オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~   作:空想病

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ミカの今、その1
転移初日から、飛竜騎兵の領地まで


ミカと天使の澱 -1

/War …vol.11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミカに追随するかのように、ガブたち天使の澱のNPCもまた、実直な思いを言葉に変える。

 それにも、カワウソは気がついたように首を巡らせていた。

 ああ、どれほどに、この時が来るのを待ちわびていたか。

 ミカたちは行動の自由を得た。

 何やら異常事態に直面しているように確認を続けるカワウソ──主人の細かな命令に従い、ミカは自分の右手の籠手を外し、その指先を主人たる堕天使に差し出した。彼が何かを確かめるように、女の手首に触れる。そんなひと時も、ミカの内心は広げた翼と共に、宙を舞い踊るような心地だった。とても優しい堕天使の指先が、自分の指先と交わるのを感じるだけで、表情が熱く面映ゆいものに変わりかける。

 けれど、自分に与えられた設定において、そのような挙動を彼に前にさらし見せることは「不忠」だと思われた。

 ミカは、『カワウソを嫌っている。』存在。

 だから、ミカは懸命に隠し続けた。

 自分の内実を──創造主に対する情愛を──すべて。

 そうして。幸福感に震えかけるミカの脈拍を確かめ、その表情を一瞥したカワウソが、自分の首筋を撫でて──唐突に膝を折り、倒れかけた。

 

「……おい。どうかしやがりましたか?」

 

 主人に対して、なんという口の悪さだと我ながら呆れそうになるが、彼の与えた『毒舌』という口調に即すならば、これで正しいはず。それを諫める役割を設定されたガブや、他のNPCたちも一斉に、カワウソの異常を前に立ち上がりかけた。

 カワウソの身を案じるミカに対し、堕天使は恐慌の嗚咽を零すのみ。

 堕天使に、創造主である彼に対応不能なほどの異常が発生している? まさか、何者かの襲撃? 否、断じて否──ここに集うNPCたちの感知を抜けて、敵が来襲した気配は一切ない。

 とにかく今は、カワウソの状態異常を癒すべく、ミカは自分の掌を、回復スキル“正の接触(ポジティブ・タッチ)”を一瞬で敢行。

 ミカの癒しの掌が、カワウソの正体不明な状態異常を消し去ってみせた。

 ほっと息をつく間も、ミカはカワウソの身を襲った異常事態を確認するように、硬い表情で主人を気遣う。

 

「カワウソ、様?」

 

 問いかけるミカに対し、カワウソは質問を被せた。

 

「ここは何だ」という、意味不明瞭な問いに対し、ミカたちは首をひねるばかりだ。ここはヨルムンガンド脱殻(ぬけがら)址地(あとち)城砦(じょうさい)──自分たち天使の澱のNPCが死守すべき、カワウソの拠点に他ならないはず──なのに。

 

「誰も気づいていないんだな」と確認を求められて、ミカたちはいよいよ狼狽を極めた。自分たちは何もわかっていなかった。カワウソという偉大に過ぎる創造主が気づいたことに、ただの被造物でしかない自分たちには、到底理解できない事柄であったのだ。

 

「外に出る」というカワウソに対し、ミカは表情を律しながら、即座の戦闘や危難に対応すべく、装備を右手に装着し直す。彼の気配は、何らかの異常を、敵の襲撃や……それ以上の“何か”を警戒し危惧しているものと察しがついた。

 命令に従い、NPCたち全員が、拠点内の階層間移動に使われる転移の鏡の前へと躍進する。

 

 そうして、カワウソに命じられるまま、“最高の盾”たるミカは、“最強の矛”たるナタと共に、はじめて拠点の外を目指した。

 

「──ここは、……なに?」

 

 ミカは拠点の外に出たことはないが、自分たちの拠点の外に広がる黒森……ガルスカプ森林地帯の情報程度は知悉していた。

 だが、そこはただの平野だ。時間帯は深夜零時の真夜中の世界。

 人も獣も、虫一匹いないような、荒涼とした大地。眩しく朧な月だけが、ミカとナタの頭上に煌いている。

 

「はじめての外です!!」

 

 好奇心のまま駆け出すナタを、ミカは引き留めなかった。

 ナタほどの戦士であれば、一キロ先から飛来する敵意を読み取り、回避を行う程度の技能は十分。……それが“敵意を持つ存在”であることが大前提になるが、そんな少年兵が警戒心なく走り回っている以上、即座の危険は存在しないはず。

 ミカは膝を折り、何もない平野の砂をすくいながら、その土質を確かめる。

 

「別の土地? いえ、別の世界、というべき、なの?」

 

 そうやって二分が経過した頃、拠点内のマアトから〈伝言(メッセージ)〉が届き、ミカと連絡を付けたカワウソが、そのままミカたちの許へ。

 

 ──そして、

 

「ミカ。俺を殴れ」

 

 

 

 

 スレイン平野という謎の土地に……異世界に転移しているとわかった天使の澱。

 そうして最上階層の円卓の間へと戻ったミカたちは、「外を調べおいてくれ」と命じる主が自分の私室へ戻るのを、黙って見送っていった。主人は「疲れた」とは言っていなかったが、その弱々しい様は、疲労としか言いようのないバッドステータスの存在を、シモベである彼らにありありと伝えてしまっている。

