“名君”の定義とは、具体的に何であろうか。政治的に優れた君主のことであり、国のため、民のために尽くし、多大な治績を残し、後世に多大な影響を、悪い意味ではなく、後世からも好ましく思われるような影響を残した指導者のことを意味するのではないか、と、思われるかもしれない。
だが、銀河帝国においてはそれ以外の意味をも含有しうる。それは“ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムを連想させるがごとき勝利者にして絶対者”という意味である。どういうことかというと、単純である。彼が銀河帝国を創始しえたのは、彼が政治的な敵対者に対して勝利に次ぐ勝利を繰り返し、己が理想と考える在り方を全人類社会に強制し、実際に染め上げてみせたからである。
この事実が、遺伝子や血統を重視する帝国の思想や価値観よりも、重きが置かれてしまう節があったのだ。たとえば、晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世はあまり“ルドルフ的ではない”統治の仕方を好み、劣悪遺伝子排除法の有名無実化や民間の福祉政策の強化を筆頭に、弱肉強食という帝国の根幹理念に背く弱者救済の統治方針を公然と推し進めたにもかかわらず、ゴールデンバウム朝の時代から晴眼帝は名君と賞賛されていた。
それはゴールデンバウム朝の歴史の中でも最も腐敗していたと評された時代の負債と自由惑星同盟との初接触及びダゴン会戦の大敗からくる衝撃により自壊しつつあった帝国を立て直したから、という事実からきている。だが、それが公式に認められ続けたのは、マクシミリアン・ヨーゼフ二世はその在位期間中に、旧来の伝統を重んじる反対勢力を容赦無く叩き潰し、己が正義を強制して、勝利し続けてみせたから。そう、まるでルドルフ大帝が共和主義者に対してやったように。そう周囲に思われたからという理由も含まれていたりするのである。
そういう意味では、ラインハルトすらも、その潮流を忠実に受け継いでいると言うことができるのであった。そもそも銀河帝国という土台がルドルフという男の作品であり、“最も優れたる優秀な強者が皇帝となり、全人類社会を専制的に統治する”という価値観も、その男の遺産であるに違いないのだから。
これが帝国が抱えるどうしようもない欠陥である。かつての同盟の為政者たちの言葉を借りれば、人類すべての責任などたかが一人が背負えるようなものではなく、背負うべきでもない。そんなものに万民にとって輝かしい未来などあるわけがなく、帝国の罪悪など極論すればそれに尽きる、ということになろう。
その主張が是であるか非であるかはさておき……かつて帝国軍人として黄金の獅子の御旗を誇らしく仰いだ
彼、クリス・オットーは、帝国の辺境の生まれである。辺境といえば、惑星に一〇〇万程度の人口しか有さず、農耕や資源採掘を主な産業とする田舎を思う浮かべるかもしれないが、オットーの生まれた星は物流の中継地点として機能していた都市惑星の生まれであり、オットーの家は、少なくとも日々の暮らしに困らない程度の生活を送ることはできていた。
しかしそれでも帝国全体で見れば辺境であり、刺激の少ない退屈な故郷であった。生来冒険心の強かった彼にとってこの星は狭すぎたのである。そして青年と呼べる年頃には故郷に窮屈さしか感じないようになっており、遥かな宇宙へと夢を抱くようになっていた。彼が職業軍人となろうと志したのは、自分の身分と実力で狙える範囲では、帝国軍の将校になるのがもっとも手っ取り早く、広大な宇宙へと飛び出す方法であると考えたからであった。
そんな思惑から試験を受けて、見事士官候補生となったオットーであったが、帝国軍士官学校での成績はあまり良いものとは言えなかった。成績は落第スレスレの低空飛行を続けているにもかかわらず、休日になると自主鍛錬もせずに遊びまくるものだから、教官からの認識も悪くなりがちだった。結果、下から数えた方が早い席次で士官学校を卒業することとなった。
