先陣を切るのは横田備中守高松の部隊。佐久地方に詳しい備中に先陣を任せたのは当然の流れと言えよう。
その備中の部隊に対し、頭上から容赦ない矢の攻撃が浴びせられる。
「ひるんではならぬぞ!かかれっ!」
備中が檄を飛ばす。その激しい攻撃を浴びながらも、備中の部隊は攻城用のはしごの準備を始めた。
だが、これは囮部隊。
そう、今頃は―
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その、攻城戦が行われている場所から城を挟んでちょうど反対側の地点―
ここには夜陰に乗じて展開した原美濃守虎胤の部隊が展開していた。
警戒している様子はないな、かかれっ!
美濃守の合図で彼は飛び出す。
(一番乗りはもらったっ!)
彼は美濃守の部隊に属する一兵卒。我先にと駆けていく同僚たちと争いながらはしごを素早くかけ、登っていく。
敵の抵抗は散発的であった。
この時代、一番槍と一番乗りといったことを成し遂げた者には一兵卒であっても多大な褒賞と名誉が与えられた。
(奇襲で敵から襲われる心配もなし。こんなんおいしすぎるでしょ!)
彼ははしごを駆け上がっていく。後続はまだ中ほど。間に合う。あと少し。あとは到達したら大声で名乗り上げるだけ。
(これで貧乏生活からもおさらばだ、一番乗りもらったっ!)
彼は確信していた。
だが。しかし。
登り切った彼が見た光景とは。
明らかにさきほどまで飛んできていた矢の数よりはるかに多い、敵の軍勢。
(これは!?)
「しまっ―」
名乗る暇もなく、そこで彼の記憶は途切れた。
 ̄ ̄ ̄ ̄
軍が動揺している。
義信は軍全体の雰囲気を敏感に感じ取っていた。
「美濃殿の部隊、押し返されました!」
「穴山殿、奮戦するも後退!」
「敵の抵抗熾烈!」
「駒井殿、負傷!」
そして本陣には悲惨な戦況を伝えるような伝令が次々と走りこんでくる。
「申し訳ありません、お館さま。それがしの策は見破られたようです。まさか楽厳寺雅方がここまでやるとは・・!」
幸隆が青ざめた顔で申し出る。
「・・・否、そちの策は敗れておらず」
「しかし・・戦況はこの通りでございます」
ここで晴信が立ち上がって言い放った。
「ただまだ兵たちの士気は高い!全軍に伝令、攻勢を強めよ!」
「お館さま!我が策は敗れました、ご再考を!」
「軍は水のようなもの、敵は少数。敵に消耗を強いてひとたびでも突破出来ればなだれ込める。この士気ならそれが可能じゃ」
確かに、出鼻をくじかれたとはいえ、未だにこちらの士気は高い。
実際に少しずつではあるが崖にはしごがかけられていく様子がここからでも見て取れた。
ただ、義信は知っているのだ。
この攻城戦は失敗することを。
 ̄ ̄ ̄ ̄
「やったな頼綱殿、武田のやつら大慌てだぞ!」
楽厳寺雅方は勝利に湧いていた。
「いえ、あえて抵抗をあまりせずに油断させ、敵を引き付けてから攻撃する。せいぜい出鼻を挫いた程度でしょう。この程度では武田は退きません」
対して矢沢頼綱はあくまでも冷静であった。
村上軍はあらかじめ頼綱の指示により、城の全方向へ均等に配置されていた。
しかし、敵が登城を開始した時は散発的な抵抗をしているふりをして、敵の油断を誘ったのである。
「こちらは圧倒的不利。このままではやがて数の波に押しつぶされるでしょう」
「それでは頼綱殿、いよいよアレをやるのですな!」
「はい、それでは始めてください―」
(兄上、悪く思わないでいただきたい・・・!)