 しかし、彼らは主の不調を指摘し、あげつらうことをしない。

 主人がわざわざ隠そうとしていることを、根掘り葉掘り聞き出そうという暴挙に及ぶような不忠者は、この場には存在していなかったことがひとつ。そして、もうひとつは、唯一その役目を果たすことを許されているはずの存在が、“それどころではない”状態だったことが関係している。

 

「……お疲れさま、ミカ」

 

 貝のような沈黙を保っていた一同の中で、口火を開いたのはガブであった。

 ここは、NPCたちの長であるミカが真っ先に発言するのが良かったのかもしれない。だが、ガブの同胞にして親友の彼女は、敬服の姿勢として腰を折った状態を保ったまま、仔犬か仔猫のように震え始めている。

 

「ガブ……」

 

 ミカは悄然としながら、近寄る親友の袖を掴んだ。

 

「うぅ……私ぃ……」

 

 振り返った女天使――女の表情は、先ほどまでの怜悧で透徹とした様子は、一欠片も残っていない。

 

「わ……あ……私、カ、カワウソ様を、殴……殴ってぇ!」

 

 泣きそぼる乙女の様相。

 まるで哀惜のごとき感情の濡れ具合だが、ガブは隊長補佐の役割という関係設定以上に、親友のそういった傾向を把握してくれている。

 

「はいはい、落ち込まない。落ち込まないの、いい子だから」

 

 しようがなしにミカの顔を自分の胸の中に包む込み、その豊満な起伏の中に顔を(うず)めさせる。傍目には、銀髪褐色の修道女が、金髪碧眼の女騎士をあやしているかのよう。

 普段は二番目に創造された智天使・ガブの絶妙に過ぎるプロポーション……主に胸……を妬み嫉んで憚ることのない乙女な熾天使であるが、こんな時ばかりは幼い子供みたいに大人しくなるばかりだ。

 スンスンと静かに泣き耽る最高位天使に、仲間たちは一様に理解の表情を示した。

 彼女が行ってみせた「主への直接攻撃」というものを見て、聞いて、考えれば、ここにいるミカ以外の者であれば、あまりの不忠不遜に、即座の自死を選択することも現実的にあり得る。ミカがそれをしないのは、彼女に与えられた役割、設定の部分が大いに関係していた。それを、ここにいる全員が知悉しているのである。

 同時に、彼らはひとつの事実と、現れた懸案事項を口の端にしていく。

 

「……一体、どうされたというのだ、()(しゅ)は?」

「わからないですよ、ラファ。ただ」

「現在、このギルドは“何かしらの異常事態に見舞われている”。それを我等が創造主は、いち早く察知されたようです」

「――――マスター、すごい」

「ほんと、そのとおりだよねー。まさか、このギルドが、別の土地に転移しているなんてー」

「うむ。拙者でも気づかなんだ」

「やはり師父(スーフ)はすごいです!! 自分たちの誰も気づかなかったような異常を、ただ一人、お気づきになっていたとは!!」

「う、うん。そうだね、ナタくん」

「しっかし、まぁ……何というか……これからどうなるのかしらね?」

「フクク、どうもこうもあるまいぃ。我々は、御主人の(めい)に準じるぅ。それだけよぉ」

 

 赤子の天使(クピド)のあたりまえな宣告に、円卓に集ったシモベたちは一斉に頷きを返す。

 それは、動像獣(アニマル・ゴーレム)の四匹は勿論、メイド隊十人も同じこと。

 ここに集う二十二人と四匹のシモベたちは、このギルド:天使の澱(エンジェル・グラウンズ)に、その創設者にして創造者であるカワウソに、唯一絶対の忠誠を誓う存在。役職としての序列や上下関係は存在しているが、強さや大きさ、創造された順番や経緯、設定の内容など関係なく、全員がただ一人の主に身命を捧げる同胞(はらから)なのだ。

 

「ほら、ミカ。

 隊長のあなたが指揮してくれなきゃ、私たちは何もできないでしょ?」

 

 何だったら、副長のウォフに指揮権を委譲しようかと提案する親友に、ミカは即座に頭を振って応えた。

 

「……私が、する」

 

 他ならぬカワウソに指揮を任されている女天使は、涙を拭い落し、泣き腫らした顔を上向ける。

 普段の調子に立ち戻ってくみせた親友を解放し、ガブは仲間たちの列に戻った。

 ミカは決然とした調子で深く呼吸し、己の()すべきことを、ただ、()し遂げる。

 

「カワウソ様の(めい)に従い、私たちはこれより、外の未知なる異世界を探索します」

 

 それに伴い、大きく拠点内での配置変更を行うことが、決定された。

 

 

 

 

 だが、異世界探索は慎重に慎重を期すため、……何より、探索系の技も術も持っていない戦闘要員ばかりのLv.100NPCたちでは、遅々として進まなかった。

 カワウソは、屋敷二階にあるギルド長の自室に籠りながら、ミカたちNPCへ〈伝言(メッセージ)〉を飛ばして、指示を送るのみ。ミカたちが具申した「下級天使の大量召喚による調査」……ローラー作戦は、現地に住まうかもしれない存在や勢力への害となりかねない危険性から完全に棄却された。ミカたちは特別に貸し出された隠密機能を発揮する指輪や衣服などを身に着け、スレイン平野の調査を続けた。それが一日目。

