リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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地球教勝利END、平均評価つくほど反響あって驚いた。
気分転換としてかなり大雑把に書いたつもりやったんやが……


洗礼

 七月一四日に地球教の地下本部に潜入してからユリアンは教団側の信頼を得て情報を探ろうと努力していたのだが、その努力はほとんど実を結んでいなかった。地球教の聖職者たちは告解でもしない限り、一般信徒たちと最低限の交流しかしようとはしないからである。唯一の例外として教団上層部から客人として遇されているイザーク・フォン・ヴェッセルと交流を持つことには成功したが、地球教関連の話題になると彼が警備班に所属していることを除けば、もっぱら宗教観念的な話しかしようとしなかった。どうもヴェッセルは地球教本部の運営などの実際的な話をすることを忌避しているようで、ユリアンがさりげなくそちらの方に会話を誘導しようとするとヴェッセルは言を左右し、彼の昔話などを混ぜ込んで話の流れをぶち壊してしまうのである。

 

 ユリアンとしても秘密裏に探っている身であるからあまり強くそのごまかしを追及していくことはできず、自分が知りたいことを知っているであろう人物から聞き出せないもどかしさを味わっていた。ヴェッセルの語る旧王朝下における警察事情や貴族事情の話題はそれなりに興味深く、有益であったと思うが、ここに来た目的が地球教の裏側を探ることなので、本来の目的とはなんら関連性がない。こんな遠い惑星にまでやって来て、地球教の巡礼者に対する過度の監視体制を敷いているので個人的には怪しさを感じるが、確証はなにひとつ掴めずに終わるというのは避けたいところである。地球教に裏側がどういった性質のものなのか、その方向性が伺える情報くらいはなんとしても掴みたかった。

 

 二六日、その日の自発的奉仕という名の労働をユリアンは手間取らせてしまい、食堂に顔を出すことができたのは祭儀(ミサ)も終わって食事時をかなり過ぎた時間であったので、かなり空いていた。食堂を一望すると一緒に潜入した仲間であるポプラン中佐の姿を見つけたユリアンはその対面に座って小声で話しかけた。

 

「どうです、お気にいった美女はいましたか」

「だめだめ、半世紀前は女でした、という骨董品ばかりさ」

 

 地球教本部に巡礼にきている女性全員を敵に回しかねないほど失礼な言葉を平然と吐いた。彼は公式記録上は既に死んでいる存在である。ヤン元帥が数年後に意味を持ってくるであろう戦力を残す“シャーウッドの森”と呼ばれる秘密作戦に参加を希望し、ポリスーン星域にあるなかば破壊されて放置されたままの同盟軍基地に潜伏していたのだが、戦闘面だけではなく異性に対する撃墜王でもある中佐は、要塞の住人の九割以上が男性であることにややうんざりしてきて、ユリアンの旅に途中参加してきたのである。

 

 彼の目線で男の価値がわかっている熟成したいい女に限定されているようである。ポプランの感覚からするとここにいる女たちは容姿的にはともかく、内面的にあわなかった。ポプランのユーモアを軽薄で下品であると評してくるか、そんなこと言い出す不信心さを叱ってくるか、さもなくばここではないどこか遠い世界に意識を旅たたせているか、あるいは素朴すぎてそういう気になれない、期待はずれの女ばっかりだったのである。

 

 そのいつもと変わらない発言にユリアンは苦笑した。彼の記憶が間違っていないのであれば、ボリスーン星域の放棄された基地から出るときにポプラン中佐は言ったものである。生物学上の女であれば文句は言わないという心境になっていると。だが、そういう心境になっていたことは今や綺麗さっぱり忘れているようであった。

 

「それより、資料室なりデータバンクなりは見つかったか」

「だめですね。もっと下層にあると思います。ちかいうちにきっと見つけますよ」

「意気はかうが、あせるなよ」

 

