オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~   作:空想病

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発見

/Different world searching …vol.2

 

 

 

 

 

 

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 少女は走っている。

 胸が張り裂けんばかりに鳴り響き、自分の呼吸すら喉を切り開くかのようにうるさく吐き出されている。

 遮蔽物の多い森に逃げ込めたおかげで、何とか小休止できるほどの猶予は稼げているが、追ってきている者の数を考えると休んでばかりはいられない。身を隠すためのマジックアイテムはあの子に預けたままだ。今はとにかく、あの子から離れ、あの追走者たちから逃れることに終始せねばならない。

 自分が死んだら、きっとあの子は助かるまい。

 自分をかばって、深手の傷を負ってしまったのだ。何とか合流して治癒できる場所に連れていくか、治癒できる人や物を持ち寄らねば話にならない。

 それも、自分があの追跡するものたちを撒くことが前提の話だ。

 だからこそ、走る。

 走って、走って、走り続ける。

 苦しみを主張する胸を抑えつけようと、手甲に覆われた右手を伸ばした。

 こういう時、鎧の奥で胸が揺れるのが苦痛過ぎる。

 体はどうあっても休息を求めていたが、現実は、それを許してくれない。

 追いつかれれば、どうなるか。

 そうなったら、あの子は、自分は、助かりはすまい。

 助かるはずがないのだ。

 あの死の暴力たちに捕まっては。

 腰に佩いた鞘に、剣は収まっていない。

 追跡者からの攻撃を防ぐ一合で折れ砕けたので、棄ててしまった。

 瞬間、聞く者の肌が粟立つような雄叫びが聞こえる。

 薄紫色の髪を背に流す少女は、さらに大地を踏みしめ、薄暗い朝の森を走り続ける。

 

 

 

 

 

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 ミカが一旦部屋を退出し、普段通りの装備に身を包んでギルド長の私室に戻ると、カワウソはアイテムボックス内の確認に専心していた。真紅の治療薬(ポーション)下位(マイナー)上位(メジャ)まで几帳面に、かつ大量に並べられ、種々様々なアイテムや予備の装備が軒を連ねている。すでに装備品の類、特に防御装備についてはカワウソが用意できる万全の状態で身につけられていた。洗濯機にブチ込んだことで得た強化(バフ)効果もまだ継続中である。

 堅い金属に覆われた闇色の鎧、ほとんど銀色に近い光を宿す鎖帷子(くさりかたびら)、夜のように黒く輝く足甲、魔眼のような宝玉を宿す首飾り、絡みつく漆黒の掌のごときチョーカー、背中には血色を宿すマント、九つの指に嵌め込まれた金属と宝石――頭上には、赤黒く回り続ける王冠のごとき円環。

 

「ミカ、戻ったか」

 

 カワウソは、普段通りの鎧姿に戻った女天使に振り返った。

 頬にはもはや紅潮の気配さえない。女天使の冷徹な表情を見止め、安心する。

 

「先ほどは……失礼いたしました」

「気にしなくていい」

 

 メイドたちに伝言ゲームを任せた自分の落ち度もあったので、カワウソは本気で気にしていなかった。

 

「こっちこそ、その、すまなかった。まさか、おまえが先に風呂を使っていたとは思わなくて」

「ぁ……そうです。反省しやがってください」

 

 辛辣な口調で返されてしまうが、ようやく彼女らしく思えて、軽く笑えてくる。

 

「それで。一体何用でありますか?」

 

 苦し紛れという語調で、女天使は(たず)ねてくる。

 カワウソは頷き、ミカに語り始めた。

 

「さっき、ラファたちの探索隊を城に戻した。完全不可視化の装備も回収している。次は俺とおまえで、探索に出るぞ」

「カワウソ様と、私で……でありますか?」

 

 一瞬呆けるミカは、二秒もせずに眉根を寄せた。

 

「お待ちを。差し出口をさせていただきやがりますが、仮にもこの城の主たるカワウソ様が、調査偵察に向かわれる必要性は」

「馬鹿を言え。おまえたちが苦労して道を開いてくれているのに、俺一人がのうのうと、ここでふんぞり返っているわけにもいかないだろう?」

 

