軽文ストレイドッグス   作:LUNARCLOWN

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拾壹章

「どうしてお前が、橋元ちゃんの()()なんだ?」

 

 静かな室内に、小さい筈の其の声は妙に大きく響いた様に感じた。聞こえてしまってないかと、恐る恐る橋元ちゃんの様子を確認するが、キョトンとした表情が返ってきただけだった。

 僕の疑問は、十人に訊いたら十人が十人同じ様に思うであろう疑問だ。()()紡の親が()()ゆゆこである。更に、橋元ちゃんは十五歳程で武宮は二十歳前後、五歳の時に子供を産んだと言うのは考え難い。後は、まあ、純粋に母娘と言うには似てなさ過ぎる。普通に考えたら二人に血縁関係は無いと思われる。しかし、武宮の其れは母親の愛情の様にも感じるし、橋元ちゃんも彼女の事を『ママ』と呼ぶ。其れは此の世界に於いて少し(いびつ)に映るが、確かな絆を感じさせる物だ。だからこそ、僕は二人の為に何かをしたくなった。二人が抱えている物を知って、其の重みを緩和する手助けをしたいのだ。十割余計な御世話だろうし、僕に何か出来ると思う事自体が自惚れなのだろうが、僕も関わりたいと思ってしまったのだ。

 僕の真剣な様子が武宮に少しでも届いたのだろう。呆れた様に溜息を吐きつつも、首を縦に振った。そして、武宮の指示で橋元ちゃんの耳から手を離す。少し力が入り過ぎてしまっていたのだろうか、彼女の耳周りは薄っすらと赤くなっていた。……後で謝っておかないとな。

 

「紡、自分の部屋に行ってなさい」

 

 武宮の言葉に橋元ちゃんは不服そうに頬を膨らませて抗議したが、武宮の「冷蔵庫に入っている氷菓子(アイス)を食べても良い」と言う言葉であっさり承諾して駆けていった。……僕より氷菓子が良いか……少し、切ないな……。そんな僕の心の傷の事など、お構い無しに武宮が話し掛けてくる。

 

「……紡はね、半年前に拾ったの」

 

「拾ったって……犬猫じゃあるまい」

 

 僕の軽いツッコミを、武宮は首を振って否定する。そして、訥々(とつとつ)と橋元ちゃんとの出会いを語ってくれた。

 二人の出会いは半年程前。秋も過ぎようとしており、冬の足音も聞こえ始めた季節の頃。港近くの倉庫街の路地裏で、寒空の下にも拘わらず薄い襤褸(ぼろ)だけを身に付けて、赤子の様に丸くなって気を失っていたらしい。目立った外傷や狼藉を働かれた様子も無かったが、放って置く訳にもいかず保護したのだそうだ。其の頃の橋元ちゃんの状態は本当に酷く、言葉を発さず、此方の言う事も理解できず、着替えも食事も一人では行えず、正に赤子の様だったとの事だ。しかし、武宮は諦める事無く懸命に世話を続けた。すると、徐々に辿々しくも言葉を覚え始め、着替えも食事も一人で出来るようになっていったと言う。

 

「まるで、子供の成長を早送りで見ている気分だったわ。……お風呂はまだ一人じゃ入れないのだけどね」

 

 そう言って苦笑する彼女は、其れでも何処か嬉しそうで、其処には母親としての慈愛が垣間見えた。産みの親より育ての親とは、(けだ)し名言にして至言である。此の二人は血の繋がり等無くとも、立派に母娘であると言えるだろう。

 

「しかし、そんな状態の橋元ちゃんの名前が良く分かったな」

 

 僕の言葉に、武宮の優しげな表情が少し強張ったのが分かった。数秒の間黙り込み、躊躇いがちに目を伏せていたが、近くに置いていた手提げから財布を取り出すと、其の中から何かを取り出した。其れは、名刺程の大きさの紙片だった。

 

「……被験体番号零壹捌參(0183)、橋元紡……これは……?」

 

 訊ねても、暫くは返事が返って来なかった。いや、僕とて其の言葉の意味が、()()()の意味が分からない程には愚かではない。其れでも訊ねざるを得なかった。此の紙片と橋元ちゃんの関係を。

 

「これは……紡が唯一身に付けてた襤褸のような服に付いていたものよ……プラスチックのカバーに入って、ピンで留められてた……」

 

