャニーヤなど協力者を雇ってしまうのも手だ。それに……何だったら魔導国の上層部に、あの黒い男の情報を吹き込むというのも悪くない。あれほどの力をもっておきながら、国軍にも冒険者組合にも属していないものが、旅の放浪者がいてたまるものか。きっと、アレだ。魔導国に敵対する連中の旗頭か……何かだろう。本末が転倒しているどころの話ではなくなっているが、もはやどうでもいい。とにかく、この屈辱の礼はたっぷりとお返ししてやるのだ。自分には、この、若返りの秘薬がある。自分は天才。遅咲きの天才であったが、それもこの薬さえあれば、すべてを帳消しにできる。老いる端から若返り、己が叡智を高めつつも、人としての美貌と肉体とを、これならば無限に保てるのだ。もはや自分は、アンデッドのような醜い化け物にも将来的に比肩する。超越することも可能なはず。自分こそが、“永遠”。自分こそが、永劫の時を生きるもの。そして自分が、この大陸の頂点に──

 そんな心地よい愉悦、将来の展望に胸を躍らせたのが悪かった。

 

「ゴホ、ゴホエホォ!」

 

 内部にわだかまる痛みにつられ、思わず咳き込む。

 喉が引き裂けるように痛むが、こんな状況で風邪でもひいたのだろうか。

 

「……ア、レ?」

 

 口に当てた自分の手を、見る。

 張り艶を取り戻したはずの若々しい指先がしおれた花の茎のように、細い。手の甲がカサカサに渇き、奇妙なシミや(こぶ)が無数に浮かび上がっている。掌の肉感も失せて、(しわ)はいつも見慣れたような──老齢の時のそれに戻っている。手首から上の上腕部や二の腕も、元の枯れた姿そのものであった。

 ホーコンは疑念しつつ、自分の頬や顔の輪郭に触れ、確かめる。

 割れた治癒薬の硝子片を覗き込む。全身が、元に、戻っていた。

 薬液の効き目は、一時的なものだったのか?

 まぁ、いい。すべてこれから実験と検証を重ね、人体実験を続けていけば判

 

「おやおや、こちらでしたか」

 

 深い思考に耽ってしまった老人は、現れた声によって愕然となる。

 ここは、飛竜騎兵の領地。

 その最奥の聖域、さらに、その最下の谷底だ。

 そんな場所で行き会う人間など存在しえないが、果たして目の前の人物は、人間などでは断じてない。

 黒髪をオールバックにし、眼鏡をかけた東洋風の男の身なりは、三つ揃え──だが、彼が人間でないことは、魔導国臣民であれば知らぬ者はいない。

 炎獄の造物主は、銀色に輝く尾を機嫌良さそうに揺らめき流す。

 

「随分と深く落ちてしまったようですねぇ。探すのに少々、手間取りましたよ?」

 

 宮廷音楽を詩吟する楽師のごとき明朗な調べに対し、

 

「あ、……、そん、ばか──な」

 

 男はカスカスにかすれっぱなしの喉に驚嘆の音色を乗せるので限界だった。

 

「な、あ──ま、……ま、さ、か」

 

 ホーコンは、目の前の人物を……より正確には、悪魔……を知っている。

 知っていなければならない。魔導国の臣民であれば。

 魔導国の最頂点に君臨する魔導王陛下の、最も信篤き“守護者”たち。

 統一大陸の“六大君主”が一柱として、生産都市群などの統治関連をはじめ、各種組合組織の掌握と管理、大陸内経済圏の総元締、国軍陸軍部の大将軍と轡を並べ戦う空軍部の幕僚総長兼永久元帥……「空を与えられし者」など、多種多様な役職と地位と領地と呼称を与えられた“極大の悪魔”──

 

「ああ、ひれ伏す必要はありませんよ?」

 

 そんな存在が、眼鏡越しに宝石の眼を、しっかりと目的の物にとらえ映す。

 

「な、なぜ、貴方、様……が?」

「勿論、あなた(・・・)に用があって参上した次第ですよ」

 

 悪魔は悠然と、自分がこの地に訪れた──己の主の求めに応じ、後詰部隊の全権を握る最高責任者としての責務として、目の前に存在する反抗分子の、その情報を総括する。

 

