狂女戦記 作:ホワイトブリム
貧血が一日で治るわけは無いのだが施設の周りを走る事は出来るようで、実験再開の合間に様々な鍛錬を無理の無い範囲で
普段から鍛えているために足を垂直に上げられたり、両足を左右に広げたまま床にうつ伏せに出来るほど柔軟性に優れていた。
演算宝珠を使った空中戦闘なら自信があるデグレチャフもエステルと戦うことは避けたい相手だと認識している。
三日後に手の震えは収まった。
「三日も無駄な時間を過ごさせたのだから結果を出したまえ」
「はい」
エステルは苦笑気味に返事をした。
事実、デグレチャフはシューゲル開発主任を苦手としているようで、毎日のように言い争っていた。
特注の栄養剤を飲んだ後、装備品を確認していく。
栄養剤といっても基本的な栄養を持つ野菜や肉などをまとめて液状にしただけのものだ。
味が二の次となっているので、飲んですぐに嘔吐感が襲ってくる。それを必死に耐えてから実験場に向かう。
「開始まで十分。それまで呼吸を整えてください」
頷きで返答し、瞑想に入る。
気持ちを落ち着けて覚悟を決める。
今回は高高度用にゴーグルや口元を覆うマスクを着用し、酸素ボンベを背負う。
本当は爆発の影響で誘爆を起こす危険性から外されていたのだが、貧血を理由に着けてもらった。
大抵は前面部が吹き飛ぶので意外と背中は無事だった。だが、今回は後方も無事では済まない。
爆発しなければいいに決まっている。そもそも何故、爆発するのかエステルにはさっぱり分からない。
前面に抱える宝珠核の安全装置とか増幅装置などが原因なのではないだろうか。
『時間の無駄だ。さっさと始めたまえ』
無線越しに理不尽な要求を言われて思わず苦笑するエステル。
人命を
「エレニウム九五式実証実験を開始します。クレマンティーヌ・エステル魔導少尉。出発します」
教えられた通りに試作型演算宝珠を起動し、飛行術式を発動する。
一息つく頃には高度
新型宝珠は空を飛ぶだけに特化したものではない。だが、今のところ空ばかり飛ばされている気がする。
もう少し簡単動作から出来なかったものか。
『高度
「了解」
通常の宝珠では出せない瞬発力。ただ、制御が難しい。
魔法であれば自分の意思である程度は制御できる。こちらで言う安全装置なる物が一応はあったからこそ運用できたともいえる。
機械でできた宝珠は何が起きるか全く予想できないし、安全の保証も無い。
安全装置そのものが爆弾となっているのではないかと錯覚しそうになるほどだ。
「速度に問題なし。高度
妙な旋回運動をすると嘔吐しそうになる。ここから先は身体に負担がのしかかってくる世界だ。
更に高度
外気温はかなり低くなり、息が白くなる。
防寒着で身体を守っているとはいえ寒い。更に高度を上げて限界高度である
「限界高度に到着」
『高所順応に移行し、三十分間現在高度を維持してください』
「了解」
今日は調子がいいようだ。
高出力の新型は制御さえ出来れば限界高度まで比較楽に到達できるかもしれない。
あとは安全性くらいだ。
『もっと上がりたまえ』
『まだ順応途中ですよ。宝珠核の温度も上がり続けています。今日はこのあたりで終わった方が』
無線越しで言い争う声が聞こえてきた。
不安定な宝珠を制御する事で手一杯なので続行か中止かは早めに決めてほしい。
「上がればいいんですか?」
『まだ駄目だ。酸素欠乏症に陥るリスクがある』
『それくらい術式で対応できんのかね』
そう言われてもエステルには対処方法が思いつかない。一応、高所での対応は勉強してきたのだが、未経験が災いしたのか言われた事に従う以外に考えがまとまらない。
日頃の鍛錬の成果で特に身体の調子は悪くなく、寒いのが気になる程度だ。
マスクなどを外すと死ぬとデグレチャフに言われた。
膨大な魔力を消費する新型宝珠の起動のせいで一般術式を考え無しに使う事は出来ない。
酸素を精製する術式一つでも今は命取りだという。
「……
とにかく寒い。割りと我慢できる方だと思っていたけれど、おしっこが漏れそうになる。かといって高高度でズボンを脱ぐと凍傷になるか、出た側から凍り付いて大変な事になる、とも言われた。あと、風が強いので飛び散る確率が高くなる。
長時間の空中戦闘の場合、排泄は割りと死活問題になる予感がした。
『おしっこですか? 一旦、高度を下げて……』
『魔導師なんだから術式で対処したまえ』
『ドクトル。女の子に無茶な事は言わないで下さい』
『戦場で女子供もあるか。少尉、それくらい自己判断で済ませたまえ』
言い分はエステルとて理解出来るのだが、こんな大空でおしっこを出すというのは存外、恥ずかしい。たとえ誰も見ていないとしても。
開放感があって気持ちがいいのかもしれないが。
下に居る誰かにかかると思うと少しだけ躊躇する。一応、女の子という自覚はあるので。
「では、……高度を
『下げずに出来んのか』
『許可します。今のところ宝珠核の温度上昇は想定内に収まっているので』
「了解」
と言ったものの適当な山は近くになく、その場で出す以外に道は無さそうだ。
高度を下げていくと変な浮遊感が頭の中を駆け巡る。
「?」
全身から力が抜けるような脱力感。これはなんなのか。
いや、鈍る中でも思い至る。魔力が枯渇してきたからだ。