 名札……いや、管理札だったのだろう。口の中にじわりと生臭く、鉄臭い物が広がる。気付けば、噛み締めた唇には血が滲んでいた。橋元ちゃんの過去に対する同情か、自分の不甲斐なさかは分からないが僕は無性に悔しかった。

 人体実験。僕と武宮、二人の頭の中には此の言葉が浮かんでいた。馬鹿馬鹿しい、戦時中じゃあるまいしと鼻で笑ってやれたらどんなに楽だったろうか。大戦が終わってから三十年以上経つ。未だ未だ治安が良いとは言えない此の横浜の街だが、()()等と呼ばれていたのは昔の事なのだ。だから、そんな非人道的な実験が行われている等、有り得ないと断じてしまいたい。だが、武宮が橋元ちゃんを見付けた状況が、橋元ちゃんの状態が、そんな非日常の可能性を示唆してくる。そして、僕達は其れを否定する材料を持ち合わせていなかった。

 

「わたし……恐くて……」

 

 震える声と同じ様に、武宮の唇が、いや、身体全体が震えていた。

 

「ずっと、ずっと一人で紡を護ってきた……長い間……誰にも言えなかった……何度も何度も間違えながらも、紡を護る為に生きてきたんだ……」

 

 一人で、か……。(さぞ)や心細かったであろう。半年と言う長い間、何かしらの凶悪犯罪の影に怯えながら、たった一人で一人の少女を護り続けてきたのだから。そう考えると、芝居がかった口調も、強気な態度も、魔術とやらも橋元ちゃんを護ろうとする彼女自身を護る為の鎧なのかもしれない。

 

「警察は頼らなかったのか?」

 

 当たり前だが、市民を護ると言うのが市警や軍警を筆頭にした警察組織の仕事である。僕の両親も其の組織に属している為、個人的には信頼に値すると思っているのだが、武宮はそんな当たり前の、誰もが思い付くような言葉を否定した。

 

彼奴(あいつ)らはダメよ、信用出来ない。それに……」

 

「それに?」

 

「奴らに話したら、紡と離ればなれになっちゃうじゃない……」

 

 随分と依存が強い様だ。しかし、分からなくもない。橋元ちゃんと武宮に血縁関係が無い以上は二人が幾ら想い合っていたとしても、橋元ちゃんは本来の()()()に戻されてしまうだろう。そうなってしまえば、今の様に簡単には会えなくなるだろう。断腸の思い――そんな言葉が、僕の頭を過る。子を連れ去られた母猿が悲しみの余り(はらわた)が千切れて死んでしまったと言う話を元にする故事成語である。流石に本当に腸が千切れたりはしないだろうが、其れ程の想いを武宮は彼女に注いでいるのだ。それに、橋元ちゃんが本来の()()()に戻されると言う事は、橋元ちゃんが再び危険な場所に行かされる可能性が高いのだ。彼女の事を『被験体』と呼ぶ奴等の下にだ。

 

「家族には相談したのか?」

 

 僕の言葉に、武宮は力無く首を振る。

 

「家族を巻き込みたくないし、頼りたくもないわ」

 

 弱々しい声ではあったが、きっぱりと言い切ってみせた。彼女の家庭環境を知る由は無いが、少なくとも此の件に関しては彼女は自分の家族を信用してはいないらしい。ならばと、僕は其の儘の疑問を彼女にぶつける事にした。

 

「じゃあ、何でこの話を僕にしてくれたんだ? 警察組織でもなければ、家族でもない、赤の他人の僕に」

 

「それは……」

 

 武宮が口籠る。しかし、そうなのだ。警察や家族が信用ならないと言うのに、僕を信用して話してくれる理由が解せないのだ。友達の兄と言うだけの弱すぎる関係性の僕にだ。

 武宮が黙ってしまって数分とややあって、漸く口を開いた。

 

「貴方は……敵じゃないと知っているから……」

 

()()()()()? それはまた、一体どういうことだ?」

 

 しかし、僕の質問に対する返答は無かった。武宮の口は堅く結ばれ、先程迄の話すのを躊躇っている沈黙とは違い、口を開かないと言う強い意思を感じる。

 僕は両手を挙げて降参を表明すると、目の前に置かれた紅茶を啜った。すると、昼に食べた氷菓子と同じ胡椒薄荷(ペパーミント)の香りが鼻腔を通り抜けていった。

 其の後、氷菓子を食べ終えて暇を持て余した橋元ちゃんが戻ってきて、空気を和ましてくれた。そして、暫く雑談に興じていると、良い時間になってきたので御暇(おいとま)する事にした。橋元ちゃんは不満そうだったが、また後日来ると言う旨を伝えると渋々ながらも了解してくれるのだった。

