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天文19(1550)年、7月――
「騎馬隊、前進せよ」
晴信は信濃守護・小笠原長時を攻めていた。
昨年行われた塩尻峠の戦いで大敗を喫した長時にはもはや晴信に抵抗する力もあまり残されておらず―
「弱いな、小笠原は」
「…はっ、物見の報告によりますと、既に長時は林城を放棄して北進の村上義清の所へ逃れた模様。この戦、我らの勝利にございます」
武田家は労せずして林城を手に入れていた。
信濃守護の小笠原が降ったことで周囲の豪族たちも次々に武田に帰属し、こうして信濃で主だって武田に反抗するのは北信の村上義清を残すのみとなっていた。
「残すは義清か…2年前を思い出すのう兵部」
「…はっ。上田原でございまするか」
甲斐へ帰還し、自室で飯富虎昌と話す晴信。
「そう…上田原じゃ。」
晴信は遠くを見つめた。
上田原合戦。
2年前の天文17(1548)年に村上義清と晴信が行った戦いであり、晴信が初めて大敗を喫した戦いである。
武田軍の被害は凄まじく、晴信にとってはかけがえのないふたりを失った戦いでもあった。
板垣駿河守信方と甘利備前守虎泰。
どちらも信虎政権下からの重臣でありながら、信虎追放のクーデター時には晴信に協力、その後も家督相続して間もない晴信をよく支えた。
特に板垣は晴信の守役でもあった。
「駿河も備前も畳の上で死なせてやることが出来なんだ。これではむこうに行った後、またじいに叱られてしまうかもしれんな」
「…お館さま、駿河殿なら恐らくこうおっしゃいます、「戦国の世じゃ、何も言いますまい、それより天下を取ってまいれ!」と…」
そうかもしれぬな、と晴信はやや懐かしさを覚えた。
幼い頃の晴信はやんちゃが過ぎる子どもでよく守役の板垣には叱られていた。
それは元服し家督を取ってからも続いていた。何かある度に晴信さまは天下を狙える器、素行にももう少し気をつけていただきたい、と口を酸っぱくして言ってくる板垣に晴信は辟易していた。
と、同時に武田の跡取りとなって自分に対して意見を述べる人間が少なくなる中で、物怖じせずに諫めてくれる板垣のことを信頼していた。
「お館さま…今度は村上攻めとなりましょう、なれば義清を完膚なきまでに打ち破ってこそ駿河殿や備前殿への手向けとなるというもの」
虎昌の言葉に晴信はうなずく。
「晴信さま…」
晴信の脳裏には若き日の甘利の言葉が浮かんでた。
「国を統治するということはすなわちその国の民たちの生活を守るということ。ゆめゆめ、お忘れなきよう」
備前よ、わしはお前が望んでいた領主になれるだろうか?
晴信は思いを巡らせていた。
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「…太郎よ、まだ若いお前に聞くのも酷かもしれぬが、ぜひ今日は忌憚のない意見を聞かせてほしい」
どうしてこんなことになっているのか?
と、太郎は戸惑っていた。
虎昌は「これは素晴らしきこと!ぜひお館さまとお話を!」とか言ってめちゃめちゃはしゃいで止めるどころではなく、信繁は「うむうむ」と満足そうな顔してこれまた取り合ってはくれなかった。
「…信繁から聞いたところによればお前は国力を上げることについて疑念があるようだな、ぜひ聞かせてほしい」
太郎はこうして晴信と私的に二人で話すのは初めてであった。
「はっ…しかしそれがしの意見など戯言に過ぎぬゆえ」
「今の世、案外戯言と思われているようなことをやらねば変わらぬかもしれぬ。聞かせよ」
ふむ、と太郎は考えた。
(これまでは遠ざけられていたような気がしてなかなか晴信という人物の人となりがわからなかったがこれは良い機会だ、正直に意見を述べてみよう)
「それでは恐れながら。まず我が甲斐の国力は低くそれはどうしようもないことでございます。しかしなれば、その国力の低さこそわが国の強みにもなりえると考えた次第」
ほう、続けよ、と晴信は促す。
「甲斐の兵たちは精強で知られております。その強さは戦場でどん欲に死に物狂いで戦うところにあると考えております。これはわが国が貧しく、豊かな国を侵略することでしか貧しさを救えないと考えているのではないかと思った次第、それゆえ、ある程度は国を豊かにすることは必要でしょうが、必要以上に豊かにするとこの兵の精強さが失われてしまうと考えたのでございます」
しばしの沈黙。
「…それでは、いま武田が、わしが進めている信濃攻略、並びに治水事業は意味がないと?そういうことか?太郎よ」
タラリ、と嫌な汗が流れた。
「…いや、決してそのようなことは!し、失礼つかまった!」
太郎は慌てて平伏した。脳裏に静養を勧めてきた時の家康の顔が浮かんだ。
「はーはっは、太郎!お前はやはりまだまだのようだな!」
これに対して晴信は豪快に笑った。
「最初に述べたであろう、忌憚のない意見を聞かせてほしいと!この程度で父に対して臆するのではとても武田は任せられんな!」
ポカーンとしている太郎を差し置いて晴信は笑い続ける。
「太郎、よいか。前からお前に足らないものは何かと考えておった。その自信のなさじゃ、人の顔色を伺いながら過ごしているように思える」
(一度はいわれのない罪で自害させられた身だ。慎重になるのも仕方がないだろう)
「確かにお前の賢さや発想の凄さは認めよう、目を見張るものがある。しかしながらお前には野望、剛気というものが欠片も感じられない。どうだ?違うか太郎よ!」