 そして迎えた、二日目。

 

「はぁ……」

 

 ミカは溜息を吐いた。

 カワウソから与えられた休息時間──本当にお優しい創造主の差配に準じて、NPCたちは疲労無効化の装備を持たされていながら、定期的な休憩をとることになったのだ。

 その、主人からの贈り物たる(いこ)いの時を、ミカは屋敷の入浴施設──大浴場で過ごす。

 ミカは、この第四階層にある屋敷に常駐し、ギルド長の私室以外への立ち入りをほぼ解禁された、ギルドの防衛部隊の隊長だ。ミカ自身の私室にも、それなりに大きな湯浴み場は設けられているが、この大浴場ほどの広さと開放感はないため、足繁く通っている。──そう定められている。

 岩風呂の淵に腰を落とし、清明な湯の柔らかな水圧に肩まで浸かる。

 

「ふぅ……」

 

 純白の六翼を、その羽毛のすみずみまで手入れするようにもみほぐしながら、自分の胸部に視線を落とす。

 一糸纏わぬ乙女の裸体は、その身長に比して胸のボリュームは薄い。はっきり言えば、Lv.100NPCの女性陣──ガブ、イスラ、ウォフ、マアト、アプサラスの六名の中では、一番の貧乳である。が、この姿この形であることをカワウソという創造主から与えられたので、如何ともしがたい。ミカがガブたちの豊満な双丘を嫉妬するのは、そのように振る舞うという設定に即しているだけだった。

 

「カワウソ様……」

 

 ただの休憩時間であろうとも、NPC(ミカ)の心は常に、創造主へと思いを馳せる。

 同族感知のスキル“天使の祝福”で──もっと言えば、ギルドに属する者を識別するためのオーラによる判断で、カワウソが今、拠点の第一階層にいることはわかっている。他のNPCとは違い、ミカに与えられた“女神”の種族は、階層間を飛び越えても機能を発揮する超常的な射程距離を誇るもの。けれど、「供回りをせよ」という命令をいただいていない以上、ミカには彼を追いかけることはできない。何より、ミカは今、彼の命令で「休みを取っている」真っ最中。それを無下にしてはNPCとは言えない。

 だが、

 

「──どうして、私は、あなたを……」

 

 嫌わねばならないのだろう。

『堕天使であるカワウソを嫌っている。』

 あの設定を与えられてより、早数年。だが、ミカの中で、その疑問に対する明確な正答は、まったく完全に浮かび上がってこなかった。頭脳明晰を誇る熾天使にして女神であるミカが、彼の提示する難題に答えることができないでいる。

 答えなど無いのかもしれない。

 だが、もしも答えがあるとしたら──

 

「私は……あなたを嫌うために、創造されたのですか?」

 

 そう思うたび、視界が熱く滲んでいく。

 それが主人からの願いであれば、シモベであるミカには、否も応もないはず。

 なのに……ミカの心は、ミカの本心は、どうあってもカワウソを嫌うことができないでいる。

 そんなミカを知れば、カワウソはどう思うだろう。

「創造主の設定に刃向かうのか」「そんなこともできないのか」「なんという不忠者だ」……そう言って(なじ)られ(けな)され(さげす)まれ、言葉の限り(そし)られるだろうか。呆れられるだろうか。ミカのことを、「主人の決めた設定に従うこともできない、出来損ないの役立たず」だと立腹され、失望され、そうしてミカたち全員の前から、“お隠れ”になる……()てられるのではないか……そんな最悪の事態を思うたび、ミカは肩を抱いて震えあがった。そうして、激しく自分を律した。律することでしか、彼への忠誠を示せないのだ。

 

 彼の定めた通りに生きねばならない。

 たとえ、それが、嘘にまみれた──真意や真実から、遠いものになるとしても。

 カワウソが、彼が『かくあれ』と望むNPCとして、この嘘は貫き通さねばならない。

 ミカは水面に映る自分が涙を落とすのを見て、そんな無様をかき消すように、温水を払い除けた。

 感傷的になり過ぎた。煮え滾るような絶望を鎮めるように、最後に打たせ湯の滝を浴びていこう。

 両目の熱が引くのを十分に待って、ミカはタオル巻いて脱衣場に行こうとした────その時だ。

 

 

 

「……な」

「……あ」

 

 

 

 カワウソが剣で開いた転移門によって、タオルを身体に巻く直前の、裸のミカの目の前に現れた。

 両者とも沈黙するしかない。

 こういう時の対応法が、ミカには即座に判りかねる。

 だが、ミカは彼を『嫌っている。』“女”──だとすれば、答えはひとつだけ。

 カワウソの纏う鎧の中心に、ミカは突き飛ばすよりも重い殴打を叩き込んだ。

 

「嫌いです」

 

 そう告げておかなければ、自分の行動を正当化できない。

 こうあることが、彼の求めるミカの在り方であるはず──だが。

 

(ばか馬鹿バカ莫迦!)

 

 身内に木霊する罵倒の言葉は、だが、女の裸を見据えた創造主に対するものではけっしてない。

 

(何してるのよ、私ッ!?)

