終わりが唐突ならば、始まりもまた唐突で。もう二度と開かれることがないと思っていた自分の目に映った光景を、私は今でも忘れられない。
ざわめく人々の姿に、全く見覚えのない透きとおった綺麗な湖。そして何より、二次元上でしか存在しなかったはずの生命――ポケモン、と呼ばれる存在がすぐそこに居て、驚きすぎた余りその場で失神したのは今となっては笑い話と言えるかもしれない。
私の現状について単刀直入に言うと、どうやら現代で死んだ私はポケモンが生きているこの別世界――おそらくは、ある程度原作のゲームに準拠した世界へ所謂転生トリップ、というものをしてしまったらしい。
理由は今もよく分かっていない。生前、ポケモンのゲーム自体は初代からBWまでプレイして全て殿堂入りまでしたくらいに思い入れがあったのは確かだが、死ぬ間際特に願ったわけでもないのに自分がこの世界にいる理由はいくら考えてみても結局今に至るまで分からなかった。
ちなみにただのトリップではない根拠がいくつかあって、一つはこのシンジ湖で倒れていた当時、今から五年前の私が身に着けていた服のポケットに私の名前と生年月日のみ記された、何とも簡素なカードが入っていた、ということがある。勿論そんなカードの存在なんて全く身に覚えがなかったし、そもそもカードの情報自体、或いは出鱈目という可能性も全くないとは言い切れなかった。けれど意識を取り戻した当時の私には、それ以外にこの世界での自分の立ち位置について何の情報もなかったから、ほんの少し罪悪感を持ちながらも周囲にはそのカードに記された自分の名前と生まれた日以外何も覚えていない、記憶喪失ということで通した。ただでさえ出自不明の怪しい子ども相手に、何かしら疑いの目を向けられても文句は言えないと思っていた私の予想に反し、この町の人々は私を疑うどころか、むしろ心配する人々ばかりだったことで逆に大丈夫だろうかと心配になったが。ともかく、そこからも色々とあって今の私は原作主人公であるヒカリの家で居候として過ごしている。ヒカリの幼馴染であるジュンともそこから知り合いになったけれど、今私の隣でポフィンを頬張っている彼に出会ったのは実はたった一年前のことだったりする。
「一年、かあ」
『?急にどうした』
「あなたと初めて会ったばかりの頃を思い出してね。あれから一年なんて、何だかすごくあっという間だったなあ、って」
『……そんなに前のことだったか?』
首を傾げながらも、食べていたポフィンを飲み込んですぐまた次のポフィンに手をつけた彼を眺めてやっぱり不思議だと思うのは自分自身のことである。この世界の人々はそもそもポケモンと言葉が通じず、大体身振り手振りでコミュニケーションをとることが当たり前になっているのに、私はといえばなぜか人と話すときと同じく、ポケモンとごく普通に会話することが出来ていた。はっきり言ってかなり異常なことだ。例外として、BWに登場していたNもポケモンと会話出来たようだが、私は彼のように大っぴらに喧伝するつもりはない。この町は良い意味でお人好しな住人が多いから杞憂かもしれないけれど、おそらく今後、ヒカリの前に立ちはだかるギンガ団のような組織にこれが原因で目を付けられては一堪りもないからだ。だから私がポケモンと会話出来ることは、今の時点だと隣に座っている彼以外まだ誰も知らない。この一年で、彼がとても寡黙だということを私はよく知っていたから、誰かに言いふらされるなんて心配も全くしていなかった。
「懐かしいね。あのときは、確か雨が降っていたんだっけ?」
『そうだ。それで、この辺りで雨宿りをしていたお前が偶然俺と出くわして、俺の名前を呼んだ。あれにはかなり驚かされた』
「私もあのとき、結構驚いたんだけどね?ゲッコウガって、この辺りじゃまず見かけないポケモンだったから」
『……まあ、そうだろうな』
相変わらずポフィンを口に運びながらも、どこか遠い目をした彼は息を吐いてから静かに目を閉じる。私と会う前の彼がどんな生い立ちで、どこで何をしていたのか、私は彼の過去を何も知らない。知っているのは彼が野生のポケモンで、この辺りの森を住処にしていて、一週間に一度はこうして私の前に姿を現す、ということくらい。聞こうと思えばこの一年、いつだって彼に尋ねる機会があったにもかかわらず、私は彼の過去について根掘り葉掘り問い質そうとは思えなかった。彼に興味がない、といえばそれは嘘になるけれど、その一番の理由は私自身が別世界からの転生者という、俄かには信じ難い存在であったからかもしれない。