 そうして情報交換をしはじめてから一分くらいたっただろうか。突然、食堂で食事をとっていた信徒の一人がひび割れたガラスのような雄叫びをあげた。その信徒は血走った目でテーブルをひっくり返し、なにか恐ろしいものに怯えるような様子で、近くの信徒に暴力をふるいはじめた。

 

 その騒ぎを聞きつけ、警備班の下級聖職者が六人ほど食堂に駆け込んできた。彼らは手に高電圧銃を携えていて、あきらかに正気を失い狂乱状態にある信徒に向けて引き金を引いた。信徒は大きく短い悲鳴を上げた後、床にたおれて動かなくなった。

 

「畜生、そうだったのか、おれとしたことが、いままで気づかなかったとは……」

 

 状況を的確に把握した伊達男が、らしくなく青い顔に変えてうめいた。そしてユリアンの手首をつかみ、足早に食堂から出た。騒ぎを聞きつけた野次馬たちが食堂に近づいてきていたので、その流れに真っ向から逆らっていることになり、大変目立つ行動である。

 

「どうしたんですか。あまり目立つ行動をとっては――」

「すぐトイレに行って、さっき食べた料理を吐きだせ」

 

 いつもの陽気な雰囲気がかけらもないきつい声に、ユリアンは事態の深刻さを悟った。

 

「毒でも入っていたんですか」

「毒の従兄弟ぶんさ。さっき食堂で男が暴れただろう、あれはサイオキシン麻薬にたいする身体の拒絶反応だ」

 

 予想を遥かに超える返答に、ユリアンは戦慄を禁じ得なかった。サイオキシン麻薬は銀河連邦末期に人類が生み出した最悪の遺産のひとつである。化学合成によって人工的に作られる極めて悪質な合成麻薬で、それを摂取することによって得ることができる強烈な快楽から中毒になりやすいことに加え、催奇性と催幻覚性が強いために銀河全体の社会問題にまで発展している代物である。

 

 その危険性を物語る中毒患者のエピソードは星の数ほどあるが、それ以上にサイオキシン麻薬がどれだけ社会の脅威であると認識されているかというと、昔にあるフェザーン・マフィアがサイオキシン麻薬を帝国・同盟問わず売買していたことがあり、これに激怒した帝国と同盟の刑事警察が両国が恒常的戦争状態にあるにも関わらず秘密裏に手を結んでその摘発に乗り出したという噂が巷に流布しているほどである。もっともあくまで噂であるので、それが本当にあったことなのかどうなのかは不明である。帝国も同盟も表向きの立場上、そうした記録は抹消すべきであると判断したのか、ローエングラム王朝による旧時代の機密資料公開の流れの中でも、その噂を裏付けるような公式資料は発見されることはなかったが。

 

「地球教徒の奴隷的な従順さの一因は、このせいだったんですね」

「大昔の革命家が、宗教は精神的麻薬だと言ったそうだが、これを見たらなんというのやら」

 

 二人の言葉は全体を評したものであったが、彼らが冷静に情報分析した結果によるものというより、自分たちがその渦中にいることを認識したくないという心理的作用から出た言葉であった。しかしその言葉がまちがっているということはなく、また彼らの頭脳はその不愉快な真実を現実的なものとして受け入れてはいた。

 

 サイオキシン麻薬のもっとも悪辣な点は、個人差はあるが限界量を超えるまで継続的に摂取し続けていれば苦しまないことであり、許容量の範囲内であれば摂取をやめても禁断症状も発生しないことである。しかして、体内に入り込んだサイオキシン麻薬を浄化するのに長い時間がかかってしまうことなのだ。つまり、微量でも相手に継続的に摂取させ続ければ、当人がまったく自覚のない状態で末期のサイオキシン中毒者にさせられていることがあるということだ。

 