オットーは、その卒業席次と身分ゆえに冷遇された。具体的には、少尉に任官した直後に閑職である辺境軍管区司令部の幕僚にさせられた。当時の軍管区司令部といえば、対海賊用の戦力と十隻前後からなるいくつかの航路警備隊と劣悪な人材と型落ちの装備を抱えた分艦隊が一個あるくらいが普通というのが標準であった。一応、軍管区内に存在する各貴族家の私設軍も、帝国軍の一部であるという建前の為に書類上は指揮下にあることになってはいたが、実質的な指揮権などあるわけがなく、将校の赴任先としては解雇一歩手前の左遷先と名高い職場である。
刺激を好むオットーにとって、これは生き地獄に等しく、士官学校時代にもっと真面目に勉強しておくべきだったと後悔する始末だった。しかも普通なら士官学校を卒業すれば、一年後には自動的に少尉から中尉へと昇進するものなのだが、それすらなく、彼が中尉になれたのは、ある貴族叛乱の一件で順調に出世して正規艦隊所属の分艦隊幕僚となっていた士官学校時代の級友に偶然再会した際に、頼み込んでイゼルローン方面の任地に転属した時のことであり、士官学校卒業から三年後のことであった。
以来、前線で彼は自由惑星同盟を僭称する叛乱勢力と戦い続けた。そうした経験の中で彼は覚醒した。士官学校での成績と態度がとかく悪かった彼だが、こと実戦となると最低限の知識を応用する能力について桁外れだったのか、あるいは、単に生来の才能であったのか、いつしか彼は中尉としては平均以上の働きと実績を残すようになっていた。だが、それでも出世はできなかった。
なぜかというと、オットーがあげた功績は大概の場合において上官の功績であるとされてしまったからである。当時の帝国軍において、身分が低く、軍上層部や宮廷とのコネもない部下の功績を上官が自分のものとして上に報告するなどということはよくあることだったのである。オットーは士官学校卒業というキャリアはあったが、席次が低く同期生との繋がりも三年に渡る辺境勤務でかなり断絶してしまっており、功績を奪ったところで問題はないと考えた上官は多かったのである。
こうしてオットーは何年も中尉のまま軍人を続けることになり、不満が溜まる一方だったが、どうしようもなかった。転機が起こったのは、帝国暦四八五年のこと。なんと正規艦隊勤務に命ぜられたのである。オットーは期待した。正規艦隊でも帝国軍の悪癖は健在であろうが、少なくとも前線基地や哨戒部隊よりかはマシな環境があるだろうし、ようやく出世できるかもしれないと思ったのは無理からぬことであった。
だが、その期待は自分が所属する分艦隊の司令官の経歴を知ると急速にしぼんだ。同僚の間で広まっていた噂によると、なんでも分艦隊司令官は皇帝の寵姫の弟というだけで出世してきた、一八歳で少将とかいう冗談みたいな存在であるというのである。しかも遠目に見たその姿と所作は、どんな名家の男だよと思えるほど貴公子然とた美麗さだったので、オットーは怒りを感じずにはいられなかった。今までも帝国軍にまかり通る理不尽というものを散々経験してきたが、今度のは極めつけではなかろうか、と。
あんな線の細い、ひ弱そうな男が、自分たちの分艦隊司令官となると、次の戦いで死ぬことになるのではなかろうか。一応、武勲によって出世してきたという噂も聞いたが、オットーには信じ難かった。どうせその武勲とやらも有能な部下から奪って、皇帝陛下とのコネで奪った相手を黙らせてきただけで、本人は特に活躍していないとかいうのがオチだろう。今までの自身の経験から、そのような認識を持ったのである。
