リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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寒冷なる饑渇

 旧フェザーン自治領の迎賓館であり、現在では新銀河帝国の暫定的な皇宮にある皇帝の執務室では、ローエングラム朝初代皇帝ラインハルトが一時間ほどの仮眠を挟んで、夜通し政務に勤しんでいた。昨今体調不良を起こしがちな皇帝の容態を慮って侍医たちはもっとしっかり休息をとるように嘆願したのだが、皇帝としてそれを拒否したのである。というのも、今休むわけにもいくまいと考えたからであった。

 

 昨日の黄昏の衝撃(アインシュラグ・デメルング)事件は、幸いにして民間人には死傷者は出ていないものの、軍人には少なくない死傷者が出ているし、帝都で自身の暗殺未遂を切欠に帝国枢要部を破壊せんとする陰謀が実行されたのはラインハルトの権威に傷をつけるものであった。ましてや調査が進むにつれて、主犯は貴族連合残党であるが、その扇動に乗せられる形で皇帝への忠誠を叫ぶ反貴族主義者達が道具として使われたとあっては、なおさらである。

 

 少なくとも短期的にはこれまで上手くいっていたフェザーン民衆感情の掌握に悪影響を及ぼし、不平派や独立派の支持が拡大し、帝都の統治に支障をきたすことは避けようもない。ボルテック代理総督などは今回のテロ事件が起きた一因は以前より自分たちが問題視していた纏まりに欠ける治安体制にあり、とりわけ新帝都開発を円滑するために必要だからという理由で権限強化をしていたブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒ工部尚書の迂闊な軽挙に対する批判を強め、工部省に奪われていた代理総督府の権限を取り戻そうと早速動き出している。

 

 今回はシルヴァーベルヒにある程度責任を負ってもらうつもりだが、必要以上に不平派をつけあがらせるわけにもいかない。そのためにも早急に事態収拾のための情報を集め、各所に指示を出さなくてはならない。テロ被害の補償以外にも、そうした政治的事情からラインハルトは侍医たちの嘆願を聞き入れるわけにはいかなかったのである。

 

 取り急ぎその為に成さねばならないことも三〇日の夕方には終え、それとはいささか赴が異なる調査の中間報告を親衛隊長キスリング准将から受けていた。

 

「副長のユルゲンスの所在がわからないままなのか?」

「はっ。家族もあの日以来会っていないと」

 

 主君の問いかけにキスリングは頷いた。親衛隊副隊長であるユルゲンス大佐の姿が見えなくなっているのである。最後に姿を確認したのは自身と一緒に皇帝警護の車列を成すひとつに乗り込んだ時のことであり、暗殺未遂のテロ以後の姿が見えないのだ。遺体すら確認されていないのである。

 

 その時は皇帝を速やかに安全な場所に移動させることを優先し、副隊長の姿が見えないことを無視したが、騒動がひと段落して内務省を中心として黄昏の衝撃事件の全貌を明らかにせんとする調査が開始されると、早々に地下水路と繋がっている建物の前で乗り捨てられていた親衛隊所有車両が発見されたのである。

 

 さらに聞き取り調査により、事件時に不審な動きをしていた親衛隊車両の存在が浮き彫りとなってきたことと合わせ、親衛隊副隊長の姿が見えなくなっていることを聞かされていた内務尚書のオスマイヤーは重大な懸念を抱かざるをえず、速やかにかつ密かに皇帝に御注進した。ユルゲンス大佐が今回の貴族連合残党どもの挙になんらかの形で関与しており、一部の下手人と共に逃亡の懸念あり、と。

 

 隊長のキスリングはユルゲンスのことを深く信頼していたので内務尚書からの疑いに不快感を覚えたがそれを表面に出すことはなく、ラインハルトは憂慮しすぎの節があるとしつつもオスマイヤーの懸念に耳を傾け、キスリングに親衛隊の責任で事件前のユルゲンスの行動を洗い出すように命じた。裏切ったとは思っていないが、副隊長の任にありながら姿を見せない以上、どの道調査の必要性はあろうと言い添えてである。

 

 キスリングは謹直な態度でユルゲンスに対する調査報告を続けた。

 

