ソードアート・オンライン -The Revenger- 作:こもれび
”死者が消え去るのは、どこの世界でも一緒さ”
真理とも呼べるその言葉を、『彼』は確かに聞いた。
この世界を作り出した男の言葉。
そしてこの世界と共に消え、新たな世界と共に誕生した存在。
世界は作り変えられた。
現実と認識していたその世界も、仮想と呼んでいたその世界もそのいずれでさえも人々に受け入れ始めることとなった。あの忌まわしい事件は、この暴虐とも呼べる新たな『ルール』をこの世界へと与えてしまった。
全ての存在に開かれた新たな世界。
もはやそれは
人々は新たな住処を確かに得たのだ。
そう……
現実から切り離されたもう一つの現実を。
もはやそれを偽物と断じる存在は少なくなってきている。
『彼』は思う。
ただ巻き込まれ、戦い抜き、そしてあの事件を生き残ったことの意味を、果たして『人』は理解できるのだろうかと。
日々生まれ出で続ける数多の世界の数々に、『人』は未来を見い出せるのだろうか……と。
薄暗いその部屋の中で、モニターに映る一人の少年の姿を見つめながら『彼』は思いを馳せた。
やっとだ……
やっと時が満ちた……
あの日から続く、この身に刻み込んだ忌まわしい『呪い』をついに解放するときが来たのだ。
全ての感情を捨て去り、全ての想いをただこの一点、曇りなき『呪い』で染め続けてきた日々。
だが、それもようやく終わる。
『彼』には達したことへの充足感も、満足感も、微塵もありはしない。
あるのは真っ黒に染め上げられた自身を焦がすある一つの感情のみ。
それが今確かに大きな焔となって自身を駆け巡っていることを感じつつ、ただジッとモニターに映る少年を見つめ続ける。
そして『彼』は、呟くのだった。
「お前の全てを奪ってやる……、『キリト』」
『彼』の双眸に真っ黒な焔が、ただただ揺らめいていた。
× × ×
「もう信じられない」
まさかこんなに時間がかかってしまうなんて夢にも思わず、私は慌てて暗くなった廊下をパタパタとパジャマのままで走って自室へ向かっていた。
もうこの家で『起きている』のは私だけ。
お手伝いの方は今日は早めにお帰りになられたけど、明日の食事などの準備も含めて大分片づけてくれているから何も心配はないのだけれど、今日は私が就寝前の家事はこなさないとならなかった。
全ての部屋の戸締りを確認して、玄関わきのセキュリティーシステムも就寝用の設定で起動。
チラリと、庭や表通りを映し出している防犯カメラの画像をモニターで見るも、当然そこに人影はない。だってもう夜も遅いしね。そして全ての照明も落としたのを確認してからさあ部屋へ……と思っていたら、お風呂掃除がされていなかったから流石に今日は頭にきた。もう……、最後に入ったの母さんでしょ! と、沸き上がる怒りを頑張って抑える。今日は我慢我慢。
急いで片づけてから部屋に向かったというわけ。
ベッドに横になった私は、急いで『アミュスフィア』を装着して電源を入れた。
このヘッドセットはあの『ナーヴギア』よりも簡易な作りだけど、デザインもシンプルで気に入っている。原理はいまひとつ良く分かっていないのだけれど、仮想世界との強制解除の仕組みなんかもきっちりされているって彼も言っていたから怖いと感じたことは一度もない。そもそもあの『事件』後に装置の問題での事故は起きていないから。安全面に関して保証されているからこそ、みんなでこうやって楽しむことが出来るわけだしね。
私は今日起こるであろう出来事を想像して思わず笑ってしまった。なにしろ、つい今しがた自分自身が度肝を抜かれてしまったのだ。あれをみんなが見たらと思うと、それだけでウキウキしてしまう。
ああ、楽しみだなあ。
わくわくしながら、ローディング終了を確認した私は思わずつぶやいた。
「リンク・スタート!」
別にこんなセリフを呟く必要なんかまったくないけど、期待に胸が高鳴っていたから思わずやってしまった。彼だってそう呟いてるの知ってるんだから、ふふふ。
ヘッドセットからの耳朶を打つ心地良い
あの世界で彼と出会えることに胸を弾ませながら。
× × ×
「やあ、アスナ」
「おかえりなさい、ママ」
「もうアスナおっそーい」
「ご、ごめ~~~ん、ちょっと色々やることあって」
転移直後に、目の前に立っていたのは、ニコニコ微笑んでいるキリト君とその肩に乗るピクシー姿のユイちゃん……と、半眼で私を睨む、リズベッド。
慌てて頭を下げると彼女は、にひーっとニヤケタ顔して私を見て、
「ひょっとして『倫理コード』の解除にでも時間かかっちゃってたのかなぁ~。クエストの後は今日はデートだったもんね、ねー」
「ちょ、ちょっと、何言ってるのよ、そ、そんなこと……」
にやけたリズに反論したいけど、実はまったくできない。
『倫理コード』とは、このゲーム……
チラリとキリト君を見れば、そのスプリガンのアバターの鼻をコシコシ擦って惚けた顔してるし。
もう、ちょっとはフォローしてよぉ。
そんな私たちに、リズベッドが顔を近づけてきた。
「まあ、あんまりいじめても可哀そうだし~、この辺で許してあげよっかなー、にひひ」
「そうですよ、リズさん、もめ事はだめですよ、ね、ピナもそう思うでしょ」
「ピャー」
「おいおいリズベッド、キリの字まで虐めてやんなよ~、そんなに寂しいんなら俺が慰めてやるぞ」
「だ、誰があんたなんか……も、もう」
「お! これはまんざらでもない? ん?」
「う、うっさい、もうあんたの刀直してやんないからね」
「そ、そんな殺生な~、ごめん、許して、ホントに、な、な」
その後ろを見れば、ピナを肩に乗せたシリカちゃんとクラインさん、それにシノンさんとリーファちゃんが立ってこちらを見ていた。
あれ? あの隣にいる青い服のスプリガンの人は……
よく見てみれば、リーファちゃんのすぐ隣に、青いローブ状の衣を纏った黒色長髪の背の高い男性アバターが。
今いるのは『町』のフィールドだから他のプレイヤーがいてもまったくおかしくはないけど、みんなと並んで立ってるってことは、知り合い? なのかな?