 いかにも公明正大に聞こえる文句を連ね、上位者らしい振る舞いを見せつけるギルド長は、内心で自分を嘲笑(あざわら)った。とんでもない嘘つき野郎だと、自分で自分に吐き気が込みあがる。

 本当を言うと――カワウソは何もかもを彼らに託し、城の中に籠っていたかった。

 少なくとも、外の存在と邂逅を果たし、その強弱や敵意の有無を確認するまでは。

 しかし、カワウソはギルド内で問題なく戦闘ができるという確証を実験で得てはいるが、拠点外の異世界でも戦闘が行えるという確証は保持していない。NPCたちは外で特殊技術(スキル)を、魔法を、戦闘を行使できることは確認しているが、プレイヤーである自分についてはまだ実験できていない。かと言って、自分一人でモンスターも何もいない地で訓練など出来るわけもないし、もしも外で不幸な遭遇戦に、未知の強敵との戦いに見舞われでもした際に、一人の護衛もいないというのは心細い……以上に、極めて危険な状況になることは想像するに難くない。

 故に、カワウソは護衛という名目で、ミカに、NPCの長にして自分の右腕であるLv.100の女天使に、同行を命じたのだ。

 ……いざとなれば、彼女を切り捨てることも、思考の端に思いながら。

 

(おさ)(おさ)らしく、泰然と構えている方が似合っていると思われますが?」

 

 そんな主人の内実を知ってか知らずか、彼女は怪訝(けげん)な表情を隠すことなく反論を述べ立てる。

 

「それもそうだな。だが、俺という戦力を(いたずら)に無為にさせておくわけにもいかない。この異常事態に際して、おまえたちは昨日からよく働いてくれているが、体力や魔力の補給のための休息は必須だ」

「その温存のために、外に出ているラファやナタたちには特殊技術(スキル)や魔法の使用は部分的に禁止させているはずでは? 〈飛行(フライ)〉を使わず、徒歩(かち)での探索を絶対原則にしているのも、そのためであるのでしょう?」

 

 無論、飛行では綿密かつ詳細な調査には向かないという実効力の面においても、徒歩でのローラー作戦じみた探索の方が有用である。

 

「そうだ。しかし、おまえたちという貴重な手駒をすりつぶして、いざという時に使い物にならないような事態を招かないと、おまえは確約できるか?」

「それは……」

 

 ミカは言葉に詰まる。

 彼女にしてみても、この世界には未知な部分が多く、主の言った可能性を否定する材料に乏しい。

 カワウソは厳格な表情で――内面では心臓を痛いほど締め付けられながら――己の憂慮する最悪の事態を回避する手段を選択してみせる。

 

「だからこそ、この世界の調査と探索は急務だ。しかし、このギルドで唯一、探査と遠視の魔法を持つマアトの魔力は無尽蔵ではないし、彼女へと魔力を供与できる存在も僅かだ。当面は幻術と防御の使えるガブで鏡を隠蔽防衛しておけるが、それもどれほどの効果が期待できるかわからない。であるなら、この世界の情報を知悉する作業は何よりも優先される。彼女たちの地図作成や土地鑑定を急がせるためにも、ギルド長である俺が、彼女たちの手伝いに加わるのは当然の務め……何か間違ったことを俺は言っているか?」

 

 ミカは逡巡し、観念するように首を振った。

 彼の提案する論理は、確かに費用対効果においては正論に過ぎる。彼は一応、ミカたちと同等のステータスを誇るプレイヤーだ。それほどの存在をただ待機させ続けるというのは、確かに言われるまでもなく勿体ない。

 しかし、それでも、ミカは抗弁を続ける。

 

「では……せめて、護衛をもう数人連れていくべきでは?」

「駄目だな。ガブ、ラファ、ウリ、イズラ、イスラ、ナタは先ほど帰ってきたばかり。ウォフとタイシャ、クピドはギルドの防衛と周辺の警戒に当たらせている。鑑定作業中のアプサラスにも、休息をとらせないとな。残るはマアトだけだが──」

 