「ここ数週間のユルゲンス大佐の言動も洗い始めておりますが、現状では不審な点は見当たりません。まだ継続調査の必要はあるでしょうが、やはりユルゲンス大佐が弑逆の謀略に参画していたとは考え難いかと」

「やはり卿は内務尚書の懸念には不同意か」

「私人としてはありえないと思っていますが、公人としては不審な状況があることは事実であるが故に否定できません。内務省による事件全貌の真相究明の進展によって、新たに見えてくる背景もありますでしょうし、内務尚書の懸念する可能性も調査の上で考慮し続ける必要はあるかと」

「なら私見でいい。卿は現状、どの可能性が一番高いと考える?」

「小官としては拉致の可能性が一番高いかと」

「拉致?」

 

 ラインハルトは片眉を上げ、おもしろいことを聞いたという態度をとった。

 

「たしかに親衛隊の将校ならば、よく予の傍に侍て警護を担当する以上、警備体制や帝国の機密に通じている。副隊長となれば尚の事。拉致して情報を吐かせれば予の生命を狙う者たちにとっては魅力的な情報源になるだろう。しかしその為に支払った代価とは釣り合ってなさすぎると思うが」

 

 黒幕である貴族連合残党組織は壊滅した。事実上組織を運営していたアドルフ・フォン・ジーベックも、象徴的に指導者として担ぎ上げられていたエリザベート・フォン・ブラウンシュヴァイクも、死亡が確認されている。まだいくらかの生き残りがいると想定しても、被ったであろう損害の規模を思えばとても抵抗組織として存続しうるとは思われない。これではユルゲンス大佐を拉致して情報を絞り出したとしても、有効活用できるはずもないではないか。

 

「陛下の仰る通りですが、昨日の事件の主体を担ったのが貴族連合残党であることは間違いないにしても、強力な支援者がいたとすれば話は変わってきます」

 

 結果から見れば今回の一件は、帝国のフェザーン統治の今後の見通しに暗い影を落とす性質のものである。ならば、地下に潜伏して反帝国活動を続けていると噂されている元自治領主のアドリアン・ルビンスキーなどが自分たちの今後の活動の為に、ジーベックらの破滅的報復劇を支援することと引き換えに隠れ蓑として利用し、ユルゲンスを拉致したという可能性もありうるのではないか。

 

 親衛隊隊長の発言の意図を正確に受け取ってラインハルトは一度頷き、次いでため息をついた。

 

「貴族連合残党の中核メンバーを生きて捕らえることができなかったのは痛いな」

 

 残党たちは決死の覚悟で事で及んでいた為に降伏を(かえ)んじない者が多く、生かして捕らえるのは困難を極めた。元々ブラウンシュヴァイク公に仕えていたシュトライトとフェルナーに確認させたところ、ジーベックを筆頭に彼らが知っていたような顔は全て遺体になっているとの報告も受けていた。

 

 フェルナーはあまり気にしていないようだが、シュトライトは袂を分かったとはいえ、道を違えた元同僚や元主君の娘の哀れな末路を確認して、少なからずいたたまれない気持ちになったようである。

 

「致し方ありますまい。奴らの戦意は尋常ではありませんでした」

「……そうだな」

 

 ラインハルトは軽く目を瞑り、頬の浅い切傷の跡を手でゆっくりとなぞった。数日もすれば跡形もなく自然と治癒するであろう負傷とも呼べぬほどの傷跡であるが、息絶える寸前まで自分にナイフを突き立てようとしていた名も知らぬ男が向けてきた殺意は印象に残っていた。

 

 その時、執務室の扉をノックする音が響いた。ヒルダこと、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフの名前が告げられたので、ラインハルトは入室を許可した。

 

「陛下、オーベルシュタイン元帥の姿が見えております」

 

 うむ、とラインハルトは頷き、キスリングに視線を向けた。

 

「ユルゲンスの扱いは今後も先の事件中に行方不明ということにしておく。今後も親衛隊で調査を継続しろ。ただし内務尚書の懸念はおおやけにはするな。市井に漏れて変に誤解されても面倒だからな。それと親衛隊の組織刷新も素案で良いから今週中にはまとめておいてくれ」

「はっ!」

 

