穏やかな、晴天の朝。
冬の寒さはすっかり過ぎ去って、暖かな春。桜の花はもう散ってしまったが、若々しく生命力に満ち溢れた新緑の葉が賑やかだ。ここの敷地にも多くの桜が植えられており、廊下を歩きながら窓へ視線を向けると眩しい程の緑が広がっている。
赤レンガ造りの建物、その二階。建てられて十年も経っていないが、幾人もに踏まれ年季の入った板張りの廊下を進む。
左手、窓の並んだ反対側には同じ大きさ、同じ造りの教室が並んでいる。ひとつめ、ふたつめ、みっつめ。ここだ。C組と記されたプレートを確認する。
落ち着いた色合い、木製の引き戸の前で深呼吸する。ゆっくりと吸って、吐いて。
――きーんこーんかーんこーん。
何時まで経っても、何度聞いてもノスタルジーを感じさせる鐘の音。さぁ、始まりだ。
私の、念願。
私の夢が、今叶う。
私の夢。
それは、教師となること。そしてクラスを受け持つこと。
夢の始まりは高校の先生……クラス担任だった恩師への憧れだった。老齢の男性教諭、穏やかで優しい先生。
生徒一人一人に丁寧に接してくれた。悩み多きお年頃、私も色んな相談をしたものだ。勉強のことだったり、進路のことだったり、気になる男の子のことだったり。
私の、今大人になって思えばどうということもない悩みにも真剣に耳を傾けてくれた。
そうしている内に、私もこういう人になりたいと思うようになった。
何時も穏やかで、頼りになって。
引き戸に手をかける。
何があっても怒らない、優しい先生に――。
「だんちゃーく、今!!」
――かかるかボケェ!!!
頭上から襲い掛かるそれ……黒板消しが直撃する前にキャッチして床に叩きつける。しかし念入りに黒板消しにはチョーク粉を塗してあったのだろう、ぱらぱらと降り注ぐ粉雪のような白が私の黒髪を見事絨毯爆撃している。かけている眼鏡にも粉が張り付いて不快だ。やるじゃないか。
「……あ、あははー……な、ないすきゃっち!」
「腕立て伏せ百回」
チョーク粉を掃いつつ弾着の声を上げた学生……桃色の髪を二つに纏めた小柄な少女に、一片の容赦もせず命じる。
先生。
貴方のような立派な先生になれる日は、まだ遠そうです。
◇
「初めまして。皆さん、C組担任の品野小町です」
黒板の前、教壇に立って挨拶。生徒達、十個の瞳が上段に立ち見渡す私に注目している。
一般的な教室に比べこじんまりとした空間のこの教室だが、それでも余裕のある状態だ。
きっちりと並べられた揃いの机に椅子、その数五。前三つ、後ろ二つだ。後ろ側にはロッカーが並んでいるが、それでも贅沢な空間の使い方。
ここは普通の学校と少し違うから、毎年入学者数が安定しない。その為に教室は広めに取られている。
「ここの教員となって三年目、初めてのクラス担任となります」
五人の生徒達、その目に揃って不安の色が写る。うん、私も不安だ。
だからこそ、しっかりと。
「今日からの日々に不安を持っているかと思います。ですが、新任ではあっても私は貴女達より少しお姉さんです」
おい、ここで「えっ、少し?」という顔をしたお前さん次は腹筋がお望みか。私はまだ二十代だ。もう、そう言える期間は僅かとなっているが。
「……こほん。ですから、私は貴女達を助ける為の方法を、貴女達よりは知っているつもりです」
今日まで培ってきた知識、経験。学校で、現場で。その上、軍学校でも学んできた。クラスの副担任も経験した。
それを過信してはいけないが、卑屈になってもいけない。私が不安を見せるということはこの子達がそれ以上に不安になるということだ。卒業後に彼女達がその元へ行くこととなる司令官、提督もそうなのだと思う。だから、私は自信満々に胸を張って言う。
「頼って下さい。私の仕事の、一番大切なことは貴女達に頼られることです」
うん。
言いたいことは言えたと思う。初対面の人間にいきなりこう言われて何でも相談してくれるとは思っていないが、まずは門を開かねば。
さて、ともあれまずは自己紹介。クラスの五人の生徒達にも自己紹介をしていってもらう。一人ずつ起立。
「浜風です。隣の磯風とは姉妹艦になります」
どうぞ宜しくお願いします、そう頭を下げる銀髪ショートの少女。立ち居振る舞いはしっかりしていて、いかにも真面目そうな子だ。よろしくね、と浜風に返しながらも私の視線は彼女の一部に集中していた。
何あれ、おっきい。
……駆逐だ、駆逐のはずだ。駆逐艦の艦娘は幼い姿のはずだ。
過積載という言葉が似合う程の胸部装甲。顔は駆逐然として幼いのに。
お、落ち着け。たかだか生徒にD敗北を喫しただけだ。貧乳はステータスだ、希少価値だ。いやまて私は貧乳じゃない。そこそこあると自負している。
「陽炎型駆逐艦十二番艦、磯風だ。宜しく頼む」
続いて隣の磯風。さらさらとした黒髪を流していて、雅な印象。口調も落ち着いて大人っぽい。
こちらはしっかり駆逐らしい体型。よしよし。
ん?
