トラック環礁の夜は基本的に熱帯夜だ。南洋諸島の気候は熱帯海洋性気候であり、一年を通して平均気温が30℃で夏だろうが冬だろうが一年中暑い。しかし、この季節は風が出ているため、そこそこ涼しくはなる。
だからか、いつもは暑がりの那智も、この季節の夜にはだいたい外に出て、非番の時には晩酌をしている。今日もそれだった。
外に出ると、いつもの場所…鎮守府の裏側にある海が見渡せる小さな広場へと向かった。その手には、個室から持ってきたお気に入りのタンブラーと、酒保にボトルキープしてあるウイスキーのボトルを一本、提げていた。
いつもは冷静で、武人然とした那智だが、以外にも酒は好きだ。琥珀色の液体が詰まったボトルは開けてからまだ二週間程しか経っていないが、もう半分以上が消えている。妹の羽黒も同じ物を飲んでいるが、那智とは違い嗜む程度しか飲まないので、容量の差は歴然だ。
いつもの場所に着くと、鎮守府の壁に寄りかかるようにして座った。一呼吸置くと、ボトルを開け、タンブラーへとウイスキーを注いだ。
一口飲むと苦く、そして香ばしい液体が口内から喉へと通過していった。
この酒は本土の物と比べると質は劣っており、入手も不定期的に東南から来る商船でしか手に入らないが、贅沢は出来ない今の状況にとっては、充分に満足できる物だった。
二杯、三杯とタンブラーは傾き、アルコールで火照った那智の身体を冷ましていた風も、だんだんと凪いできた。
いつもならこれくらいで自室に引き上げるのだが、彼女はその場を動こうとはしなかった。彼女の見つめる先には、日本本土がある方角だった。
今日は彼女がここに着任してから丁度一年が経つ記念日だ。一年前の今日、雨が降る横須賀から十二隻の艦娘と共にトラックへ向けて出港した。途中、嵐やら敵潜水艦の襲撃等があり、那智自身も左舷に魚雷の爆風を至近で受けて舵が損傷したりしながらも、なんとかトラック諸島へ辿り着いた。
「何時になったら、深海棲艦との戦いは終わるんだ…」
那智が呟いた言葉、深海棲艦とは、5年前、世界を恐怖のどん底へと落とし、人類史上始めて【人類対未確認生物】の戦いとなった【海洋戦争】の片陣営の名前だった。
それらはイージス艦や原空等の現代艦船では太刀打ち出来ない相手で、突然出現した脅威に当時の国連軍は対応出来ず、深海棲艦の繰り出した航空爆撃によりアフリカ及びヨーロッパの沿岸部が火の海と化し、一部の国は無政府状態となった。その時のキルレシオは20:1とも言われており、つまりは深海棲艦一匹を撃沈するのに何千億もするイージス艦二十隻を犠牲にするという衝撃の数値だ。
最初の襲撃から二年後に各国は海軍を再編し、精強な海軍を持つ米・日・英・中の四カ国中心に編成された国連海軍が深海棲艦が根城とするスウェーデンへ攻撃を行った。原子力空母十数隻にイージス艦五十隻以上の鉄壁の盾を配備し、さらにはアメリカ各地で記念艦となっていたアイオワ級戦艦を引っ張り出して艦砲による攻撃を試みたものの、それらの努力は段違いの機動性と攻撃力を持つ深海棲艦にとって敵では無かった。
結局、ヨーロッパどころかユーラシア大陸の殆どが更地と化し、今では深海棲艦の根拠地と化したスウェーデンから飛来する艦載機に対し、ロシアとウクライナの対空戦車部隊がなんとか持ちこたえている状況だ。
艦娘という存在は、この【海洋戦争】から登場した唯一の対抗兵器だ。元々は普通の人間で、志願して艦娘になった過去が誰しもある。今でも人間だった頃の記憶を持っているし、それは艦娘全員が持っているだろう。だから艦娘は、普通の人間だった時の記憶と、戦時中の兵器としての記憶の両方を共有している。