 はっきり言って、マアトは戦闘向きではない。

 否、戦闘よりも戦闘の「補助」に徹した職業構成になっており、種族構成においてはLv.2しかない。それも、翼人(バードマン)Lv.1と、天使(エンジェル)Lv.1だけ。それ以外は職業レベルで98を与えている。彼女の実力は他のLv.100NPCに比べ遥かに見劣りするのだ。この世界の存在が、すべてLv.100相当か、それを上回るステータスを保持していたら、間違いなく足手まといになるだろう劣悪さである。無論、それ以外の動像獣(アニマル・ゴーレム)やメイド隊の投入は論外。

 

「──彼女は外に出る俺たちの観測手(オブザーバー)をやらせる。その傍ら、地図化(マッピング)を続けさせるつもりだ」

 

 マアトが唯一誇れるのは、潤沢な魔力量くらいだ。拠点NPCの中では最大値と言ってよい、その魔力量のおかげで、彼女は今も外界の監視を続けてくれている。しかしそれでも、無尽蔵に扱える代物でないことは確かだ。魔力(MP)体力(HP)のように、ポーションによる回復手段は存在しない以上、必ず枯渇する時は来るというもの。

 

「もってあと一日か……それまでに何か見つけられるといいが」

 

 森から採取した木や花、湖から汲み取った水には、これといった効能や性質は見られなかったという報告を、取り急ぎ鑑定してくれたアプサラスから受けている。

 次はこの世界の住人やモンスター、何だったら小動物などでもいいから発見できれば御の字か。

 できなければ、マアトも休息が必要になる。有事の際には、ラファやウォフから魔力を提供させるのも手だが、あのか細い少女を働かせ続けるわけにもいかない。〈伝言(メッセージ)〉越しだと本人はまったく問題なさそうに振る舞ってくれているが、それが表面的なものに過ぎない可能性も考えねばならないのだから。

 

「了解しました。が、せめて後詰(ごづめ)として、隠形(おんぎょう)可能な上級天使などの召喚許可を」

「……そうだな。ただし、召喚する時は俺がしよう」

「――失礼ながら。カワウソ様の天使作成創造の特殊技術(スキル)は」

 

 欠けている。

 それが「堕天使」という種族だ。

 ミカやガブ――熾天使(セラフィム)智天使(ケルビム)のキャラたちは下位・中位・上位までの天使を作成召喚する特殊技術(スキル)を有しているが、カワウソは下位天使の召喚はできない。中位と上位、それも半分以下の数しか一日に生み出せない。カワウソが特殊技術で生み出せる一日の上限は、中位の天使が四体。上位の天使が二体。これっぽっちだけだ。ミカたちはその三倍の数(これが普通の数)を一日で創造できる上、カワウソには創造できない下位の天使を二十体は生み出せる。

 ちなみに、これらの特殊技術で召喚した天使は時間制限付きであるため、ギルド拠点から外へ放っても、周りの平野を超えることができずに消失してしまう。それほどまでに広いのだ、この土地は。

「堕天使」という種族は、他にも純粋な天使種族が保持しているべき特性や特殊技術を欠落あるいは使用回数や性能が、総合的に減退している場合が多い。〈天使の祝福〉や〈天使の後光〉などは扱えず、〈聖天の裁定〉、〈熾天の断罪〉、先ほど述べた〈天使作成〉系統は著しく制約が多くなっている。

 おまけに「堕天使」の基礎ステータスは、異形種プレイヤーの中では貧弱だ。ランカーギルドから払い下げられていた神器級(ゴッズ)アイテムを買い取ることで、どうにかしている部分が大きいというのが実際である。

 これだけの不利益を被ってまで、「堕天使」を取得するプレイヤーというのは、難易度上げ縛りプレイを(たの)しむ強者(つわもの)か、あるいはそういう本格ロールプレイを望んでいるかの二択になる。

 ただし、カワウソは自己認識として、その両方には該当しない。

 彼はひとつの明確な目的意識の下で、異形種の中でも微妙な種族「堕天使」であることを選択しているのだ。“M(マゾ)プレイ”や“なりきり”を本気で味わいたいわけではなかった。