そんなことを思っていると、キリト君が私の肩をポンと叩いた。
「えと、アスナ、紹介するよ」
言って、私の手を引いてその青ローブの人の前に行った。
「この人は、俺が今お世話になってるセキュリティー会社の部長さんで、『田口』さん」
そう紹介されて、田口さんは優しい微笑みを浮かべて私に会釈をする。
「えーと、田口です。いや、ここではプレイヤーネームの方が良いのでしたね、『たぐたぐ』と申します。ご主人にはいつも本当にお世話になっております。奥さん」
「へ!?」
お、おおおおお奥さんって言われちゃった、普通に。え、えー、ど、どうしよう。
た、確かにSAOの時に一度はキリト君と結婚してるし、あの時も『奥さん』て呼ばれたこともあったし、それにこの前のうちの家でのこともあるから全然問題はないんだけど、心の準備が~~~!
キリト君を見ればやっぱり鼻を掻いてとぼけ顔。
もぅ、んもう。
「こ、こちらこそ、い、いつも主人がお世話になってます」
恥ずかしいのを必死に堪えてそう言って頭を下げる。うう、恥ずかしいよぅ。
そんな私の肩に飛んできたユイちゃんが立って、
「改めまして、私は娘のユイです。パパがいつもお世話になっています」
えっへんと胸を反らしたあとに、私と同じようにお辞儀をする。それがとっても愛らしくて、可愛くて。そんなユイちゃんの行為に羞恥心まみれの私の心は救われる。
たぐたぐさんはそんな私たちを見ながら、あははははと大きく笑った。
「いやいや、桐ケ谷くん……いや、ご主人のキリトさんからは、可愛いお嫁さんだとは聞いていましたが、まさかこんなに可愛らしい方だったとは。うん、ご家族仲が良さそうで本当に良いですな。うんうん」
大仰に頷いて見せるたぐたぐさんは、その二十歳くらいのアバターからはわからないけど、実際はもっと年上の方なのかな?
そう思ってキリト君に聞いてみると。
「ああ、たぐたぐさんの実年齢は50歳だよ」
という答え。
話し方とか落ち着いてるし、これは納得。
色々と聞いてみると、彼はキリト君が開発協力している、『フルダイブセキュリティーシステム』の開発責任者なのだそうだ。
この防犯装置の開発は、キリト君の関わったあの『
あの事件は、ゲーム中でアバターの命を奪うとそのプレイヤー自身も死んでしまうという、まるで魔法のような殺人事件だったのだけれど、種を明かしてしまえば、申し合わせた複数の犯人がゲーム中の殺害のタイミングに合わせてプレイヤー本人の命を奪っていたという、完全な押し込み殺人だった。
その被害に危うく遭いそうになってしまったシノンさんも、今でこそ楽しそうに見えるけど、やっぱり独り暮らしは怖いといつか漏らしていたのを私も覚えている。
フルダイブ中は全ての感覚がアバターに繋がってしまうため、当然本体を動かすことは本人にはできない。
そんな無防備な状態で悪意を持った人間がすぐそばに来てしまうことを考えると、やっぱり私も怖くなる。
現に、このALO内に私が囚われていた時だって、動けない私が悪意に晒されていたことを、私ももう全て理解しているし。
だからこそ、より安全にこの世界を満喫するためにも、セキュリティーシステムは重要なんだと、キリト君も努力しているし、私もそんな彼を応援してきていたのだから。
「たぐたぐさんは、まだフルダイブを経験したことなかったから俺が誘ったんだ。やっぱり開発するには現場も大事だしな。今日のクエストは短いし、それにみんなにも紹介したかったからさ」
「や、今日は、足手まといになると思いますが、ひとつよろしくお願いしますよ。皆さん」
ペコリと頭を下げるたぐたぐさんに私もみんなも急いでお辞儀。
「いえいえ、こちらこそ。安全にプレイできるってのが何よりですからね、よろしくお願いしますよ、たぐたぐさん」
代表するようにクラインさんがそう返事をする。
それを聞いたたぐたぐさんが、右手でコンソールを呼び出して、私たちを手招きした。
「そうしたら皆さん、ちょっと寄って来て貰えます? このモニターを見てくださいな」
「ん~~? どれどれ~~? えっ? これひょっとしてたぐたぐさん?」
クラインさんのその声に、ビックりしながらモニターを見てみれば、そこにはアミュスフィアを被ってベッドに横になる背の高い男性の姿。
皺が刻まれた精悍な顔だけど、どことなくこのたぐたぐさんのアバターに似ている気がする。
「いやあ、お恥ずかしい、私ですよ。今回は運営に頼んでテストさせて貰っているのですが、とりあえず、これがあればプレイ中に自分自身を確認することができます。天井にカメラつきの機器をとりつけてありましてね、こうやってある程度の視野も確保できますし、この機器から外線も飛ばせます。それと、室内に向けて音声もかけられますからね、これでプレイ中も外とコミュニケーションがとれるってわけですよ、はい」
「おお、すげー」
「これはなかなかいいんじゃない? 外と連絡とりたいなって、私もよく思ってたし」
「そうですよね、いちいちログアウトも手間なときありますもんね。とくにレイドボス戦の時とかって、自分勝手に抜けられませんしね」
「ぴゅいーー」
クラインさんもシノンさんもピリカもみんな興奮してる。
そんなわきで、なぜかリーファちゃんが青い顔してぷるぷる震えてる。
「どうしたの? リーファちゃん? なにかあった?」
「いえ、アスナさん……えっと、その……」
そんな私の後ろで今度はキリト君。
「ま、たぐたぐさんだけだとあんまテストにならないからな、今回は俺『達』も参加してるんだよ、ほら」
言って、虚空に展開した二つのモニター。そこに映っていたのは……
「ぴゃあああああああああ!! お、おおおおおにいいちゃん!」
絶叫するリーファちゃん以外、そこにいる全員がそのモニターを見てしまった。
「こ、これは」
「きゃ」
「うわぁ」
「やっちゃったねー」
「あーあ」
「スグ……お前……」
そこに映っているのは、布団の上でシャツにしましまショーツ一枚で横になっている直葉ちゃん。
慌ててそれを消したキリト君だけど、もう流石に遅いよね。
真っ赤になって泣き出しそうなリーファちゃんがキリト君をにらんでる。
「お前な、今日はテストだって、言っただろ? こんな映像分析にまわせないだろ?」
「だ、だって、私いつも通りでいいって聞いたから、だから、いつも通りで……」
「いつも通り!?」
なぜか急に食いついてきたクラインさん。いったい、なんで?