このような認識を持ったものだから、大規模の叛乱軍の攻勢に対して迎撃のためこちらも出撃するという連絡が来た時、オットーは即座に身辺の整理をし、家族に当てた遺書を残して出撃したものであった。分艦隊司令官閣下であらせられる金髪のボンクラ(と、オットーは決めつけていた)に期待するものはなにひとつとしてなかったから当然である。
だが、その金髪のボンクラの指揮の下、第六次イゼルローン要塞攻防戦に参加してみると、その予想は見事に裏切られ、その桁外れの将才ぶりを経験することとなった。特に高々二〇〇〇隻程度の兵力で三万隻近い叛乱軍ほぼすべての注目を集めるデコイとして大活躍して、あまり大きな損害もなく生き残れたことは、現実感がなく、まさに開いた口がふさがらないといった心境であり、もう口が裂けても金髪のボンクラなどとは言えなかった。
その後もその男の指揮下の艦隊に所属し続けることになったが、まるで夢物語に参加しているような心地になれた。第三次ティアマト会戦において、ほんのわずかな行動によって会戦に勝利しえたこと、第四次ティアマト会戦において両軍の合間を堂々と横断して敵軍の後輩に回り込み一方的に打撃を与えたこと、そしてアスターテ会戦でたった一個艦隊で敵三個艦隊に対して大勝利したこと……まさに伝説の目撃者にして参加者たる高揚を感じたものであった。
加えてオットーにとって大変嬉しかったことに、その艦隊内においては功績を素直に評価される気風があり、鳴かず飛ばずが普通だったオットーも、四八六年に大尉に、四八七年には少佐と今までの停滞が嘘のように出世できた。こうした気風は司令官の意向によるものであることは明らかだった。この二つの要素のために、オットーは自分より二〇歳近く年下の少年――ラインハルト・フォン・ローエングラムを熱烈に崇拝するようになったのは、むしろ自然なことであったかもしれない。
しかしその偉大な英雄に対する崇拝は長くは続かなかった。四八七年の暮れ頃、イゼルローン要塞を攻略した叛乱勢力こと自由惑星同盟がその勢いのままに大兵力を動員して大攻勢をかけ、帝国辺境部を占領していった。その中には、オットーの故郷もあったのである。彼は一日も早い奪還を願ったが、故郷が占領された情報を入手してから、一ヵ月もの間、帝国軍はまったく動かず、叛乱軍の占領地域が拡大していくのを黙って傍観していたのである。
敵の兵力が分散し、疲弊したところを叩く為、というのがその理由であったが、オットーは不安であった。特に敵の疲弊を加速化させるために、事前に辺境星域から全ての公務員を退避させ、余剰物資のほとんどを回収して民衆のみを置き去りにする焦土作戦を実施するという情報は彼の不安を搔き立てた。今回は生存のために占領中に叛乱軍に協力しても、よほどのことじゃない限りは目を瞑るというのが上層部の方針と聞いていたが、イゼルローン要塞が建設される以前において、叛乱軍に占領された帝国辺境部を解放した際、憲兵隊や社会秩序維持局が出動し、敵側に協力したものを犯罪者として摘発していたことは一般常識として知っていたので、不安で仕方がなかった。
結果から言えば、オットーのそうした不安は取り越し苦労だった。彼の故郷は敵の第七艦隊の占領下にあり、不信感に駆られて暴動を起こした帝国人に対し、第七艦隊は弾圧でもって答えた。オットーの故郷はその中でも特に悲惨な弾圧が行われた。その星の担当だった叛乱軍占領部隊は、一向に現れない帝国軍とひたすら物資を要求し、暴動すら起こした帝国住民への苛立ちから、暴動鎮圧という名目の下、徹底的な報復を実施したので、文字通り焦土と化して大量の死者を出し、オットーの家族など誰一人として生き残っていなかったからである。
彼は当然怒り狂い、その怒りを故郷を蹂躙した叛乱軍へと存分に叩きつけた。白旗を掲げた戦闘不能鑑を無視して攻撃をかけることもしたほどである。そのために上官から叱責を受けたりもしたが、憎悪に染まりきった彼には他人事のように感じられた。叛乱軍を撃退してから数週間たち、叛乱軍への憎悪が多少弱まり冷静な思考をとりもどしてくると、ある違和感を覚えるようになった。
