道徳。
社会生活を営む上で、守るべき規準のことをいう。
「さて、初回の今回は人権についてお話しようと思います」
一限目、昨日と打って変わって曇天の朝。私はC組の教壇に立ち、そう切り出す。
歴史や社会と共に受け持っている道徳の授業だが、ある意味ではこの授業が一番の頭痛の種だ。
何を、どう教えるか。
三年目となりそれなりに積み上げた物はあるにはあるのだが、他の授業のように指標がない。上から定められている要綱があまりにも最低限、そしてあやふやな物ばかりなのだ。
これは艦娘の教育というものに対する、実績不足に起因する。
そもそも、この学園の設立自体が五年ほど前のことだ。艦娘の訓練や実戦での運用についての蓄積に対して、学校教育のそれは未だ模索レベルの状態にある。
だから教材は人間用の使いまわしだ。通常ならば、練りに練られた内容で実績もある教材。
しかし私が教師となって一年目、道徳について教えているとどうにも上手くいかなかった。
彼女達ドロップ組の艦娘は、赤ん坊から育っていって今の姿になるわけではない。海上で発見された時点で十代から二十代ほどの姿である。どうやって海上に浮かんできたのかも覚えていない。
だが彼女達は人格を既に持っており、ある程度の知識も蓄えている。特に戦闘関連。
そしてもう一つ、共通点。
艦の記憶と呼ばれるものを持っている。
彼女達がその名に冠する、大戦時の艦。その記憶を持つのだ。
たとえばあの海域で戦闘をしたとか、艦同士衝突してしまったとか。
五十年以上前の、艦の記憶が、だ。
当然だがそれほどの時間があれば、常識や感覚は変化していく。
艦の記憶しか持っていないわけではない為、その影響の大小はある。クリスマスを知らない子がいれば、スマートフォンを使いこなす子がいたり。
だが、生徒達が感じる違和感や齟齬の根っこはそこにあると思っている。あくまで私は現場の教師であり研究者ではないので、推論ではあるのだが。なので。
「戦後から現在までの人権問題と、その対応の流れをお話します」
まずは現在の意識、そこに至るまでを学んでもらい。
「その後、条約によって保護されている艦娘の人権を学んでもらいます」
そして最終的な目標は人権意識の齟齬矯正と共に、自身らの権利について確認してもらう。
基本的部分については人のそれを同じだが、やはり艦娘は戦う存在。拒否権も確立されているが、いくつか人の人権と違っている部分があるのだ。
こちらも未だ模索と修正が行われ続けているが、まずは知ってもらわないことには行使することすら出来ない。憲兵によって守られてはいても、知る知らないは大きな差だ。難しい内容になるかもしれないが、彼女達自身を守る為の知識となるので頑張って教えよう。
ざっくりと彼女達が既に持っている権利について説明する。
「……さて、まずは以上が概要となります。はい、浜風」
「は、はい!」
指名すると、突然で驚いたのか慌てて浜風が立ち上がる。
「率直な意見で構いません、どう思いましたか?」
「……その、何もしてないのにこんなに守って頂けるのは……少し、申し訳ないです」
「ありがとう」
やはりだ。お礼を伝えて着席してもらう。
他の生徒達も概ねそういった意見のようだった。漣はラッキー、とか言ってたけれど。いやそれでいいのだが。
どうにも彼女らは成果に対して報酬あるべし、という感覚が強い傾向にある。
半世紀前、戦時下という厳しい環境においてそれは正しく、怠け者が生きていける時代ではなかった為かもしれない。
今も深海棲艦との戦争中ではあるのだが、戦後から現在までの間、平和にあった時代に培われた権利はほぼそのままである。だから、同じ戦時とはいえ齟齬があるのだ。
何もしていなくても、生きているだけで得られる権利というものに拒否感とまでいかなくても遠慮を覚えてしまう。
「こういった問題には様々な意見があり、どれが正解ということはありません」
そう前置きをし、あくまで私個人の意見として受け取って欲しいと伝える。
「ですが、権利を守りそれを享受するのは自身の為のみではないと私は考えています」
生徒達の反応を見ながら、理由を説明していく。
人権とは自助努力と相互扶助の精神によって支えられている権利であるということ。
世の中には多くの人間、艦娘がいる。
働ける者、戦える者、そうでない者。しかし、そうでない者が単純に劣っていると言えるだろうか。必要ないと、言えるだろうか。
もしかしたらその者は頭が良いかもしれない。特別な芸術の才能があるのかもしれない。今、なくとも今後花開く可能性はないだろうか。