 後の事は特に語る事も無い。橋元ちゃんと武宮の母娘に別れを告げた僕は、寄り道する事無く家に帰った。色々あった一日だったからか、其れとも今日一日だけで三回も場面転換があったからか、妙に疲れていた。其の為、帰ってから風呂を済ませた後、折角用意して貰っていた食事も摂らずに寝てしまい、翌朝妹に怒られる羽目になるとは流石に予想はしていなかった。

 

 

 

 

 

 妹の小言を聞いていたら、見事に一限目の講義に遅刻してしまい、妹に続き教授に迄説教を貰う羽目になった僕は、少し暗鬱な心持ちで灰狼探偵社に向かっていた。沈んだ気持ちを盛り上げるような、愉快な出来事でも起きないかなと考えながら歩いていると、少し先を見知った黒髪長髪の少女が歩いていた。(ひかがみ)迄届く、長く艶のある黒髪、小柄な体躯――鷹橋弥七郎である。

 さて、読者諸君は此処で僕が例の如く、予定調和の様に、某物語の主人公みたいに鷹橋に飛び掛かり、セクハラ三昧の暴挙に出ると期待している事だろう。しかしだ、残念ながら其れは出来ないのだ。何故なら、僕と鷹橋は昨日出会ったばかりで、信頼関係を築いていない。そんな鷹橋に対して暴状を起こせば、本当に只の性的嫌がらせ(セクハラ)になってしまうじゃあないか。それに、僕の評価の問題もある。此処まで読んできた読者諸氏が、きっと勘違いしているであろう事を此処で確りと否定しておこう。

 

 

 

 僕は――幼女愛好家(ロリコン)ではないのだ。

 

 

 

 信用が出来ないと、そう言いたいだろうが、僕の話を少し聞いてほしい。昨日、鷹橋と桜場の二人の容姿を傍白(モノローグ)で褒めていたのは、飽く迄造形の美しさについてであり、美術品鑑定の其れと大差無い。つまりは、美しい物を美しいと褒めただけで、其処に僕の趣味嗜好は含まれていないのだ。僕は何方かと言えば胸の大きい、大人の女性の方が好みである。だから、もしセクハラをするのなら、鷹橋では無く蒲池さんにする! なので、皆々様方の期待には、残念な(なが)ら沿えないのだ。幼女愛好家(ロリコン)の汚名は被りたく無いしな。…………待てよ。確かに鷹橋は見た目こそは幼いが、年齢は十九と言っていた。十九と言えばもう大人と言っても良い年頃ではないか。そんな鷹橋に対して幼女(ロリ)やら童女(ロリ)やら少女(ロリ)やらと呼ぶのは失礼に当たるのでは無いだろうか? 昨日は何でもない様に言っていたが、鷹橋だって自分の容姿に思う事はあるだろう。何処に行っても子供扱いで、辟易としている事だろう。ならば、僕位は彼女を大人扱いしようではないか。彼女を一人前の淑女(レディ)として扱おう。其の為には、此の身を犠牲にする事も厭わない。

 ――さて、前振り、言い訳、建前、前座、其の他諸々の時間は終わりだ。僕は足を前後に軽く開き、膝を曲げ屈む様な姿勢を取る。身体は前傾に、其れを支える為に地に着いた両手は肩幅に、足の筋肉に力を込める。お待たせ致しました紳士淑女の皆々様方、此れが(おとこ)・西緒維新の生き様である。(しか)と目に焼き付けて戴きたい。

 

「たっかっはしーっ!!」

 

「ふぇ?」

 

 身体の撥条(バネ)を全力で使い、一瞬にして最高速に迄加速した僕は、其の勢いの儘、鷹橋に飛び掛かる。事態を把握できなかった鷹橋は間抜けな声を上げて、僕に抱き抱えられた。其の瞬間、我に返って暴れる鷹橋だが、時既に遅し、僕は鷹橋を撫で回し捏ね回し頬擦りをする。

 

「ギャーッ!! イヤーッ!!」

 

「こら、暴れるんじゃない! 髪の匂いが嗅ぎにくいだろ!!」

 

「ニャギャァ――――ッ!」

 

「鷹橋! 鷹橋! 鷹橋! 鷹橋ぃぃいいいやぁああああああああああああああああああああああん!!!

あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!! 鷹橋鷹橋鷹橋鷹橋ぃいいぁわぁああああ!!!

あぁクンカクンカ! クンカクンカ! スーハースーハー! スーハースーハー! いい匂いだなぁ…くんくん

んはぁっ! 鷹橋弥七郎たんの黒髪ロングをクンカクンカしたいお! クンカクンカ! あぁあ!!

間違えた! モフモフしたいお! モフモフ! モフモフ! 髪髪モフモフ! カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!

 

――――――――中略――――――――

 

よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!

いやっほぉおおおおおおお!!! 僕には鷹橋ちゃんがいる!! やったよアリア!! ひとりでできるもん!!!

いやぁあああああああああああああああ!!!!

あっあんああっああん大河ぁあ!! ル、ルイズー!! シャナぁああああああ!!! 伊織ぃいやぁあああ!!

ううっうぅうう!! 僕の想いよ鷹橋へ届け!! 灰狼探偵社の鷹橋へ届け!」

 

「うっさい! 長い!! キモい!!! 死ね!!!!」

 

 瞬間、脳天から足元迄を貫くかの様な衝撃、激痛、目から星が飛ぶと言う古典的漫画表現を使ってしまいそうになる。僕が反撃に怯んだ瞬間、鷹橋が僕の拘束から逃れた。

 

「いってえな!! 何しやがる!?」

 

 痛いのも何しやがるも僕の事なのだが、そんな事は棚の上に投げ込んで置いて、鷹橋に向かって怒鳴る。

 僕の魔の手から逃れた鷹橋は、電柱に半身を隠しながら鞘に納まった儘の刀を手に此方を威嚇していた。あれで殴られたのか……死んだらどうする心算(つもり)だよ……。野良猫の様な声で此方を威嚇する鷹橋は、どうやら怒気と混乱で我を忘れているらしい。そんな彼女に僕は、敵意が無い事を示す為に両手を掲げて見せる。

 

「鷹橋、安心しろ僕だ」

 

 此れ迄の流れの中に、僕だから安心だと言う要素など何処にも無いとは思うのだが、一応は効果があったらしく、鷹橋が身を隠していた電柱から出てくる。

 

「あんたは……えーっと……西野?」

 

「人をいちごパンツで学年のアイドルのショートカット美少女みたいに呼ぶんじゃない。僕は東城派だ……違った。僕の名前は西緒だ」

 

「……ちょっと噛んだだけよ」

 

「違う、(わざ)とだ」

 

「うるさいうるさいうるさい!」

 

「逆ギレされた!?」

 

 そんな、ある種お約束の様な遣り取りを済ませた後、僕達は探偵社に向かう。鷹橋の存在が心を癒してくれたのか、曇天だった心は見事な快晴となり、足取りも軽くなった。

 

「鷹橋は、家がこっち側なのか?」

 

「ううん、ちょっと用事があって出掛けてたのよ。社には今から帰……って、誤魔化そうとしないで! さっきの事を許したわけじゃないんだからね!」

 

「あんなの軽いふれあい(スキンシップ)じゃないか」

 

「全然軽くなかったわよ!」

 

「そうか? 僕の妹なんか、挨拶代わりに正中線の中心に正拳突きしてくるぜ」

 

「……よく死なないわね……」

 

 まあ、そんな事をしてくる妹は一人しかいないのだが。あ、でも、流石に千枚通しは()めて欲しかった。

 そんな他愛も無い話をしながら歩いていると、漸く見えてきた探偵社から誰かが出てくる処だった。ツンツンと尖った短髪に、身体の線が出る様な細身のスーツ姿、女性にしては高めの身長に、整った顔立ちと覇気の無い眼。そう、我らが灰狼探偵社の社員が一人――蒲池和馬嬢其の人である。蒲池さんは此方に気が付くと、大きく手を振り乍ら近付いてきた。

 

「なんだなんだ、二人一緒だなんて仲良しだな」

 

「ええ、僕と鷹橋は両想いですからね」

 

「えっ? そうなのか!?」

 

「ちょっと和馬!! 本気にしないでよ!!」

 

 僕の冗談を真に受けて、鷹橋に突っ込まれている蒲池さん。鷹橋もそうだが、蒲池さんも中々に揶揄(からか)い甲斐のある人の様である。しかし、歳上の女性を揶揄うと言うのも余り良くは無いな。自重しようとするか。

 