 キスリングが敬礼して執務室から退室するのと入れ替わる形で、オーベルシュタイン元帥が脇に多くの書類を抱えて入ってきた。義眼の軍務尚書の主な要件は今回の事件を受けての軍の人事に関する軍務省の方針がまとまった報告であった。ヒルダも皇帝兼任の統帥本部長業務を補佐する大本営幕僚総監の任にあるため、議論に加わった。

 

 オーベルシュタインは軍内部にまだ紛れ込んでいる可能性が高い者を始めとした危険分子の大規模な調査と粛軍を行う準備を軍務省で進めており、その詳細をこの時ラインハルトに明かした。そうした粛軍の必要性は、もとより帝国軍上層部全体が実感していたことであったが、軍務省が企図する危険分子の対象は広く、多くの者が想定していた地球教徒や旧王朝に好意的すぎる者のみならず、過度な皇帝崇拝者なども危険分子であるとしていた。

 

 曰く、一年前にオーディンで起きたヴァルプルギス事件を見ても、地下に潜伏して反帝国活動を行う陰謀家どもはそうした人物たちを思考回路を利用し、他の将兵の皇帝への忠誠心を悪用・剽窃して大事件を起こしている。昨日の件もその傾向がみられる以上、皇帝への忠誠と自己の妄想を取り違えている者たちは、今後の民衆の軍に対する信頼を維持していく上でも、早急に軍から追い出すべきである、と、いうのである。

 

「たしかに予への忠義だなんだと言いながら、予の意向を軽視する者たちにはいささか辟易するところがあるのは否定するまい。だが、そうした者たちは実際に痕跡が残るようなことをするまでは外部からの判断が容易ではあるまい。なにせ主観的には予の為と思い込んでおるのだからな。ともすれば、真に忠臣たる存在を失う危険性がある。粛軍を議論するに際して前々から懸念となっていたことだが、その点、卿はどう考慮している。何を基準にそれを判断するというのだ?」

「仰る通りです。ですが、民政省や財務省から繰り返し軍縮が要請されております。今回の不祥事と合わせ、多少の巻き添えを覚悟の上でも軍縮の一環という穏便な形で整理するべきかと」

「軍務尚書。私は以前、軍務省ではまだ軍縮についての具体案はできていないと伺っておりましたが、そのような大規模な軍縮を早急に行える準備が整っているのですか」

 

 ヒルダがやや顔を歪め、少し反発を込めた声ででオーベルシュタインの発言に疑問を投げかけたが、義眼の軍務尚書は特に動揺した様子もなく答えた。

 

「粛軍については軍縮以上の優先順位をもって検討を進めていた為、具体的な危険分子の対象はリストアップ済だ。またオイゲン・リヒター財務尚書が常日頃から言っている理由に加え、今回の件で過度に皇帝への忠誠を叫ぶ者が容易く貴族連合残党の手駒に成り下がった事実が浮き彫りになりつつあるため、そうした者どもを軍から追放しても皆が納得するだけの大義名分ができたともいえる。早急に各省との調整を済ませ、粛軍と軍縮を同時に進める好機が巡ってきたと考えた次第だ」

「なるほど。軍から追い出するにしても軍縮にかこつけて相応の名誉を与えて追い出すと。それで民間に戻った危険分子の監視は、内国安全保障局に任せるおつもりで?」

「そうだが、退役軍人である身分を考慮し、憲兵隊にも関わらせるつもりだ。そのあたりの管轄については正式に軍縮の実施が確定した後、私が内務尚書と話をつけることかと思うが」

 

 幕僚総監が口出しするような事柄でもなかろうというオーベルシュタインの言外の主張は正論ではあったろうが、軍務尚書の、ひいては軍務省上層部の秘密主義に思うところがあるヒルダとしては、狡猾な論法であると感じて唇をへの字に歪めた。

 

 一方、ラインハルトは二人の議論を無視し、顎に手を当てて軽く何事か思案していたようであったが、やがておもむろに口を開いた。

 

「よかろう。軍務尚書の主張する方向で進めよ。既に“外敵”と称しうるような勢力はイゼルローンに残存する者たちを除けば滅ぼしつくしたも同然。故に軍縮は元より既定路線であったし、ローエングラム王朝による人類統一政体の“創業”を成功裏に終わらせるためにも、体制内に忍び込んだ膿を出すことも考えてないかねばならぬからな」