「リーファちゃん! 良いもの、本当にサンキュウな!」
キリリっと笑ってから親指を立てるクラインさんに、ぷるぷる震えたリーファちゃんとリズベッドの二人がおもむろに剣を装備して、おもいっきりフルスイングした。
「「お前はしねええええええ」」
「ぐっは、なんでお前までええ」
「うっさい、しねええええ」
逃げ回るクラインさんと追いかけ回すリーファちゃんとリズベッド。
そんな様子を田口さんは頭を掻きながらにこにこ見ていた。
「妹が本当にすいません」
「いや、これは失敗しましたな。でも貴重な資料ですよ。いえ、映像は破棄しますが、とくに女性にむけてのハラスメント対策には有効な経験です。まあ、次の試作品には期待してください」
優しそうに微笑むたぐたぐさん。
そんな彼が、自分のモニターを閉じようとしたその時、背後から声をかけられた。
「あら、それひょっとしてプレイヤーのあなた自身を見ているの? へえ、これは便利そうね」
「そうだな、やっぱり、自分の体が今どうなっているかは不安もあるからな」
そんなことを言いながら近づいてきたのは、二人組の男女のシルフなんだけど……うん、知ってる人だった。
「えーと、どちらさまですか?」
恐る恐るといった感じでそう聞くのはキリト君。そういえば、まだこの『姿』を紹介してなかったな。
そんな私の思いをを察したのかどうか、その二人組の女性の方が先に声をかけた。
「あら……、あなた、ひょっとして桐ケ谷君ね? えと、そう、キリト君。そうそう」
「ほう、桐ケ谷くんだったか、やっぱりゲーム内だとわからないものだな」
「えと……、その……、だから、誰?」
そんなキリト君に私は近づいた。
「キリト君、私も今日ね、キリト君に紹介したい人がいたの。えと、といってももう知ってる人なんだけどね、あははは……」
言ってからキリト君を見れば、どんどん青ざめていってしまってるし。
「ま、ま、まさか……ゆ、結城さんと、アスナのお母様ですか?」
「「「「「「ええええ!?」」」」」」
みんな揃って大絶叫。
それをシルフ姿の母さんが微笑みながら答える。
「ふふふ……、いやぁね、キリト君。そんなに怯えなくても大丈夫よ。私たちは貴方にもう明日奈のことをまかせたのですもの。私たちに『娘さんをください』とまで言ったでしょ? もうお義母さんでいいわよ」
「「「「「ええええええええええええ!?」」」」」
みんな再び大絶叫。
クラインさんたちがキリト君の首をつかんで揺すり始めた。
「おい、キリの字。お前、なに俺が彼女作る前にプロポーズとかしちゃってんだよ」
「そうですよ、いつの間にそんな事件起こしてるんですか、初耳です」「ぴゃーー」
「おにいちゃん、なんで言わなかったの?」
「ま、別にいいんだけどさ、無性にキリトの頭にコルトパイソンぶちこみたい気分なんだけど」
「きりとぉー。私の待ってた時間返してよぉ、わあああああーーん」
「お、お前らな……く、苦しいから……、」
じたばたもがくキリト君を見ながら、お父さんと母さんが微笑んでいた。
しばらくして落ち着いてから、きちんとみんなに自己紹介。
実は先日母さんをこのALOに招待してから、たびたび私のアバターでログインするようになって、どうもすっかり気に入ってしまったみたい。
それはそれで凄く嬉しかったんだけど、ここしばらくアミュスフィアを貸してと言わなくなったから、あれ? もう飽きちゃったかな? と、寂しく思いながら、何気なく放置していたら、なんと、自分の専用のヘッドセットを用意して、しかもお父さんまで巻き込んでしまっていたというわけ。
あとはご覧の通りなんだけど、その絢爛豪華な装備の数々にみんな目が点になってるし。
「こ、これって、鎧も盾も全部レジェンダリアイテムだよな……」
「うそ……この手甲……ひょっとしてオリハルコン製じゃないの? わたし、実装してからまだ原石だって見たことないんだけど」
「ほええ~」
「うわ~」
みんなが口々にそういいながら、お父さん達の装備を眺めている。
キリト君はといえば、ちょっと冷や汗垂らしながら母さんに質問していた。
「えーと、ちなみに、お、お義母さんたちのスキルって、見せてもらっても大丈夫ですか?」
「ええ、いいわよ。えーと、こうだったかしら」
言って、コマンドを表示してそこに書かれていたもの、それは。
「うわああああああ、弓術スキル、オールカンストしちゃってる! しかも、なんか見たことないスキルが一杯なんだけど」
「お、親父さんのほうは、大剣スキルカンストかよぉ。もうペアで……、いやソロでも、新生アインクラッド100階層攻略できちゃうんじゃねえの?」
そんな声に、はっはっはとお父さんが笑った。
「いやあ、私たちはこのゲームの初心者だからね、とりあえず部下に聞いてこのアバターは作ったのはいいけど、どうやってプレイしていいのか、良くわかっていないんだよ」
「大丈夫よ、あなた。飛びかたは私が教えてあげるから」
言いながら抱きつく母さん。うーん、こういう光景はなんかむずむずする。