 

「……ラファたちが探索を終えた地点まで転移した後、中級の天使を適時投入していく。場合によっては、上級の天使も、な」

 

 堕天使であるカワウソには、恒星天の熾天使(セラフ・エイススフィア)原動天の熾天使(セラフ・ナインススフィア)至高天の熾天使(セラフ・ジ・エンピリアン)などの最上級の熾天使(セラフ)(クラス)は使役できない――厳密には、数秒しか召喚できない――が、他にも智天使(ケルビム)座天使(スローンズ)で使い勝手のいいモンスターはいるので、壁役としては申し分ないはず。

 それで文句はないだろうとミカに問いかけると、女天使は僅か逡巡しつつ、頷いてみせてくれた。

 カワウソはとりあえず胸を撫で下ろす。

 

「それじゃ、マアトの様子を見に行こう。その後、外の偵察に向かう」

「……了解」

 

 ミカは諦めたような声で呟く。

 嫌われている割にカワウソの身の安全を優先しようというのは、一応は彼を上位者として仰いでいることを示しているのだろうか。とてもそんな表情には見えないんだが。

 カワウソがアイテムをボックスの中に収納し終えると、二人は指輪を持つカワウソの剣の〈転移門(ゲート)〉によって、第三階層城館(パレス)奥に位置する場所に転移した。

 そこは、最上層の屋敷への〈転移鏡(ミラー・オブ・ゲート)〉を守る大広間。

 平時においてはガブ、ラファ、ウリの三人によって守護される空間だが、そこには誰の姿もいない。

 カワウソは迷うことなく、広間の壁に無数にある隠し扉(完全に内装と同化している)のひとつへと歩み寄り、一応の礼儀としてノックする。中にいるはずの少女に自らの訪問を告げた。

 

「え、あ! カ、カワウソ様っ!?」

 

 作業を中断して扉を開けに来たのだろう少女は、日に焼けた肌色に、ひとつしかない天使の輪が二重に存在すると見紛うほどの艶を帯びた黒髪を切り揃えた、古代エジプトの巫女の簡素な白い聖衣を纏ったいつも通りの恰好に、普段はかけることのない丸眼鏡の姿で、主人たちを迎え入れた。

 

「出迎えありがとう、マアト」

「か、感謝なんてとんでもない! あ、と……な、何か、あったのでしょうか?」

 

 カワウソは、次の外の偵察に自分が赴くことを告げる。マアトは驚き、少し考え込んだ末に、二人を室内に招いた。

 

「こ、こちらが、現在このギルド周辺の探索できた範囲の地図に、なります」

 

 暗い室内には壁一面を覆うほどに巨大な〈水晶の大画面(グレーター・クリスタル・モニター)〉が発生しており、そこにマアトが外へ偵察に赴いた同僚たちの視覚情報を共有することで地図化(マッピング)したマップが掲載されている。他にも様々な画面が大小色々と室内に浮かんでいるのだが、これらはすべて、現在のギルド拠点内のリアルタイム映像を映し出す監視モニターの役割を果たしているのだ。城門にはクピドが銃火器を磨いて待機しており、その左右にウォフとタイシャが鎮座している。地上の鏡の前には二匹の動像獣たち(残る二匹は休息中)が鏡の前後を守るように待機し、防衛と警戒は万全といった具合だ。他にも、第一階層(カワウソのいた巨人像のある大空間は、今は除外されていた)や第二階層には天使の中級モンスターが徘徊しており、この第三階層の現状守護を任されているマアトの監視部屋とアプサラスの作業部屋、そして第三階層と最上層の管理保全の作業に従事するメイド隊が、それぞれ映し出されているような状況である。ちなみに、休息中の拠点NPCたちの私室は、監視対象には含まれていないため、ここには滅多なことでもないと映し出されることはない。彼らの私室に隣接する総合リラクゼーションルームなどは例外で、そこでイズラとイスラが音ゲーに興じ、ジムスペースにいるナタが木人形を相手に鍛錬しているところを見られ、意外なものを見られたと笑いが込みあがってしまう。

