客人である西緒維新と蒲池和馬が立ち去った地下室は、平素より薄暗く、静まり返っていた。彼等が昇っていった石段の先を見つめ乍ら、平時と変わらぬ軽薄な笑みを浮かべる此の地下室の主――鳴田良悟は、くつくつと楽しげに喉を鳴らしていた。思いを馳せるのは本日出逢った青年――西緒維新の事だ。西緒維新と其の彼が此れから進む道を夢想し、期待に胸を膨らませていた。願わくば、彼が自分の愛する『人間』である様にと。
鳴田良悟は自称、人間を愛している。
ふと、上機嫌だった彼の様子が、急に不機嫌に変わる。まるで、愉悦の一時に水を注されたといった感じだ。良悟は、其の不機嫌さを隠すことなく振り返る。其処には、薄暗い闇が広がっているばかりだ。
「ノックもなしだなんて、少し不躾すぎるんじゃあありませんか?」
そう良悟が闇に問い掛ける。すると、闇が揺らぎ、其処に――芒――と白貌が浮かび上がった。
「――ノックをしようにも、この部屋には戸がないようだが?」
闇が応える。闇は徐々に人の形を取り、大時代な丸眼鏡と季節外れの外套を纏った男性の姿に変わる。
「だからといって、声の一つも掛けないで背後に潜むなんて、一社会人としていかがなものでしょうか、ねえ――――香田学人教授」
皮肉を籠めた良悟の一言に、闇色の男――香田学人は、顔色一つ、表情一つ変えることなくゆっくりと歩いて、良悟の正面に
「貴方のご依頼通り、彼らには最低限の情報しか与えてはいません」
「――御苦労」
学人の短い返答に、良悟は眉を顰める。明らかに歓迎していない様子だ。事実、良悟は学人に良い印象を持っていなかった。――此の男は『怪物』だ――良悟の本能が、そう告げていた。彼は『人間』を愛する。だから『怪物』は愛することは出来ない。だから、彼は学人を愛することは出来ない。しかし、其れと同時に、彼は学人が『人間』じゃないと言う確信も掴めずにいた。『怪物』でないのであれば、人の形を取っている以上、其れは『人間』だろう。なればこそ良悟は学人の扱いに困っていた。『怪物』だと確信を持てれば、直ぐにでも此の男を消す段取りに移るのだが、暫定的にではあるが『人間』である以上は自分の
「それで、何でこんな面倒な事を?」
脳内で目の前の男を排除する方法を画策し乍ら、出来るだけ平静を装いつつ訊ねる。奇しくも其の表情は、先程迄、西緒維新が彼に向けていた表情に良く似ていた。
「――彼には、怪物を退治する英雄になって貰わなくてはならない。常に答えを示され続けた人間が、英雄になった試しはないのでね」
「巫山戯ないでいただきたい」
声を荒げた訳では無いが、其の声にははっきりとした怒気が含まれていた。怒りも不機嫌さも敵意も殺意も隠さず、晒し、ぶつける。普段の彼を知っている人間が見れば、目を疑う様な光景である。
「怪物を倒しうるのは、常に人間だ。英雄などという『怪物』ではない。『怪物』と『怪物』が潰し合うのは結構だが、『人間』を『怪物』に仕立て上げてまで、そんなくだらないことをすると言うのであれば」
――――俺は貴方を赦さない。
けして大きな声ではなかった。しかし、常時以上の静けさを感じる今の此の地下室では、強く、冷たく響いた。
彼は言う。
「香田教授。俺が貴方の依頼を受けるのは、貴方がまだ『人間』の皮を被っているからだ。もし貴方が、その皮を脱ぎ捨てて、『怪物』としての本性を現そうと言うのであれば……俺は容赦なく貴方を殺します」
「――ふむ。御忠言痛み入る……と言った所か。だがね、残念ながら私は人間だよ」
そう語る学人の表情は、言葉とは裏腹に人間味と言う物に欠けていた。不気味な薄笑いは、其の肌の白さと相俟って能面を想起させ、一つ一つの動作は人間の動きを模した自動人形の様だ。
此の街には『怪物』が多いと良悟は思う。物の善悪に関わらず、其処に人間性があれば良悟は愛する事が出来る。だが、此の街には不思議と、其の善悪を超越した『怪物』が集まる。物の善悪に関わらず、『怪物』は『怪物』である。二十年前、此の街を襲った一団にも一人、そんな『怪物』がいた。此の街の闇には『怪物』である事を強要された少女もいた。人間を『怪物』に作り替えようとする妖老もいた。探偵の皮を被った『怪物』もいた。此の街は『怪物』を呼び寄せる事と『怪物』を造り出す事に特化している。此の街の情報を集め続けた結果、良悟はそう感じた。『人間』を愛すると決めた以上、其れは阻止しなくてはならない。危険因子は排除しなくてはならない。そう、例えば、
「ご冗談を、貴方に比べたら、快楽殺人犯の方がまだ愛着が持てますよ」
目の前の
最後迄表情一つ変えなかった学人に苛立ちつつも、事務机に向かう良悟。話の後、学人は来た時と同じ様に闇に融けて消えてしまった。 無論、良悟の能力を
「俺も、まだまだだな……」
溜息を一つ。一匹の『怪物』に心を掻き乱された事を後悔していた。此の仕事をするに当たって、良悟は自分に様々な制約を設けていた。其の内の一つが、常に平静を装う事だった。純粋に情報屋としての信念でもある。
『怪物』と対峙すると何時もそうだった。嫌悪感、不快感、不信感、不安感、不満感、汎ゆる負の感情に押し潰されそうになり、ついつい感情的になってしまう。未熟なり、と自嘲気味に呟いてから机の引き出しを開けると、其処から一つの
「今回の情報量じゃあ、山田さんが代金を出し渋るだろうなぁ……」
と呟き乍ら、得意先の事務員の姿を思い浮かべる。彼女は吝嗇家として此の界隈では有名である。流石に代金を踏み倒したりはしないだろうが、此処ぞとばかりに値引き交渉に来るだろう。しかも、意気揚々とだ。其れも已む無しかと、溜息と共に吐き出すと、綴じ込み帖に挟んであった一枚の写真を取り出す。
「……これは、過去の清算だよ、西緒維新君」
其の写真には、第三
「……彼女が『怪物』になってしまう前に、見つけ出してあげなよ」
そして、綴じ込み帖を元の場所に仕舞うと、徐に