皇帝暗殺未遂を筆頭に黄昏時の短い間に帝都フェザーンを激震させた一連の事件の捜査は、臨時御前会議の結果、皇帝の勅命により軍部ではなく内務省が主導権を握ることとなったわけであるが、内務省内において最も精力的に捜査の指揮をとっていたのは内務尚書オスマイヤーよりも、内務次官のラングであった。
ハイドリッヒ・ラングはローエングラム王朝の秘密警察機関である内国安全保障局長官を兼務する身であり、さらには旧王朝時代でも秘密警察の長官として辣腕を振るってきた。この手の捜査の専門家として一日の長がある。加えて正式な遷都以前からフェザーンに身を移し、独自の情報網を張り巡らせていた先見の明が、今、存分にその効力を発揮していた。
またラング個人の思惑もある。彼を駆り立てていたのは職務への忠誠だけではない。今回の事件が、皇帝への忠誠を旗印に恣意を押し通さんとする一派を、旧貴族連合の残党が巧みに利用した性質のものであった。ヴァルプルギス事件のこともあるし、今後の帝国政界においては、利用されやすい浅薄な連中よりはマシという理屈で、旧王朝系の官僚勢力が再び脚光を浴びるであろう。民衆にとってはともかく、ラングにとっては歓迎すべき変動が訪れると、彼は見込んでいた。
軍務尚書の飼い犬と周囲から見られているラングであるが、いつまでもオーベルシュタイン元帥の庇護にのみすがる存在で終わるつもりはなかった。官僚保守派――彼自身の言葉を借りれば、旧王朝時代にただ朝廷への忠勤のみを美徳とした実務官僚集団――の代表として台頭し、自身の政治的基盤を固めたい。そこで大きな実績を刻み、ライバルたちとの差を決定的なものにしたいのだ。保守派の旗手たる地位を、旧副宰相ゲルラッハや警視総監ネーヴェラに奪われるわけにはいかないのだ。
そんな思惑もあって、ラングは内務省と各地の現場を何度も往復し、夜も仮眠室で二、三時間の仮眠をとるだけで連日連夜職務に没頭し続けた。彼の活躍により、
しかしそこから先となると、貴族連合残党組織の幹部を生きて捕らえることができなかったこともあって、捜査の糸が途切れてしまう。だが、それでも末端の捕虜から得た証言を頼りに現場の痕跡などから分析を進めていくと、どうもフェザーン独立派の暗躍があったらしいということがわかってきた。
(わかりやすくはある。だが、それだけか)
ラングは疑問を覚えた。密かにルビンスキーと誼を通じて情報提供を受けており、彼を信じるのであればそれが限りなく真相に近い事実であるはずだ。しかしラングはルビンスキーを完全に信じてはいなかったし、長年秘密警察官僚として働いてきた経験からくる勘とでもいうべきものが、捜査結果として出ている情報以上の何かがまだ背後にあったのではと囁いてくるのである。
今後も捜査を継続する必要を感じていたが、ひとまず大枠の事態は明らかとなった。捜査の糸がここで途切れてしまったし、旧王朝時代と異なり仮定を前提に捜査を進めるのも難しい以上、ここより先は粘り強く地道な捜査を進めていくより他にない。ひとまずラングは内務省会議で内国安全保障局の捜査結果を報告し、一度帰宅することにした。愛する家族のもとで、連日の疲れを癒したい心境になっていたのである。
しかしラングは帰宅して二〇分もしないうちに急遽予定を変更して
目的地のホテルのロビーに着くとある男が話しかけてきた。その男はよく見覚えがある内国安全保障局本部所属のスタッフであった。その男はラングにあるオペラ座で上演される“滅びの皇女”のボックスチケットを手渡した。開演は今夜七時からとなっていた。完全に行動が読まれていると感じて、ラングはその事実に眩暈を覚えた。
その映画の開演開始時間までどのようにして時間を潰したのかラングは思い出せないが、開演時刻には所定のオペラ・ハウスにたどりついていた。ラングは複雑な心中で指定のボックス席へと向かった。
「どうした。顔色が良くないぞ社会秩序維持局局長。……失礼、今は内国安全保障局だったな」
そう語りかけてきた若い男が何者であるのか、ラングには一瞬理解しかねた。派手なシャツを着崩している遊び人風の装い。しかしそれと相反する抜け目なさそうな瞳からは、一見してフェザーンでベンチャー企業の若いやり手経営者に類する印象を抱かせる。
