補習終了の鐘が鳴る。すぐには席を立てなかった。誰も席を立とうとしない。目の前の彼が微笑を浮かべ振り向いてくる。「やめてくれ」とそう思った。彼は振り向いた先の机に置かれたノートを見やる。
「あれ、どうしたんだよ。問題解いてないじゃないか」
咄嗟に「いやー、難しくて」と返した。
彼の冗談を言う時のような言いように合わせたはずの返答が自身を苦しめる。難しくても彼は解いているのだ。いや、解かねばならないのだ。それを難しいからと解くのを諦めたことが、彼に対していかに失礼だったろう。彼だけではない。この教室にいる他の生徒に対してもだ。
これは補習だ。必要な人が参加していれば良いのだ。何故そこに混じっている。
黒板では質問を受けた先生が解説をしている。
さっさと準備を整えて帰ってしまおうと考えた。彼は隣の席の生徒と話を始めている。
雨のせいか教室の空気が重かった。
明後日なのだ。もう時間がない。それを邪魔してはならないのに。彼にはきっと気楽な返答に思えただろう。学校にいると考えたくないのに考えてしまう。ああ悪い癖だ。すぐに気を揉んでしまう。
廊下をこの重い空気から逃れようと確かに歩いた。階段を駆け降りた。闇から逃れようと闇に飛び込んでいる気分だ。重い空気は下に下にと流れ込んでくる。
辿り着いた自転車置場には誰もいない。壁にもたれ休もうとしたが、息が詰まってできない。仕方がないと自転車の鍵をはずし押し歩く。なるたけ堂々と、逃げを感じ取られないよう歩く。門までの距離が長くも短くも感じられた。門を出たところでブロック塀に隠れるようにようやく自転車に跨がる。力無く漕ぎ出す頃には何とか息をできるようになった。
幾つも交差点を通り過ぎ、街の喧騒に耳を馴染ませながらも、校舎から漏れ出るあの空気が執拗に離さない。今日は出席すべきではなかったのだ。他にすることはあっただろう。家に篭って一人自宅学習をしていれば良かったのだ。一人遊んでいれば彼等の発する空気に呑まれずに済んだのだ。彼は彼等は真剣そのものだ。防具のないところに切り込んでくる。
一人進路の決まっている人間が、大勢のこれからという人間に囲まれて、太刀打ちできないから結局逃げてしまう。
何もできない。何もできないけど、せめて明後日くらい彼等のために――。
川を越え自宅に着くといつの間にかあんなに執拗だった空気はその姿を南風に溶かし、黒雲の切れ目には青く空がなびいていた。