ならば、そうでない者は人類全ての宝になるかもしれない。
『かもしれない』の可能性を、守り育てる。
それともう一つ、働ける者達が傷ついた時に休める場所を作るのが人権。
私は、そう考えている。勿論『かもしれない』の可能性だ。そうでなかったからといって糾弾されるべきではない。
だから誰にでも、どんな者にもなくてはならない。先人から受け継ぎ、私達が守り、時に頼りながら次の世代へ。
そう、次の誰かの為に。
自分達が必要ないなら構わない。戦えるのならば戦えばいい。
けれど、私達の子供が、その次の世代が必要とするかもしれない。だから、享受することを認める。
「情けは人の為ならず、ねぇ」
曙が軽く溜息をつくように呟く。相互補助、その通りだ。
そういう余裕を持つことがもし難しければこう考えてください、と締めくくる。
「次の誰かが、自分かもしれない。そう考えれば……優しさは、誰かの為ではなく自分の為です」
切り良く、授業時間終了の鐘。おっと。
「では本日の内容について、感想文を明朝のホームルームまでに提出すること。原稿用紙二枚以上ね」
ぎゃー、と悲鳴を上げる漣。そんなに喜んでくれて先生嬉しい。
◇
ふう。
一日の業務と、大和との放課後の特訓を終えて夕方。もう陽は沈みかけている。
午後から晴れてくれて本当に良かった。四月の水温は気候に左右される。
「ごめんなさい……」
「いいのいいの」
隣を歩きながら謝る大和の、頭を撫でる。今は寮へ向かう途中、私は水着から着替えてジャージ姿。首にタオルをかけて、未だ湿り気を残す髪を拭きながらだ。
今回から水着を用意して特訓に臨んでいたから、被害は最小限。濡れないのならそれに越したことはないのだが、今日の大和の様子を見るに先は長そうだ。しかし何故、視線をあっちこっちへやって集中できていなかったのだろうか。
「失敗した分だけ、成功は近づいてくるものです」
「……はい!」
とはいえ。
集中できていなかったのも一つだが、どうにも大和は何かを怖がっているように思う。
水? うーん、水を怖がる艦娘というのは聞いたことがない。艤装を上手く扱えない戦艦の艦娘という時点で前例がないのだから、先入観は排して考えて方がいい、かな。
「大和。水は……怖い? プールに入る時、どうも何かに怯えてるようだけれど」
「その……う……」
ビンゴ。尋ねる私に、口篭る大和。艤装制御が上手くいかないのはやはり水に関連している。
ただ水自体に恐怖を感じるという訳ではないだろう。プールに沈んだ後、水に濡れている状態でも変調は見られなかった。
「ごめんなさい……自分でも、よく分からなくて……」
大和は立ち止まり、俯きながらぽつぽつと話してくれた。
水が怖い訳ではない。その上に立つということが、どうしようもなく怖いのだと。
自身が水の上に立った時。とてつもなく、何かが恐ろしくなる。視野が急激に狭まり心音が跳ね上がり膝に力が入らなくなる。そうして、すぐにバランスが崩れる。
原因は自身にも分からない。最初、軍でテストの為水上に立った時からそうだったそうだ。
「……大和。本当に、怖くて――やりたくなければ、やめてしまってもいいんですよ?」
は、とした顔をして大和が顔を上げる。
「艦娘は戦う為に生まれたと言われていますが、怖いのなら別の道もあります」
水の上に立つ。それは海の上を駆けて戦う為のスタートラインだ。
それが怖いというのに、更に戦えというのはあまりにも辛いことになる。少し前ならばそんなこともお構い無しに戦線へ投入されただろうが、今では彼女達を守る条約もある。
人間と同じように、とまでいかずとも戦う以外の道もあるのだ。私や足柄のように退役して教師をしている者もいるし、工廠で働いている艦娘もいる。
「でも、でも……私……!」
「……うん。決めるのは、ゆっくりでいいんですよ」
その為の、学園です。
大和という強力な艦娘の早期編成を諦め、彼女をこちらに送った人。その判断は、正しかったと私は思う。
声を荒げ、私の提案に混乱する大和を落ち着かせながらそう思う。彼女には、時間が必要だ。それがたった一年であっても。
ドロップ組である彼女の識る世界は、あまりにも狭い。
戦うことに意味を見出す艦の記憶に縛られたままでは、見えない部分があまりにも広い。
それを、埋める為の時間が必要だ。
沢山のことを識ってもらい、選択肢を広める。教えるのは、私の役目だ。
「……私、それでも」
強い子だ。
本当は怖くて怖くて仕方ないのに、それでも一歩を踏み出そうとしている。
大和の頬に、一筋の涙が伝う。堪らなくなって、彼女を抱き締める。