「えっとね、実はお父さんはALO今日がはじめてなの。私が遅れたのは、さっきお父さんたちの立ち上げをしてあげてたからなんだけど……、正直、装備とスキル見て、みんなと同じ感想だったよ」
キリト君がポソリと呟いた。
「まあ、たしかにレジェンダリアイテムはリアルマネーでも売買されてるし、極レアのスキルアップアイテムだって、無くはないけど……」
「無くはないけど?」
真っ青な顔のキリト君がみんなをふりかえって言った。
「この前エギルが、ハンマースキルの『アーマーブレイク』だけ上げるのに、スキルアップポーションをMAXまでの必要分現金で買ったんだって……そうしたら」
ごくりと唾を飲んだクラインさんがキリト君に聞いた。
「い、いくらだったって……?」
「50万」
「ご、ごじゅ⁉ じゃ、じゃあ、親父さんたちの全身って」
「なあ、クライン、この話はもうやめよう。こつこつ稼ぐの辛くなるから」
「で、でもようキリの字、気になるじゃねえか……」
「ちなみにエギルな……、あのあと奥さんにバレて、奥さん1週間帰ってこなかったって」
「よし、やめよう。すぐやめよう。モテなくなるのだけはたえられない」
「いや、お前別に今までもモテたことないだろ」
「あははは……」
いつも通りの会話、いつも通りのやり取り。
いいな、楽しいな。
私にはキリト君がいてくれる。それにユイちゃんも、みんなも、それが、なにより嬉しい。
こんな日々がいつまでも続けばいいな。
そう、これは願いだよ。
あの世界に閉じ込められて、絶望して、でも、私たちは帰ってきた。
失ったものはたくさんあった。でも、得たものもたくさんあった。それが今の私たちの形。
守りたい、壊したくない。
だから願う。私はいつまでだって、この関係を守っていきたいと。
この時、笑い合う私たちを見つめるその黒く淀んだ瞳の存在に、私たちは誰一人気がつくことはなかった。
× × ×
あのあと、お父さんたちは東方向に向かって飛び立っていった。飛行スキルもすごいことになってたから、もはやロケットみたいなスピードだったけどね。
その方角には新しく発行された高ランククエストの舞台の浮遊大陸があるはずだけど、どうやら、それをネットで見たらしくて、今日はその浮遊大陸で観光兼デートをするみたい。
確か中層アインクラッドのレイドボスクラスのモンスターが、標準ポップするって聞いた気がするけど……
まあ、遠泳の大会に、モーターボートで参加するみたいなもんだもんね、心配ないか。
私たちはと言えば、新しく開かれたアインクラッド50~60階層の攻略兼、期間限定イベント、食材調達料理対決に参加。
狙うのは当然あの『ラグーラビット』。実は今回のイベントで、このS級食材の出現率が向上しているって噂があってなにがなんでもこれを手に入れたいって、みんなは相当気合入っているし。
私だって、あの美味しい料理をもう一度味わいたいって思いは強くて、かなり頑張って探したけど、今日の森の散策では流石に見つけられなかった。
このイベントはそこまでやりこまなくても、必要な材料さえ手に入れば、私の料理スキルでなんとかなるので、もともと、寝るまでの短い時間でプレイしようって約束だったから、今夜はこれでお開き。
とりあえず、キノコや果実類を少しゲットして、それを持って50階層の転移門へ。
「じゃあ、今日はここまでだな。明日こそは絶対ラグーラビットを捕まえてやろうぜ」
「だな。あ、たぐたぐさんはいかがでした? 森の中ばっかりで申し訳なかったのですが」
「いやいや、素晴らしい経験でしたよ。ALOの中がこんなに美しいところだったなんて、やはり来てみなければ分からないものですな。それに飛んだり跳ねたりしても体がよく動きますし、長年患っていた腰痛から解放されただけでも本当に嬉しい一時でしたよ」
「そうですね、基本的に五感すべてを使ってプレイしているわけですから、万全どころか強化された肉体を楽しめますからね」
そのキリト君の言葉を聞いてうんうん頷くたぐたぐさん。
「これは皆さんがはまるわけだ」
その言葉には激しく同意できる。
私だって、この世界での経験程素晴らしいものはないって、思うようになってきていたし。
そう考えたそのとき、胸がすこしだけチクリと痛んだ。
あれ、どうして私今もやもやしたんだろう。
自分でも良く分からないその感情に少しだけ不安を覚える。
そして、いつだったか、だれかが言った言葉がふと脳裏をよぎった。でも……、それは次のキリト君の言葉で掻き消えてしまった。
「また明日ご一緒しませんか?」
そうたぐたぐさんを誘うキリト君。それに、一瞬だけ眉を下げたたぐたぐさんが答えた。あれ、今なにか悲しそうな表情に見えたんだけど……
「是非……、是非そうしたいですな、でも。残念ながら、私もいろいろ忙しくてですね、明日は必ず来れるとはお約束できないのですよ。せっかく誘って頂いたのに、すいません」
「いえいえ、お忙しいのにすいませんでした。でしたら、来れそうだったらってことで、お待ちしてますね」
「わかりました。皆さん、今日は本当にありがとうございました」
頭を下げるたぐたぐさんに、みんなも頭を下げる。
そしてめいめいの挨拶が終わると同時に、たぐたぐさんはログアウトしていった。
