レゾンデートル   作:嶌しま

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003

過去。

それは少なくとも俺にとって、余り良い意味の単語ではない。けれど同時に気になるものでもある。勿論、後者は何も俺自身についてではなくて、一年前に出会ったばかりの今はまだトレーナーですらない人間の彼女――セツナのことに他ならない。

 

かつてタマゴからケロマツとして生まれた俺は、覚えている限り最初は今いるここから随分と遠く離れた地方にいた。だが運が悪かったのか、俺を育てようとしたトレーナーは所謂効率重視、というやつで、俺以外にもたくさんのポケモンのタマゴを抱えていたことを今でも僅かながらに覚えている。俺は偶々、他の個体と比べて能力値とやらが高かったからか生まれてからもそこまで粗末な扱いを受けることはなかったが、目の前でタマゴを一心不乱に選別し、一日中血走った目でひたすら数字に追われているあのトレーナーは幼い俺にとって恩を感じるどころか、ただただ不気味で恐ろしい存在でしかなかった。だからこそ捕獲される前に隙を見て逃げ出し、遠い地方へ向かう船にただひとりで乗り込んだまでは良かったのだけれど、そこからは弱肉強食の世界だったと言わざるをえない。全く知らない地方でただひとり、生きるために必死で野生のポケモンや珍しい俺を付け狙うトレーナーとのバトルを重ねていく内、進化を重ねた俺はどこまでいってもひとりでしかなかった。寂しいなんて思う暇もないほど、ただ生きるので精一杯だったがある日ふと、今進化した自分は一体何という名前なのか。それすら知らないことに、俺は愕然とすることになる。

 

――俺は一体、だれなのだろう?

生まれた地から遠く離れたここでは、そもそも俺の進化前の名前を知っている人間すら皆無だった。研究者も探せばいるだろうが、それも悪い人間に捕まってしまったら最後、実験体にされて終わるのかもしれない。そう思うと迂闊に人間の前にも姿を現せなくなっていき、ぐるぐると頭ばかりが痛む不毛で、とても退屈な日々を暫く送ることになった。けれど、そんなときだ。そんなときだからこそ、俺はセツナに出会ったのではないか、と思う。

 

 

 

 

その日は昼を過ぎた頃から小雨が降り出して、ちょうど湖の近くを住処にしていた俺は木々に紛れて無心でいつもとほんの少しだけ違う湖を眺めていた。あらゆる土地から転々と移ってきたが、今俺が居るこのシンジ湖はわりと大人しいポケモンや幼いポケモンが多く、ポケモン同士の争い自体滅多に起こらないのでなかなか住み心地の良いところだった。但し、それ即ち平和すぎて出来ることが限られてくるというのが贅沢な悩みでもあったが、やがて町の方角から一人の人間が慌ててこちらに走ってくるのが見えて咄嗟に身を隠した。大方、雨宿りでもしにきたのだろう。人間が一人ではなく、これが複数人でそれも俺の存在が噂されでもしたらここにも居られなくなってしまう。そうなると困るから、俺は思わず、息を潜めてその人間をじっと見ていた。

 

 

「あちゃー、いよいよ降り出したかな?こんなときに限って傘は置いてきちゃったし……アヤコさんの言うとおり、傘借りておけば良かったかも」

 

 

ぱたぱた、と人間の衣服から僅かに水滴が垂れる音が妙に耳に残る。雨に濡れた白い髪は他の町でも見かけるが、それより印象的だったのはその人間の持つ薄紅色の目だった。自然の中でも、そしてポケモンでも同じ色合いを俺は今まで見たことがなかった。どうしてか、あの人間は普通の人間とはどこか違う、そんな気がした俺は息を潜めながらもゆっくりと、彼女に気付かれないように忍び足で近付いていった。しかし、滅多にとらない行動で緊張しすぎたのか、ぱきり、と小枝を踏みしめる音が周囲に響いて彼女がこちらに振り返る。見つかってしまった。まずい、そればかりが頭の中を駆け巡っていたのに、とうの本人はいとも容易くこう言ったのだ。

 

 

「……ゲッコウガ?何で、こんなところに?」

 

 

きょとんとした顔で告げられた、ただ純粋な驚きだけが込められたその言葉。しかし、それは今の自分を碌に知らなかった俺にとって、とても大きな衝撃を齎した。驚きすぎて最初は無言で彼女の前から立ち去ってしまったが、時を経て驚きの次に沸いたのは有り余る喜びという名前の感情。それから、俺を呼んだ彼女が一体どんな人間なのか、彼女についてもっと知りたい、という望み。こんなことは初めてで、けれどもこの地方では珍しい俺の存在を誰に言いふらすこともせず、ただあの湖で一緒に過ごすようになった彼女を、いつからか俺はどうしようもないほど気に入ってしまっていた。それこそ、もう手遅れなくらいには。

 

 

『言ったこともないから知らないだろうが。俺が優しくする人間はお前だけだよ、セツナ』

 

 

すっかり日が暮れてしまった湖の向こうで、数時間前、俺に向かって旅に出ると告げたセツナの幻影が見える。セツナは俺にかっこつけなんて思われなくて良かった、なんて言っていたが、今から俺がとる行動はセツナよりある意味かっこつけの気がしてきて笑えてくる。しかし、例えどんな風に思われたとしても、こんな真似をしてまで俺がお前から離れたくないと思っているのは紛れもない事実なのだ。

 

 

『俺もまだまだ、と言ったところか?本当に、セツナは面白いし、見ていて飽きない』

 

 

見渡す限り広大なこの湖で、果たして俺の探し物は見つかるだろうか。流石にこの広さで一つもない、ということはないと信じたいが、早ければ明日の朝にでもセツナがまた来るかもしれない可能性を思い出した俺は、何の躊躇いもなく夕焼けに照らされたシンジ湖の水面へ飛び込んだ。


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