今回の方針は皇帝フリードリヒ四世の裁断の下、帝国が一丸となって行ったことであり、ラインハルトたちは勅命により止むを得ずしたこという態度を貫いていた。それを信じていたので、オットーは皇帝の最側近にして宰相代理であるリヒテンラーデ侯爵とその一派に今回の責任はあると考えていたのである。だが、実際に焦土作戦を皇帝に進言したのは、ラインハルトである、との噂があったのである。
ラインハルトを崇拝していたオットーは最初信じなかったが、その年の暮れにフリードリヒ四世が崩御し、その直孫である幼いエルウィン・ヨーゼフが皇帝に即位し、皇帝の補佐役として政治面には侯爵から公爵へと位階を進めたリヒテンラーデが宰相の座に、軍事面には伯爵から侯爵へと位階を進めたラインハルトが帝国軍総司令官の座につくというニュースを聞くと噂の真偽などどちらもでよいと思うようになった。首謀者かどうかは知らぬが、リヒテンラーデと手を組んでる以上、共犯者に近い関係であったのは疑いあるまいと憎むようになった。敵軍が帝国領内へと侵入してきたのは七月末であり、彼が反撃を躊躇したので、自分の故郷の者たちは皆殺しにされたのだと信じた。
彼は仲が良かった軍人に相談を持ちかけた。場所は違えども同じくイゼルローン方面の辺境部の都市出身の軍人ということで、親しく語り合える戦友であった。そして当然というべきか、彼の故郷も一時的に叛乱軍の占領下におかれ、そのゴタゴタの中で家族を失っていた。彼も自分の憎悪に共感してくれるだろうと思っていたが、彼の反応は予想だにしないものであった。
「お前が言っていることが真実だとして、なにか問題があるのか? 家族が死んだのは悲しいが、それは叛乱軍のせいだ! あの常勝の英雄についていけば間違いはない! 第一、そんなこと気にしてたら軍人なんてやってられないだろ。おまえだってそんな些事にこだわるべきじゃないぞ」
平然とそう語る戦友の姿に、オットーは愕然とした。これは帝国が抱える病理であり、ゴールデンバウム朝が五〇〇年に渡りに続いた要因の一つであり、帝国の創設者たるルドルフが強者による繁栄を熱望したがゆえに作りあげて残した悍ましくも偉大な思想的遺産である。思想の内容が、ではなく、その思想を人類に常識として刷り込ませることに成功してしまったという意味で。特に被害者の側であろうともその価値観から離れられないほどに啓蒙し、五世紀以上にわたってオリオン腕を支配する論理と化したことは、善悪はさておいて、空前絶後の偉業である。
ゴールデンバウム朝はたとえ身分卑しき者であろうとも、特筆すべき才覚と長きに渡る貢献があれば、体制内に取り込もうとする奇妙な柔軟性があった。とりわけ帝国軍や社会秩序維持局においてはその傾向は強い。歴史を紐解けば、征服帝コルネリアス一世の時代に平民元帥などというものが誕生した例さえも存在する。にもかかわらず、そんな外部の人材を体制に取り入れても、帝国を動かす理念は変わらなかった。所謂ブルース・アッシュビー率いる七三〇年マフィアとの戦いにより帝国軍が大きな打撃を受けてからは、軍部においてこの傾向はより顕著なものとなったが、それでも変わらなかった。
強者は、たとえ肉親であろうとも弱者を切り捨てることにさほどの痛痒を感じてはならぬ。それがルドルフの求めた強者の姿であり、弱肉強食の理である。その強者の論理を顔面通りに信じられる者か、そのように装える者しか、帝国の社会にあっては成り上がれなかった。そして弱者は、強者の理不尽を寄与の前提として適者生存の道をゆく。弱者が支配者に背く時があるとすれば、支配者が弱いと確信した時のみだ。むろん、それに縛られない者もいないわけではなかったが、いつの世も絶対的少数派であり、帝国社会においては常に異端視され、体制内において主流に干渉できるような勢力には育ったことは、少なくともこの数世紀の間にはない。