「ところでゲッコウガ、言いそびれていたけれど」
ふと立ち上がって、何となくそのまま湖の方に向かって歩んでいく。そして湖の数歩手前まできて立ち止まり、振り返れば結構な数のポフィンを食べたからか、若干眠そうにしている彼の姿に自然と笑えた。可愛い、と言ったら怒られてしまうかもしれないけれど、私は彼のそういう姿もいいなあと思っているのはここだけの秘密である。
「私、ヒカリやジュンと同じように、そろそろ旅に出ようと思っているの」
心地の良い風が吹き抜けて、湖の水面と周囲の叢を揺らす。彼は何も言わない。けれど、ほんの一瞬その目が僅かに揺らいだように見えたのは私の見間違いだったのだろうか。それから暫く無言の時間が数秒流れたけれど、風が吹き止んだと同時、座っていた彼も立ち上がって私の元まで静かに歩み寄ってきた。足音を立てないところがますます忍者らしい。
『……、そうか、』
「今まで旅に出なかったのは、そもそもヒカリが旅立つまで、あの子のことを見守っていたいって思っていたこともあるんだけれどね。周りに比べたら旅立ちがすごく遅いだろうし、アヤコさんには五年前からお世話になりっぱなしで、まだ何一つ、返せていないんだけれど……一度は、この世界を私のペースでめぐってみたいって、そう思ったの。私が、この世界でこれからも、私として生きていけるように。なんて言ったら、大袈裟に聞こえるかな?」
『いや。少なくとも俺は、お前らしい理由だと思うよ』
「そっかあ。かっこつけって思われなくて、良かった」
『心外だな。俺がお前をそんな風に思うとでも?』
「ふふ、冗談だよ。だってゲッコウガ、すごく優しいもの」
マフラーにも見える赤い舌をそっと撫でれば、まるで人肌みたいな温かさに当たり前だけれどポケモンも生きているんだな、と思って不思議な気分になる。そんな私とは異なり、私に優しいと言われた彼はなぜか訝しい視線を私に向けていて、その理由が分からなかった。
『……本当にそう思うのか?』
「え?だって、優しくなかったらこの一年、こんな風に私と過ごしてくれることすらなかったんじゃないかなって思っていたんだけれど。違った?」
首を傾げながら止められることもないので、そのまま私が彼の舌を撫で続けていれば、彼はやや間を置いて随分と長い溜め息を吐いた。
『……やっぱり、セツナはかなり変わってる』
「ええ、そうかな?うーん……ごめん、自分じゃよく分からないや」
『だろうな。だが、お前はそのままでいい』
「そう?ともかく、今まで私と一緒に居てくれてありがとう、ゲッコウガ。旅に出てしまう前に、あなたには一度きちんと挨拶しておきたかったから。今日会えて、良かったよ」
『……』
そんなことを言いつつ、内心、ゲッコウガも一緒に来てくれたら本当はかなり心強いのになあ、なんて思っている私は結構欲張りな人間だ。だけどゲッコウガには今の住処があるし、原作知識はともかくこの世界のトレーナーとしてはまだまだ素人でしかないのに、いきなりついてきてほしい、なんて言えるほど私は大それた勇気を持ち合わせていなかった。それでもせめて笑ってお別れが出来たらいい。そういう思惑で、彼から離れようとしていた私を引き留めたのは、他でもない彼自身だった。
『旅に出れば、……なかなか、ここにも戻ってこなくなるな』
「?そうだね。そらをとぶ、を覚えた鳥ポケモンがいたら、帰ってくる頻度は多少増えるかもしれないけれど。暫くは旅に慣れるのに手一杯で、そういう余裕すらないかもしれない」
『まさかとは思うが、いきなり今日旅に出る、なんてことはないよな?』
痛くない程度に私の腕に添えられた彼の指は青くて、人肌に比べると若干ひんやりとしている。そこにまた自分との違いを見出しながらも、私は彼から向けられる視線に応える。
「初心者なんだからそんな思いきったことしないよ?もうお昼だし。それに旅に出るなら、朝早い内にしようって決めていたから」
『ならばいい……セツナ、』
「ん?どうしたの?」
『旅立つ日は、……もう一度、この森に寄ってほしい。お前に渡したいものがある』
「渡したいもの?」
『ああ。だめか?』
「ううん、だめじゃないよ。でも、ゲッコウガは平気?」
『俺のことなら気にしなくていい。ただ、忘れずにここに来いよ』
彼が言う渡したいものの内容が分からず、再度首を傾げた私を彼は最後まで優しい眼差しで見つめていた。