 だが、堕天使は浮かびかけた笑みを掌で覆い、消す。

 こんなものを見てほくそ笑む為に、ここへ来たのではないのだ。

 カワウソは、ここへ訪れた目的に視点を定める。大画面に映し出される地図には未だにところどころ虫食いのような空白が存在しているが、とりあえず一日ほどを費やして探査できた『スレイン平野』なる場所は、驚くほど何もない土地であることが判明した。

 カワウソたちのギルド拠点、その出入口である転移鏡(ミラー・オブ・ゲート)は、その平野のほぼ真ん中に存在しており、掘っても何も出土せず、鑑定した砂や岩石は何の益にもならない普通のものであるという結論に達している。

 そして、つい先ほど戻った偵察隊二つは、ようやく平野を抜け、湖と森の発見に成功してくれた。

 カワウソは、その湖と森を見てみたい衝動に駆られ、頼んでみる。

 

「ちょっと外の様子を適当に映してみてくれ」

「わ、わかり、ました」

 

 マアトは即座に魔法を発動させる。

 第八位階魔法〈遠隔視(リモート・ビューイング)〉を発動させ、拠点外の光景を新たに水晶板に投影する。

 マアトは他にも様々な探査魔法――〈次元の目(プレイナー・アイ)〉や〈千里眼(クレヤボヤンス)〉など──を行使可能だが、前者は調査対象を指定しての覗き見、後者は他の探査魔法……〈発見(ロケート)〉系の魔法と併用するか、遮蔽物のないフィールドで超々遠距離狙撃に使うものに過ぎない。ちなみに、翼人(バードマン)の特性として“鷹の目(ホークアイ)”という遠見能力をマアトは与えられているので、〈千里眼(クレヤボヤンス)〉は補助程度の用途でしか使わない。

遠隔視(リモート・ビューイング)〉は指定したポイントを映し出す魔法。マアトは他にも対情報系魔法の対策を重ね掛けすることで、特に隠蔽処理や攻性防壁を施された場所でもない限り、安全に外を監視することが可能なのである。ちなみに、彼女が装備している眼鏡というのは、情報系魔法への防御をある程度まで貫通突破する効果と共に、攻性防壁などのカウンターを防御するアイテムだ。

 

「……何もないな」

 

 見渡す限りの平野は生命という生命が一切存在しておらず、その何もなさは、逆に作為的な、自然の手ではない何者かの力が働いた結果なのではと勘ぐってしまう。

 画面はマアトの意思のまま、拠点から一直線に遠方までの景色を動画の早送りのように流していく。それも、二チーム分の辿った軌跡をジグザグに蛇行し、左右に振り分けた映像として投影する。

 二つの画面に映るのは、どこまでも生命の息吹を感じさせない大地。

 昨夜、この目で確かめていた事実ではあったが、ここまで何もないとさすがに嫌気が差してくる。

 

「も、申し訳ありません、カワウソ様」

「ああ、いや。気にするな、マアト」

 

 彼女を責めたつもりは毛頭ないが、どうにもこの少女は、引っ込み思案な性格が強く出ている。これはカワウソが設定したことなので仕様がないのだ。同時に、ミカが自分を嫌っているのも、設定どおりなので何も言えない。この設定が書き換え不能なことも、すでに今日の実験で調べがついている。

 程なくして、湖の畔が右の画面に、深い森の光景が左の画面いっぱいに広がる。

 ようやく代わり映えのない光景から脱却できたことに、カワウソは密かな感動を抱いてしまった。

 

「これが、湖と森か」

 

 画面上に映る自然物は、やはりゲームなどでしか見たことのないもの。現実の地球では失われて久しい光景だった。

 しかも、双方ともに、これといったフィールドの特性――見るものを幻術に落とす水面とか、弱体化(デバフ)効果や微ダメージを一定時間ごとにかけ続ける樹や草とか――はないとのこと。

 普通の湖。普通の森。

 どちらもカワウソの熱い興味をひくものであった。

 

「それで。カワウソ様は一体、どちらの探索を行いやがるのですか?」

「み、湖や森でしたら、カワウソ様の狩人(ハンター)職業(クラス)で、その、狩猟を?」

「そうだな……釣り竿があったはずだし、釣りに向かうのもいいが……」

 