「そ、そうだよな……昨日の今日で付き合うだなんて……」

 

「蒲池さん! 愛に時間は関係ないんですよ!」

 

「西緒ッ!!」

 

 ……我慢が利かない身体である。

 

「……で、蒲池さんは出かけるところですか?」

 

 猛る鷹橋を宥めながら、蒲池さんに訊ねる。訊ねられた蒲池さんの顔は、未だほんのりと紅い。どうやら蒲池さん、色恋沙汰には少々疎い様だ。

 

「あ、ああ、ちょっとお菓子の買い出しにな。切らすと社長がうるさいんだ」

 

 お菓子の買い置きが切れて、機嫌を損ねる探偵社社長と言うのも如何な物だろうか? 幾ら十四の子供だと言っても少々堪え性が無さ過ぎる気がする。橋元ちゃんだってもう少し我慢が効くだろうさ。

 

「というわけで、俺は買い物に行ってくるから、二人は気にせず中に入っててくれ」

 

「何か含みがあるような言い方ね……まあ、いいわ、行くわよ西緒」

 

 少し不満そうにし乍らも、鷹橋が格子門を開けて僕を促す。買い物に行く蒲池さんに会釈をし、格子門を(くぐ)って玄関前に立つと妙な緊張感を抱いた。良く考えるとアルバイトすらした事の無い僕にとって、中学時代の職場体験を除けば人生初の()()なのである。僕も大学の二回生である以上、早ければ来年には就職活動に勤しむ事になる。そう思えば、今回の事は良い機会だったのでは無いだろうか。僕は鷹橋に促される儘に玄関を抜け、広く長い廊下を進み、事務室と書いてある部屋の扉を叩いた。中から山田さんの返事が聞こえ、内側から扉が開かれた。山田さんが歓迎するように招き入れてくるのを見て、鷹橋と一緒に入室する。応接室に比べればやや狭いが、一般的には十分過ぎる程に広い室内に事務仕事用の机が五台、各々(それぞれ)に書類整理用と思われる簡易の本棚と新型の電算機(パソコン)が置かれていた。

 

「あれ? なぎさ、社長は?」

 

 鷹橋の問い掛けに山田さんが答える所に因ると、社長こと桜場一樹は自室にいるらしい。其処で、鷹橋の提案に因り僕が挨拶がてら呼びに行く事になった。山田さんから桜場の部屋の場所を聞くと、早速其の場所へ向かう。

 道中高価そうな壺や絵画に眼を奪われながら、桜場の自室に辿り着く。しかし、随分と広いな。一寸(ちょっと)した集合住宅(アパート)と較べたら遥かに広い。そんな感想を抱きつつ、薔薇の浮き彫り細工(レリーフ)の施された扉を叩いた。

 

「……入りたまえ」

 

 少々間があってから、気怠そうな返事が帰ってくる。僕は其の返事を聞いてから「失礼します」と一言断ってから重厚な扉を開く。扉を開いた僕の目に飛び込んできたのは、だらしなく寝そべり乍ら本を読む桜場と、積み上げられた分厚い洋書の山、脱ぎ散らかされた服、そして食べ掛けのお菓子逹だった。

 寝そべった儘で此方に視線だけ寄越した桜場は、つまらなさそうに溜息を吐いて視線を読んでいる本に戻した。

 

「君か。大凡(おおよそ)挨拶ついでに呼びに行けとでも言われたのだろう。まあ、一応は社長として君を歓迎し……」

 

「ちょっと待ってください社長!」

 

 言葉を遮られた所為で、眉を顰め乍ら首を傾げる桜場に僕は詰め寄る。

 

「な、なんだね?」

 

 急に距離を詰められた所為か、動揺し乍ら少し距離を取る桜場。何を焦っているのか、少し(ども)り乍ら顔を赤くしている桜場の肩を掴む。ピクリと小さな肩が僅かに震える。

 

「この部屋を、掃除させてほしい!」

 

 桜場が呆気に取られた様な表情で頷くのを確認してから僕は立ち上がる。前に話したかもしれないが、僕は特別綺麗好きと言う訳では無い。しかし、此の惨状を見て、何も思う事が無いと言う程でも無いのだ。

 先ずは山田さんに掃除用具の在処を訊く処からだろう。思い立ったが吉日と言う奴だ。僕は部屋を出ると、事務室に戻ることにした。部屋を出る際に、桜場が何かを呟いた気がしたが、僕の耳に届く事は無かった。

 

 

 

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