「ホーコン・シグルツ。

 50年前の飛竜騎兵内乱期に挙兵した愚か者の一味──100年前に滅ぼされた“毒”のシグルツの生き残り。当時、幼年であったことを考慮され、アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下に恩赦を賜った者の一人。その後は、通常の飛竜騎兵と同様に生活しつつ、セーク部族にて飛竜の毒武器・薬学事業に職を得て、さらに魔法分野にも傾注。表では部族と魔導国に臣従を誓う臣民として日々を送るも、己の一族の妄執に憑かれ、裏では魔導国転覆の期を伺う面従腹背の徒となる」

「な、なにを言っ」

「20年前。ヴェル・セークの『狂戦士封印計画』の主軸となる状態異常抑制薬の製造と開発に尽力しつつ、その裏で、彼女という狂戦士の血液サンプルを溜め込み、秘密裏に狂戦士化促進薬の錬成に成功。さらに、狂戦士の細胞組織培養にこぎつけ、それを調査研究のため飼育していた(ラット)などの小型生物への投与から“黒化現象”を発見。これにより狂化・変異させた飛竜を使っての国家転覆計画を掲げ、10年前に先代族長や先代巫女をはじめ多くの狂戦士封印計画従事者が戦死したことにより、ほとんど封印研究の全権を握る地位に至ると同時に、大規模な研究所改造と、大量の飛竜乱獲──狂化する飛竜の確保を執り行う。

 転覆計画も始動段階に入ったことで、サンプルであった狂戦士をはじめ、族長と一番騎兵隊“謀殺”のために、式典に参じた彼女の常備薬に狂乱促進剤を混入。それによってヴェル・セークは演習中というタイミングで暴走。君の計画だと、不敬にも演習を台無しにした部族の長たちは刑され、飛竜騎兵の統合を待ちわびていた部族間に亀裂が生じ、族長らの絶えた里を抱き込む形で、転覆計画を実現しつつ、あなたは影で暗躍するというところだったのでしょう。君の錬成した狂化薬物を里中の水源に流し込み、セーク部族の全住民を生物兵器化することで、ヘズナを強襲・併呑し、近隣地域への劫略行為に走りつつ、バイオテロを繰り返すことで国内に大乱の嵐を巻き起こすというつもりだったのでしょう。

 ──だが。

 ヴェル・セークの状態異常抵抗力──先代巫女らの残した肉体ステータスによって、ギリギリの均衡は保たれ、ヴェル・セークは軍作成の雑魚集団に落ちるのみで、重大な損害を与えることなく逃亡を果たす。以降は、我が魔導国軍の捜索隊による捕縛確保が試みられ、────ああ、さすがに、ここまで説明する必要はなかったでしょうか?」

 

 ホーコンは、もはや呻くほどの気概すらない。

 完全に、目の前の悪魔が饒舌に語った内容を理解し、その情報量の完璧さに震えてしまった。

 

「ぜんぶ……し、知って?」

 

 限りなく破滅的な、だが、それ以外の解答を、ホーコンは導き出すことができない。

 しかし、悪魔は微笑のまま、優雅な男の面を横に振る。

 

「いえいえ。これはあくまで、私が導き出した“推論”です。君の経歴や、今日(こんいち)に至るまでの飛竜騎兵の歩み──そして、本日──君が行い、のたまった……『愚挙』と『愚言』を総合した結果に過ぎません」

 

 悪魔は何も知らなかったと告げる。

 だが、知られていた方が、まだマシだった。

 ただの憶測や推論だけで──与えられた僅かばかりの情報で、十全な状況理解を示すなど、まさに悪魔的な頭脳以外に成し得ない暴威だ。

 ホーコンは、訊ねる。

 ここまでやってきた──ただ推察を口にするべくやってきたわけもない、魔導国の六大君主が一人・大参謀に、震えながら訊ねる。

 

「いったい、わたしに、なん、の、ご用、で?」

「実は──君の開発した、その秘薬。是が非でも、我らの方で研究している“もの”の参考にしたいのですよ」

 

 悪魔は悠然と、薬に関する『すべて』を、一時的とはいえ若返りを実現した薬を供出するよう、請求する。

 ちなみに、彼の特殊技術(スキル)である“支配の呪言”は一切機能させていない。

 必要とも思われなかったのだ。

 

「わ、わか……わかりまし、は」

 

 研究の成果や情報は、ホーコン・シグルツの秘中の秘──財産と同等──否、もはや彼の命そのものである。十年単位に及ぶ研究のすべては、マジックアイテムである荷袋の中に詰め込まれており、その中にも幾つか実用品が注射液として何本か残っていたが、そんなことすらも忘れ去って、彼は薬に関する「すべて」を目前に超然と佇む悪魔へと提出してみせる。

 まるで命乞いでもするかのように、命そのものであるはずのすべてを、悪魔に手渡していた。

 

