箒の過去の回想はさらに進んでいった。そして箒にとって大事な感情が生まれるきっかけとなった場面へと移り変わる。
その後、私は一夏にあの時のことを聞いたのだ。なぜあのような真似をしたのか、暴力で物事を解決したら面倒ごとになるのは分かり切っているのに。
そして、一夏はなんと答えたのだったか―――?
何故だ、もやがかかったようにその部分が思い出せない。その先はすぐにでも思い出せる。とてもなつかしい香りなのだ。私にとって大切な道場の香り。それと共に大切な感情がすぐにも思い起こされるというのに、なぜ一点だけもやがかかったようになってしまうのだ。
思い出さなくてもいいんじゃないの―――?
いや、それでは駄目だ。私が先ほど恐ろしいと感じてしまったもの、花の下にある真実が、そこに埋まっているはずなのだ。すべて物事を思い出そう。私にとって大切な感情もまた、過去の一部、もやがかかっている部分に繋がっている記憶の一部なのだから。
私と今の一夏の関係になるような、先へ進んだ場面だったはずだ―――
それから一夏は私のリボンを褒めてくれたのだった。そして、それに照れた私は道場にある井戸水で練習の汗を流して、顔を隠した。その頃の一夏は私の事を篠ノ之と呼んでいたはずだ。だが、名前で呼んで欲しかった私は、父や母も同じく篠ノ之で紛らわしいから名前で呼べと、そう言った。それから一夏は私のことを箒と呼ぶようになり、私もまた一夏と呼ぶようになったんだ。
駄目だ。ここまで思い返したのに、もやのかかった部分との繋がりが出てこない―――
リボンを褒められた、男子たちにそのことを馬鹿にされていた、一夏は男子たちをぶん殴った、三人相手でも圧勝だった、一夏は剣道だけでなく千冬に体術を習っていた。それ故に面倒ごとが当然起きた。その面倒ごとを一夏は何と言っていたか。
そうだ、面倒になることなど考えないと言っていた―――
少しだけもやが晴れると同時にむせかえるような血の香りがした。面倒ごとになることなど考えない。ならば、どうするか。ぶん殴って解決する。許せない奴はぶん殴ると一夏は言った。少しずつ自分の周りを血の香りが覆っていく。堪らなく、私は逃げ出そうとしたが、それがどこから流れているのか気付いた。
この血の香りは、自分の心から流れているものか―――
なぜ自分の大切な思い出なのに、このように不快な気持ちにならなければならないのだろうか。箒の手は無意識にリボンへと向かう。これを触れば落ち着くことができる。過去の思い出を温かく蘇らせるのだ。
あぁ、私の、わたしの大切な思い出。それを思い出させてくれるリボンっ―――!
しかし、今は違った。絹ごしのサラサラとした手触りはそこにはなかった。先ほどの戦闘で焼け焦げており、手触りはパサパサと指に引っかかり、血の香りに加えて焼け焦げた煙の匂いが鼻を突いた。箒は咄嗟に手を放した。
駄目だ、逃れることは出来ない。過去からも現在からも逃げられはしない―――
思い返さねば、思い起こさねば、花の下の真実を掘り起こすのだ。一夏は別段、反省しているような風はなかった。相手の親が裁判沙汰や警察だなんだのと騒ぎ立てるくらいの、それくらいの怪我を相手は負っていたはずだ。なによりも、千冬さん譲りの体術だ。一般人どころか、小学生相手に振るえば当然の結果だ。
大体、複数でっていうのが気にいらねぇ。群れて囲んで陰険なんざ、男のクズだ―――
もやがどんどん薄くなっていく。もやの部分の声が一夏のものとなって再生された。私は思い返すべき真実に近づいていっている。私はそれになんと答えたのだったか。逆に、自分がなんと答えたのか思い出せない。それを聞いて私はなにを思ったのだ。深く思い返そうとすると一層、自分の周りを包む血の香りがきついものとなった。
これ以上進むことを私の心が拒否しているとでもいうのか―――?
過去から逃げられない、そして過去を変えることも出来ない。だが、過去に対する認識を変えることだけは可能だ。考えろ、その時私が何を思ったのか、それが全てではない。その時に一夏を否定するようなことを考えたのか、肯定するようなことを考えたのか、それはどちらでもいいことなのだ。問題は今の私がどう思うかだ。
正しく、暴力そのもの、力に振るわれる自らの姿ではないか―――?
