暫くの間、笑いを堪えていた桜場だったが、僕と蒲池さんから
「……先程、市警と軍警から情報提供を求められているといったが、正直な所、此方の利は大して多くはないのだよ」
「……
蒲池さんの言葉を無言の儘で桜場は肯定する。手に持った
「利益の話だが、一つは報奨金がでる。しかし、
そう言って肩を竦め、苦笑する桜場。
「もう一つは、警察組織に貸しを作ることができる。だが、実はこれも大した利点ではなくてな。既に売れる恩は売ってあるし、私は個人的に市警上層部に顔が利く。今さら奴らに貸しを作る意味もない……とまでは言わないが、労力を割く程でもない」
「じゃあ、どうして僕らに協力をしてくれるんだ?」
僕の一言に桜場は口角を上げて鼻を鳴らす。そして、手に持った西洋煙管で僕を指し示すかの様に此方に向けた。
「君の言った志蔵千代丸という人物だよ。実は個人的に知っていてね、市警や軍警に貸しを作れるよりも、彼女に貸しを作れるのは万倍価値がある」
そう言って満足そうに頷く桜場は、何処と無く年相応の可愛らしさがあった。達観している様に見えても齢十四の少女である。良い事があれば無邪気に喜びもするだろう。しかし、桜場と志蔵がどう言った知り合いなのかは分からないが、目の前の少女は随分と彼女の事を買っている様だ。偶然とは言え、あの時志蔵に声を掛けた自分を褒めたい気分である。
「じゃあ、依頼を受けてくれるということで良いんだな?」
「いや、依頼は受けない」
「…………え?」
ピシッという擬音が聞こえる様な気がする程に、室内の空気が固まった。状況が理解出来ずに硬直しているのは僕だけでは無く、隣に座る蒲池さんも、近くに立っている鷹橋も同様だった。其れはそうだろう。協力はする。だが、依頼は受け無い。此れでは矛盾していると言う物だ。そんな凍土の様に固まった部屋の中で、桜場だけが涼しい顔で西洋煙管を空吹かししていた。
「……どういうことだ?」
凍る部屋の中で、漸く其の一言だけを捻り出す事が出来た。そんな僕に、冷たい微笑みを湛えた桜場が応える。
「さっきも言った通りだよ。『横浜連続暴徒事件』に関しては警察組織から協力要請が来ている。その情報を一般人である君に、おいそれと渡すわけにはいかないだろう」
言っている事は
僕が首を捻り考えていると、扉を叩く音が響き、山田さんが戻って来た。手に持った数枚の書類らしき紙を桜場に渡すと、再び部屋を出て行く。
「なに、形式というものだ。形だけでも義務を守っておかねば、いざというときに足元を掬われる」
そう言って桜庭は、山田さんから受け取った書類を
「書きたまえ、そうすれば全ての問題が解決するよ」
桜場の提示した解決策は実に簡単な物だった。渡された書類は履歴書や契約書で、期間限定で僕を探偵社員として雇い入れると言う内容だ。こうする事で、僕は一般人でも部外者でも無くなる為、情報を共有する事が可能になると言う訳だ。当然、僕が依頼をした訳では無くなる為、依頼料は発生しないし、桜場も人手を得る事が出来る。正に
そして、現在。僕は横浜の街を一人で歩いていた。早速、調査に乗り出す事にした……と言う訳では無い。あの後、書類を書き終えたら、手続き等がある為、本格的に動くのは明日からになると言われたので、今日はもう帰宅する事にしたのだ。明日は講義が終わったら直ぐに出勤になるので、ゆっくり休息を摂ろうと思ったのだが、一つの衝動が僕を突き動かし、横浜の街迄足を伸ばす事に相成った。
読者諸君も、こんな経験は無いだろうか? 無性に甘い物が食べたくなる衝動に駆られる。と言う経験だ。
僕は特別に甘い物が好きと言う訳では無いのだが――当然、嫌いと言う訳でも無い――、衝動的に摂取したくなる時が
さて、一口に甘い物と言っても其の種類は膨大である。こうして街を歩いているだけでも、多くの店が此の目に写る。洋菓子店や和菓子屋だけでなく、素数を冠した某有名
海の見える公園にて、其の奇妙な道化師の店で氷菓子を購入した僕は、
潮の香りを鼻腔だけで無く、全身で感じながら氷菓子を一口
海を眺めながら、涙をボロボロと零しながら氷菓子を食べる青年の姿が其処にはあった。まあ、紛れも無く僕の事ではあるのだが。もう一口食べようと口を開いた所で視線を感じて隣を見ると、一人の女の子が僕の座っている長腰掛けの隣に立っていた。涙を流しながら氷菓子を食べようとして口を開ける僕を、不思議そうに見つめる少女は、少し幼さが残るが、素朴な雰囲気の可愛らしい女の子だった。高校生位だろうか? 所々にレースをあしらった白いVネックの七分袖ブラウスと、デニム地のショートパンツが女の子らしさと活発さの両方を演出していた。少し色素の薄い髪を肩口で切り揃え、色が白く細身で小柄だが、顔色は良く健康的に映った。