 銀河連邦末期、この特性を利用して怪しげな一部の新興宗教や腐敗しきった公人たちが信徒や部下にサイオキシンを混入した食事をとらせ続け、徐々に従順な奴隷に変えさせる手段が多用されていたという。地球教はある意味、その時の方法を研究し、再活用していると評することができるだろう。もっとも、銀河連邦の場合、サイオキシンに限らず社会全体が麻薬に汚染されているような状態にあったというから、その問題性は地球教の比ではなく、それだけにその悪夢じみた社会的構造を剛毅な意思と苛烈な手段で根絶せしめたルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの民衆人気の一因になったのだ。

 

 ユリアンは思考がそれていることに気づいた。教団本部に潜入してからもう一二日も経過している。その間、そんな曰くつきのサイオキシンが混入した食事を食べ続けていたことになる。まだ苦しくはなっていないから限界値を超えていることはないだろうが、許容量はひょっとしたら超えているかもしれない。そう思うと背筋が寒気でゾワリとした。

 

「今日と明日は食事を抜け。もっとも、万が一にも禁断症状がでたら食欲なんてなくなるだろうがな」

「ほかの三人にも知らせないと……」

 

 喉の奥に指を突っ込んで胃の中身をトイレに吐きだした後、洗面所でユリアンとポプランは情報交換を行った。地球教の不審と猜疑を買うことは間違いないが、やるしかなかった。そうしなければサイオキシンが混入された食事を摂取し続け、中毒患者となり、地球教の操り人形となる未来しか待っていないのだから。

 

「それにしても、中佐は、いろいろご存知なんですね」

「おれもな、女だけで苦労したわけじゃないからな。青春の苦悩ってやつの、おれは歩く博物館なんだぜ」

 

 そういってニヒルに笑うポプラン中佐を見て、ユリアンは若い頃に反骨性と反社会性を履き違えて、麻薬の類に手を出す過ちを犯したことでもあったのかという疑念を抱いたが、口には出さなかった。仮にそうだったとしても、今は克服できていることは疑いなかったし、そこまでつっこんでするような話でもないように思えたからである。

 

 その日の夜、ユリアンは空腹感と未来の禁断症状に恐怖したが、特に何も起こらず無事に眠ることができた。大変だったのは翌日である。もちろん朝食を抜いたのだが、完全に行動を一変させることはためらわれたので“自発的奉仕”には参加した。しかし空腹の状態で労働に精を出すことなどできようはずもない。おまけに昼ごろからは体調不良も出てきて、散々だった。

 

 そして夜の祭儀(ミサ)で高位聖職者の「平和は尊い」・「隣人を慈しむ」・「人民に尽くすことが聖職者の使命」といった趣旨の説法を聞かされて感情的にも苦しめられた。地球教が巡礼に訪れた信徒をサイオキシン中毒者にしようとしていることを思えば、その欺瞞性に怒りを禁じ得ない。どの口でそんな恥知らずなことが言えるのか。あまりにも醜悪すぎる。

 

 祭儀(ミサ)が終わり、早々に礼拝堂から出て、割り振られた自分の部屋に戻ろうとしたのだが、背後から呼び止められた。その声は最近よく聞くようになったもので、ユリアンは思わず立ち止まって振り返り、そしてしまったと感じたが、いまさら無視してしまうと不自然すぎるので、返事をした。

 

「どうしたんですかヴェッセルさん」

「どうしたはこっちのセリフだ。ずいぶんと顔色が悪いが、大丈夫か」

 

 心底心配そうな顔でこちらを覗き込んでくるヴェッセルに、ユリアンは警戒した。こんな大規模なことをやっている以上、少なくとも教団本部の関係者は全員()()と見て間違いない。おそらく、教団がこちらに探りを入れるために、自分と交流があったヴェッセルを接触させようと考えたのだ。

 

「いえ、ちょっと調子が悪いだけで、寝ればなおると思いま――」

 

 そう言った直後、ユリアンの腹の虫が大きな鳴き声をあげ、なんともいえない空気を作り出した。

 