「腰の低いいい人だったなー」
「だね、それに、あのセキュリティーの機能いいよね。私も欲しいな」
「ん? リズベッド……お前自分が襲われちゃう心配とかしてるのか? だーいじょうぶなんじゃねえか? お前なら」
「クライン、どうもあんた私に喧嘩売りたくて仕方ないみたいねー、やっぱり一度死んでおこうか‼」
「い、いや、ほらもう夜も遅いし、また明日な、な、な。じゃあ、キリの字よぉ、お前らあんま夜更かししてイチャコラしてんじゃねーぞ、じゃな、あばよ」
「「なっ‼」」
「こら、クライン、待て」
慌ててログアウトしようとしているクラインにリズベッドのハンマーが振り下ろされる。
そんな光景を見ながら、みんなも一人ずつ帰っていった。
私はキリト君を振り返る。
「ねえ、私たちもいこっか」
「ああ、うん」
「じゃあ、今日は私はパパのナーヴギアに退散しますね。楽しんでね、パパ、ママ」
「もう、ユイちゃんたら」
ウインクをして消えて行くユイちゃん。もう本当におませさんなんだから。
私はキリト君と手を繋いで転移結晶を持った。
これから私たちが向かうのはこの世界の我が家でもある、あの22階層の森の家。
ここ最近、私たちは毎晩この部屋で過ごして、そして、ここで眠りながらログアウトするようにしている。
だって、私たちは現実世界でも結婚はしていないまでも、『婚約』をしたのだから。そしてその家で、私たちは幸せな時間を過ごしていた。
いずれは現実の世界でも一緒に暮らせるんだろうな……ふふ。
一人でそんなことを妄想して思わず笑みがこぼれてしまう。
そんな私はふと、あの日のことを思い出していた。
× × ×
先ほど、母さんが話していたとおり、キリト君はお父さんと母さんに私との結婚についてのお願いの挨拶に来てくれた。
私たちはまだ学生だし、それに年だってようやくキリト君が18歳になったばかりで、普通ならそんな約束は結んでもらえるわけはないと思っていた。
でも、母さんや京都の実家から再三お見合いを勧められた私は、もうそれが嫌で嫌で泣いてお父さんたちに訴えた。
私が愛しているのはキリト君だけだと。キリト君なしではもう生きていけないと。
そんな私の言葉に、母さんは初め呆れた顔をしていたのだけど、そんな母さんを説得してくれたのはお父さんだった。
お父さんはキリト君のことを買ってくれていたのだと思う。
キリト君があのデスゲームで生き残って、心に傷を負いながらも、私を救い出してくれたことも理解してくれた。だからこそ、あの日、キリト君が私のために、お父さんたちに対面したあの時、ああやってあえて厳しい事を言ってくれたのだと思う。
『君はまだ何も現実の世界での力を持ってはいない。そして、この世界が如何に過酷なのかも理解してはいない。そんな子供に、娘を預けられると思っているのかね』
その言葉は私も一番言われたくないことだった。
私たちは大人のまねごとをしているだけのただの子供。
そんなことわかっているし、今すぐにそのお父さんの言葉に反論できるだけの物なんて用意はできない。
でも、そんな思いのなか、彼は言ってくれた。
まっすぐに、真剣に、お父さんを見つめながら。
『明日奈さんを心から愛しています。俺……、僕の一生をかけて必ず幸せにしてみせます。今言えるのはこれだけです。どうか、どうか、明日奈さんを僕にください。お願いします』
その言葉に涙があふれる。
もうこれ以上ないくらいの幸福感に胸がいっぱいだった。
キリト君を見れば、頭を下げながら全身を震えさせていた。
最悪の恐怖心の中で、きっと彼は私の為に言ってくれたんだ。
だから、もう私に迷いはなかった。
このあとどんな言葉をお父さんたちから言われようとも、もう決して迷わない。
キリト君を必ず守ると、どんなことがあっても私だけはキリト君のそばに居ると。そう、私は心に決めた。
二人で頭を下げ、お父さんたちの言葉を待つ。
でも、なかなか言葉が返ってこない。
暫くしてふと視線を上げてみれば、あのいつも厳格なお父さんが表情を綻ばせていた。そしてそんなお父さんに寄り添う母さんは、声を堪えたまま目元をハンカチで拭っていた。
そして、母さんが答えてくれた。
「明日奈……、彼の為に努力しなさい。頑張って幸せにおなりなさい」
信じられなかった。
いつも厳しいあの母さんが、まさかこんなにあっさりと……、ううん、こんなに優しい言葉をくれるなんて。
そしてお父さん。
お父さんは、先ほどとはまるで違う、優しい声音で話してくれた。
「桐ケ谷君……。何もないことを恥じる必要はない。大事なのは何を為すか、何を残すかだ。私は君ならきっと素晴らしい未来を作ってくれると確信しているよ。どうか、娘を宜しく頼む」
こうして私とキリト君の婚約はすんなりとまとまった。
正直に言えば、ここまですんなりと決まったことは怖い事でもあった。
だって、これでもう後戻りはできないのだから。
ううん、キリト君との関係に不安があるとか、そういうことではないの。
そうではなくて、これからは、私たちの為すこと全てに重い責任が生まれるということ。それは経験したことのない未知に対しての恐怖心でもあった。