何だろう。自己紹介を終えても起立したまま、こちらを見て、というより見つめている。
口端は少し上がり、陶酔したように細められた瞼の隙間から射抜くように真っ直ぐ。
と、とりあえず微笑み返す。するとにっこりと花開いたような笑顔の後、何事もなかったかのように最初の澄まし顔で着席した……ちょっと変わった子なのかもしれない。
「特型駆逐艦18番艦、綾波型の8番艦、曙よ……こんな新人が担任だなんてついてないわね」
……落ち着け私。
この子が言っていることは事実だ、私は新任、生徒からすれば頼りにならないハズレ。
それは事実だ。
「何よ、言い返せないのクソ教師」
びきぃ。こめかみに力が入る。
おち、おちつ、おちつつつけけけ。
「……ふん」
頭に血が昇ってしまい固まる私に失望したように、諦めるように鼻を鳴らし乱暴に席に着く曙。
突然の剣呑な雰囲気に、教室が凍りつく。
――頭を冷やせ、私の一番大切なことを思い出せ。
「……そうですね。ですが、曙の考えを『裏切られる』よう努力します」
私の言葉に曙の顔が赤く染まり、瞳が大きく開かれる。少しは、私に期待を持ってくれるだろうか。
叱られる、もしくは先ほどの黒板消しの時のように体罰が与えられると思っていたのだろうか、曙はこれ以上加えられる言葉を放てず固まっている。
先ほどの黒板消しの悪戯については、私は容赦なく罰を与えることが出来る。あれは、ただの無邪気な悪戯に過ぎないからだ。
だが、彼女の感想は的を射ている。指摘したことは事実でしかない……クソが正しい評価かは、これから証明せねばならないが。
事実を、真実を突きつけること。それは何時も正しいことではない。だが、それは全て悪いことだと教えるつもりはない。必要な時も、必要でない時もある。それはこれからゆっくりと、時間をかけて知ってもらうべきだ。
だから、まずは彼女に寄り添う必要がある。私の言葉を聞いてもらう必要がある。
要注意、と頭の中に書き加える。彼女についてはじっくりと考え、時間をかけて付き合おう。
さて。次は問題児その二だ。
「特型駆逐艦の19番目、綾波型でいうと9番艦の漣だよ!」
黒板消しの洗礼を浴びせてくれた漣。既に腕立て伏せ百回を終えて少し汗ばんでいる。
桃色ツインテール、セーラーの上下。そのスカートには何故かエプロンをつけている。
服飾については制服というものがこの学園にはない。実際この教室にいる生徒も皆ばらばらのデザインの服を着ている。
艦娘の衣服は艦娘毎に決まった物があり、その性能を十全に機能させる為の物。ただの布の服ではないのだが……まぁそこはいい。
明るく、軽いノリ。冗談好きなようだが、こういう子ほど注意が必要だ。曙よりある意味厄介な場合がある。
経過要観察として……ついに最後。
「大和型戦艦一番艦、大和です……」
大和だ。
マジで大和だ。
何の疑いようもなく大和だこれ。
「……よ、よろしくお願いします」
蚊の鳴くような声で言って、隠れるように着席する大和。駆逐艦ばかりの生徒達の中ではその姿はあまりにも浮いてしまっている。幼い容姿の駆逐達……その中で成人女性として充分通用する容姿、女性としても高身の彼女は明らかに異物めいている。最初、生徒のリストを見て目を疑ったが本当に大和だった。
これは彼女の名誉の為だが、駆逐艦のみが生徒というわけではない。重巡や戦艦の艦娘もいる。ただ駆逐艦の艦娘が圧倒的に多いだけだ。
……艦娘は過去の艦船に倣うように、色々な艦種が存在する。
駆逐艦、軽・重巡洋艦、正規空母、戦艦など。強い……というより大きな船ほど希少性が高い。戦艦、それも大和の艦娘となるととんでもないレア。私の知る限りそう多くはない、会ったのは初めてだ。
だからこそ、かな。
いや、彼女が編入された理由については考えないようにしよう。生徒一人一人に真摯に、平等に。手のかかる子はいても、贔屓するのは違う。
これで、全員。中々に濃い生徒達だとは思うが、たった五人の生徒達。
一般的な学校のクラスとしては少ない数だが、私が全力で挑む生徒達だ。
彼女達を愛し、全てを捧げることをここに誓おう。
「では、一年間のプログラムについて説明します」
この学園、入学から卒業までは基本的に一年間としている。
そも、この学園の設立目的とは艦娘の基礎訓練と知識、道徳や意識齟齬の修正にある。
深海棲艦と、艦娘。