「……寝るのも大事だと思うが、飯も食べておいた方がいいと思うぞ。よかったら、これから一緒に食堂に行くかい?」

「いえ、食欲がないんですよ。しんどくて」

「腹が空腹を訴えているんだぞ。スープだけでも飲んで寝たらどうだ?」

 

 ひどく困惑しているような様子でヴェッセルが言ってくるので、逆にユリアンも困惑した。彼は純粋にこちらを心配しているように感じられたからである。教団の関係者である以上、教団の所業をしらないということはありえないだろう。いや、でも、たしか彼は自分と一緒に食堂で一般信徒向けの食事を一緒に食べていた。もしや、知らないのか? それとも知らないふうを装っているだけなのか?

 

 ヴェッセルの立ち位置は明らかに怪しいが、行動とそれがまったく結びついていない。ユリアンが持っている情報とその分析力では、ヴェッセルがどのような立ち位置にいるのか判断しかねた。だからユリアンは食欲が湧かないと一点張りで、ヴェッセルの「なんでもいいから食べとけ。なんならお粥でもつくってやろうか」というなにか食べろという提案を断り続けた。

 

「まさか、洗礼に……?」

 

 提案を断られ続け、ヴェッセルがぼそりとなにか呟き、ユリアンがなにを言ったか問い返そうとする前に、次の言葉を発した。

 

「……そうか。それならしかたない。そういう時もあるだろう。しかし、見ていて危なっかしいから、私が部屋まで一緒についていってやる」

 

 そう言われるとユリアンとしては断れず、部屋までヴェッセルに手を引いてもらうことになった。道中は他愛のない会話を交わし、部屋の近くまで来ると、ヴェッセルは少しだけ声音を硬くして忠告した。

 

「これは余計なお節介かもしれないが、一晩寝ても体調が優れないようなら、地球から出て、外の医者に見てもらえ。この本部にも一応、医務室はあるが、そこに勤めているのはとんでもないヤブ医者ばかりだ。……主教さまがたはそんなことないとおっしゃるが、とても信じられないほど人格に問題があるから、俺はあいつらを好かん」

 

 その忠告に即座に反応するには、ユリアンの頭脳に栄養がいっていなさすぎた。

 

「……それはどういう?」

「さあ、きみのベッドがある部屋だ。ぐっすり寝て、元気になれよ」

 

 そう言い残すとヴェッセルは足早に去っていった。なにかから見たくないものから逃げるように。ユリアンはなぜか追いかけるような気にはなれず、自分のベッドに潜り込んで、眠ろうとしたがだめだった。苦しくてとても眠れたものではなく、他の信徒もベッドに来る頃には禁断症状の発作も起こってのたうち回り、まわりから咎められたり、医務室に行くよう勧められるほどだった。しかしヴェッセルの忠告を聞くまでもなく、ここの医者には信用を置けない。そしてそれ以上思考する余裕がない苦しさだった。

 

 まるで体中の神経が激痛を訴えているかのような感覚。サイオキシン麻薬の禁断症状のおそろしさは噂で聞いていたが、想像をはるかに超える苦しさ。ポプラン、コーネフ、マシュンゴ、オットテールは大丈夫だろうか。この苦しみを耐えることができているだろうか……。そんな弱気なことを思ってしまうほどのものだった。

 

「どうしたのかね、きみ」

 

 優しさをよそおった声がかけられ、ユリアンはベッドから体を起こした。医務班所属の下級聖職者たちがベッドの中にいる自分を立って見下ろしている。同部屋の信徒たちの反応を見るに、どうやら自分はかなり長い時間、のたうちまわっていたらしい。あまりにもしんどすぎて時間の感覚が狂っていたようである。

 

「ほかの信徒たちから、きみがたいそう苦しんでいるという報告があってね。おなじ信仰をもち、心をわかちあうわれわれだ。なんの遠慮がいろう。医務室へおいで」

 