彼と幸せな未来を築く。ただその為だけに私は全力を尽くす。それは失敗のできない本当の闘いの様に思えた。
でも、きっと大丈夫。
彼とならどんな苦難も乗り越えられる。きっと……
先の見えない暗闇を思い浮かべながらも、私はキリト君と二人で居られることを心から祈った。
× × ×
想いに耽っていた私だけど、彼の手のぬくもりを感じて、心がときめいていた。
一緒に居られることを心から感謝していた。
そんな思いのなか、彼がポツリと言った。
「家に行く前に寄りたいところがあるんだ」
「え? どこ?」
彼を見れば、沈鬱な表情で正面を見据えている。
一体なにを思っているのか……
不安に駆られた私が声をかけようとしたそのとき、急に私を振り向いたキリト君が真剣な眼差しのまま私に言った。
「アスナ……、君を愛してる」
「ふえ? ど、どうしたの? 急に」
突然の告白に戸惑ってしまう。でも、その影のあるキリト君の顔に、その後の言葉が続かなかった。
そして彼はつぶやく。
「俺は、今とても幸せなんだ。君と居れて、君と居させてもらえて、そして、君との未来まで貰うことができた、アスナ……。でも、俺には幸せになる資格はないんだ」
「え、なんで……、あ」
唐突に思い出す。
今のキリト君の表情は何度も見たものだったから。
彼が悩み苦しむのはいつだって、彼が切り捨ててきてしまった人たちのこと。そう、彼は死んでいったあの世界の人たちのことを、いつだって思い、そして、いつだって苦しみ続けていたのだから。
それは私では癒せないことだった。
彼の深く傷ついた心に手を差し伸べることは出来ても、私にはそれ以上どうしようもなかったから。
だから、私は彼に言う。
彼を助けるために。
「キリト君、私も一緒に行く。あの人たちに会いに……『第27階層』へ」
一瞬キョトンとしてしまったキリト君だけど、すぐにコクリと頷いて応えてくれた。
そして二人で手を握り合い、転移結晶を掲げて唱える。
「「転移!」」
まばゆい光に包まれた私たちはあの場所へと送られた。
そう、キリト君の凍ってしまった心の置いてあるあの場所へ。
× × ×
その淡く青く輝いた通路の奥、その迷宮の一角にその隠し扉はあった。
その扉の前に彼と並んで立ち、そしてそっとキリト君を見つめる。
彼は震えていた。
その隠し扉のキーへと手を伸ばそうとして、そして触れることが出来ないでいる。
それほどまでの恐怖心を彼は心に宿したままだったということに、私は初めて気が付いた。
話では聞いていた。
SAOで彼が失ってしまった仲間たちの話。
ソロであった彼が初めて心を休めることのできた帰ることのできる場所、そしてそれは、彼が初めて失ってしまったものでもあった。
あの日、彼はここで助けることができたはずの仲間達を、全員失ってしまった。
そしてその自責の念に囚われ続け、SAOをクリアした今であっても、その想いは取り払われることはなかった。
その場所がここ。
キリト君は震える手を必死に伸ばそうとしながら、小声でつぶやいた。
「この場所のことを俺はずっと見ないようにしていた。だって、ここは、俺が殺してしまったみんなの魂のある場所だから。はは……、俺、今心から怖いと思ってるよ」
「キリト君……」
私は彼を抱きしめた。きつくきつく抱きしめた。そうしないと彼が今にも消えてしまいそうで。
「キリト君だけじゃない。みんな、あのSAOの世界に生きた私たちは、みんな何かを失ってしまったんだよ。後悔して、泣いて、苦しんで、それは仕方ないけど、それでも前に進まなきゃならなかったんだよ。だから、お願い。自分だけを悪く思わないで」
彼はそっと私の頬をなでてくれる。そして、少し穏やかになった表情で私を見た。
「ああ、ありがとう。分かってはいるんだ。でも、それでも自分のことは許せない。だから……」
すうっと大きく息を吸い込んだ彼が落ち着いた声で言った。
「だから、みんなと会ってくる。会ってもう一度、いや、何度でも謝ってくる。俺だけ幸せになってごめんって。だから、一緒にきてくれるか? アスナ」
「うん」
嬉しかった。彼がそう言ってくれたことが何よりも。
私は彼に寄り添おう。寄り添い続けて少しでも彼の支えになろう。
私は彼の手を取った。
そして、そのまま二人で壁のスイッチを起動した。
ゴガン
大きな音がなり、そこに色の違う赤茶けた扉が出現した。
それを私は押し開く。
そして中を見た。
部屋の中央にはトレジャーボックスが一つ置いてあるだけ。
彼はその部屋の入り口で、ふうっと息を吐いた。
「この部屋は転移結晶が使用できないはずだ。そして、あの箱を開けることでトラップが起動して、大量のモンスターが現れることになる。なあ、アスナ。やっぱりお前は外で……」
「私も一緒にいるよ、だって、私はキリト君の奥さんだから」
その言葉にキリト君がぷっと吹き出した。
私も思わず笑ってしまう。
「みんなに謝るんでしょ? だったら、笑顔でごめんて言おうよ。じゃなきゃ、謝ったことにならないよ」
「なんだそれ? そんな風に謝られたら普通怒るだろ」