 

 ミカは口元を手で覆って自責を続けた。

 タオルを巻いて脱衣場に逃げ込んだミカは、自分の凶行の劣愚ぶりに、涙が出るほどの怒りを覚えてならなかった。脱衣籠に預けておいた衣服と装備をボックスに詰め込み、身体を丁寧に拭くのも惜しんで、タオルを巻く身体にバスローブを肩にかける程度に羽織って、自室へと逃げるように駆け出していく。途中、清掃道具を持ったメイドとすれ違っても、まともに挨拶すら交わせないほど、ミカの精神的余裕は消失していた。

 どうして──どうして、あんなことを──仮にも主人にして、創造してくれた御方をブッ飛ばすなど、正気が疑われるほどの蛮行ぶりである。NPC(シモベ)失格の烙印を押されても、何も文句は言えないだろう。

 けれど。

『嫌っている。』男を目の前にした、裸の女の行動というのは、古今東西ああいう風である以上(屋敷内にある書庫に保管されている、ユグドラシルを舞台とした公式小説(ライトノベル)参照)、ミカの刹那の内で成し遂げられた判断と対処は、どこも間違ってはいないはず。やられた方のカワウソも、激昂し憤慨し、ミカの不忠不敬を責め立てるように追ってくることもなかったのだから、これですべてが正しいわけで。

 この異世界に転移した直後、一度カワウソを殴りつけていたおかげか、そこまでの抵抗なく殴打攻撃を振るうことができた。それでも、ミカの罪悪感は極限まで膨らみまくっていく。

 屋敷の二階にあるミカ個人に与えられた私室に逃げ込み、メイド隊によって張られたベッドシーツをめちゃくちゃのしわくちゃにするほど悶絶していく。喚き声が漏れないよう枕に顔を埋めて、ぐすぐすと泣き耽った。ガブに〈伝言(メッセージ)〉を送って「どうしよう……また殴っちゃったぁぁ……」と相談を持ち掛けるが、さすがに外の調査から戻っていない親友の助けは遅延する道理。弱々しい声で窮状を訴えるも、主人からの命令・調査任務遂行こそが優先されるべきなのは、他の誰でもないカワウソに創造されたミカには当然わかっている。

 本当に最悪な気分だ。

 次にカワウソと顔を合わせる時、どんな表情(かお)をしていけばいいのだろう。

 怒りか。嘆きか。蔑みか。

 だが、どれもこれもミカの本心からは乖離(かいり)しすぎている。

 カワウソが悪かったことなど一点たりとも存在しえない。主人が風呂に入るタイミングで、大浴場を使用していた自分の選択こそが間違っていただけのこと。

 それでも──彼を『嫌っている。』NPCならば、そんなことを主張するわけがない。「むしろ嬉しかったです」なんて、口が裂けても言えるものか。

 どうすれば……

 

「失礼します、ミカ様」

 

 思考を遮るノック音の後に聞こえた女の声──メイド長からの呼びかけに、ミカは応える。

 

「──サム? 何用、ですか?」

「は。実は、インデクスがカワウソ様より言伝(ことづて)を賜っているとのことで」

「……言伝?」

 

 濡れた枕から顔を引き剥がした。

 閉めた扉の向こうにある淡い気配と凛とした声音は、堕天使メイドの長のそれに相違ない。

伝言(メッセージ)〉を使用しない、口頭での言葉のやり取りを()えて選択したカワウソの意図を思う……だが、明確な正答は得られない。

 ミカはバスローブの袖で顔を拭い、姿勢をただして告げる。

 

「入りなさい」

 

 言うが早いか、サムは妹のインデクスと、他三名のメイドを引き連れて現れた。

 この、拠点防衛上の観点から言えば、何の力も持たないメイドたち。

 戦力にはまったく完全にカウントされない彼女たちは、当然のことながらカワウソという唯一無二の創造主から生をうけた同胞たち。だが、そのレベルはたったの1。戦闘に使える能力を少しも持たないメイドをプレイヤーたる彼が創り上げたのには、当然のごとく理由がある。

 ミカが聞いた創造主(カワウソ)の独り言の中に、彼女たちメイド隊のこともあったのだ。

 

 ギルド拠点には、その拠点が破壊・破損、または汚染された場合、それを修復・修繕、または清掃するための専用NPCが存在する。その頭数に応じて、拠点の修復速度向上および修復費用が抑えられる……みたいなギルドの特典仕様がある。ただし、それらは戦闘用の存在ではない=「戦闘に使えるレベルを持てない」という条件があり、「異形種のLv.1」メイドや、種族レベルのない人間種NPCである場合は、非戦闘用職業(クラス)女給(メイド)Lv.1」や「家政婦(ハウスキーパー)Lv.1」を与えることで、『拠点維持管理用NPC』としてギルドシステムに認定される。ミカが今まさに汚した回復効果持ちのベッドも、そういったNPCによって清掃され、再使用が可能になるというシステムだ。

 そのNPCの数が多いほど修復能力などの特典を受けられるが、防衛要員として使えないNPCが多すぎては、もちろんギルドの防衛能力に支障も出る。

 拠点ポイントが最大の3000に近いほど、その拠点は強力かつ、破壊された際に元通りの状態へ復元するための費用も高額となる。故に、何らかの方法で出費を抑えるための救済措置として、ギルド拠点を清掃・修理・維持管理の業務を遂行するNPCが存在している。NPC自身にも飲食費などでの維持費用は定期的にかかるが、強力な拠点ほど、万が一破壊された時の修復費用が途方もないことを考えれば、有事の時の保険程度には必須の存在たちであるわけだ。