 ユリアンは同部屋の信徒から医務室へ行くよう言われた時と同じように拒否しようとしたが、これ以上断ったら今度はサイオキシン中毒者とすべく、

力ずくで拘束され、サイオキシンを注入されてしまうことになりかねいと思い、素直に頷いてみせた。体調不良の原因である人間たちが眼前に現れたためか、そちらに意識が向いて体調がある程度回復したような錯覚すら感じられ、荒事になってもなんとか対応できそうであると思えたのも、そうした判断ができた理由のひとつである。

 

 しかし医務室に連れて行かれる途中に、ある人物に止められることになった。

 

「待て。その子をどこに連れて行こうというのだ?」

 

 声の主はヴェッセルであり、突然の呼び止めに医務班の聖職者たちは戸惑った。

 

「ひどく苦しんでいる信徒がいたので、医務室で体調をみてもらおうと思いまして……」

「……」

 

 ヴェッセルはじっとユリアンを見つめ、彼以外の全員を困惑させた。ユリアンとしても、ヴェッセルがなにを考えているのか皆目見当がつかない。

 

「仮病だ」

 

 唐突にそんなことを言い出した。

 

「け、仮病ですと?!」

「ああ、私と彼とはよく雑談をする仲でね。今日の夕食時、負けた方は一日仮病のフリをするというくだらん賭けをしたのだ。ほんの戯れのつもりであったが、本当にやるとは思わなかった。迷惑をかけてすまない」

 

 まったく心当たりがない嘘八百である。そもそもユリアンは今日夕食など食べていない。そしてそれは、警備班からの報告で医務班の面々も知っているし、ユリアンが苦しんでいるのはどういうわけかサイオキシン入りの料理を食べなくなったせいで発生した禁断症状によるものだと理解している。だからリーダー格の人物がなにか抗弁しようとすると、ヴェッセルは一喝した。

 

「下級聖職者風情が何の了見で私の見解に疑義を唱える? 私は恐れおおくも総大主教猊下に立場を保証されていることを忘れないでほしいな」

 

 総大主教の権威を利用した言葉に下級聖職者たちは萎縮したが、同時に反感を募らせた。そもそもヴェッセルは地球教の聖職者ではなく、総大主教個人が客人として遇することを約束しているだけの存在にすぎない。それなのに、自分たちより上である司祭の待遇で優遇されていることが腹立たしいのであった。

 

「そうは仰いますが……私には彼の苦しみが仮病によるものとはどうにも思いませぬ。一度だけでも医務室の医者にみてもらったほうが……」

「ほう、なるほど。たかが仮病にたいそうなことだな。なら今日一日は私の個室で面倒をみよう。それでどうだね?」

「……」

 

 ささやかな反抗もあっけなく挫かれて、下級聖職者たちは憤懣やるかたない思いになったものの、おとなしく命令に従った。ヴェッセルを、というより、彼の裏にいる総大主教を恐れての決断である。彼に頭をさげるのも、総大主教に対して頭をさげるのだと思えば、いくらか心情的にマシになる。

 

 こうしてユリアンの身柄はヴェッセルに引き渡されたわけだが、ユリアンはいったい自分がどういう状況にいるのか分析するのに必死だった。あきらかに険悪な様子であったから、地球教内部に対立があるのだろうか。それにヴェッセルは自分のことを総大主教の客人と称していた。もしかしたら自分が想像していたより、地球教内の彼の立場は強いのかもしれない。ユリアンはどういう事態になってもすぐに動けるように身構えながら、ヴェッセルについていった。

 

 つれていかれた部屋は驚くほど殺風景で、生活感がなかった。ヴェッセルは洗面台の抽斗から白い粉を取り出し、それをコップに入れ、水道水で溶かしたものをユリアンに差しだした。ユリアンはそれがサイオキシンを溶かしたものであると思って首を振って拒絶すると、それを察したヴェッセル驚くべきことに勢いよくコップを呷り、半分ほど飲み干した。

 