しかしその印象が間違いであると知っていた。元々名前を出された上で招かれているというのもそうであるが、数年前までラングは目の前の男とコンビを組み、(当時の帝国官界の基準では)改革派を形成して内務省内の位階の階を共に登っていたのである。いかに巧みな変装をしようとも、注意深く容姿を観察すれば本人かどうかくらい判断できた。最近まで死んでいると考えていた男の容姿に相違なかった。
「いやいや、内務次官をも兼務するようになったのであった。ふむ、昔の私と同じ肩書を持つようになるとは、卿も出世したものだ」
「……気色悪い謙遜はよしてもらえるかなゲオルグ殿」
「おお、意外と謙虚だな。官界内で立場を固めてロイエンタールなぞをはじめとした軍上層部と対立を深めるほどに増長していると噂されていたものだが、噂とはあてにならんものだ」
そう言って肩をすくめながら微笑んで見せるゲオルグに対して、ラングは心中穏やかではなかった。はっきりとした形ではないにしても、彼の感覚では自分は脅迫されているという認識であったからである。
連日の激務での疲れを癒すために、家族のもとで休息をとろうと帰宅したラングは、愛娘からの抱擁で迎えられた。その時のラングはたしかに幸せと安らぎを感じていた。
しかしその愛娘から
ラングにとっては血の気が失せるには十分すぎる出来事であった。ラングは内国安全保障局という組織に対して、特に本部に対する統制力には大きな自信を有していたのだが、愛娘から聞かされた話を信じるならばゲオルグは陰から内国安全保障局内の情報にアクセスできることを示唆している。
さらに連絡で告げられたホテルで自身を出迎えたのが内国安全保障局のスタッフであったから、ゲオルグの意で動く人材を自分は内国安全保障局本部に抱え込んでしまっていることを証明している。ゲオルグは現在国事犯であるから、新王朝の秘密警察長官として大きな失態というほかない。
なにより自分の娘に目をつけられてしまっている! 旧王朝時代の良き協力者であったから、ゲオルグが敵対者に対してどれほど容赦がない人間であったか知っている。自分を利用するためにラングの家族を利用することに躊躇いなどないであろう。
自己防衛の手段として、即座に皇帝に上奏してゲオルグを検挙するということも考えたが、それでゲオルグがおとなしく滅んでくれるとは付き合いがあっただけに到底思えなかったし、なによりようやく安定の兆しが見えてきた自分の政治的信頼性に大きな罅が入ることは避けられない。
「それで、私にいったい何をしろというのか」
「別に何も。私が卿に求めるところはルビンスキーが要求していることとさして変わらぬが……ひとつ善意の忠告をしておいてやろうと思ってな」
脇に置いてあったカクテルが入ったグラスを手に取り、喉を潤して、続けた。
「卿はあれだろ。かつて身分卑しき者達と蔑まれていた者たちが中心となる新時代が始まったのだと、そしてその旗手たる
ラングは頷いた。たしかにラインハルトに対する畏怖があればこそ、彼は旧王朝時代の社会秩序維持局長官との椅子を奪われたばかりか、虜囚の身となり、一時期は一部の開明派から処刑せよと叫ばれる状態になったというのに、ラングはラインハルトのことを特に恨んではいなかった。
それは若くして実力で帝国の頂点にまで上り詰めたラインハルトの偉業が瞠目に値するものであったからであり、またラインハルトが築こうとする身分にこだわらない実力主義の社会作りという構想に、平民出身故に苦労を重ねてきたラングも共感できるものであったからだ。
もっとも、ラングが抱いた憧憬や共感は皇帝への忠誠心を育むというよりは、神聖不可侵な絶対者として君臨していた旧王朝時代の皇帝とは異なり、皇帝には敬意を払いつつ利用し利用される関係を目指すべきという無意識な思考の下地を育んだのだが。
「たしかに世のありようは大きく変わった。だが、本質的なところはどうかな」
「本質的?」
「強者が弱者を支配する。ルドルフ大帝が解き明かした摂理は依然と変わってはおるまい。いや、むしろ、かつてよりその本質はいっそう苛烈になったところすらあるのではないかな」
貴族制度はいちおう存続しているが、それは旧王朝時代からラインハルトの陣営に与していたとか、リップシュタット内戦時に敵対せず、その後も利口に動いていた貴族たちに対する褒賞として残存させている側面が強く、まだある程度の機能を有しているとはいえ、皇帝に対するそれを除く身分秩序そのものはほぼ解体されたに等しい状態である。