「承知しました」

「しかしそういう観点で見れば、今回の事件は特権を喪失しても残る民衆の旧貴族階級への偏見に対する良い薬にもなることだな。過激な反貴族主義者の集団なぞ、方向性が違うだけで旧王朝復興を目論む輩らとなんら変わらぬ危険なテロリストたちであるという教訓にな」

「仰る通りです。民衆にその事実を周知させるためにも政府としてもこの事件を最大限利用すべきです」

「オーベルシュタイン」

 

 ラインハルトの声に硬質なものが宿った。

 

「先ほども言ったが、予は少なからず辟易している。そしてその対象は何も卿が想定する者達に限ったことではない。ゆめゆめ、忘れぬことだな」

「……御意」

 

 ヒルダは息をのんだ。今のやりとりは遠回しに今回の一件にオーベルシュタインがなんらかの形で関与していると考え、皇帝自ら釘を刺したものなのではないか。しかし今回の一件の裏にオーベルシュタインの策略があるとして、どんな利益があってそれをするというのか。皇帝の身を損なっては軍務尚書としても困るのだ。そこに皇帝が思い至ってないわけもないはずなのに、と、ヒルダはやや危惧を覚えた。

 

 この時ラインハルトがどのような思慮の下にオーベルシュタインに釘をさしておこうと判断したのかは判然としない。しばしば起こしていた体調不良の延長として猜疑心が一時的に強まっての発言であったと考察する後世の歴史家もいる。

 

 ただ帝国全体に蔓延していた官民問わぬ過度な反貴族主義の気風を是正する為に、反貴族主義者たちの行動を幇助まではいかなくても見逃していたのではないかと感じていたようである。

 

 そして彼らに対する警戒が甘いことに気づいた貴族連合残党のジーベックが、自らの正体を隠す仮面を被って本来相容れぬ者たちと握手することを選んだ背景があるのだろう。もとより先など考えないのであれば、手を組むことによって後々発生する問題など気に病まなくてよいし、またこちら側の意表をつく効果も期待できるのだから。

 

 だが、オーベルシュタインへの心証はさておいて、君主として時勢を読んでの忠告でもあったようである。

 

「先の遠征中に起きたヴァルプルギス事件で、カール・ブラッケを筆頭に少なくない開明派官僚を予は失った。そして今回の一件でフェザーン人たちの反発も増えよう。今後も改革を継続していくためにも、陣容を整え、足元を固めなおす時がきている。その為には政府と軍の枢要部の足並みをそろえることが不可欠だ。故、あまり独自の思惑などめぐらされては困る。創業期の慌ただしさをいつまでも続けるわけにもいかぬのだからな」

「仰せの通りにございます」

 

 オーベルシュタインは返事には僅かばかりの感心の色が乗っていたかもしれないが、他人に察知されたりはしなかった。彼はローエングラム王朝という作品を高く評価していたが、堅牢さという点においていささかならず難があると考えていた。その点は臣下が気に病むべきことと考えていた彼にしてみれば、皇帝ラインハルト自らその種の発言が出てきたのは吉兆であったかもしれない。

 

 たしかに自由惑星同盟が名実ともに滅び、幾度となく帝国軍に煮湯を飲ませてきたヤン・ウェンリーも非命に倒れ、長きにわたって人類社会を二分して続いていた対立は、いくつかの残火が残っているとはいえ、終息を迎えつつある。いささか錯綜しつつある国内の諸問題に取り組み、腰を落ち着けて内治を充実させていくべき時がきているというのは正論であるはずであった。

 

 しかしヒルダはなにやら胸騒ぎがした。彼女自身、同盟を併合した時点でヤン・ウェンリーやエル・ファシル独立政府などは放置しておいても大事あるまいと主張していた身であり、皇帝ラインハルトの発言は歓迎すべきことであるはずなのだが。とはいえ、具体性のない奇妙な感覚をヒルダは言語化することができなかった。

 