「ただの中和剤だ。毒も麻薬も入っていない。信じてくれ……」

 

 ヴェッセルの声はほとんど哀願に近いものであり、彼は嘘を言っていないとユリアンに思わせるものがあった。決意して飲み干した。すぐに効果がでるはずはないのだが、ユリアンは体調が落ち着いたような気がして、目を閉じて深く深呼吸した。

 

 そして目を開けると、ヴェッセルは震える手でブラスターをユリアンに向けていた。

 

「なんのまねです?」

「さあ……なにやってるんだろうな? まあ、きみが好きなように解釈すればいい」

 

 ヴェッセルは頬が引き攣った笑みを浮かべて、そう言い捨てた。口調にはどこか投げやりなところがあって、自嘲の色がとても濃かった。

 

「さて、一応、聞いておこうか。きみ、フェザーンの信徒じゃないだろう。それにたぶん、地球教の信徒ですらない。たぶん、同盟の人間と見たが、あってるかな」

「……どうしてわかった?」

 

 同盟人だと確信している顔をしていたので、ユリアンは素性を偽る必要性を感じなかった。

 

「帝国の貴族政治や官僚機構のあり方に関心持ちすぎ。商人の国らしく、フェザーンの一般向けの政治教育は、概ね、世の流れに乗って実利を上げることに主目的が置かれている。だから一般人だと豪商ないしは歴史家か制度設計の専門家志望でもない限り、既にローエングラムの世になって意味を失いつつあるゴールデンバウム王朝時代の官僚機構の話など儲けにならない笑劇の類として浪費されるがオチだ。なのにきみは随分と興味深そうに私の話に聞いていた。だから最初はどっかの諜報員なのかと思ったが、それにしては狡猾さや熱心さというものに欠けすぎている。だから知識のある物好きが興味本位でと考え、いくつかのひっかけをしたら、同盟人には通じるがフェザーン人には通じない(ことわざ)に、きみは実に自然に反応してくれたからな」

 

 ゴールデンバウム王朝時代の警察総局は一般警察を統括する部局であって、政治犯やスパイの類を取り締まるのは社会秩序維持局であり、管轄が別であった。しかしながらゲオルグは社会秩序維持局との関係を重視し、将来的には両局の一体化を目指していたこともあって、ゲオルグ派の警官たちはスパイを見抜く手法に長けているのだ。

 

 ヴェッセルもゲオルグの信頼厚き側近であったから、相手のペースに合わせつつ自然な形で探りを入れることなど容易いことだった。しかしユリアンとしては、自分の迂闊さに歯噛みしたい気分だった。

 

「なにが目的なんだ」

「なに?」

「僕の正体に気づいていたなら、どうして教団にそれを報告しなかったんだ? それどころか僕を助けさえしている」

「……」

 

 その問いにしばらくヴェッセルは沈黙した。そんなことを問われるとは考えていなかったようですらあり、ユリアンは内心で疑問に思った。

 

「……まあ、親しく話した仲だからな。洗礼を受けて地球教の操り人形になるのを見過ごすというのも寝覚めが悪い」

「僕だけが助かるつもりはない。一緒にここにきた仲間がいるんだ。彼らと一緒じゃないと――」

「黙れ」

 

 絶対零度の冷たい声でヴェッセルはそう吐き捨て、迷いなくブラスターをユリアンの頭部に突きつけた。

 

「これ以上、文句を言うようならこの場で撃ち殺してやる。この地下神殿から出て、南に五〇キロほど行ったところにダージリンという街がある。そこのシオン主教に事情を話せば、地球から出られるようにとりはからってくれるだろう。道中、かなり険しい道のりだが、きみなら死ぬ気で頑張ればきっと大丈夫だろう」

 