なら、私はその手を引いて上げたい。もしつまづいて、もう進みたくなくなったのなら別の道を示してあげたい。
「うん……好きなだけ、付き合いますから」
震える彼女が落ち着くまで、その背を撫で続けた。
◇
「はぁ……」
夜中の大浴場。閉まる時間ぎりぎり、私はその巨大なお風呂を独り占めしていた。
この学園の寮は二人一部屋、入浴はこの大浴場ですることになっている。私達寮住みの教師もこちらを利用する。利用時間は生徒達と違って開放中は定められていないが私の入る時間は大体この時間になる。
授業が終わって他の仕事を片付けた後、夕食。その後寮長としての仕事をやり終えた後だからだ。
寮の仕事は管理、生徒の点呼、夜の見回りが主だ。
まず寮の管理だが、こちらは設備の保守点検が一番多い。ある程度明石先生にも手伝ってもらっているのだが、艤装の管理に忙しいあの人をあまり頼るわけにもいかない。
実際の作業は業者さんにお願いしているので、私が電球を取り替えたりするわけではないのだが確認だけでもかなりの時間を要する。
それから生徒の点呼。
完全寮制である学園で、生徒の外出には許可が必要なのだが……脱走する奴が毎年発生する。
外出許可はそう厳しい条件があるわけではない。なのに奴らは脱走すること自体を求めるかのように、夜の街に飛び出していくのだ。それを追うのは私の仕事だ。
……戦場なら脱走兵は後ろから撃って終わりかなぁ、あはは。ダメだ、疲れてる私。
そして夜の見回り。就寝時間後に先の脱走者がいないかの確認と、戸締りの確認。
生徒用の寮だけでも五十部屋以上。現在全てを使っているわけではないのだが、建物の規模が大きい為これも結構時間を要する。
さらに日中片付き切らなかった教師としての仕事をやっつける。今日も教材作りをしていた。
座り仕事でがちがちに固くなった肩を湯船に沈め、揉み解す。
大量の艦娘が利用する事を前提に広く造られたお風呂を独り占めするのはいいのだが、こうも毎日睡眠時間が削られると色々心配だ。特にお肌とか。特にお肌とか。
「あー……」
湯気のあがる天井を見上げて、意味もなく呻く。
もうちょっとで三十路かー、私。
実家の両親に仕事もいいがそろそろ……と何度言われながらも、いわゆる適齢期ぎりぎりにまで着てしまった。夢を追いかけこの仕事を選んだことに後悔はないが、私だって女性として憧れがないわけではない。
二者択一ということではないはず……いつか、と思いつつも忙しさにかまけて何もしないままだ。勝手に来ないかなぁ、王子様。ダメだ、疲れてる私。
「あら」
「あ、先輩」
がらり、と曇りガラスの引き戸を開けたのは矢矧先輩だった。王子様じゃなかった。いや、女湯にいきなり乱入する王子様は遠慮願いたいが。
「またこの時間まで仕事ですか、小町」
「あはは……」
掛け湯をして、お風呂、私の隣に座る先輩に笑って誤魔化す。
「手伝えることがあれば手伝います。オーバーワークは、貴女にも生徒にも毒ですよ」
「すみません……」
ぐうの音も出ない。
あれこれ自分で全部やってしまおうとするのは、私の悪癖だ。最初自覚はなかったのだが、こうして先輩に時々お説教頂いている。
あの時は、本当に迷惑をかけた。
教師となって二年目、私は過労で倒れたことがある。二年目でそれなりに仕事を覚え、初めて副担任を任されたことに浮かれていた。寮の仕事を任されたのもその頃だった。
やらなくてもいい、少なくともその時にやる必要のないことまで片っ端からやっていった結果のことだ。
艦娘となったことで体力が人間だった頃より向上していた、その過信も原因だ。
あの頃、文字通り不眠不休だった。今になって思えばアホとしか思えないのだが、充実はしていた。
「……約束は、覚えてますね」
「はい、ちゃんと休みます」
私の目をじ、と見つめながら釘を刺す先輩に、素直に答える。
倒れた私が意識を取り戻した時、先輩に無茶苦茶怒られた。まだ意識が覚醒し切っていない私の胸倉を掴み、普段の冷静な先輩では考えられないくらい激昂していた。涙をぼろぼろと、零しながら。
「よろしい」
くすり、と笑いながらお風呂に肩まで浸かる先輩。
約束。
今度倒れたら、許さない。教師を辞めてもらう。
既に先輩と後輩として仲良くなっていて、初めてクラス担任と副担任として一緒の仕事。
その中で私が倒れたことに、責任を感じてくれいたのだと思う。それを分かって、私は先輩と約束したのだ。
「でも無職になったら婚活くらいしかすることないなぁ、私」
「……小町、冗談でもやめて下さい」
冗談めかして言ってみたのだが、先輩の声が冷たい。あれ?