 方針の打ち合わせを終えてオーベルシュタインが執務室を去っていくのを確認した後、ヒルダはラインハルトに向き直り、休息をお考えになられはと提案した。

 

「ん? そうだな。軽く仮眠をとっただけでほとんど夜通し働き通しであったからな」

 

 執務室の窓から外に蒼氷色(アイス・ブルー)の視線を向けると、既に空が暗くなり、星が輝き始めているのを確認して、ラインハルトは言った。昨日のテロ事件に関連することで皇帝として急ぎ対応せねばならないことはしたし、昼間に侍医達から遠回しな苦言を呈されてもいたので、今日はもう政務を切り上げてもいいだろう。

 

「それもありますが……本日に限らず、もっと休息をとられても良いのではないでしょうか?」

「なに?」

「さしでがましいこととは思いますが、陛下がしばしば発熱なされ体調を崩されがちであることに不安を感じている者が少なくありません。今はまだ深刻な事態になってはおりませんが、もし今の状態のままで陛下が長期に渡って政務に関われない事態となったらと考えますと不安を感じてしまうのは道理であると、私は思います」

「ではなにか。伯爵令嬢(フロイライン)は宰相でも置いて、皇帝親政をやめろと言うのか?」

 

 ラインハルトの瞳に硬質な反感の光が宿った。たしかに時折の発熱はあるにしても、自分はまだ二〇代であり、一番無茶して働ける年頃であるはずである。五年後、一〇年後になればいざ知らず、現段階で君主としての責務を軽減しようと試みるのは、いささか義務感に欠けることであるように思えたのである。

 

 そんな皇帝の感情を察しながらも、ヒルダはやや躊躇いながらも言葉を続けた。

 

「そこまでは申しませんが、陛下の業務が膨大すぎることには一考の余地があるかと。所感になりますが、発熱の事を抜きにしても、近頃精神的に疲弊しておられるのでは感じてしまう時があり、私としては今少しご自愛なさっていただきたく存じます」

「……」

 

 暫しラインハルトはヒルダに冷たい視線を注ぎつけていたが、やがて両目を閉じ軽く唸った。

 

「……わかった。少し考慮しよう。だが、その場合、真っ先に伯爵令嬢(フロイライン)には今の職を退いてもらうことになるぞ」

 

 皇帝の発言の意図を察してヒルダは目を丸くした。ラインハルトの気質からして、この種の進言をいれるのは相応の説得がいるだろうし、言外に却下される可能性の方が高いだろうと思っていたのである。

 

「とはいえ、そうするにしても、後任人事を含めての調整が必要であるし、数ヶ月は先の話になろう。それまでに次はどの役職につきたいか考えておくといい」

 

 宰相の座が欲しいとか言われても聞き入れる気はないぞと悪戯っぽく言い、ラインハルトは執務室から去った。ヒルダも続いて去ったが、なにか釈然としないものが胸中でくすぶっていた。

 

 一方、私室へと移ったラインハルトであったが、まだ寝台で横になろうと思えるほどの眠気がなかったため、隣接しているワインセラーからボトルを一本とってきた。ラインハルトはワインが好きというほどでもなかったが、味の良し悪しはそれなりにわかった。ローエングラム伯爵家の名跡を継ぐ前後から嫌でも旧来の貴族階級と接する機会が増え、宴会の場で聞きたくないもないワインの蘊蓄を聞かされたりもしていたものだから、国務尚書のマリーンドルフ伯が感心する程度にはワインの知識も習得していたりする。

 

 国家を運営していく上でワインの知識が必要不可欠な知識とでも言うつもりか、と、当時は旧王朝の貴族社会の愚劣さを嘲笑いたくなるのを礼節という厚い装甲を纏って失礼にならない程度に合わせていたものである。ラインハルトに言わせれば、政治上の必要性はともかくとして、旨いワインを選べる知識は私生活面ではあって困るものではなく、馬鹿馬鹿しい経緯であるにせよ折角に手に入れた知識であることだし、問題ない範囲では活用すべしというだけのことなのだが。

 

 二、三杯飲み干して、ラインハルトはまだ半ばほど残っているワイングラスを机に置き、ソファに腰を沈め、気落ちしたようにつぶやいた。

 

「まさか気づかれていたとはな」

 