 そう脅すように言ってヴェッセルが一瞬脱力した瞬間、ユリアンは行動に出た。ヴェッセルはユリアンの鍛えあげられた肉体を見て警戒を解いてはいなかったが、それでも白兵戦技の達人シェーンコップによって鍛えられ、合格点をもらえるほどの身体能力の持ち主であるとまでは見抜いておらず、完全に不意をつかれて右肩部分を殴られた衝撃でブラスターを落とし、体勢が崩れたところにタックルをくらって地面に叩きつけられた。

 

 ヴェッセルはわけもわからず痛む体を起こし、さっきまで自分が握っていたブラスターをこちらに向けられているのを目視して、ようやく自分に何が起こったのか理解し、ひどく情けない笑みを浮かべた。

 

「……撃つがいい」

「なに?」

「殺せというのだ。ようやく死ぬべき時が来たらしい。だから殺すがいい」

 

 あまりに捨て鉢な態度に、ユリアンは困惑した。彼も地球教の暗黒面に関わり、素朴な巡礼者を洗脳するのに関与していたと思わしき男であるというのに、どうにも憐れみを覚えずにはいられない雰囲気を持っている。

 

「そんなことより、先にあなたに聞きたいことがある」

「なんだ?」

「地球教の秘密を知りたい。具体的には、まず、地球教の財政基盤だ」

「信徒たちからの寄付や奉仕労働による収入が主、と、言ったところで納得しそうにないな」

 

 ユリアンのきつい顔を見て、ヴェッセルは途中から観念したように付け加えてそう言った。

 

「地球教はなにか壮大な陰謀の糸を銀河に伸ばしていることを示唆する遺言をある主教が残しました。それが本当だとすると、どうしてもその程度の資金源でどうにかなるとは思えない」

「そんなことまで知っていたのか……だが、ご期待に応えられそうにないな。地球統一政府が植民星から収奪し、隠蔽していた資金を利用したという噂を聞いたことはあるが、何百年も裏工作を続けていたのでは早々に資金が枯渇するだろうしな」

「陰謀を巡らせていることは、本当なんですね」

「でなければ、洗礼と称してサイオキシンで巡礼者を洗脳しようとしたり、同盟や帝国の内部事情を事細かに調べたりはしないだろうな」

 

 自嘲するように、ヴェッセルはそう証言し、ユリアンは地球教の悪意を再確認して怒りを禁じ得なかった。

 

「地球教の目的はなんだ。自分たちの先祖が持っていた特権を取り戻すことなのか」

「さあ、最終的になにを目指しているのかまでは外様の自分は知らぬ。だが、その根底にあるものはなんとなくわかる」

「根底? どういう意味です」

「地球は銀河全体で見れば孤立し閉鎖された社会だということだ」

 

 もっとも、言葉だけで理解できるようなことでもなかろうが。そうヴェッセルは続けた。実際、自分も地球で暮らして数ヶ月たつまで全く理解できていないことだったのだ。ほんの十数日間もいたとはいえ、この地下神殿にだけいたような人間が地球の実態を理解できるとは思えなかった。そう、なにもかもが違う。断絶している。もはやここは帝国とも同盟とも、そしてむろん、フェザーンとも違う文化を有する、違う世界なのだ。

 

 そこまで考えてヴェッセルは自己嫌悪した。ばかばかしい。自分が他人に偉そうなことを言えるような人間か。自分は敗残者なのだ。誰かに負けたというわけではなく、自分の人生にたいする敗者なのである。未来ある若者に、偉そうなことを言える資格など、なにひとつとしてない。

 

「その辺の感覚の違いを知りたいのなら、普通の地球人と会ってみるといい。さて、もう地球教の裏側について知っているようなことはほとんど話してしまった。あとはその銃の引き金を引いて、私を殺すといい」

 

 ユリアンはすこしだけ逡巡した後、口を開いた。

 

「……最後にひとつ聞きたいことがある」

「なんだ?」

「あなたは総大主教の客人として厚遇されていたように思える。なのにどうして僕を助けようとした?」

 

 その問いに対し、ヴェッセルは忌々しそうな目でユリアンを睨みつけた。


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