 無論、この維持管理用NPCを創る創らないは、各ギルドを運営するプレイヤーの自由。

 だが、「絶対に壊されない」「壊されるわけがない」「壊される前に敵を全滅させればいい」と高をくくって、結果、拠点深層部を一回破壊されただけで修復費用を賄いきれず収支決済が破綻し、そのまま消滅を余儀なくされたギルドも少なくない。

 なので、どんなギルド拠点でも、せめて数人から十数人くらい(最上位ギルドは数十人)はいた方が便利かも──という評価のもとで、カワウソも1350あった中で余った拠点ポイントを使用し、堕天使と精霊の五体──合計十人のメイド隊を作成していたわけだ。

 

 そんな非戦闘要員である堕天使のメイドの一人──サムに連れられてきたインデクスは、随分と慌てた様子で、ミカの前に一歩を踏み出す。

 

「インデクス、どうかしました?」

 

 カワウソと同じ浅黒い肌に銀髪が眩しく映える少女は、緊張の極みにあるようだ。

 

「ミ、ミミ、ミカ様ッ……あ、ああ、あの、カ」

「?」

 

 あまりの様子にミカは首をひねる。サムに落ち着くよう促されて、インデクスは数回の深呼吸の後、高らかに(のたま)った。

 

「カ、カワウソ様が! ミカ様を、お、お部屋へと! お呼びでございますゥ!」

「…………」

 

 ミカは、言われたことを瞬時に理解して、

 

「────────はぇ?」

 

 情けない声を零していた。

 

「え、お、お部屋って、カワウソ様、の?」

 

 インデクスはブンブンと音を立てて頷く。カワウソの自室は、第四階層の屋敷の二階奥──そこは、屋敷内を定期巡回するミカでも、立ち入りを禁止されている聖域である。

 だが、ミカはそこへ呼ばれた。

 その意味するところを、インデクスは告げる。

 

「お、おそらくは、……“そういうこと”、かと」

「ちょ、──え、なんで……え、え……えぇ?」

 

 顔面どころか、全身が茹でられたような熱を感じた。

 下腹部のあたりが温かく疼き、そこから込み上がる多幸感が、胸の奥に心地よい。

 否。あるいは、先ほど殴り飛ばしたことに対する叱責では。

 だが、それならば何故、わざわざギルド長の、カワウソの、私室で?

 なんらかの懲罰を与えられると考えるなら…………男であるカワウソが、女であるミカを、自分の部屋へ招くという、主命──つまり、それは、──“そういうこと”──なのだろう。

 それでも、ミカは疑問した。

 

「で、でも……わ、私は、カワウソ様を……『嫌って』……え、な、ええ?」

「これはチャンスです! ミカ様!」

 

 のぼせたように視線をさまよわせるNPCの長・ミカに対し、サムやインデクスたちは瞳を輝かせて両手を握る。

 

「きっと今日ここで! カワウソ様の御寵愛を頂くことができれば!」

「あの設定の件について、御主人様にお尋ねすることもできるはず!」

「いいえ、あるいは! もう既にミカ様の本心を見透かされていて!」

「なるほど確かに! 我らが主様なら、それぐらいできて当然よね!」

「我が拠点最高のコック、イスラ様に赤飯を炊いていただかないと!」

 

 (かしま)しく提言し、めでたいめでたいと祝辞を述べる堕天使と精霊のメイドたち。

 だが、ミカはしどろもどろに答えるほかない。

 

「で、でも、私は……その……と、(とぎ)だなんて、そんな」

 

 そんなの、知識でしか知らない。

 うまくできる自信なんて、まったくない。

 熾天使にして女神である自分に、カワウソが人間の見た目──外装を与えているのも、きっとそういう意図があったのかもしれないが、いや、けれど、しかし──

 

「ささ、お早く! カワウソ様をお待たせしては、臣として恥ずべき失態となります!」

「お支度(したく)ならば、私たち五人がお手伝いしますから!」

御髪(おぐし)は私たちが完全に仕上げます!」

「手足の爪のお手入れはお任せを!」

「香水はいかがなさいましょうか!」

「う………………うん」

 

 そうして、メイドたちの勢いに流されるがまま、ミカは急ピッチで身支度を整えた。

 すべての用意を整え、主人からの許可を得ていたミカは、禁断の領域に──カワウソの私室へと導かれた。この時間帯、ずっと扉の番をしていた水精霊のディクティスが「どうか、ご健闘を!」と激励していく。メイドたちの情報伝達速度は瞬きの内に、この階層にいる全メイドへと波及していたようだ。

 ミカは、カワウソの私室内で──彼の寝起きするベッドの上で──その時を待ち続けた。

 

 もっとも、すべては勘違いだったわけだが。

 

「は? 研ぎ?」

 

 ベッドに腰掛ける女の姿に対して、彼が小首をかしげる姿に、ミカは悟った。

 

(あ、ヤバ、──勘違いだコレ!)