 ヒルダに自分の精神面での不調を言い当てられたことに、若い皇帝は少し動揺していた。健康面での不調はしばしばの発熱もあって幾度となく懸念されてきたことであったが、精神面のそれを言い当てられたのは初めてのことだったのである。エミールにすら、まだ指摘されたことはなかった。

 

 そして今回の事件を通して、自身の精神的不調の原因をおおよそ把握できてしまった。貴族連合残党の襲撃を受けた時、彼の精神は戦いの気配に昂揚し、活性化したのである。しかして暗殺者たちの襲撃を退け、状況を整理してしまうと敵の脆弱なる点が想像がつき、どのように動けばこの騒動に決着がつくかも簡単に思いついてしまうと、穴の開いた風船がしぼんでいくように精神は急速に萎えたのである。そして思い至ってまったのだ。

 

 いや、思い至ったというよりは、薄々自覚して目を逸らしていたのだが、自分を誤魔化せなくなったといったほうが正確であったかもしれない。

 

「……惨め、か」

 

 ラインハルトにとって自分が弱いことと自分が惨めなことは、ほぼ同義語だった。弱ければ、何も守れない。弱ければ、他者が強いてくる理不尽を受容するか、自身の生命を賭けて自分の周囲の運命を巻き込んで一矢報いようとするくらいしかできない。それは一〇歳の時、姉が皇帝の後宮に納められ、平和と幸福は薄氷の上にあったものに過ぎず、疑うことすらせずに無邪気に信じていた強固な帝国の秩序とやらは幻想に過ぎなかったのだと思い知らされてから、変わらぬ認識だった。

 

 なら、今は? ゴールデンバウム朝を滅ぼし、フェザーン自治領を滅ぼし、自由惑星同盟を滅ぼし、未だイゼルローン回廊は自分の支配領域に組み込めていないといえ、人類社会のほぼ全てを征服し、その頂点に君臨するローエングラム朝銀河帝国初代皇帝になりおおせ、世の人が言うところのこの宇宙で最大最強の存在といっても差し支えない存在となったのだ。それなら……。

 

 その先になかなか思考が進まず、ラインハルトはぐるりと首をまわすと、部屋の窓が偶然視界に入り、その奥には夜空が見えた。朝には分厚く覆っていた雨雲が、昼の大雨で消え去り、燦たる星々の輝きが漆黒の夜空を彩っている。

 

 あれはいつの頃だったか? 軍幼年学校の生徒だった頃? いや、まだ姉と親友と三人で幸福だった頃のような気もする。キルヒアイスと共にオーディンで真冬の星空を見上げながら手を伸ばし、幼少期の自分は「今は無理だけど、いつか僕は星を掴むんだ!」とか、胸を張って言ったような……。

 

 酒精が入っていたからだろうか。今ならばこの手に取ることが叶うのではないか? ラインハルトはまったく現実的ではない衝動にかられた。ここから見える星の中でひときわ輝いているように思えた夜空の星に手を伸ばし、掴んでみた。そして目の前で手のひらを確認してみると、そこにはなにもなかった。当たり前だ。人が夜空の星を掴めるはずもない。

 

「ククッ」

 

 当然のことなのに、星を掴もうとしたその手が悔しさに震えた。それが今のラインハルトにはとても可笑しく感じて、笑みが溢れた。だが、その笑みをラインハルトを崇敬する者たちが見れば、おそらくはギョッとしたことだろう。それは人類史上の最大の征服者、改革者、成功者が浮かべて良い種類の笑みではなかった。

 

 その笑みは酷く不健康なものだった。己を含めた世の全てを嘲笑うかのような、そんな似合わぬことこの上ない、どこか空虚で廃頽的な危うい色のある笑みであった。

 

「ハハハハハハ!!」

 

 笑うしかなかった。ここまで来てもなお、自分の望む世の中を実現できるだけの地位と権力を獲得してなお、自分はかつてと同じままだと、この程度の強さではまだ足りないのだと、この胸の内のどこかで思っているのだとしたら、我がことながら、こんなに滑稽なことはないではないか。

 

 ある意味では、これまでのラインハルトは、単純な生き方をしてきたのだ。強大な敵を見据え、敵を倒すために全身全霊を尽くす、という生き方である。そうして自分は強くなっているという実感と喜びを獲得してきたのだ。軍事的な意味であろうが、政治的な意味であろうが、自分より地位の高い者、強いと思える者を打倒したり、従えることによって、精神の充足を得てきたのだ。だが、今の自分にそんな強大な敵など何処にいるというのだ!?