深海棲艦はその本拠地である泊地を潰さなければ永遠に出現し続ける。それが底なし沼の様に思えたのはいつだったか。今はそう思ってはいない。深海棲艦という沼にも底は存在する。そう教えてくれたのは、ある一人の男だった。
結局、3杯分のウイスキーを飲み、外から戻ってくる途中、ある一室から廊下へ漏れている光を見て、那智が呟いた。
「まだやっているのか。変に生真面目な奴だ」
最初に会った時はそんな風には見えなかったがな、と付け加えたが、実際にはあまり覚えていない。しかし、今では大切な人であるし、チャラチャラされるよりかは生真面目の方が良い。
那智はその一室の前に着くと、一度深呼吸をし、それからドアノブに手を掛けた。
「失礼するぞ、提督」
その部屋の中には人が一人居た。その人物は、他の提督とは違い、【白服】と称される第二種軍装を着用せず、地味な色合いの第三種軍装を着ていた。その地味さが、彼には似合っていた。彼は執務机に向き合い、書類と睨めっこしながらノートにペンを走らせていた。
こんな熱帯夜にも関わらず、扇風機を回さず、窓すら開けていないのに彼は汗一滴すらかいていない。
「まったく、集中し過ぎだ」
「悪い悪い、早く終わらせようと思って」
入ってきた那智に気付くと、そう言って椅子から立ち上がった提督はさすがに暑いと思ったのか、後ろの窓を開け放って風を取り入れた。が、それでも暑いのか、ファイルを団扇代わりにして仰いでいる。
「あっついなぁ…。こんな暑かったっけ?」
「集中し過ぎなんだ。少しくらい休め」
「そうしたいんだけど、まだまだ仕事が終わらなくて。何気に重要な拠点だからな、ここは」
「しょうがないさ。どれ、手伝ってやろうか?」
「お願いします」
提督が言う重要な拠点ことここトラック泊地は、トラック環礁内の様々な島に散らばった海軍基地の総称だ。北東に位置する春島に鎮守府庁舎と工廠、そして艦娘が待機する埠頭、春島の南側にある夏島には艦娘を修理するドック、そして航空部隊が駐屯する飛行場が設置されている。提督と那智の居る部屋は鎮守府庁舎の執務室だ。
トラックは前の大戦…WW2の頃から旧帝国海軍の重要な拠点だったこともあり、戦艦【大和】などが配備されていた事もある。
一世紀近く経った今でも同じ扱いを受けている。配備されている艦船は他の鎮守府と比べて多く、約30隻、8戦隊2航空艦隊が籍を置いている。ここに配備されている艦隊は【第三艦隊】と称されており、南太平洋地域のカバーを担当している。また、2航空艦隊が配備されている事から分かる通り、航空戦力が特に充実しており、正規空母、軽空母合わせて7隻が配備されている。
そのトラック泊地の司令官を務めているのはこの生真面目男、石川少佐だ。彼は一年前に着任した若手の提督だ。元野球選手という特異な経歴を持っている海軍士官だが、実働成績、能力共に優秀で、荒廃していたトラック泊地を立て直し、艦娘が登場してからの初の本格的な艦隊である第三艦隊を編成したのも彼だ。また、兵站面にも理解が深く、本土と南西諸島を繋ぐ輸送航路を確保したお陰で、ここら辺りの基地が資源不足になった事など一度も無い。
「提督、どれを処理すれば良いか?」
「この端っこにある五枚。艦隊の新編成案なんだけど、審査会通る様な理由が見つけられなくて」
「分かった。不自然じゃないように努力する」
提督が向かい合う執務机から、端っこにある書類を何枚か取ると、那智は隣にある秘書専用の机に座った。久しぶりにやる秘書艦の仕事を思い出し、終わりの見えない残業こそ底なし沼だと感じ、苦笑いをしながら久しぶりに座る机と向かいあった。
...........