 

 カワウソに呆れられ笑われて、ミカは彼に言われた通り装備を整えるべく、敗走するかのように部屋へと戻った。

 そして、

 

「も、申し訳ございませんでしたァ!」

 

 実態を説明されたサムたち全員……ミカの輝かんばかりの肢体を磨き上げてくれたメイドたちは、平身低頭の限りを尽くす。インデクスをはじめ、全員が“そういうこと”だと勘違いして、ミカを(そそのか)してしまった結果、彼女たちの上位者である熾天使は赤っ恥をかいたのであった。

 無論、インデクスが……ミカが大浴場から出ていくところをすれ違い目撃し、その大浴場に主人の気配がすることに「まさか」と思い、恐る恐る覗き見た脱衣場の中で、バスローブを纏う半裸同然の創造主がいた以上、二人が“そういうこと”を(たしな)む関係であると誤認したのは、当然の帰結。おまけにカワウソ自身の口から、ミカを自室に呼びつけられた以上、確定的とすら言える。

 そんなメイドたちに対して、ミカは穏やかであった。

 

「いえ……うん……だいじょうぶ……だいじょぶ、だから……」

 

 ミカは惜しいとも悔しいとも情けないとも言えない微妙な心地で、本当の顛末を──カワウソが転移で大浴場に現れただけである事実を、頭から説明した。

 それに、サムやインデクスたちの行いが、すべてミカを想ってのものである以上、それを無下にするような気概にはなりえない。

 

「でも! すべては私の早とちりで!」

「インデクス……」

 

 ミカの力や権を恐れての謝罪ではない。

 純粋に、インデクスたちはミカに恥をかかせた自分自身を許せないでいるのだ。

 信賞必罰は世の常──ミカは何らかの形で、彼女たちに責を負わせなくてはいけない。このギルド拠点の、NPCの長として。

 

「はぁ……じゃあ、衣服と装備を整えるのを手伝ってください。それでチャラということで、ね?」

 

 半泣きだったインデクスは、ミカの寛恕に頷き、すぐさま涙を拭って立ち上がった。

 メイドたちに着付けを任せ、バスローブの姿から元の完全装備状態に戻ったミカは、カワウソの提案するまま、彼と共に拠点外へと調査に向かうことになった。

 このギルドの枢軸にして最頂点であるカワウソが外に出ていかれることに抵抗を覚えるミカであるが、彼の明示する効率性は明快であった。あるいは自分たちNPCでは気付けないことに、プレイヤーであるカワウソは気づくことができるかもしれない。

 もっと言えば、カワウソと共に行動できること自体が、ミカにとっては至福と言って差しつかえなかった。

 

(カワウソ様と、一緒に……)

 

 思うたびに、頬がにやけそうになるのを必死にこらえた。

 気を引き締めてかからねばならない。

 自分のミスが、カワウソに少しでも瑕疵(きず)を与えてはならないのだから。

 そうして、マアトの監視部屋へ訪れた時、森でモンスターに襲われているらしい少女を発見。

 現地の住人らしい存在を助けに行くという判断に、ミカはただ従うのみ。

 個人的に、誰かを助けるという行為自体、そんなには嫌いではなかった。

 転移した先の森で、カワウソが少女の救命を、ミカは死の騎士の団体を相手にすることに。

 勿論、死の騎士などミカの敵であるわけがない。というか、常時発動している“希望のオーラ”で、一瞬で消し飛ばすことも容易。だが、連中を狩り尽くした証拠は残しておかねば、カワウソに誉めていただけないかも。烈光の剣“アルテマ”を一度だけ振るう。そのたった一撃で、四体のアンデッドを狩り殺した。アンデッドの死体からフランベルジュのみを回収し、汚い残骸はオーラで粉微塵になるまで浄化し尽した。

 ミカは少女を救命したカワウソと合流。

 

「――やるじゃないか。こっちは一体倒すので精一杯だったのに」

 

 彼に褒められるだけで、ミカは鎧に纏わせた翼を、そわそわせざるを得ない。

 無論、嫌っている御方の手前、そんな軽はずみな行動は控えねば。

 辛辣にも聞こえる毒舌で応じるNPCに、創造主は満足げに頷いてくれる。

 カワウソは自分たちが救った少女──ヴェル・セークと名乗る飛竜騎兵(ワイバーン・ライダー)への聴取を始めた。

 これで、この異様な世界の情報を存分に得られるだろう。本当にお見事だ。今回のことはすべて、カワウソの功績として語り継がれるべきものとなる。

 だが、

 

 

 

 

 アインズ・ウール・ゴウン、魔導国、です

 

 

 

 

 少女の告げた国家の名に、カワウソとミカは、絶句した。

 

「今、何て言った?」

 

 ミカは主人に代わって、真っ先に確認の声をあげた。

 面覆い(バイザー)をあげ、天使の澱のNPCにとって禁断の名を口にした現地の少女に対し、ミカはどうしても語気が荒れ狂うのを抑止できない。

 

「アインズ・ウール・ゴウン? それは一体、何の冗談なのでありやがりますか?」

 

 カワウソが数年もの長きに渡って、苦渋と辛酸を嘗めさせられてきた、悪のギルドの名前。

 少女が紡いだ国の名前が、一瞬でミカの機嫌を損なわせる。

 創造主が茫然自失するのも無理からぬ──これはまさに異常事態だ。

 応答を躊躇するアインズ・ウール・ゴウンの国民に対し、ミカは焔のごとき敵意を溢れさせるしかない。

 だが、そんなミカの言動を、他ならぬカワウソが(たしな)めてくれる。そこにある表情を見れば、ミカは弁を続けることができない。

 そして、ミカは顔をそむけ、思考した。

 