オットーはそのことを理解できたかどうかはさだかではないが、その出来事で自分の感情が共感されにくいことを確信するには十分だった。ローエングラム元帥が管轄する艦隊に属する将校たちは、英雄の輝きに目を焼かれている。つい最近まで同類だった自分が偉そうに言えたことではないが。とはいえ、単身でラインハルトやリヒテンラーデを一矢報いようにも、一介の少佐に過ぎぬ身ではあまりに無謀であり、何の意味もない。今更生命惜しむ気はないが、無駄死には嫌である……。そう悩んでいた時に思い出したのが、辺境軍管区司令部勤務時代の上官ロッドハイムという貴族将校である。
ロッドハイム伯爵は典型的な放蕩貴族の御曹司であり、職場に出勤してくることすら稀という論外な職務精神の持ち主の上官だったが、個人としては善良な性格の持ち主だったので不思議とよく話した。エルウィン・ヨーゼフ二世即位から、地方貴族派と皇帝派に別れて対立が根深くなっており、内戦も確実視されていたことから、彼との伝手を頼りに貴族派に属せば、少しはまともな復讐が可能なのではと考えたのである。
その思いつきをオットーは早速実行した。堂々と帝都の貴族街にあるロッドハイム伯爵邸を訪問し、かつての部下であるので会わせてもらえないかと問い合わせた。ロッドハイム伯爵はオットーのことを覚えており、悪い印象を抱いてなかったこともあり、まあ会おうかという気分になった。予想外にすんなりと会えたことに内心驚きつつも、オットーは力添えしたい旨を申し出た。
伯爵は怪訝な顔をした。オットーが偏見で眺めていたほどロッドハイム伯爵は無能ではなく、貴族社会を最低限渡り歩けるほど社交力は身につけている。その感覚からして、なんで今陣営替えなんかするのか気になるのは当然だった。それに対してオットーは本音をぶちまけた。もっとも、焦土作戦で故郷が壊滅した主な動機が恨みだったら共感されないだろうから表向きは幼い皇帝を担ぎ上げて傀儡にしようとしているローエングラムとリヒテンラーデに怒りを感じ、また私事だが、先の作戦で故郷が壊滅した恨みもあるという風に、あくまでオマケの理由として、ではあったが。
オットーの説明には胡散臭いものを感じたが、その双眼に燃え上がっている毒々しい怒りの炎が演技で出せるものではないと感じ、ロッドハイムはオットーを自分の幕僚として迎え入れた、ロッドハイム伯爵家の私設軍にも、当然軍事の専門家はいるが、私設軍の性格上治安作戦重視であり、正規艦隊で叛乱軍相手の実戦を経験している将校を抱え込むことは、有益であるという打算もそこにはあった。
こうしてロッドハイム伯爵家の私設軍に所属することになったオットーは、軍の訓練に力を傾けた。そんな中で、私設軍の軍人に対して世話役のまとめ役のような立場にあったロッドハイム伯爵の末娘エーリカと出会った。
勝ち気で優しい性格のエーリカは、どことなく陰を感じるオットーを何かを気にかけた。オットーは彼女の態度に復讐心に凝り固まっていた心が暖かくほぐされ、薄れ消えていく心地よい感覚を味わい、いつしか彼女に淡い思いを抱くようになっていた。
このことに対し、ロッドハイム伯爵は別に良いのではないかと思っていた。伯爵は意外にも多くの女性と関係を持って子を作っており、エーリカは妾腹の八女という身の上だったし、母親の身分の問題もあって政略結婚にも使いにくいという事情から、エーリカがまんざらじゃないようだし、自由にさせてやるかという態度だったのである。
帝国暦四八八年の三月になるとラインハルト=リヒテンラーデ枢軸のクーデターが起こし、四月なかばに本格的な内乱が起こった。ロッドハイム伯爵の部隊は貴族連合中枢の判断によって、辺境星域の警備任務につくこととなり、六月頃、辺境星域の平定に乗り出していたキルヒアイス軍とロッドハイム軍は交戦し、戦史で名もつかない小規模な戦闘で敗北した。