目が合って数秒程、お互いに言葉を発さずにいたが、先に動いたのは女の子の方だった。首を傾げた儘、頬に人差し指を当てて口を開いた。
「おにいちゃん、泣いてるの?」
幼子が言う様な物言いだ。口調も
「ああ、アイスが美味しくてな」
「おいしいと泣くの?」
「いや、美味しいと泣くというか、あまりの美味しさに感動したというか……」
少々
彼女と一、二言だけ言葉を交わしてみて、僕は奇妙な違和感を抱いていた。見た目は確かに中高生位の少女なのだが、話してみると、まるで五、六歳位の幼女と話しているかの様に錯覚してしまう。口調なんかもそうなのだが、何より彼女の纏う雰囲気から、本来の年齢と
「かんどう……?」
此れ亦、難しい事を聞いてくる美少女だった。感動――辞書を引けば「物事を深く感じ、心を動かすこと」と書かれている名詞及びサ変自動詞であり、大体の場合は歓喜、同情、興奮等の感情を覚えた時に使われる。等と言う説明を彼女が求めているのかは分からないが、近い内容を
「嬉しいとか、幸せって思うことさ」
「うれしいのに泣くの?」
其処で言葉を止めてしまった。いや、「そうだ」と答えるのは簡単なのだが、そうしたら次は「何故嬉しいのに泣くのか」と聞かれるに違いない。此れでは埒が明かないので、僕は無理矢理話題を変える事にした。
「ところで君は何をしているんだい?」
そう聞かれた少女は、一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、直ぐに笑顔になって僕の隣に腰掛けた。何か可愛いな、父性を刺激されるとでも言えば良いだろうか? 守りたい、此の笑顔。
「あのね、ここにはクツシタがいるの」
「靴下?」
今度は僕が不思議そうな顔をする番だった。靴下とは、あの靴下だろうか? 靴を履く前に素足に履くあの靴下? 疑問符を浮かべる僕を気にする事は無く、少女は嬉しそうに足をパタパタしながら話し続ける。
「クツシタね、さいきんいっぱいゴハンを食べるの。だから、たいへんなんだ」
食性を持っているのか、其の靴下!? 既に、僕の頭の中では鋭い牙を持った靴下と言う新手の
「クツシタだ!」
そう言った彼女の視線の先を追うと、黒く小さな物体が此方に駆けてくるのが目に入り、思わず悲鳴を上げそうになる。しかし、『クツシタ』の正体に気が付いた時、安堵の息と共に胸を撫で下ろした。
「クツシタ~♪」
少女が
「かわいいでしょ?」
其れは猫がか? 其れともお前か? 因みに
「おにいちゃんもさわる?」
「え? 触って良いのか?」
……勘違いしないで欲しいが、僕はちゃんと猫の事だと理解している。勘違いなど一切していないし、若しそうだとしても此の無垢な少女にセクハラ紛いの行為などする訳がないだろう? 名実共に紳士として名を馳せた僕だぜ? 真摯で紳士な僕は嫌がる相手に手を出したりはしないのだ。――つまりは、同意の上なら問題無いのだ。
「いいよ」
よし、言質は取ったぞ。と言う訳で早速、スッと手を出してみる。すると、ビクッと一瞬だけ身体を震わせたが、恐る恐る顔を近付けてきた。伺うような仕種をしてくるのを、無視して掌を頭に乗せて、嫌がる素振りを見せないのを確認すると、手を首元迄ずらしてみる。すると、手に頬を擦り付けるかの様に擦り寄ってくる。其の儘喉元を擽るようにすると、僕に身体を預けてきた。身体の線に沿って撫でていくと、段々と声が甘く、目付きも甘えるような物になっていく。
「クツシタ、おにいちゃんのこと気にいったみたいだね」
「ああ、動物には好かれやすい
何か文句があるなら受け付けようじゃあないか、僕は端から猫の話しかしてないぜ。さて、
僕の撫で技術を十分に堪能したクツシタは、僕等から距離を取ると、芝生の上で少し毛繕いをした後、昼寝を始めた。随分と自由な奴だ。しかし、やはり其れこそが猫と言う生き物の魅力なのだろう。
クツシタが食べ終えた猫缶を持参した袋に入れる少女を見ながら、ふと彼女の事を何も知らない事に気が付いた。名前も年齢も性別……は、流石に女性か。取り敢えず、自己紹介は大事なので名を名乗る事にする。
「お嬢ちゃん、僕は西緒維新という名前なんだが、お嬢ちゃんのお名前を教えてくれないかい?」
……何故か不審者の様な物言いになってしまった。まあ、誰かが聞いている訳でもあるまいし、特に気にする必要は無いだろう。
「お名前? つむぐ! はしもとつむぐだよ!」
太陽の様な笑顔でそう言った少女は、本物の太陽の様に眩しくて、僕は思わず目を細めた。ふと空を見ると、中天を過ぎた太陽が少しだけ西に傾き、其の輝きは海へと降り注いでいた。凪いでいた風が微かに流れ、僕と彼女の髪を僅かに