「怒らないよ。だって、どうせなら幸せになって欲しいはずだモン。みんなの分まで幸せにならなきゃいけないんだから、みんなが笑顔になっちゃうくらいに元気に謝ろうよ」
「アスナ……お前それ絶体間違ってる。でも……サンキューな」
「どういたしまして」
ふっと肩の力を抜いたキリト君が、つかつかとトレジャーボックスに近づいて、おもむろにそれを開いた。
すると、けたたましい警報が突然に鳴り響く。
私も彼も、覚悟はとっくに出来ている。
ガゴンガゴンと、壁が開く音が鳴り響く。それと同時にたくさんのモンスターの声も聞こえてきた。
「いくぞアスナ」
「うん、キリト君」
私は彼を背中に剣を正面に構えた。
そして、目を赤く光らせたその集団に向かって一気に迫った。
「はああああああああああああっ」
振るう剣は怒りでも憎しみでもない。ただ、救いたいその想いに私は駆けた。
願うのはただ一つ。
キリト君を支えること。それだけを心に、私は戦った。
× × ×
バトルはあっという間に決した。
スキルレベルからしても、すでにこの階層のモンスターと私たちとでは差がありすぎるわけだし。
でも、キリト君にとっては何よりも恐ろしい戦いであったはずだ。
青白い顔でげっそりとしてしまった彼を抱いて、私はその部屋の最奥に座らせた。
呼吸は荒く、かなりつらそうに見える。
そんな彼に私はアイテムボックスから飲料水を取り出して手渡した。
「ありがとう、アスナ」
「ううん」
彼は力を失した様子でその場で動けなくなる。
そしてしばらくして、ぽつりと零した。
「『彼らの意識は帰ってこない。死者が消え去るのは、どこの世界でも一緒さ』だったかな……今こそあのスマした顔に一発お見舞いしたい気分だよ。でも、ぜんぜんすっきりはしないし、後悔も消えてないけど、なんでかな……、少しだけ、今生きて居られて良かったと思えた」
どうして? とは聞いてはいけない気がした。
彼の苦しみはそんな簡単に割り切れるものではないことをわかっているし、彼自身もそうなることを望んでいないのだから。
でも、彼はつづけた。
「多分なんだけど……、もし俺が今ここに居られなかったら、こうやって彼らを想うことすらできなかったなって、そう思えたことが理由のようなきはする。それに、アスナのそばに居られることが何よりうれしいんだよ」
その言葉に、私の胸も熱くなる。
それはもっとも聞きたかった愛するひとからの言葉。
そして、私も贈りたかった言葉。
「うん、私もだよ。キリト君!」
そうお互い微笑むことができたことが何よりうれしかった。
キリト君はゆっくりと立ち上がって、周囲をゆっくり見回し始めた。
その行為がいったい何を意味するのかは私には分からない。
でも、真剣に見つめるその瞳に、私は静かに待った。
しばらくして、キリト君が誰ともなくに向かって声を掛けた。
「みんなごめん。俺は生き残っちゃったよ。だから悪いけど、頑張って生きることにした。みんなにはまた会いに来る。約束する」
そう言ってから目を瞑り、ぎゅっと拳を握りしめて胸に当てた。
それは死者へと送る冥福の祈りでもあり、自らの覚悟の形のようにも見えた。
私はそんな彼を待ち続ける。
きっと様々な後悔がいまだに彼を蝕み続けているのだろう、それを思いながら、ただ待った。
「じゃあ、行こうか」
そう私に声を掛けてくれたとき、彼は幾分か柔らかな顔になっていた。
それを感じ、私もそれにこたえるべく笑顔で頷いた。
「うん」
これで何かがかわるというわけではないと思う。
でも、彼も、私も、向き合わなければならないことなのだと理解している。これからさき、一生をかけて、私たちは彼らの分まで重荷を背負って生きていくのだ。
私はキリト君とすぐに手を繋いだ。
彼はもううつむいてはいなかった。
前を向いて、そして、二人で歩んだ。
と、そうして二人で扉から通路に戻ったその時、少し離れたところに5人の人影が見えた。
遠目に見て、男性が4人、女性が一人の様だけど、様子がすこしおかしい。
そもそもすでに攻略されたこの階層に、あの人数のパーティで挑む必要はないし、こんな何もない通路でただ何もせずに立っているのは不自然だ。
「キリト君……、あの人達……なにか変だよ……、キリト君?」
繋いでいたキリト君の手が、先ほど以上に激しく震えていた。
いったいなにが?
と思った次の瞬間、目の前で長い槍を持ったショートカットのその女性がこちらを振り返った。
その瞳はまるで氷のように冷え切った様子で、私たちを見つめ、そして、ぽそぽそと、口を動かして何かを呟いていた。
私には、まったく聞こえないそれ……でも、その最後の言葉だけは、彼女の口の動きだけではっきりとわかってしまった。
「サチ……」
「え?」
突然そう呟いたキリト君が、私の手をふりほどいて彼らにむかって駆けだした。
「キリト君、待って」
「サチ……、みんな、俺だ、キリトだ。お前たちを助けられなくて本当に悪かった。許してくれ」
駆けながらそう叫ぶキリトくん。
私は追いかけようと思うものの、そのとき、きらりと光ったそれを見て私は走るのをやめた。
”転移結晶?”