頼綱は近くにいるであろう兄を案じていた。
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異変が起きたのは急であった。
それまでの城側の抵抗は矢を中心としてせいぜい落石や熱湯であった。
「ひるむな!ひとたび登ってしまえばよいのだ!」
前線で飯富虎昌は必死で兵たちの士気を高めていた。
(これはまずいかもしれんな・・・・)
だが、城側の抵抗は思ったよりもかなり激しく、虎昌の軍もかなりの犠牲を払っていた。
それでも多大な犠牲を払いつつ、はしごの数は次々と増えていく。押し切れるか、虎昌がそう思った時だった。
「やれっー!」
敵方の合図とともに。
それは投下された。
「くせぇ!」
「なんだこれは?」
「お、おいこれって!」
「糞尿だ!」
「ひええ!」
「わ、わわわわっ!!」
一番高いところまではしごを登っていた兵がまず降り始めた。それを見て次に高いところにいた兵も降り始めた。こうなるとそのはしごの下にいる兵はたまったものではない。
「お、おい!逃げるな!止まれ!」
足軽大将がそう声をかけるがもう止まらない。
この時代の足軽たちは矢、石、槍といった武器によって仲間が倒れていく所は見慣れている。彼らだって覚悟を決めている。そんなことでは軍は止まらない。
だが。
殺傷力こそないものの自身の士気を下げていくものに足軽たちは耐性がなかった。
「お館さま・・・」
もはや軍としての規律を失っていく自分の部隊を見て虎昌は絶望していた。
 ̄ ̄ ̄ ̄
異変は全方面で起きていた。
「なに?糞尿だと?ええい、こんなもので!」
城の北側では美濃が。
「ここはいったん退くぞ!」
西では小山田が。
「くっ・・ばかな・・」
東では駒井が。
そして南では備中と虎昌率いる本隊が。
全方面で城方からの糞尿の攻撃により足を止めていた。
「申し上げます!城方からの熾烈な攻撃により全方面で敗退!ご決断を!」
その様子を義信は本陣から見ていた。
すでに自分がいるここにまで強烈な匂いが届いている。
(やられた!?勘助の言っていた火を糞尿に置き換えると・・・なるほど、敵方にかなり頭の回るものがいるようだな。さて、これをどうするのか・・・)
「ち、父上。どうなさるのですか?」
晴信は軍配をしきりに手に打ち付けつつ思案している。
「全軍に伝えよ。初日の攻防は我等の負けじゃ、敵の追撃に注意しつつ後退せよ、とな!」
「はっ!」
伝令たちが一斉に本陣から出ていく。
負けた―。
そんな感覚が本陣の中で渦巻いている。
「お館さま・・・申し訳ございませぬ。それがしの策は通用しませんでした」
幸隆が平伏してそう述べる。
「かくなるうえはこの幸隆の首を刎ねてくだされ。申し訳がたちません!」
「弾正よ、落ち着け」
「しかし―」
「戦はこういうものよ。此度は我等より相手の方が上手だったということじゃ。いつもうまくゆくものとは限らぬ。大事なのはこれからの立ち回りよ」
「―はっ」
本陣は静寂に包まれていった。
――――――――
「やりましたな!頼綱殿!あやつら攻城をあきらめたようですぞ!」
そのころ、砥石城では楽厳寺雅方がはしゃいでした。
ええ、うまくいきもうした、と返しつつ矢沢頼綱は別の事を考えていた。
(やはり武田晴信という男は一筋縄ではいかんな。勢いに乗って城から撃って出たものもいたがすべて討ち取られてしまった。あの状況から冷静さを失わないとは・・・)
「雅方殿、此度の勝利は延命に過ぎませぬ」
「なんと、あれだけ勝っておいてまだそのようなことを申すか?」
初日に討ち取った武田の首は200あまり。この兵力差を鑑みても大勝利といってもよいだろう。
「あれを見られよ」
そういって頼綱は城外を指さす。そこには簡易な砦と塀を作る武田軍の姿が見えた。
「敵は長期戦の構えに入るようだ、我等はこれから補給に苦しむことになるだろう。幸いにも士気は高いが、援軍無き籠城は死を待つのみ」
「なんと!それではこの勝利は無駄だったと?」
「そうではない」
頼綱はニヤリと笑う。
「よいか雅方殿。敵はこの城を簡単に落とせなくなったのだ。北信濃の殿に目を向けている余裕もなかろう。あとは殿がうまくやってくれる。我らの仕事は敵の注意をこの城に向け続けさせることだ。夜襲でも仕掛け続けてやればたまらないでしょう」
「なるほどな!よし、それでは皆の者、夜襲の準備をするぞ!」
おおっー!!と鬨の声が山を揺るがすほどに響き渡った。