「そ、そうですね! もう倒れるようなことは――」
「はい、そうして下さい。本当に、冗談じゃないわ」
あ、あれ……本気で怒ってる?
うーん、これくらいの冗談で怒るような人じゃない思ったが、失敗だったかな。
吐き捨てるような口調も珍しい。ちょっと気まずくなっちゃったなぁ……あ、そうだ。
「あ、そうそう! 大和のことなんですけどね!」
無理矢理気味だが、話題転換。
今日の特訓のことを話す。
「……原因不明の、恐怖ですか」
「はい。水上に立つこと自体が怖いみたいなんです……」
昨日は一瞬とは言え、立つことは出来た。奢るつもりはないが、私が手を繋いでいたことで恐怖心が和らいだのかもしれない。
とはいえずっと手を繋いでいるわけにもいかず、今日は進展なし。いや、その根っこの部分を聞けたのは大きな収穫か。
「もしかしたら、艦の記憶が関係しているかもしれないわね」
先輩はしばらく考えた後、そう呟いた。
艦の記憶……それと水上に立つことの恐怖が、どう関係するのだろうか。
「大和……大戦の、戦艦大和は戦闘で沈んでいるわ。それが、関係あるのかも」
「そんな、それじゃあ」
撃沈。艦の、死。
大戦では多くの艦が沈んでいる。艦娘達の、元である艦のほとんどが。
その記憶の影響は大小様々、だが自身の死んだ記憶を覚えている者は少ない。建造組で艦の記憶が薄い私もそうだ。
「私も撃沈についての記憶はないわ。けれど、それを持っているのであれば」
水上に立つことによってそれが想起、恐怖となる。理は、通る。
本人が原因を理解していないことも艦の記憶の影響というのならば。
では。
「どう、すれば」
このトラウマを、どうすればいい?
心理的外傷などについての心理学は、教師となるに当たってある程度知識は蓄えている。だが、所詮付け焼刃、専門者の領分だ。
私が下手に接すれば、傷を深めることになる。その可能性に背筋が凍る。
「……とにかく、一度診察をしてもらうべきね」
先輩に、相談して良かった。
私はその可能性について思いつきもしなかったのだ、感謝しなくては。
まずは、この学園の校医に診てもらうべきだろう。それで今後外部の専門医に診てもらう。
この辺りは慎重に事を運ぶべきだ。
全ての艦娘がそうではないが、半世紀前の価値観、道徳観。その中で精神障害は今より遥かに低い扱いだ。内密に、本人にもショックを与えないよう配慮が必要だろう。
頭が痛いが大事な、私のクラスの生徒だ。
先輩だけでなく、頼れる人に頼って守らなければ。使えるものは何でも使う。そこに私のプライドや自身の達成感を求める感情なんて邪魔なだけだ。
先輩にお礼を言って、先に失礼することにする。
言いつけ通り今日はもう休もう。
明日はクラスの生徒達に課した宿題の提出かぁ……この結果を元に今後の指導方針を決めることになる。それに宿題への姿勢も要確認だ。課題に対する傾向を掴むのにも大いに役立つ、それが宿題というシステム。
私も学生の頃は辟易したものだが、社会に出るようになってその重要性が分かる。
さて、うちの生徒達はどうだろうか。楽しみにしつつ、寝床に入った。
◇
「……次からは名前の所、漣だけにするように」
「てへぺろ!」
特型駆逐艦十九番艦綾波型九番艦駆逐艦漣。
頭痛がするくらいの漢字の羅列、原稿用紙のマスを一つでも埋めようとする涙ぐましい努力に免じて今回は許す。こいつ頭いいな! アホだけど!
内容の方はひらがなを多用しているがまともだった。他の生徒達も全員提出、内容も特に問題はない……曙は、ちょっと危ういかな。こっちもまた先輩と相談しよう。
相談といえば昨夜、先輩と話してたこともだ。
この学園の校医。
気が重い。あの人、腕は確かなんだが、その、ちょっとアレなんだよなぁ……。