ステイゴールド領の外れの、小さな医院。
ミミミが、タニアと生活をするようになって、一週間が過ぎた。
何も起こらない平凡な日々だった。
タニアは、時々お酒を飲み、一人で踊ったり歌ったりしている。
食事は、毎回タニアが作ってくれる。
ミミミは、それを見てマスターしていく。(自称)
それ以外の時間、ミミミはネロの部屋に居て、本を読んだり、
時々、ひたすら跳ね回ったり、
ネロの世話をして過ごす。(自称)
物資は、タニアが来て数日中に、三人では処理しきれない量が届いていた。
3ヶ月は暮らせそうな量だ。
昼食が終えた午後の時間、外は穏やかに晴れている。
ネロの部屋、ミミミが、ネロのベッドを転がりながら本を読んでいる。
ふとネロを見ると、文庫本を開いたまま顔に乗せ、眠っているようだ。
ミミミは、ベッドを飛び降り、窓を開けてネロの部屋に面した縁側に立つ。
外には、広めの中庭があり、草花が必死に場所の取り合いをしている。
ミミミは、急に思いたち、置いてあった草履をはいて外に出ると、雑草を抜き始めた。
しかし、雑草は強く地中に根を張っているようで、簡単には抜けない。
千切ろうとしても、ちょっと束ねただけで、驚くほど硬くなる。
「…」
ミミミは草履を脱ぎ捨て、ネロの部屋に戻り、キッチンに向かう。
キッチンでは、ハダカ以上にハダカのようなスケスケの布を巻いたタニアが、
鼻歌まじりに食器を洗っていた。
シンクの隣には、ワインの入ったグラスと少しのチーズが置いてある。
タニアとミミミは、必要な時以外、お互い特に話はしない。
それでも、知らない人同士によくある気まずさは、生まれなかった。
ミミミは、タニアを少し押してズラすと、シンクの下に挿してある包丁を取り、
ニヤッと微笑む。
タニアは、包丁を持って微笑むミミミを見ると、
洗い物を一時中断して、ミミミの背中を追う。
ミミミは、部屋に戻ると外に飛び出し、転がっている草履をはき、
雑草を包丁で切り始めた。
タニアは、ミミミの後を追って、ネロの部屋に入る。
ネロは寝ているようだった。
起こさないように静かに歩き、
外を眺める。
そこにあったのは、午後の柔らかい光を浴びながら、雑草に向かって、
飛んだり、跳ねたり、回転したりしながら、包丁を振り回して、
ニヤニヤしている、ミミミの姿だった。
タニアは………小鬼がいる…と思った。
このシュラには、不思議な生き物がいっぱいいるから、
この子も、その一種だろうと思った。
山に住んでいる小鬼が、ふもとにある村の祭りを山の上で眺めながら、
自分も祭りに参加しているかのように、一人で踊る姿だ……と、勝手に決めた。
タニアは、キッチンに戻り、ワインとチーズを手に、ネロの部屋に戻った。
それをサイドテーブルに置くと、部屋にある椅子を持ってきて腰掛け、
その光景を眺めていた。
どれくらいの時間が経ったかわからないが、ワインを飲みながら、
外を眺めているタニアの耳に、シュッと何かをこする音が聞こえてきた。
音の方を見ると、寝ていたはずのネロが体を起こし、タバコをくわえ、
マッチで火を点けている。
タニアは、ネロのくわえたタバコを見ていた。
お互いに何も言わないままで、煙が音も立てずに部屋に舞い、
ネロのタバコは、ゆっくりと短くなっていく。
タニアは、砂時計の砂がサラサラと音も立てずに、
落ちていくのを見ているような気分で、それを見ていた。
ネロが、タバコをくわえたまま…宙を見つめながら、ボソッとつぶやく。
「逃げないのか?」
タニアは、見張られている……筈だった。
八雲に連れられ、この家を訪れた時、
八雲はミミミに、
「ネロとこの家にいたいなら、この女を見張っておくように…」
と言い残して去っていった。
ネロにタニアの事を説明する時も、確かにミミミはタニアを見張ってる事を伝えていた。
だが、ミミミはタニアを見張った事は一度もなかった。
ネロも同じだった。
タニアとネロが会うのは、このネロの部屋だけだった。
この部屋にも、何度か入っているが、彼が何か話かけてきたのは、
これが最初だった。
タニアは、足をぶらぶらさせながら答えた。
「…だって……誰も見張ってないし…」
タニアには、わかっていた。
ネロとミミミには、私を見張る気なんて、砂つぶほどもない事を。
ネロは、煙を吐き出すと、短くなったタバコを、
ベッドの下に置いてあった空き缶に捨てた。
タバコは、缶の中で、ジュッと小さな音を立てて消えた。
残ったのは、風のない部屋に漂う煙と、かすかなメンソールの匂いだけだった。
「あたしに……逃げて欲しい?」
タニアは下ろしていた足を椅子の上で組み、両手で抱え込んだ。
そのままで、少しの時間が流れた。
ネロはどこを見るでもなく、ずっと宙を眺めている。
その目は、必要な時以外は、例え開いてはいても、この世界は何も映っておらず、
自分の心だけを、常に見つめているような…そんな目だった。
彼の肌は白く、肉体は引き締まっているが、、無数の傷と包帯が覆っている。
無口で少しの愛想もなく、そう若くもない。
長く黒い髪は、艶を持っているが、方々に跳ねている。
タニアは自分の魅力をわかっていたから、
どうしてこの男は、自分に何の興味も示さないのか、
少しだけ、不満だった。
初めて会った時、ゲイではない……という否定もしなかった。
外では、緩い風がときどきゆらす葉のこすれる音と…
遠くで聞こえる鳥の声と、砂を蹴る音、
……ゲヘゲヘと笑う小鬼の声が小さく聞こえている。
タニアは、ネロに何かを言って欲しい訳ではなかった。
ここにいる理由もなかったが、
別に、行きたい場所も、戻りたい場所もなかった。
ただ、もしネロが何かを言った時には、
ネロの望む通りにしようと決めていた。
まるで絵のように止まったまま動かないネロ。
その口元が小さく開き、低い声がこぼれた。
「カレー…作れるか?」
タニアは、一言だけ言って、また止まって絵になったネロを見つめる。
そして、グラスに残っていたワインを飲み干すと、
ゆっくりと腰を上げた。
その時、ネロの顔の近くで、わざと自分の長い髪をスッとかきあげ、
香りをちらした。
自分の体を抱くようにして歩き、食料庫へ向かう。
口元には、なぜか勝手に笑みが浮かんでいた。