何も一夏のあの時の行動すべてを否定するわけではない。なによりも幼い時分、子供のやったこと。その時の一夏の行動を今の自分が否定するのは大人気ないことだ。そう、私が恐ろしいと思った過去の記憶、このもやのかかった部分。私はこのことを深く考えたくはなかったのだ。それに思い至ると、自らを包む血の香りはどこへともなく消え失せ、なつかしい道場の香りへと変わる。
あぁ―――これが私にとって本当に大切な香りなのだな―――
一夏とのこと、その思い出をすべて肯定するだけではだめなのだ。最早物事の分別をつけて考えなくてはならない年齢になった私が、幼い時分のことをすべて正当化し、それを根拠に動いていてはだめなのだ。ただ、それだけのこと。私が恐れていた、一夏との思い出を否定すること。大切な感情は残したまま、否定をするだけでいい。
いまの私の在り方が少し変わるだけだ―――
箒を包む血の霧が晴れた。
私はどれだけの時間を、思い返すことに使っていただろうか。目の前ではまだ変わらず伊藤と鈴が言い争いをしている。それを見れば、短い時間であったのだろうか。時計を見る気力さえなく、呆然と座っていたから全く前後が掴めない。だが、そんなことはもはや構うことではない。私は、私が得たこの紅椿の力の使い道を見定めなくてはならない。あの姉さんのことだ、私が望んだままにただくれたというわけではないはずだ。なにか、なんらかの思惑があるのだろう。最早この紅椿に振り回されるべくもない。ISはただの杖として、高みに昇るために使うのだ。決して、自分にとっての障害を力ずくで薙ぎ払うためのものでは、ない。
「伊藤よ」
「急にどうしたってんだよ……?」
黙りこくっていたはずの篠ノ之から急に声をかけられて不審がるカイジ。
「私も出撃させてはくれないか?福音に対して、一夏への復讐心や怒りなどが消え去ったわけではない。しかし、それを心の片隅に留めて行動することを誓おう」
「(なんかこいつ、さっきまでと様子違くないか……?)あ、あぁ……別に結局のところ……俺に決定権があるわけでもなんでもねぇし……俺が許可することじゃないんだが……」
実際箒が出ると言ってしまえばカイジに決定権があるわけでもない。決定権を持つ千冬を脅せばどうとでもできることではあるのだが。
「共に戦うのならば、できればわだかまりは解消しておきたいと思ったのでな。そして、大事なことを思い出すきっかけとなった。もう力に振るわれるようなことはない」
「(一体何言ってんのかさっぱりわかんねぇ……でもまぁ紅椿のあのスペック、映像で見る限りの篠ノ之の戦闘力……それは実際頼りにはできるところか……何があったか知らねぇけど……憑き物が落ちたみたいな感じだな……)まぁ、ずいぶんと時間を使っちまった……あっちも待ち侘びてるだろう、さっさと行動するとしようぜ……」
あっち、とは作戦指令室と福音の両方の事である。
「一体、何が何だっていうのよ。さっきまで箒が出ることを嫌がってたカイジは妙にあっさり引き下がるし、箒は箒でなんか別人みたいになってるし」
「そうだ、鈴。今までの事済まないな、感情の赴くままに暴力を振るってしまっていた。そのことを、改めて謝っておこうと思う。すまなかった」
鈴に向き直ったかと思えば、素直に頭を下げる箒。当然その姿を見て鈴は焦る。今までこのように箒が素直に謝ってきたことなどなかった。自分に竹刀を振るった時も、どこか目を合わせずに逃げるように謝ってきたことを考えると驚きである。
「っへ?え、えと、別にいいわよ。私もあんたのこと煽るような感じだったのは事実だし。まぁそれで暴力が正当化されるわけでもないけど、私に非がない訳でもないから(なんか調子狂うなぁ、一体全体なにがどうしたのかしら)」
「そうか、ありがとう。では、向かうとするか」
箒は立ち上がり、一夏の額を軽く撫でた。その様子をカイジと鈴は黙って見つめていた。
唐突な箒掘り下げ回である。