(──しまった……)

 

 ここにカワウソと共にやってきたのは失策だったと、ミカは思う。

 アインズ・ウール・ゴウン。

 真偽は不明だが、カワウソの仇敵とされる存在が統治するという異世界──この情報は、間違いなく、カワウソの精神的な負担となってしまう。ただでさえ、あの転移初日の段階で、原因不明の不調で倒れかけ、ミカが回復に専念せねばならない状態に追い込まれたカワウソの状況を考えれば、「“アインズ・ウール・ゴウン魔導国”なる存在が、この異世界にあること」など、絶対に知られてはならない事柄であった。

 だが、カワウソは知ってしました。

 知ってしまわれた以上、彼が何を望むのか──答えは判り切っている。

 ミカは知っている。

 カワウソがどんなにもアインズ・ウール・ゴウンを恨み、憎み、蛇蝎(だかつ)のごとく忌み嫌っていたのかを。

 どれほどの歳月をかけて、ナザリック地下大墳墓を再攻略しようと、挑戦と失敗──進軍と撤退を、続けてきたのかを。

 だからこそ、自分たち天使の澱のNPCは創られたということも。

 ミカは、よく──知っている。

 

(迂闊だった……せめて、私一人で、ここへ救出に来ていれば)

 

 まだ、隠しようもあったはず。

 隠すこともできたはずなのに。

 だが、今まさにカワウソ自身の手で、アインズ・ウール・ゴウンの国民……ヴェル・セークを救命し、そうして救った彼女の口から、最悪な情報を聞き出してしまった

 

(最悪──さいあくサイアク……!)

 

 ミカが危惧した通り。

 カワウソは野営拠点にヴェルとミカを通した後、すぐ凶行に奔ってしまわれた。

 死の騎士(デス・ナイト)の残骸を粉微塵に消し飛ばし、地獄の猟犬(ヘル・ハウンド)の死体が散る森を、“光輝の刃”で斬滅しまくった。

 ミカには判っていた。

 彼の心に降り積もった、件のギルドに関する感情の重さを。

 それほどの情報を前にして、正気でいられるはずがないということも、すべて予見できていた。

 だから、ミカはヴェルをシェルター内に残して、すぐにカワウソの許へ駆け戻った。隠形して戻った地上では、下手をしたら、そのまま自刃でもしてしまいかねない堕天使の変調ぶりが、痛いほど目に飛び込んできた。ミカは命令に反するとわかっていても、カワウソを癒す手を、彼の背後から伸ばした。

 当然、創造してくれた方の主命に背くシモベを、カワウソは鋭い声で詰問する。

 

「どういうつもりだ?」

「……私は、」

 

 言葉が詰まらないように、用意しておいた理由を吐き出した。

 

「あなたが嫌いです」

 

 ミカは徹底して、無表情の仮面を被った。

 被り続けなければ、いけなかった。

 

「俺の命令には、従えない……と?」

「……従うべきでないと判断すれば」

 

 そうあることが、彼を『嫌っている。』ミカの務めだから。

 ミカだけに託され、ミカのみに許された、忠義の在り方であると、女熾天使は十分心得ている。

 だとしても──

 

「今、おまえが見たことは忘れろ。いいな?」

「…………」

 

 そんなことは不可能だ。

 ミカは、カワウソのNPC──彼に創られたシモベ。

 創造主の一挙一動を、己の脳内に、魂の真底に、心の奥深くに、記憶し続ける存在たるモノ。

 返事を強要されても、ミカは曖昧な頷きを返すだけにとどめる。

 

 創造主の命令を遂行できない私を、彼はどう思うだろう。

 

 そう思うたび、ミカは自分の出来損ないぶりを痛感していく。

 彼のシモベなのに……カワウソという主人に仕えるNPCなのに……

 私は少しも、彼の期待に応えられそうにないのだ。

 

 そんな私を、どうしてカワウソは傍近くに置くのだろう。

 こんな、身勝手で、不忠者で、彼を嫌うフリしかできない無能を。

 

 ──わからない。

 ──わからない。

 ──わからない。

 

 明晰な頭脳でも解読不能な設定だが、彼に『かくあれ』と求められる以上、そのように振る舞う以外に処しようがない。

 それでも、ミカはカワウソと行動する以上、彼のすべてを心と記憶に焼き付けていく。

 そんな中で。

 

(あ、……いい)

 

 ヴェルを伴い、森を進むカワウソが、あまりにも遅い現地人の歩みに業を煮やし、ひとつの手段に訴え出る。

 シモベであるミカには、頼んでもしてくれそうにないほどの、密着率。

 

(いいな……………………いいなぁ──)

 

 ミカの創造主であるカワウソに、あろうことか、“お姫様抱っこ”されている人間の少女に対し、ミカはひどく嫉妬してしまう。

 そんな女天使の羨望の眼差し──険し気な表情をどう思ったのか、カワウソは「ああ、すまない。女性に体重を聞くのは失礼だったか」などと謝辞をこぼす。

 何もかもが羨ましい。

 けれど、それを口にすることは、ありえない。

 

 

 

 