「………くさん! ……いとくさん!」
微睡の中、何かに肩を掴まれ、身体がゆっさゆっさと揺さぶられていた。その振動のお陰で目は覚め、周りを見渡し、今自分の置かれている状況が理解できた。
「あー……ここで寝ちゃったのか…俺……」
目の前には心配そうな顔で俺を見つめている羽黒。その隣で隣を見ると、那智が机に突っ伏しながらすやすやと寝息を立てていた。時計を見ると朝の8時。見事としか良い様が無い寝坊だ。
「那智姉さん。時間ですよ、起きてください」
羽黒が那智の背中をそっと、優しく揺すった。あんな風に起こされていたのか俺。羽黒さん優しいぃぃぃ…と後から思い返せば相当アホな事考えていたなと思いざるを得ない寝起きの思考を展開させている間にも、那智は寝ぼけ眼を開き、時計を見て、我に帰った様にいそいそと動き始めた。
「ありがとうな羽黒」
「いえ…お役に立てたのなら嬉しいです」
羽黒は天使のような笑みを浮かべると、執務室を出て行った。
さて、俺も業務を始めなければ。
食堂で遅めの朝食を摂り、身だしなみを整えると、まずは工廠へと訪れた。
工廠では近隣に配備されている艦の兵器の生産、開発を一手に引き受けている場所で、日本が持っているのは横須賀、佐世保、呉、舞鶴の本土4つと、トラック、ラバウル、パラオ、ショートランドの諸島4つ、計8つだ。ハワイには米海軍のがあると聞いているが、まだ太平洋は危険なため、確認までは至っていない。
そんな工廠の主は第五水雷戦隊に所属する軽巡洋艦の夕張だ。彼女は大戦中、兵装の実験艦としても活躍した経歴を持ち、各々の武装についての知識と理解が深いため、工廠で兵装の開発と生産を担当してもらっている。
工廠に入ると、油と鉄の香りが混じった匂いが充満していた。入口付近で書類を捲っていた夕張がこちらに気付き、駆け寄ってきた。
「提督さん、おはよう」
「ああ、おはよう」
夕張は艦娘が着用する正規の制服ではなく、緋色のツナギを着ていた。頭には精密機器を組み立てる時に使うレンズが、サングラスのように掛けている。
「夕張、例のアレは?」
「うん。現物は出来てないけど、設計図は引けたよ。ちょっと待ってて」
夕張は一度工廠の奥へ走っていった。帰ってくるときには、何枚かの書類が挟まっているであろうファイルを小脇に抱えていた。その中の一枚を取り出すと、目の前に突き出した。どうやらそれは設計図のようだ。
図面に引かれていたのは、特徴的な逆ガルウイングの主翼と、紫電改に通ずる機首を持った精悍なシルエットの機体だった。石川が一度も見たことがない、新鋭の機体であった。
設計図の右上に記された名前は「烈風」。現在主力の紫電改を大幅に超える空戦能力を持った最新鋭の艦上戦闘機だ。
石川が烈風の開発を工廠に指示したのは約半年前の事だ。当時、艦上戦闘機の主力を担っていたのは多くの零戦52型と少数の紫電であったが、零戦の旧式化は否めず、また敵が新型の艦戦を投入してきたことによって新型機の開発を余儀なくされていた。その中で開発されたのが烈風であった。しかし、烈風と零戦を総入れ替えとなるとコストが掛かる、ということで紫電を改修した「紫電改」も同時期の開発がスタートしたが、こちらはもう実戦配備が進んでいた。
烈風は零戦や紫電とは違い、太平洋戦争時の詳細なデータが存在せず、さらに図面も存在しないため、他の航空機と比べて開発完了までの期間が非常に長かった。
さらに、今から試作機を作り、飛行試験をして、空母上での発着艦訓練をこなしてからの実戦配備となる。配備されるまでは最低でも半年は掛かるだろう。
「とりあえず試作機を作ろうと思うよ。多分二、三週間は掛かるね。それに関しての書類を提出しておくね」
「ありがとう。任せるよ」
新鋭機の開発は順調な様だ。
工廠を出ると、石川はもと来た道を歩いて戻り、担当の秘書艦が待機しているであろう執務室へと戻っていった。