レゾンデートル   作:嶌しま

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006

いつもなら家から歩いて十五分はかかっていたシンジ湖までの道のりが、今日は走ってきたこともあって何だかあっという間の距離に感じられる。その反面、朝から走った所為で今の私はすっかり息を切らしていて、シンジ湖の入口に着いた辺りから息を整えるためにもゆっくりと歩き出した。真冬でもないのに口から白い息が出ているのは、今が朝という時間帯でいつもより気温も低めだからだろうか。天気予報では確か暫く晴天が続くはずなので、この寒さも昼間になれば問題ないだろうけれど、アヤコさんに貰ったコートを着ていなかったら今頃かなり肌寒い思いをしていたかもしれない。そんなことを考えながら湖まで更に歩いていくと、やがてこちらに背を向けて静かに佇んでいる彼の後ろ姿が見えてきて思わず息を飲む。そこで不意に振り返った彼と、私の視線が真っ直ぐに交わる。他の野生ポケモンも大半がまだ寝ているのか、二人の周囲は静寂に包まれていた。

 

 

「……おはよう、ゲッコウガ」

『……ああ。おはよう』

 

 

何十秒か続いた沈黙を破り、思いきって私から声をかければいつものように彼も私に挨拶してくれて、無意識に入っていた力が体から抜けていくのが分かる。気負う必要なんてない。だってこの一年、私は誰よりも彼とともに時間を過ごしてきた存在だと確信できたから。最後に彼と会ってからの数日、ひたすら色々なことを考えてばかりで私の頭の中はずっとぐるぐるしていたはずなのに。今彼に会っただけでそれが落ち着いてきた辺り、どうやら私の中で彼の存在は相当大きくなっていたらしい。それを自覚しながら、彼の隣まで歩いていく。目の前に広がるシンジ湖は今日も変わらず綺麗で、その水面は既に青空を映していた。

 

 

「いつから私を待っていたの?」

『お前と会って翌日からここで待っていた』

「!そうなんだ……ふふ、」

『……何が可笑しい?』

「ううん、可笑しいんじゃなくて嬉しいんだよ。こんな風に誰かに待ってもらえるのって、幸せなことなんだね」

 

 

脈絡もなく笑った私をジト目で見ていた彼にそう告げれば、ぱちぱち、と何度か瞬きした彼は溜め息を吐くとなぜかそっぽを向いてしまう。その反応を不思議に思いながら今度は私が無言で彼を見ていると、その内観念したらしい彼が私の頭に手を添えて、ぎこちない動きで私の頭をそっと撫ではじめた。とりあえず、怒っているわけではないらしい。

 

 

「なあに?どうかしたの?」

『……何でもない。セツナは今日、旅に出るんだよな?』

「うん、そうだよ。あなたに会ってから、準備してきた荷物を取りに一度家へ戻るけれど、そこから旅を始めるつもり」

『そうか。なら、俺が前に言っていたものをここで渡そう。だがその前に、セツナにいくつかやってほしいことがある』

「やってほしいこと?」

『まず、どっちでもいいから前に手を出してくれ』

「……こう?」

『それでいい。あと、俺がいいと言うまでは目を閉じていてほしい』

 

 

彼に言われたとおり目を閉じた私の視界は、途端に真っ暗になる。一体、ゲッコウガは何を渡してくれるんだろう、とわくわくしている私を他所に彼は一瞬だけその場を離れると、私の掌に何か軽いものを乗せてきた。掌にちょうど収まるくらいのそれは、どうやら丸い物体のようだ。その正体がすぐに思いつかなくて悩んでいると、もういいぞ、とゲッコウガから声をかけられて閉じていた目を開ける。そこで目に入ったものの存在に驚いてゲッコウガを見れば、彼はいつも以上に穏やかな目で私を優しく見つめていて。

 

 

「ゲッコウガ、これ、」

『大したものでなくて悪いが、あの日、お前と別れてからこの湖に潜って見つけたんだ。ポケモンだけじゃ、人間の町で買い物なんて簡単には出来ないだろう?』

 

 

だからこうするしかなかった、と答える彼に私は何と言って良いのか分からなくて、自分の掌の上にあるそれをそのままぎゅっと握り締めてみる。赤と白、そして真ん中にラインが引かれているそれは、表面にいくつか細かい傷がついているもののモンスターボールで間違いない。けれど余りにも都合が良すぎて、私はもしかしたらまだ夢を見ている最中なのかもしれない。