 

 この苦悩は、おそらくは誰にも理解されないことであろう。ほとんどの人間はこれほど強い向上心を、呪い染みた強者への闘争心など抱えてはいない。そして、そのような心の性質の持ち主とて……かくも若いうちに何人も並び立てぬ栄華の頂に到達し、挑むべき対象を見失うことなど通常ありえないのだから。

 

 待てばいいではないか。この先、何事もなければ何十年と自分は皇帝として君臨し続けるのである。今は弱すぎると思えるような地下の反帝国勢力も、時間をかけて自らを強化し、自分を心から楽しませてくれるような強大な敵となって挑んでくるかもしれないではないか。

 

「……本末転倒にもほどがある」

 

 地下に潜っている帝国の体制を揺るがすテロを起こすような勢力は、あらゆる方策を駆使してより弱くしていくのが皇帝として取るべき選択肢であり、彼らが弱く惨めな最期を迎えることはあっても、彼らが自分に対等に挑んでこれるほど強大になることなどありえまい。自分が皇帝としての責務を、放棄しない限りは。

 

 そんなことできはしない。自分には、責任がある。今まで己が覇道のために死んでいった者たちの忠誠と献身に報いねばならぬ。いろんなものを踏みにじってきた業を背負わねばならぬ。今も生きて自分に新しい時代を、ローエングラム朝の旗の下に始まる平和な時代の訪れを望む者たちの願いを無下にしていいわけがないのだ。

 

 そこまで頭でわかっているというのに、自らの躍進と栄達を精神的なところで支えてきた心の中で唸り続ける内なる獣、黄金の有翼獅子の翼を抑えるのは、一人の人間としてのラインハルトにとっては辛いことであった。

 

 ゴールデンバウム王朝への復讐心と無二の親友との誓約、そして閉塞し停滞していた時代を打ち破ることへの希求。それらは、動機であっても、本質ではなかったのだ。星を掴もうと手を伸ばす。それが姉を理不尽に奪われた時より、否、そのはるか以前からの生き方だったのである。人類史に永劫刻まれることになろう、軍事的英雄としての功績も、名君としての善政も、彼個人の心象風景の中においては、星をその手に掴む過程の産物であるにすぎなかった。それがゆえに、栄光の頂点で、権力のきわみにあって、彼の心に途方に暮れているのだった。それ以外の生き方などこれまでしたことがなかったのだと、今更のように思い知らされて。

 

 その生き方でも、これまでは問題なかった。時代の流れがラインハルトに求めていたことと、ラインハルトの本質が合致していたために、問題とならなかったのである。いや、正確には自由惑星同盟を滅ぼしてからは、ヤン・ウェンリーを直接打倒することに拘るなど乖離しはじめていたのであろうが、それをこれまでは強引に整合させてきたのだ。

 

 では、これからは? そこに思考を進めると、ラインハルトはなにもかもを凍りつくすような冷たさを心に覚えるのであった。そして縋るように右手で胸元の銀のペンダントを手に取った。

 

「なあ、キルヒアイス、おまえは……わかってくれていたのか? それとも……」

 

 その先は言葉にならず、ラインハルトは机の上に置いたままだったワイングラスを手に取り、残っていた血のように赤く思えるそれを喉に流し込んだ。そうだ、さっさと気持ちを切り替えて、さっさと寝よう。こんな情けない心情に浸っている姿など、臣下に見せられるわけもない。自分についてくる皆が望んでいる姿は、そんなものであろうはずがないのだから。

 

 恐ろしいのは、燃え尽きることではない。それをなしえぬまま虚しくくすぶりつづける事なのだ。そして……この内心の疼きに屈して、ルドルフ大帝となんら変わらぬような存在になりはてる事なのだ。だからラインハルトは心を凍てつかせる饑渇に辛抱するしかないのであった。

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