太郎は言葉を返すことができないでいた。
「良いか、今日ノ本は戦乱の世にある、しかしながら戦乱はいつまでも続いて良いものではない。いつか戦乱を終わらせる人物が必要となろう。いいか、太郎、わしはな、」
晴信は少し呼吸をおいて話し続けた。
「ただ一介の戦国大名に終わる気はない。天下を、狙っておる」
その言葉に太郎は固唾を飲んだ。
「ち、父上、本気ですか」
「本気だ。だからわしは親不幸という誹りを受けようとも信虎殿を追放した」
さっきまで笑っていた人物とは同じ人物とは思えないほど晴信は真剣な表情をしていた。
「わしはこの甲斐の国に住む人々を昔から見てきた。民たちの暮らしは戦乱に振りまれいつまでも安定することを知らない。その理由はなんだ?戦乱の世が続いているからだ。だからわしは戦乱を終わらせたい」
「…」
太郎は言葉を発せずにいた。
「だからわしは自分の野望のためにはどんな手段だってとる。実の父親も追放した。旧来のしきたりに従うことなく有能なものは身分を問わず登用した。同盟だって利用するだけさせてもらう。一族だろうと容赦なく使わせてもらう、そのためであればいくらだって自らの悪名は受けて見せよう」
実際、武田家は信濃の諏訪家や村上家と信虎殿の時代に結んでいた同盟を破って信濃に侵攻していた。
その同盟破棄の結果、諏訪に嫁いでいた晴信の妹は自害してしまっている。
「ただ、天下を取るにはすべての素質が備わっていなければなるまい。わしはそういう意味で、わしの、すなわち武田の跡取りは天下を狙っていける者ではないといけないと考えておる」
晴信は太郎にさらに語り掛けた。
「確かに太郎、お前は優秀なのであろう。しかし、それだけでは天下は取れぬ。人の顔色を伺いながら自分の意見を引っ込めるようではいけないということだ。むしろ父を負かせるぐらいの気概が欲しい。わかるか、太郎よ」
(これが武田信玄という怪物か。父上が恐れて尊敬どころか崇拝していたのも少しわかる気がする。しかしこれは・・・)
太郎は必死に頭を絞っていた。なぜならここで晴信は自分を試しているということを理解していたからだ。ここでの回答の如何で晴信の自分に対する値打ちが決まる、と。
「…その気概とは父上が信虎殿を追放したように、わたくしめの野望のためには父上を追放することも厭わない覚悟で望めと、そういうことでしょうか…?」
「…」
太郎は賭けに出た。中途半端な言い訳や嘘は通用しないと考えたからだ。これは史実の義信が行おうとしたことでもある。
長い静寂が訪れた。
賭けに負けたかもしれぬ、と太郎が少し後悔し始めたとき、
「よう言うた!わしにその話題を投げ掛けるとは大したもんじゃな、お前は」
晴信は笑みを浮かべていた。
「ふむ、ちょっと早いかもしれぬが具足始を執り行うこととしよう、それにいつまでも太郎では格好がつかぬ。今後は義信と名乗るがよい」
「は、ははっ!」
(賭けに勝ったな、これで家中でも動きやすくなるだろう。しかし信玄はいい人物だなと考えていいのだろうか)
「だからの、太郎…いや義信よ。」
「な、なんでございましょうか?」
「先ほど述べたこと、皆の前で改めて聞かせてほしい。もう臆するなよ…?まあさっきの話だがお前ごときに追放されるような晴信ではないがな!」
(やはり油断ならない人物だ、この人は)
こうして晴信と太郎の会談は幕を閉じた。
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「あー、疲れた!いきなり部屋によばれたかと思ったらあんな話されて!もう無理だって!」
「お館さまとのお話は上手くいきましたかな…?」
太郎は自室で虎昌に愚痴っていた。虎昌がどういう人物かまだ測りかねているのでくだけた口調で真意を探ろうとしていたのである。
「天下がどうだとか、お前には野望が足らぬ、とか!色々言われても困るって~」
「なんと!そのようなお話をされたのですか!」
虎昌は大層驚いた様子であった。
「これは…いややはり太郎さまをお館さまは高く買っていらっしゃる証拠。ああ、この虎昌、太郎さまにお仕えすることが出来て何よりの幸せでございます! 」
(これは本当にこういう人物なのだろうか)
「あ、太郎っていうのはもう無しね、改名するんだってさ」
「…なんと!それではいよいよ義信さまと?」
「うん、なんか先例よりは早いらしいけど具足始めもするんだってさー」
虎昌の方を向かずに述べていた太郎であったが背後からすすり泣く声が聞こえてきた。
「なんと…お館さまはそこまで…」
「え、なに泣いてるの?」
「いえ…これは失礼いたした…年取ると妙に涙もろくなりもうして」
(案外悪い人物ではないのかもしれないな)
「そうと決まれば準備しませぬとな!ほれ、まずは…」
前世で行った具足初めのことを思い出しテキパキと準備を進める太郎であった。
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「本日からそちは武田太郎改め、武田義信と名乗るように!」
「ははっ!」
(何の因果かは知らぬが信の諱だけは上総介さまと同じであるのよな、生き残るために励もう)
天文19(1550)年8月。史実より2年早く具足始は行われ、同じ日にこちらは史実より3年早く後の世で呼ばれる、武田義信は誕生した。
次回から戦いの描写とか書いていけたらなぁって感じです