ただでさえ膨大な魔力を消費してきたのだから尽きるのも早いというわけだ。
毎日のように使い続けて今日の分は想定より溜まっていなかった、という事かもしれない。
『エステル魔導少尉? 応答してください』
「………」
通信は生きているが返事が出来ない。
体勢を立て直そう、という思考は出来る。だか、身体が動かない。
『高度が落ちています! エステル魔導少尉!? 応答してください!』
『意識を失っているのか!?』
『呼びかけ続けたまえ。……まったく満足に空も飛べないのかね』
基本は地上戦闘だから空を飛ぶのは得意ではないです。ただ、飛ぶように駆け巡るのは得意ですよ、と意識の中で返答する。
まだ少し思考する余裕はある。だが、身体は全く動かせない。
姿勢制御もおぼつかないので乱気流に巻き込まれたように錐もみ状態に陥る。
自由落下するエステル。
『デグレチャフ魔導少尉! 緊急事態だ!』
地上で機材の整備をしていたデグレチャフに連絡が入る。
空を飛べる魔導師は二人しか居ない。
素早く装備を整えて通常の演算宝珠で空を駆ける。
★ ★ ★
落下速度は加速度的に上昇し、自力での回復は絶望的だった。
そんな中救助できるのは姿勢制御などの術式を展開できる魔導師くらいだ。
地上で受け止められるわけも無い。
間違いなく地面に落ちれば五体バラバラ。どころか形を保って残る事が奇跡と言われるような赤い水溜りを生成する事になる。
『試作型が起動したままだと!?』
『安全装置は!?』
『こちら側ではどうにもなりません』
『デグレチャフ少尉。最低でも宝珠の回収だけはしてきたまえ』
「……了解」
あとでぶち殺すぞ、クソマッドと思いつつ通信を切る。
安全な後方勤務と思っていたらモルモットの案内に応募していたとは。
今、落下している同僚を見捨てれば非人間と罵られ、今後の昇進査定などに響くんだろうな、と残念な気持ちになってきた。
部下の失態ならば切り捨てるのは簡単なのだが相手は同期だ。色々と手を貸しておけば何かと役に立つ。
もし、自分が『銀翼突撃章』保持者だったらエステルは助けに来てくれるだろうか。
命令なら来そうだ。出世欲が乏しいようだし、打算的なことも無い。
どっちにしても見逃せば懲罰は受けるかもしれない。うっかりミスで死なせても退役は免れない気がする。
つまり助けない事には悪い結果しか待っていないということだ。
それに軍の機密である演算宝珠を持つ者をすんなりと退役させるとは思えない。
敵に渡るよりは名誉の殉職にて二階級特進。
退路は断たれた。そう思わざるを得ない。
「……確かに自分の可能性の姿かもな」
実験動物は大抵、対比がいると結果が分かりやすい。
似た存在ならば尚の事。
寝覚めの悪い出来事を脳内から追い出し、空を駆けるデグレチャフ。
エステルは既に高度
『新型宝珠は起動したままなので気を付けて下さい』
「……最悪皆さんと一緒に盛大な花火が観賞できますね。温度の確認を」
『想定内を推移っ! まだ大丈夫です!』
掴まえて爆発では死体トラップと変わらない。
それだけ危険な宝珠を作りやがって、この野郎。と、悪態をつきながら目標まで数十メートルまで近づいた。問題は重い装備を身につけているので止める事が難しい。尚且つ、酸素ボンベを背負っている。
いくらか消費しているだろうけれど、結構なお荷物だ。
装備品まで無事に回収しろと言われたら、死ねと返答するかもしれない。
演算宝珠が小型で良かった。後は責任など持てない。
人命救助に最大限の出力を宝珠に命令してエステルに体当たりした。
★ ★ ★
地上に転がる装備品の残骸。
身体はなんとか無事に回収できたが心臓が止まっているらしく、医療班によって蘇生が試みられている。
体温低下に伴ない仮死状態化しているのかもしれない。
問題の演算宝珠は魔力を放出して今は大人しくしているが、近づくと爆発しそうで怖い。
後は作った当人が始末してくれ、と言いたい。
全く、膨大な魔力を消費する欠陥宝珠では長時間使用は危険極まりない。
高所順応なしでなら
天に召される為の装置としか思えないのだが。
それともあれか、マッドは『存在X』の
おかしい。
これの何所が信仰心なんだ。
殉教者を量産したいのなら手軽な方法があるはずだ。
兵士の命というか尊厳が失われている事を進言し、早急に開発を中止しなければ祖国が崩壊するんじゃないのか。
「これがお前の目的か、存在X!」
虚空に声を投げつけても答えは帰ってこない。
数十分にも及ぶ蘇生作業で一命を取り留めたエステルはしばらく安静にしなければならなくなった。それと同時に計画も凍結。
やっと
だが、それでも懲りないのがクソマッドの厄介なところだ。
「高高度の実験は諦めよう。だが、新型宝珠の性能実験は続けてもらうよ」
「ついに本当に頭がおかしくなったのですか、ドクトル。
「いやいや、私はまともだよ。高高度では意識が飛び易いのは分かった。ならば次は低地での実験をするだけだ」
小学生並みの論法でまだ続けるというのか、とデグレチャフはびっくりした。
人生で早々驚く事はないと思っていたが、本物の阿呆に開いた口が塞がらない。
「……ドクトルは……幼年学校が最終学歴だったとは……。まだまだ世の中には不思議な事があるものなのですね」
この男を
おい、大丈夫か、この国は。