戦闘中、ロッドハイム軍の旗艦は至近距離からの直撃弾を受けた。オットーは軽症だったが、ロッドハイムは致命傷であった。直撃の際に吹き飛んだ鉄パイプが伯爵の腹部を貫通し、もう余命幾許ないことが感じられた。伯爵はオットーの姿を見つけると、口から血の泡を吐き出しながら言った。
「オットー……、娘を……、エーリカを頼む」
ロッドハイム伯爵は傍らに立ったオットーにそう言い残すとこの世を去った。その遺言に従い、オットーは脱出用のシャトルで退艦し、民間人を装ってロッドハイムの領地を目指した。しかし内乱中なので移動もままならず、ロッドハイムの領地についたのは九月の末であり、そこで彼は二度目の絶望を見た。
そこにはロッドハイムの屋敷は、とっくの昔に焼け落ちた廃墟と化していたのである。オットーは近場にいた住民を捕まえ、事情を聴いた。ロッドハイムの一族はやってきた帝国軍に対し、武器を持って抵抗したために、皆殺しにされたのだという。
負けたんだからおとなしく従えばよかったのにとその住民は肩を竦めた。ロッドハイムの民にとって、領主一族は良くも悪くも、自分たちとは隔絶した上位者という風に認識しており、どうなろうが他人事、という意識があったための発言だったのだが、それがオットーの癪に障り、ほぼ反射的にその住民を殺してしまった。
我に返って自分のやってしまった事の重大さに気づいたオットーは地下へと潜った。住民殺害の罪で捕縛されたくなかっためだが、既に彼は生ける屍のような有様だった。エーリカの為にすべてを捧げて生きてもよいと思い始めていたところに、二度目の
だから、その時、どうしてそこにいたのか、オットー自身ですら思い出せない。イゼルローン方面に辺境の田舎街にいたとき、偶然立体TVからの音声聞こえたのだ。ラインハルト・フォン・ローエングラムを“帝国人民の英雄”と賛美し、讃える放送を聞いたのだ。そして画面に映る万物の創造主が贔屓したとしか思えない美貌の若者の顔を見た時、生ける屍状態であった彼の瞳の奥に、どす黒くもか細い炎が灯った。
次いでその映像を見ている民衆が自然と称賛の声をあげている光景を確認すると、オットーに宿った黒い炎は、瞬く間に全てを焼きつくのではないかというほど激しく燃え盛る劫火へと変じた。彼らとて、辛くひどい目にあったはずだ。にもかかわらず、帝国の臣民教育によって、強者への服従と後先なく“今現在”を最重視する価値観を疑えない彼らは、多くの恵みをくれる新たな帝国の指導者を心から賞賛していたのである。すべてが気に入らなかった。
こいつが! このガキが!! 金髪の濡子が!! 俺から家族を、故郷を、俺の心を癒してくれた彼女を、全てを奪っていった!! そしてそんなことがあったことすら、その華麗な英雄ぶりで多くの者に忘却させている!! 許さん! 絶対に許さん!! 必ずや報いを下してくれる!!!
その時、なんで自分の心臓がまだ鼓動を刻んでいたのか、オットーは理解したのだ。
自身が復讐鬼と化した激情とともに意識を覚醒したオットーだが、その目覚めは非常に穏やかで自然であり、だからこそ周囲を警戒していた軍人たちは地面に倒れているオットーに意識があること気づかなかった。
仰向けに倒れ、全身をぐったりと脱力させたまま、今がどういう状況かと考え、気を失う前の状況を思い出した。そうだ、自分は皇帝を暗殺しに来て、襲撃をかけ、返り討ちにあい、こうして地べたに転がっているのだ。
意識を腹部に集中させると、そこに水気を感じた。どうやらここを撃たれて意識を失っていたらしい。不思議と痛みはなかった。ただこれが致命傷で、もう自分の生命が幾ばくも無いことを、知識ではなく本能で理解できた。
「――とのことです」
「それは良い。それよりも一度――」
不意に耳が聞き覚えのある声をとらえた。己が生命に変えても殺してやると誓った怨敵の声である。近くにまだ金髪の孺子がいる!