「よい心がけです」

 

 袋を受け取り、それをどこかにしまった悪魔は、さらにどこからか取り出した人間大の人形──老いたホーコンの生き写しとも言うべき造形を随所にあしらえた肉人形を投げてみせた。人形は、まるで死体のようにピクリとも動かないが、それもそのはず。

 これは、ホーコンがここで死んだことを偽装するためだけに悪魔が用意したアイテム──擬死の人形(ドール・オブ・フォックス・スリープ)なのだ。高所から落下した衝撃で陥没したように擬装した後頭部の様が実に惨たらしく、血糊の量も適正な配分で散りばめられている。内部もすべてホーコンのそれと同様。内臓も筋肉も、神経や皮膚のシミやしわにいたるまで、全て再現されている。人間の医師や魔法詠唱者程度では、まず見破られることはない特注品である。

 ホーコンは文字通り目の前に、己の死というものを視認してしまう。

 

「さて。残りも(・・・)渡していただけますか(・・・・・・・・・・)?」

 

 起こる事態が混迷を深め、たまらず老人は悪魔に問う。

 

「の……のこり?」

「ええ、まだ貰っておりませんよ? この若返りの薬を投与され生き残った、唯一の“検体(・・)”を」

「な、なに、を……?」

 

 言われたことが理解しきれない。

 悪魔の唱えるものが何であるのか疑問した瞬間、彼は体の中がサラサラに渇いた砂漠に変じたような咳を吐いた。

 これまで経験したことのない大きな胸の苦しみに骨が軋み、咳と同時に何かが大量に、口の中からこぼれていく。

 ポロポロと数個こぼれた白いそれは──自分の歯だった。

 口内の歯肉が急速に瘦せ衰え、もはやまともな土台として機能しなくなったのだ。

 急激に過ぎる体調の変化に、男は根源的な恐怖を覚える。かきむしった頭から、ありえないほどの脱毛が生じ、指の隙間にはりついてしまう。禿頭の頭だった彼に再び宿った黄金と紫の髪は、見る影もなく痩せて色を失い、ブチブチと千切れて飛散していく。男は暴れる感情のまま、指間にはりついた老髪を振り払った。その現象を拒絶するかのように。

 悪魔は高らかに微笑む。

 

「ああ、再老化による()けでしょうか? さすがに実践例が少なかったのでしょう。そもそも、素で強靭な肉体を持っていない人間の身体では、これが限界と言うところなのやも。ですが、構いませんよ? その状態も含めて、良い“サンプル”になりますので」

「な……にを、いっ……へ?」

 

 スカスカになった口の感覚はもとより、服薬前以上の動悸と息切れが肉体を満たす。

 起こる異常事態に、目の前に存在する悪魔の存在感に、心臓が麻痺してもおかしくないほどの苦痛を訴え始めるが、思考は恐ろしいほど穏やかだった。

 

 

 

 厳密に言えば、何も、考えられなく、なる。

 

 

 

 思考に空白と空洞が無数に穿たれ、自分がここにいる現在までの推移すら、判然としない。

 自分という存在の主体すら、意味が、曖昧に、成り下がる。

 発話することも不可能になりつつあった。

 彼の脳髄までもが、急速な老いによって衰弱を余儀なくされ、物理的な(うろ)が生じ始めているのだ。

 そんな枯死(こし)も同然なありさまに陥る生命を、悪魔は愉快痛快な笑みを浮かべつつ、器用に悲嘆の声を奏で、そして嗤う。

 

「ああ。やはり、このあたりが限界というところですか。いくら御膳立てを整えたところで、人間の能力では服用後のリスク関連を見抜くには至れなかったというところ。残念な結果ですね、本当に」

 

 彼が、ホーコン・シグルツという存在だったものが、……愚かにもアインズ・ウール・ゴウンに反旗を翻したが故に、死することすら許されなくなった愚か者が……最後に感じることができた事実は、たったひとつ。

 悪魔が手を差し伸べる。

 かろうじて生きているソレは、骨と皮ばかりの手を悪魔に差し出し、そして、

 

「ですが、まことに素晴らしいことに、悲しむ必要はないのです。あなたの研学と探求は、余すことなく、我等ナザリックと、御方の統べる魔導国の未来の財産となることでしょう。本当にご苦労様ですが、今後ともよい検体(サンプル)として、生き続けてください──〈ジュデッカの凍結〉」

 

 

 

 彼の求めた“永遠”が、成った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、第三章・最終話
「過」
来週更新予定

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