 ヴェルの案内の果てに、彼女の乗騎を癒していた魔導国の民──マルコ・チャンに導かれ、カワウソとミカは魔導国の都市を訪れた。

 その第一魔法都市の発展ぶりと平和ぶりに、カワウソの精神が疲弊していくのを、まざまざと感じ取った。

 彼に許され、“正の接触(ポジティブ・タッチ)”の使用を完全に解禁されたミカは、彼の肩を抱くように手を這わせた。

 ──正直に言えば。

 彼を真正面から抱きしめて、この胸の中に包み込んで、彼を襲う悲しみのすべてと共に、癒してあげたかった──

 

 

 

 

 紆余曲折を経て、飛竜騎兵(ワイバーン・ライダー)の領地に招かれたカワウソと、寝所を共にする運びになったときは、小躍りしたくなるほどの歓喜に浴した。表情がにやけるのを抑えるのが、これまで以上に苦しかった。いつも以上に冷然な言葉を選び、眉根を寄せていなければ、とても隠し切れないと思った。

 拠点にいるマアトとの連絡を終えたカワウソは、ミカに夜間の護衛任務を命じて、ツインベッドの片方に、早々と身体を預けた。ミカにはナタたちほどの敵意感知の心得はなかったが、悪魔や竜種、モンスターなどの敵を察知することは容易。それ以外の人間や亜人など、展開した希望のオーラに触れる感覚でなんとなく位置を掴めた。

 何より、この一室はカワウソのアイテムの効果で守られているのが心強い。

 だが、いかなる敵襲などよりも厄介を極める敵が現れる。

 ミカに対し、拠点に残しておいたNPCたちへの指示出しを命じたカワウソは、蓄積された疲労困憊が祟ったのか、寝台に横になる状況を余儀なくされた。

 大丈夫だと、少し眠いだけだと、そう告げて意識を手放した主人の様子を、ミカは瞳の奥に刻み付けた。

 

「う、ううう……」

 

 連日のことであるが、カワウソは睡眠の最中、必ずと言っていいほど(うな)されている。

 苦しみ、痛みをこらえるような声に、ミカは矢も楯もたまらず、堕天使の傍に寄り添った。

 彼の眠りを妨げる悪夢を払おうと、創造主の手を握る。

 そうして、祈る。

 

(どうか、彼の心の憂いを、取りのぞけますように──

 彼の生きる道に、希望の灯が、ともりますように──)

 

 ミカの手を介して、肩を抱くように丸くなり、小動物よりも激しく泣き震えるカワウソの深部に……悪夢の底に、希望の力が流れ込み始める。

 だが、

 

「や、め……ろ」

「ッ! ──?」

 

 一瞬、カワウソが起きたのかと思って手を放しかけた。しかし、堕天使の瞼は固く閉ざされたまま。

 

「ちが、う……ち、がう……ちがう……う、ぅぅ……」

 

 ハッキリと判る。

 彼の眠りに巣食う“悪夢”が、彼の脳と魂を、心のすべてを蹂躙していくのが。

 寝言を紡ぐ堕天使の両瞼からは、あまりにも悲しい透明な輝きが零れ出ていく。

 それなのに、ミカは──

 

「だって……おれは……」

「カワウソ様──!」

 

 小声で囁くばかりのミカには、何もできない。

 熾天使にして女神であるはずの自分の力ならば、「眠り」などの状態異常も即座に癒せる。彼を襲い続ける悪夢から、彼を救い上げることなど容易(たやす)いはず。

 なのに──救えない。

 救いきることが、できない。

 

(どうか──どうか──私の力が、あなたの御力になれますように)

 

 深く、深く──祈る。

 さながら許しを請うかのように。

 ミカは祈りの思いを、己の内に募らせ続ける。

 女天使の癒しの力は、確実に効果を発揮している────だが、カワウソの身の内から溢れる何かが、堕天使の特性である“状態異常(バッドステータス)脆弱Ⅴ”が、あまりにも過量かつ過剰に過ぎて、癒す端から次の状態異常が発生し続けている。

 これではなんの意味もない。

 

(…………何が神だ。何が女神だ!)

 

 こんなにも儚い御方を、こんなにも愛おしくてたまらない主を、これほどの苦悩から……困難から……絶望の悪夢から……今すぐ救うことすらできない私が、神などと名乗れるものだろうか?

 

(私は、神などではない…………)

 

 だが、それでも。

 カワウソから与えられた女神の力を、ミカはカワウソのためだけに行使する。

 ミカは自責の念に駆られながらも、懸命に、献身的に、祈る。祈って、祈って、そうして祈る。

 カワウソの明日を……カワウソの生きる道を照らす光とならんことを、他ならぬ自分自身に対して、祈り続ける。

 

 その祈りは、カワウソが覚醒する朝方まで、ずっと、ずっと続けられていた。

 そして、その様子を、ミカの祈りを、女天使が堕天使の眼前にさらすことは、ありえない。

 何故ならミカは、『カワウソを嫌っている。』のだから──

 零れる涙を拭いながら、ミカは堕天使を癒し続けた。

 ふと、声がこぼれる。

 我儘ともいうべき主張が、主人の定めに疑義を呈する不作法の極みが、乙女の唇から落ちていく。

 

「教えてください…………カワウソ様」

 

 届けてはならない言葉。

 届かせてはいけない疑問。

 天使の涙と共に──けっして言えない気持ちが、NPCの愛情のすべてが、弱々しい音色の中に──溢れていく。

 

「あなたは、私を…………」

 

 

 

 

 

 どう思っているのですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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