手元にブラスターの感触はない。どうやら腹を撃たれて倒れた時にどこかに落としてしまったらしい。何か他に武器に使えそうなものはなかったかと考えると、ずしりと重い感触を胸のあたりから感じ、そういえば胸部の収納ポケットに手榴弾とサバイバルナイフを入れていたことを思い出した。
はやる気持ちを抑え、死んだように息を殺して地面にオットーは地面に体を横たえ続けた。まだだ、まだ距離がある。大神オーディンの加護でもあるのか、どうやらこちらに向かって歩いてきているようだ。なんという僥倖であろうか。ヴァルハラの神々に感謝せずにはいられない。
この体勢から皇帝の姿を確認し、安全ピンを抜いて手榴弾を投げつけるまで、一〇秒もかかるまい。たとえ動いた瞬間ブラスターで撃ち抜かれたとしても、投げる間絶えることはわけない。そう信じ、彼らは射程範囲まで近づいてきたと感じた時、オットーは跳ね上がるように立ち、周囲を見渡し、舌打ちした。
自分のすぐ近くに帝国軍兵士が一人おり、こちらに気づいて取り押さえようとしてきたのである。オットーはナイフを取り出してその男に斬りかかるかまえをとり、軍人がそれを防ごうと身構えると、死角から蹴りを繰り出して軍人をどかした。投擲のルートさえ確保できれば、別に殺す必要はない。
もう一度皇帝がいるはずの方向に向き直ると、黄金の覇者が直近まで迫っており、さすがに唖然とした。皇帝の一撃で腹部に強烈な一撃を受けた。その衝撃で手榴弾を落としてしまったことに気づき、手に持ったままのナイフで刺し殺すべく力強く一歩を踏み出した。
が、奇跡はそこまでだった。目覚めた時からすでにオットーは重傷だったのだ。本来であれば、気を失ったまま目覚めることなく、そのまま死ぬはずであった。にもかかわらず、ここまで動けたことが奇跡としかいいようがないことであった。
全身から急速に力が抜けていく。意識が朦朧となり消えていく。憎き相手が、否、彼が憎んだすべての象徴たる男にあと一歩なのに、死ぬなんて嫌だと心は叫んでいたが、もはやオットーの肉体がそれに耐えられない。意識を手放し、まるでもたれかかるようにオットーであった死体はラインハルトのほうへと倒れ込んだ。
それでも手放していなかったナイフはラインハルトの頬にあたったが、力が伴ってない以上、皮膚を軽く切るだけの結果に終わった。ラインハルトはやや憮然とした様子で自分にもたれかかってきた死体を床にどかした。
「陛下! 我々の仕事を奪わないで頂きたい!!」
追いかけてきた親衛隊長のキスリングはそう叫んだ。本音を言えば、護衛対象が自分から危険人物に向かって突っ込んで行くなと言いたかったのだが、己が主君がそうした物言いを好まないことを若き親衛隊長は承知していた。
「ああ、そうだな。すまなかった。卿の仕事を奪って悪かった」
ラインハルト少しだけ恥ずかしそうに謝意を示すと、表情を正して命令を出し始めた。
「それでオーベルシュタイン、卿は急ぎ式典の会場に向かえ。途中でケスラーとすれ違うことがあれば、すぐに先ほどのことを伝えろ。それでケスラーならわかるはずだ。ここの後始末はシュトライトに任せる、リュッケは補佐をしてやれ。余らは官舎の方へと戻る。クラーゼンが首都防衛軍の警戒レベルをあげているのなら杞憂やもしれんが、気になるのでな」
「「はっ!」」
「陛下、私も軍務尚書と同行してもよろしいでしょうか」
「……よかろう。オーベルシュタイン、よいな」
ヒルダの言葉に、ラインハルトは少しだけ考え込むような仕草をしたが、すぐに決断した。公務と私情を混同するとも思えぬが、諸将たちがオーベルシュタインに隔意を抱いているのはわかっていたので、ヒルダが間に入った方が妙な軋轢を生む可能性も少ないと思ったのである。
「キスリング、足を用意してくれ」
「はっ、しかし陛下の御料車は……」
「非常時だ。適当な車両で良い。すぐに準備してくれ」
「了解しました」
去って行く親衛隊長の姿を見送った後、自分のそばに控え、少し怯えている従卒のエミールの存在に気づき、ラインハルトは軽く頭を撫でてやった。それだけでエミールの表情から怯えの色が消え去ったようであった。