九年前、突如現れた人類の敵深海棲艦。奴らに呼応するように現れた人類の味方艦娘。
無限の物量をもつ奴らに唯一有効であるとされる彼女達。
彼女達は人類にとって味方でありながらも、その在り方、思考は歪だった。
過去の大戦で活躍した艦船の魂と記憶を持つ彼女達。その価値観や思想は、現代に生きる私達にとって異物だった。
命の価値観が違う。私達にとって常識である人権という価値観も違う。
そんな彼女達を運用し指揮する為、この学園は創られた。
奴ら、深海棲艦に対抗し得る彼女達の力は、一度人類に向けられれば脅威となる。
だから彼女達が私達人類の味方、友であるよう価値観の共有をすることは必要となった。
かつての大戦の記憶を持つ彼女達、同じ国、同じ歴史ではあっても五十年を超える時間差は齟齬を生む。彼女達の記憶の奥底にあるのは列強の時代、騒乱の時代のものだ。
その隙間を、齟齬を埋めるのがこの学園の目的だ。
よって、プログラムは体験と認識の共有を第一としている。
今では誰でも経験する様々な行事、身に染み付いた現代の常識。
授業を受けることだったり、文化祭などのイベントであったり。それらを通じて得る感覚や情動。
画一的な教育。平均値に近づけること。それは個性を削ることかもしれないが、今後軍という究極的に個性を殺す組織に身を置く為にも必要なことだった。
そう言った理由に加えて、もう一つ。
これは機密とされているが、政府は艦娘登場により勝ち始めた対深海棲艦との戦争、その『戦後』のことも考えている。敵がいなくなった後の、彼女達の行く末。それを悲劇にしない為にも、必要だ。英雄達のその後を守らなければならない。
戦っている内はいい。強い力は敵に向かっている。
しかし、その敵がいなくなった後。
常識外の認識を持ちながら強い力を持つ彼女達がどうなってしまうのか、その対策でもあるのだ。
未だ不明なことが多い艦娘達、彼女達の為にも。彼女達を指揮運用する人間の提督達の為にも。
『戦後』、彼女達に幸ある為にも。
互いを理解し、歩み寄れるよう。
たった一年、それだけが様々な事情から許された期間ではあるが精一杯奉仕したいと思う。
生徒達に説明する一年のイベントは人間用のそれとあまり差異はない。
入学式から遠足、文化祭や体育祭、修学旅行に卒業式。
艦娘としての基礎訓練はあるが、本格的な軍人……戦力となるに必要な訓練は卒業後、鎮守府に着任してからとなっている。
だからここでは一般的な学校教育を優先したプログラム。今、四月の入学式を終えて次は来月の遠足だ。
後は社会科見学、中間試験。ただし、長期休暇は夏のみとなっている。それすらも一般的な学校に比べればかなり短いが。
戦局は安定しつつあるとはいえ、未だ前線は新たな艦娘の着任を待っている。ここで学ぶ艦娘は駆逐が多いのはそれも理由である。貴重で強力な重巡以上の艦種は、ここを経ずに着任する場合の方が多いのだ。
「……以上が一年間のプログラムとなります」
説明を終えて生徒達を見渡す。入学前に資料を配ってはいるが、一応聞いていてくれているようだ。
「では何か質問はありますか?」
「はい! はいはい!」
……漣。
手を上げてぴょんぴょん跳ねる彼女にどうぞ、と言ってはみるものの不安だ。
「せんせー、彼氏はいま「いません」」
全力の笑顔、食い気味の返答で迎撃する。
「ええいませんとも。いませんとも。小中高一貫の女学院で育ち卒業後は恋愛する暇もなく僅かながらあった出会いも性格のキツさが災いして年齢イコール彼氏いない暦ですよ。毎年クリスマスには一人部屋で息を潜めてますよ。実家に帰る度いい話はないのかとか言われちゃう人ですよ」
地獄の釜が開いた。アラサー独身女の毒に、穏やかな気候に包まれた教室が重く沈む。
「――つまり処女」
「殺して」
磯風が、はっ、とした表情で指摘する。何この羞恥プレイ。いっそ殺せ。
……待て、何故磯風は嬉しそうにガッツポーズを取るんだ。
「……皆さんは素敵な出会いがあるといいですね。はい、他に質問はありませんか……」
ぐったりしながら他の質問を促すも、他にはないようだった。
そうこうする内に鐘の音が響く。最初のホームルームが終わりを告げた。
教室にやってきた二限目、国語を担当する足柄先生に宜しくお願いします、と伝え入れ替わりに教室を出る。
私の授業は三限目、お隣さんのD組で歴史だ。
本日一限目は簡易ながらも行った入学式とホームルームに消費している。