圧倒的有利な敵を打ち破ったこともあって士気は高い。
(これで第一段階は完了だな)
頼綱は頭の中でそろばんを弾いていた。
――――――
一方、夜になって武田方では軍議を開いていた。
「被害は」
父上が聞く。
「はっ、こちらの兵が200ほど討ち取られました。また、駒井殿と小山田殿が負傷。駒井殿は軽傷でしたが、小山田殿はかなり危険な状態にあります」
この戦いで敵の追撃をうけた一門衆の小山田出羽守はかなり危険な状態にあった。
「やられましたな」
山本勘助が口を開く。
「楽厳寺雅方とは考えにくい。思わぬ伏兵が相手にいるやもしれませぬな」
「うむ、城方へ重ねて間者を放つこととしよう。敵方の指揮官を探る必要がある」
「さて、どういたしまするか」
軍議は物々しい雰囲気で進んだ。
「こうなった以上は城攻めを強行するのであれば、かなりの犠牲が必要となってしまいましたな」
備中が口を開く。
「佐久衆を束ねるものとして進言いたします。此度の城攻めは延期なさるのがよろしいかと。いつ義清めに背後をとられるやもしれません。城攻めには不利な条件が揃っております」
これに対して美濃はあくまで城攻めの継続を出張する。
「とはいえ、現在のような有利な状況を再び作り出すのは難しいでしょう。ここでこの堅城を抑えておかないと信濃統一は遠のくばかり、ここは多少の損害を鑑みても城攻めがよろしいかと。長期的に見てもここを抑える重要度は高いでしょう」
たしかにどちらの意見ももっともである。
敵の士気は高いとはいえ、依然砥石城を完全包囲しており、今後これ以上の状況を作り出すのは相当困難であろう。
しかしながら、武田が負けたという噂が既に出回っており現在は従属している信濃の豪族が靡いてしまうことも考えられる。
そうなれば敵に囲まれてしまうことも十分に考えられる。そうなればせっかく手に入れた南信濃だけではなく甲斐が危ない。
「どちらの意見ももっともであるが、ここで撤退してしまっては武田は村上に二度屈したということになってしまう。備中の言う通り豪族たちが背くやもしれぬが、我等はそのために3000ほどの兵を諏訪へ置いてきたのじゃ」
「ならば力攻めでしょうか」
晴信に発言をうながす。
「うむ、義信よ、力攻めは下策と思うか?」
書物では力攻めは下策と学んだ。義信はそれを答えてみる。
「はい、それがしが学んだところでは力攻めを使うのは最後の手段だと、そう書かれておりました」
「うむ、ならば今はその最後の手段を使うときなのじゃ」
戦闘経過はまだ1日である。
「今日の戦は我等の負けじゃ、ならば明日の戦に勝つことを考えねばならぬ。勘助、」
「はっ」
「あの糞尿に対する対策を考えよ」
「かしこまって候」
「弾正、」
「はっ、ここに」
「義清の動向を注視させよ、ここで背後を突かれてはたまらぬ」
「承知仕った」
「誰ぞ、筆を持てぃ!諏訪の信繁に一筆書く!」
そこからの晴信の動きは素早かった。
各地に間者を放ち、伝令を飛ばし、そして自身は兵たちの動揺を抑えるために兵舎を回って見せた。
「こ、これはお館さま!このようなところへ!」
「そのままでよい、ゆっくり休んでくれ」
「し、しかし・・!」
「この晴信、ふがいない戦をしてしまって申し訳なかった」
兵たちの動揺は一気に鎮静した。
(勝つためならば道理を無視、常識を無視してでも何でもやる、か・・・これはしっかり学ぶべき価値がありそうだな)
義信もまた、頭の中でそろばんをはじいていた。
――――――
9月も下旬に入った。
しかし――武田軍7000はいまだに砥石城に籠るたった500の兵の前に苦戦していた。
或る時は猛攻を加え、或る時は夜襲を仕掛け、或る時は内通を促した。
しかし、そのどれらの攻撃も決定打とはなりえずに攻めあぐねていた。
こちらも敵が攻勢に出てきていないため被害は多くはないが、だんだんと兵たちの間には厭戦気分が漂いつつあった。
「義信さまの懸念が当たり申したな」
隣に座るのは隻眼の軍師、山本勘助。
「初日の戦いに負けたのがすべてでござった。ここからお館さまはどうなさるのか・・・いまはお館さまを諫められる立場の方がおらぬ。駿河殿と備前殿が健在であれば・・・」
「では勘助殿はこの戦は負けだと?」
「残念ながらそうでしょうな。既に信濃のあちこちで不審な動きが豪族たちに見られております。これ以上の対陣は・・どうもお館さまは焦っておられるように思います」
「しかしそれがしから見ると城方も限界が近いように思えますが?」