 狩りにいくにしても、どういう生物……モンスターがいるのかが不明だととっつきにくい。

 映る湖は決して透明度が高いわけではなく(それでも現実の地球のものと比べれば雲泥の差だ)、上空から見渡せた限りは三日月のように湾曲しているのが見て取れる程度。水鳥などの姿がなさそうなのは、水棲モンスターが悪辣故に棲みようがないのか、水質的に餌が豊富にあるというわけではないのか、いまいち判断がつかない。

 森にしても、画面越しではあったが、見る限りは小動物の姿が見受けられないのは疑問だった。これだけ鬱蒼とした森であれば、その森を棲み処とし、縄張りとする存在がいないと不自然極まる。森は、森に生きる動物などの力を借りることで、一定のサイクルを維持し、森という一個の自然を構築しているのだと、“ふらんけんしゅたいん”さん――以前のギルドで、副長の地位についていた――が語っていたはず。

 さらに言えば、カワウソはレベル構成を実戦仕様(ガチビルド)に組んだ折に、そういう実戦に向かないレベル――この場合は狩人(ハンター)料理人(コック)――は可能な限り削ぎ落としている。モンスターを狩って調理することは一応可能で、それらのおかげでダンジョン攻略などの長時間に及ぶソロプレイにも耐えられてきたが、あまりにもレベルの高すぎるモンスターを、食材に加工することも調理することも難しい。

 そして何より、あの湖や森に棲む唯一のモンスターが、レイドボス級だとしたら……向かうのは自殺行為にしかならないだろう。

 

「……ん?」

 

 そんな懸念を払拭(ふっしょく)したいカワウソは、森の木陰(こかげ)をちらりと横切るものを見逃がさなかった。

 

「マアト、今なにか映ったな?」

 

 頷く少女は、即座にリアルタイム映像の時間を巻き戻していく。これは〈記録(レコード)〉という魔法で、サポート職の中でもそれなりの上位者でなければ習得できない(しかし、実戦闘ではただの動画保存用のカメラにしかならない上、課金アイテムなどで再現可能という微妙な)もの。

 一時停止した画面の奥を横切る、それは人の輪郭。

 

「この森の住人か? マアト、続きの映像を」

 

 左の画面をさらに上下で分割し、一時停止映像と並行して森のリアルタイム映像が映し出された。

 マアトは魔法の視点を指先の操作でさらに奥へと進め、一時停止中の輪郭を浮き彫りにしつつ、その下に続けさせた映像に意外な影を捉えてみせた。

 

「あれは……地獄の猟犬(ヘル・ハウンド)? 何で、こんな森に?」

 

 地獄の猟犬(ヘル・ハウンド)は、大型の犬系モンスターの姿をしているが、その眼球は邪悪な輝きに染まり、口腔からは灼熱地獄を思わせる炎を、大量のよだれの代わりにこぼれ滴らせている。

 あれらは「猛獣」というよりも「悪魔」という種に分類される存在で、今目の前に広がるような森よりも、廃都市や城塞、魔王の館や火山地帯などのフィールドを徘徊することで有名なモンスターだ。少なくとも、森の木々を焼き尽くす火力を持つ存在が、ユグドラシルで森を闊歩した姿というのは見たことがない。

 ……というか、ユグドラシルのモンスター、だと?

 カワウソは違和感と共に眉をしかめた。猟犬はさらに二頭、三頭、四頭と森の奥を横切り、先ほどの人影の跡を追うように駆け出していく。

 

「どうやら、追われているようですね」

 

 ミカの抱いた感想は、カワウソも当然そう感じた。

 しかし、わからない。

 何故、ユグドラシルのモンスターがこの世界に(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 やはり、この世界はユグドラシルなのか? それとも、あれらもユグドラシルから転移したもの、なのか?