私の受け持つ授業は社会も兼任、そして担任するクラスの道徳の授業や訓練も行うのだが二限目は担当の授業がない。
だからこの空いた時間は授業の準備などを済ませておくことにする。廊下に出て、階段へ。一階から外に出て本館へと歩く。
本館、こちらは放送室や保健室といった授業外で利用する設備が集中している。私が向かう教員室もこちらの一階にある。お疲れ様です、と教員室に入室して自身のデスクに腰を下ろす。
ぐったり。まだ朝だというのに、疲れ果てた。
これまで他のクラス担任の代打でホームルームをしたことはあったが、自身の担任となると緊張感が違う。長年夢見たこの仕事だが、これでは先が思いやられる。縁があって艦娘の学園で教鞭を執ることになったが、一クラスの人数が一般的な学園に比べ圧倒的に少ないとはいえやはり艦娘達はキャラが皆濃い。
やっていけるかなぁ、私。
デスクに突っ伏していると、ことり、とマグカップが目の前に置かれた。
「お疲れ様、品野先生」
「あっ、ありがとうございますっ」
湯気の立つマグカップ、鼻腔をくすぐる緑茶の香り。
差し出してくれたのは私のクラスの副担任であり体育教師、そして直近の先輩である矢矧先生だ。あずき色のジャージ上下に身を包んでいる。
この先輩には何かとお世話になっている。
「どうでした、C組は」
自身もマグカップを持ち、隣接する彼女のデスクの席に着く。凛とした声、やること成すことが何というか失礼かもしれないがイケメン。男だったらなぁ、と願ってやまない。
「中々手強そうです……」
「……そのようですね」
淹れてくれたお茶、マグカップを両手に持ち一口。ほらこれだ、茶葉は教員室備え付けのお手頃価格のはずなのに凄く美味しい。格好いいのにお茶淹れ一つとっても丁寧で完璧。お手製の料理を頂いたこともあったが、そちらも絶品だった。憧れの先輩だ。男だったらなぁ……。
「ほら。動かないで」
「え?」
先輩がマグカップを置くと立ち上がり、ずい、と距離を縮める。
突然の接近に固まっていると、頭を撫でられる。いや、私の髪を掃っている?
「チョーク粉ですか? せっかくの綺麗な黒髪が台無しですよ、小町」
「……!!!!」
男だったら! 男だったら! もう女でもいいかな!?
お、落ち着け私。
首から上の肌が全部朱に染まっているのを自覚しながら、なんとかお礼を伝える。
黒板消しの罠によって降り注いだチョーク粉、掃ったつもりがまだ残っていたらしい。
凄く良い匂いした……これで私と同じく彼氏がいないとか、世の男は何をやっているんだ。私が道を間違う前に誰か諦めさせてくれないだろうか。
なお、先輩とはプライベートで呑んだりする仲、仕事中は先生呼びだが他では名前で呼んでくれている。
……こういう時にこっそり名前で呼ぶ辺りタラシだ、この人。たぶん天然なのだと思うから、尚更性質が悪い。
「さて、では体育館での準備がありますので失礼します。頑張りましょう、品野先生」
「は、はいっ。頑張ります!」
颯爽と教員室を後にする先輩を見送り、別の意味で疲れた身体を背もたれに預ける。
あぁ、先輩の淹れてくれたお茶美味しいなぁ……。
何時までもぐったりしている訳にはいかない。仕事は山盛り、時間は有限だ。
授業を行い、日報を作り、会議や勉強会など。更に新人の私は寮長として寮の管理も任されている。
これまでの二年間の勤務である程度慣れはしたが、忙しさに変わりはなくむしろ増していくばかりだ。
だが、忙殺されてはならない。
私にとっては毎日、何年も、何十年も続く日々だが生徒達にとってはたった一年の日々なのだ。
彼女達が得られるのは僅か、だが目いっぱい持っていって欲しい。
……送り出すのは厳しい軍の訓練、そして命のやり取りをする戦場だ。
その前に大切な物を、自身を支えてくれる物を持たせてやりたい。
恩師が、私にそうしてくれたように。
私は夢を貰った。
学校の先生になって、クラス担任となる夢。
それがあったからあの理不尽の中を駆け抜いてここまで辿り着けた。
彼女達にもそうであって欲しい。そうあるよう今日この一日を、明日を、明後日を努力しよう。
ふん、と気合を入れて授業の準備を始める。教材の確認、授業内容の確認。
夢に辿り着いて終わりじゃない、ここから漸く始まるのだ。
国立特種海軍予備訓練学校。
通称、艦娘学園。
――これより、クラスの教鞭を執ります。