 

 

「どうしよう。私、もしかしてまだ寝てるのかな?」

『……、……突然どうした』

「だって、もしこれが現実なら私、あなたにものすごく勘違いしちゃうんだけど」

『ふうん。例えば、どんな?』

「その……ゲッコウガが、私と一緒に旅に出たいのかな、って」

 

 

そういう勘違い、と呟くと彼は普段なかなか見せないにやりとした笑みを浮かべて、赤い舌先で私の頬をぺろりと舐める。突然の思いも寄らない感覚に震えた私を愉快そうに眺めながら、彼はいつの間にかとても上機嫌そうにぐるぐると喉を鳴らしていた。

 

 

「っ、いきなり、何?」

『……くく。勘違いなんかじゃないぞ?セツナ。その通りだからな』

「え、」

『別れの餞別にこんなボール一個だけを渡してやるほど、俺は良い性格をしていない』

「……、」

『お前にこの先会えなくなったら、俺は間違いなく退屈する。それは嫌だ。ならばむしろ、俺は今後もお前の傍に在りたい。無論、足手纏いにはならないと約束する。それなりの強さならばもう身に着けている自信がある。ここまで言っても、まだ説明が必要か?』

「……いいの?私、トレーナーとしても本当に初心者だから、むしろ私があなたの足手纏いになるかもしれないよ?」

『俺がいいと言っているんだ、問題あるまい。さあ、セツナ。どうする?』

 

 

このボールを受け取るか――即ち、私がゲッコウガと旅に出るか否か。

微笑むゲッコウガを見つめながら、私の出す答はもう決まっていた。

 

 

「そんな風に聞かれたら狡いよ。一緒に行こうとしか、言えないじゃない」

『ふふ。だがそれを分かっていても、お前は俺と行くのだろう?』

「まあそうだけど……でも、正直安心した」

『ん?』

「私もゲッコウガと離れ離れになるの、本当はすごく嫌だったんだ。でもゲッコウガにとってはここが住処で、私もこれから旅に出る初心者だから誘われたら嫌な気分にさせるかなって思って、ずっと言い出せないでいたの。全部私の杞憂だったみたいだけれど……それでも、これからもあなたと一緒にいられるって思うと、すごく嬉しい。だから、ありがとう」

 

 

握り締めていた掌をゆっくりほどいて、表面に傷のついたモンスターボールをゲッコウガに向けて差し出す。そうすると、何だか照れくさそうに目を伏せていたゲッコウガが自らボールの開閉スイッチを押した途端、彼は瞬く間にボールの中へと吸い込まれていった。カチン、と音がしたボールは、ゲームで見た捕獲の時と違って微動だにしない。それは彼が私を一人のトレーナーとして認めてくれているということで、そう考えると胸の中が喜びと嬉しさで満たされていく。こんなにも煌く感情を、現代にいた頃の私は何一つ知らなかった。この世界には、こんな風にきっとたくさんの未知が溢れているのだろう。勿論その全てが美しいことや素敵なことばかりとは限らない。けれど、私は一つずつでもいいからあなたと一緒にたくさんのことを知っていきたい。この一年、変わらず私の傍に居てくれたあなただからこそ。

 

 

「不束者な私ですが、これから末永く宜しくお願いします」

 

 

そう呟いた私に対し、掌の上のボールはまるで返事をするかのように小さく揺れていた。

 

 

「……、」

 

 

――そんな私たちのことを、他に見ていた人がいたなんて気付かずに。




6話のサブタイトルはずばり「アカギ様が見てる」です。
……という冗談はさておき、このお話のメインであるゲッコウガが主人公の手持ちに加わったところで次章が始まります。
現時点ではフタバタウンから出てすらいませんが、これから始まるゲッコウガと主人公の旅路を見守っていただけましたら幸いです。

【手持ち紹介その1】ゲッコウガ ♂

Chapter.1から登場。
【れいせい】な性格で基本寡黙。
訳あってケロマツの頃からシンオウ地方を転々としており、その中で野生ポケモンやトレーナーとの戦闘を全て単独で退けてきた強者。
一年前に出会ったセツナに対して既に親愛以上の想いを抱いているが、セツナが旅立つばかりということもあり、敢えて気持ちに蓋をしている。

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