これは前世での経験もあるのだが、どうも敵の矢玉の数、鬨の声の声量、そして単純な抵抗の激しさ、これらが日に日におとなしくなっていた。
その全てから考えた結論が敵方の限界も近いというものである。
「ふつうに考えればそうでしょうな、ただ相手方には矢沢頼綱がおります。一筋縄ではいかないかと」
この時既に敵に矢沢頼綱がいることは間者の情報からもたらされていた。
この事実に対して矢沢頼綱の実兄である真田幸隆は内通を疑われ一時危機的な状況に立たされたがなんとか晴信がとりなして事なきを得ていた。
つまり、内憂外患とはまさにこのことで、既に武田軍は限界に近かった。
「なんとかしてお館さまに撤退を決意させなけ―」
「失礼します、敵方から降伏の申し出がございました、軍議を開くとお館さまが」
戦局は大きく動いた。
―――――
「これをどう見る」
晴信が投げ捨てた書状には次の事が書かれていた。
・砥石城は武田に降伏すること
・城兵の命を保証すること
・城の引き渡しまでの双方の交戦を禁止すること
・城の引き渡し日は10月1日とすること
・降伏を許さないというのなら城を枕にして果てる覚悟があること
「まずこの書状の真偽ですが、この花押は間違いなく頼綱のものです、これも雅方のものです。偽物という可能性は低いかと」
幸隆がまず真偽を確認する。
「受けるべきかと存じます。双方ともに限界が近い、これ以上無駄な血を流すこともないでしょう」
備中はあくまでも戦を避けるように述べた。今回の戦いに一番影響を受けるのは佐久地方を担当しているこの人物であるから当然であろう。
「ただ我らは既に多大な犠牲を払ってこの地にいる、向こうが降伏を申し入れてきた意味を考えねばならない。決断するのはまだ早いと存じます」
虎昌はあくまで慎重であった。
ふむ、と家臣達の意見を一通り聞いて晴信は義信に目線を向けた。
「義信はどう考えるか?」
(ここでそれがしに話を振るか、とりあえず奇襲のことを匂わせてみるか)
「・・・はっ、お味方はお世辞にも勝っているとは言いにくい状況。数日待つだけで城が手に入るならこれ以上の事はないでしょう。しかしながら虎昌が述べたようにここで相手方が降伏を申し入れてきた意味を考えねばならないと存じます。慎重になるべきかと。特に和議を結んで油断しているところに奇襲でもされたらたまりません。」
「うむ、皆の意見はわかった。ここはいったん慎重を期してまた後日に―」
「申し上げます」
「なんじゃ、軍議の途中であるぞ!」
晴信が伝令を叱りつけるがその伝令はしどろもどろになりながらも答えた。
「その・・城方から降伏の前金として金子が届いております」
「!?」
場は騒然となった。
――――――
「晴信のやつ、降伏を許すだろうか」
砥石城内のとある一室で楽厳寺雅方と矢沢頼綱は話していた。
「大丈夫です。晴信は面子を気にする御仁。金子を渡してまでも降伏を許さないとなれば武田の名が落ちる。それはもっとも晴信の嫌うところです」
頼綱は手元の書状を見ながらほくそ笑んだ。
そこには村上義清からの手紙で「これよりそちらに手勢を率いて戻る、よくぞ守ってくれた」という趣旨の手紙であった。
「いやあ、頼綱殿の策略には恐れ入った!しかも殿もすごいな、高梨と戦う振りをして注意を逸らさせてから反攻するとは」
実は高梨と村上は事前に繋がっており、戦のふりをしていただけであったのである。そして武田の注意が村上本隊から離れた今、無傷の村上軍本隊2000がひそかにこの砥石城に急行していた。
「しかしもう物資も無く、城もこのように無残な姿に、あと数日耐えればというところであの降伏申し入れ、頼綱殿はほんと恐ろしいお方てござるな」
「いえいえ、此度の作戦がうまくいきそうなのも全ては雅方殿が城兵を必死に鼓舞してくれたお陰」
「雅方殿がいなければとっくにこの城は落ちていたでしょう」
「いやいやそんな」
と、ここで伝令が走りこんでくる。
「申し上げます。武田方、降伏を認めるとのこと。ただその証として引き渡しまでに城の外塀を破却してほしいとの条件をつけてきました。」
「わかりました、その条件でよいでしょう、と伝えてきてください」
はっ、と伝令が去っていき再び二人となる。
「外塀を破却してしまえば我が城は丸裸同然!よいのですか?」
「大丈夫です、もう城は使いません。10月になるまで武田をここに釘付けに出来ればそれでー」
頼綱は黒い笑みを浮かべながら言った。
「―この戦、我らの勝ちです」
次回はいよいよ砥石崩れ完結です!