一瞬だけど確かに見えた。もしあれがそうであるなら、あそこにいるのは間違いなくプレイヤーだ。でも、いったいなぜこんなことを。
「待って、キリト君。それはサチさん達ではないわ。落ち着いて、戻って」
それでも、キリト君は走り続ける。
そして、ついに彼らに迫ろうとしたその刹那。彼らの姿は一瞬で掻き消えてしまった。
転移したのだ。
「キリト君‼」
慌てて駆け寄った私が見たのは、涙を流し、ガクガク震えている怯えたキリト君の姿。
私はすぐに彼をきつく抱きしめる。
そうしなければ彼が今すぐにでも壊れてしまいそうに思えたから。
彼は荒い呼吸をしているけど、すこしではあるけど私を見てくれた。
「わ、悪い、アスナ。俺、ちょっと今、辛い……」
「うん、うん、だいじょうぶだよ、キリト君。すぐに私が助けてあげるから」
私は転移結晶を二つ取り出して、そしてそれをキリト君にも持たせた。
そしてすぐに帰還した。私たちの森の家へ。
× × ×
「今日はもう無理そうだね」
「なんだ、エッチしたかったのか、アスナ」
「キリト君の……バカ」
二人で布団に入ってお互い裸で抱き合っている。
さっきまでは大分苦しそうにしていたキリト君だったけど、今はもう平気みたい。
こんな格好ではあるけど、正直今はふたりともそんな気分にはなれなかった。
「キリト君。さっきあの通路で会ったプレイヤーの人たち、ひょっとして、キリト君が言ってたあの部屋で死なせてしまった仲間の人に似ていたの?」
その問いにキリト君は表情を変えずに答えた。
「ああ、似ていた。とくにサチは……。俺にはサチ本人にしか見えなかった」
「もし本人なら、幽霊ってことになるけど、でも転移結晶つかったからね。あの人はプレイヤーだよ、まちがいなく」
そう、それだけは間違いない。
私とキリト君はかつで幽霊を見たことがある。
それは二人で同時に見てしまった幻であったのかもしれないけど、あの時、私たちは確かに意思をもったかのようなその存在を目撃した。
でも、それは幻に限りなく近いもの。
先ほどみた彼女達どう見てもそうではなく、完全なプレイヤーであった。
だとすれば、なぜあのような真似をしたのかが重要になる。
「サチさんたちのことを知っている人はどれくらいいるの?」
「そうだな……クラインと、あと何人かには話したけど、でも実際に顔を見たことのあるやつはいないはずだ」
「そうなると、サチさんを知っている誰かが、わざわざあんなことをキリト君の前でしたってことになるけど、誰かに恨まれたりしてるのかな」
その私の問いに、キリト君は即答。
「俺は嫌われてたからな。恨まれるだけなら相当数いるよ」
「そうだったね、うーん」
悩んでる私の額に、こつんとキリト君も額を当ててきた。
「ありがとうなアスナ。俺一人だったらきっとあの場でおかしくなってたよ」
「そうだよ、感謝してね。ふふ、でもいいの。キリト君のことを助けられたから、私本当に嬉しいんだよ」
「なんか、最近、どんどん恥ずかしいこと言うようになってきたな、お前」
「もう、そんなこと言ってたらもう助けてあげないんだからね」
「ああ、すまない。俺はアスナに返せないくらいの貸しを作っちまったみたいだ」
「だから、いいんだってば。一生かけて私を幸せにしてくれるんでしょ?だからいいの」
「うん、そのつもりだよ。わりい、今日はいろいろありすぎて、もう疲れちまった。そろそろオチる……」
「いいよ、眠るまで、抱きしめてあげるから。大好きだよ、キリト君」
「ああ……、俺も……好きだ……、アスナ…………」
私の胸の中で、寝息をたて始めるキリト君。そんな彼をぎゅうっと抱きしめる。
私ね、もう十分幸せをもらってるんだよ。だから、君が苦しむのが本当に辛いの。私が君を必ず守るから。
私の中で大きくなっていく彼の存在に、私は、決意を新たにした。
× × ×
「う……ん……」
ベッドの上で覚醒した私は、アミュスフィアを外して大きく伸びをした。
結局彼はあのまま寝落ちしてしまったから。
時計を見れば、深夜の3時。
もうすぐに朝になってしまう。
「ふあああああぁ」
流石に眠い。
ダイブ中は身体は寝ている状態だとはいえ、脳は起きているわけだから、疲れないわけがない。
早く寝ないと……、そう思いながらも先ほど起きた奇怪な事態がやっぱり気になっていた。
「キリト君の昔のパーティを知っている、恨みを持った人物……かぁ」
どう考えても悪質だった。
あの部屋で全滅したことも知っていたからこそ、あんな変装をしてまでキリト君の前に現れたってことだし。
でも……と、思う。
キリト君に恨みがあるのなら、どうしてあの場で襲ってこなかったんだろう?
こちらは2人、むこうは5人。
簡単に負ける気はないけど、実力差が近ければ、こちらは確実に敗れていたと思う。そもそもキリト君を狙うのならば、キリト君の今の実力も把握できているはずで、十分高い実力のプレイヤーで固まっていたはずだし。
そう考えると、ますます相手の目的がわからなくなる。
恨みがあるって言っても、ゲーム内じゃ死んでもリスタートするだけだし。
ひょっとして悪質なただのいたずら? にしては手が込んでるし……
「うーん」
悩んでも悩んでもやっぱり答えが出ない。
仕方ない、今は休もう。
でも、その前に、ちょっとお水でも飲んでこようかな。
私はカーディガンを羽織って、スリッパをはいて部屋から出た……、と、その時。
トン
「え?」
目の前の真っ暗な廊下に誰かいる。
そして、私のお腹に唐突に訪れたその現象。
それはまず違和感だった。
何かがお腹に入っている。
それがなんなのか理解するまえに、目の前の存在がそのくぐもった声で私に囁いた。
『マズハヒトリメ‥‥……‥クックック……』
その地の底から湧き上がるようなおぞましい声に、私の全身は泡立つ。と、同時に、先ほど感じた違和感が、激痛へと変わりはじめていた。
刺された!
全身がその事実を初めて理解し、絶え間なく脳へと送り込まれてくる痛みの信号に、私の意識は遠のいていく。
いやだ、こんなところで死にたくなんかない。
脇腹に深々と刺さっているのは、包丁のような形状の刃。
私はそれには触らないようにし、静かに床にしゃがんだ。
ぴしゃあっと、着いた膝は、何かの液体を周囲にまき散らす。
これが自分の血液であることに私は絶望した。
助けて、助けてキリト君。
声はまったくでなかった。
ただただ薄れゆく意識の中で、愛しい彼の名前を呼び続けた。
そんなとき、彼女はふと、あのときの女性プレイヤーの声なき声を思い出す。
あのサチさんにそっくりだという、彼女のそのことば、それは……
『必ず復讐する……キリト』
「お嬢様‼」
遠くで誰かが私を呼んだ気がした。
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