 疑問の渦に陥りかけるカワウソだったが、それを少女の声が引き留める。

 

「カ、カワウソ様、あれを!」

 

 マアトが、彼女にしては大きな細い声で、映像の奥に映る巨体を指さしたのだ。

 それを見た堕天使は目を一杯に見開き、本気の本気で、驚いてしまう。

 即断即決したカワウソは聖剣を抜いた。

 

「あの森に向かう。行くぞ、ミカ」

「了解」

 

 偵察のことは完全に忘れ去り、即応する堕天使は剣を頭上に掲げる。

 マアトに監視と警戒を(げん)にするよう命じると、聖剣の先端に〈転移門(ゲート)〉を開いた。

 

 

 

 

 

 ×

 

 

 

 

 

 とうとう追い詰められた。

 地獄の猟犬たちは純粋な獣ほどに敏捷(びんしょう)な生物ではなく、嗅覚なども専門のものに比べればそれほど優れているわけでもない。まだ普通の(ウルフ)やバグベアの方が、追跡者としては優秀なくらいだ。

 しかし、猟犬とは追尾し捕食するだけの存在にあらず。

 追跡対象を狙うポイントへと誘導し追い立て、主人の意のままに罠へと嵌め込む技能もまた必要となる。

 そういった意味では、あの猟犬たちはとんでもなく優秀な働きを遂げてみせた。個々の性能ではなく、互いの意思疎通と統一された目的のもとで、彼らという群体は並の猟犬などよりも格別な存在となり果てるのだ。

 少女はついに、崖の淵にまで追い詰められ、断崖を背にして佇むことを強要されてしまう。

 逃げ場はない。

 少女には魔法詠唱者が当たり前に扱うような〈飛行(フライ)〉は修得しておらず、そういう飛行系マジックアイテムとも無縁な生活をしていた。

 剣も隠れ蓑も失っている状況。

 無数の獣の唸り声が、森の奥深くから響き渡る。

 それの後に、一際大きく少女の肌を震わせる轟吼が。

 思わず、少女は一歩もさがれない断崖の淵で足を退()く。

 

「あ!」

 

 唐突な浮遊感。

 滑落する身体。

 意識せず両手を上に伸ばし、肌を大いに擦り切れさせながら両手の指で全体重を支える。

 

「く、ぅあ!」

 

 足が、岩肌にかからない。

 割と脆い地質なのだろう。足甲の硬さが崖をわずかに削ぐ程度の効果しか得られない。

 ふと、唸り声が至近に聞こえる。我知らず少女は空を見上げてしまい……戦慄する。

 邪悪な意思を灯す獣の瞳が、牙列からこぼれる紅蓮が、幾つも少女を見下ろしていた。

 

「ッ!」

 

 悲鳴を上げようとしたのも束の間、少女の指がかかっていた崖の淵が崩れ落ちる。

 死んだ──そう思った。

 この高さは、確実に死ぬ。

 運よく生き残っても、自分は治癒の薬を持ち合わせていない。足や腰の骨を折れば身動きが取れず、野垂れ死には免れない。そもそも、あの追跡者たちに追いつかれて終わりとなることは確実だ。

 短い間で、驚くほど長い思考の最中(さなか)、確実に空は遠ざかり、追跡者たちの姿は小さくなる。

 頭の中を走馬灯が、たくさんの光景が、過ぎ去っていく。

 ごめん。ラベンダ。

 必ず戻るって、約束したのに。

 固く、それよりも固く、瞼を閉ざす。

 

 

 

 その瞬間────ありえないことが、起こった。

 

 

 

「おい、大丈夫か?」

 

 まったくいきなり、その声は現れた。堅い地面の感触ではない。

 一瞬だが、あの子が助けに来たのかと思ったが、あの子は言葉を話せない。話せたとしても、あの子は(めす)なのだから、こんなにも雄々しい音色を奏でるなんてことはないと思う。

 背中と、両膝の裏に、逞しい何者かの腕力を感じ取る。

 閉ざされた瞼を、少女は押し開く。

 自分の薄紫に輝く前髪を通して、その人を、見る。

 

「…………え?」

 

 夢かと思った。

 良く日に焼けた顔立ち、太陽の光を受けて輝く黒い鎧、黒髪の上に赤い輪をうかべた天駆ける青年に、少女は抱きかかえられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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