そうである以上、どこまでも個人の実力というものが最重視される社会となった。伝統や血縁などの重みは暴落し、帝国上層部の基準に基づく公平な競争の中で抜きん出た有能な者のみが、そうして選りすぐられた強者が支配者としてあれる世の中になったのである。
もちろん、旧王朝時代と同じく政治的事情や現実の要請などによって全てがこの通りに機能しているわけではないが、少なくともローエングラム王朝が掲げる理想はそれであり、今はまだその看板がの偽りとならず、大衆から信じられているほどには帝国の政治に反映されていることはたしかであった。
「そんな時代に、たかが家族に危険が及ぶかもしれないというだけで、噛み付く気概すら最初から喪失しているような性質の人間が、帝国で主体的な支配者たりえるとは思えんが。残念なことだが、卿はかつてと同じく使われる側の人間であるよ。無論、私と一緒に内務省であれこれしていた時と同じように、それを弁えているなら限りなく優秀な男であるのだが」
悔しそうに唸るものの、ラングは反論をしなかった。新しい時代の気風に順応したつもりで目を逸らしていただけで、ラング自身にその認識があったのかもしれなかった。
ゲオルグは、そんなラングを冷ややかに見つめていた。クラウゼらから得た情報を分析する限り、ラングは本質を見誤っている。このままでは遠からず大きな禍を招きかねない。釘を刺しておく必要があった。ルビンスキーがどう考えていようと、ゲオルグにとっては“良き部下”として、できることならば今後も活用したい人材なのだ。
「使われる側といっても、この演劇の主人公みたいに人形になれという意味ではない」
オペラグラスを手に取って、ゲオルグは劇場を眺め見た。上演されてる“滅びの皇女”という劇は、ゴールデンバウム朝第三五代オトフリート五世が末娘アグネスを題材にした劇作であった。
アグネスは父帝からの強い寵愛を受け、女だてらに銀河帝国の支配者たることを欲し、貴族平民問わず多くの人間を破滅させて自己の権力を強化し、内閣特別顧問や帝国軍上級大将などといった肩書を有していた傲慢で冷酷な野心家の皇女とされていた人物である。父帝崩御から数ヶ月とせずに二〇代で病死したことから、ゴールデンバウム朝時代は様々な噂や憶測がなされていた。
ローエングラム朝の時代になると、皇女アグネスに関する歴史研究が進められて意外な事実が明らかとなった。アグネスは傲慢で冷酷な存在でも、虚栄心と向上心の強い人間でもなかった。ただ普通の少女であった。いや、それどころか、非常に心優しく、国と民の安寧を願う少女であったというのである。
自分が感情をあらわにすれば、それが原因で父帝が怒り狂って人々を粛清することを何度も経験し、それがゆえにアグネスは感情を殺し、父の望む人形へと変貌していった。それが外からは冷酷に見えたというのが真相だったのだ。
イメージと真相の落差から、作品は大きな話題を呼んでいた。約三〇年前の人物ゆえ、当時の国営放送などで生きた頃の彼女とその時代を知っている者もすくならず存命である、という事情も話題になる理由であるのだろう。
「“誰の道具”になるべきかよく考えることだな。それが強者たり得ぬものの術というやつだ」
ゲオルグの言わんとすることを、ラングは正確に受け取った。つまり選べと言っているのだ。オーベルシュタインの道具か、ルビンスキーの道具か。あるいは、昔と同じく目の前の
ベリーニなどからは純粋に気楽な立場を演じるのを楽しんでいるだけと切って捨てられていたが、ゲオルグとしては権力の座についているならともかくとして、今現在の自分の立場に思いを巡らすと過剰な警備をつければ逆に官憲に目をつけられるとして単独行を好んでいた。
特に内務省時代の協力者と会うに際して、その場限りの変装をして接触するのだからと適当なホテルの一室を変装をする場として活用しており、ラングと対話が終わるとそこでまたノイエス・テオリア社の新聞記者ラルド・エステルグレーンとしての変装をし終えてチェックアウトし、アルデバラン星系総督府代表連絡部へと戻るつもりであった。
なので借りている部屋に入室したら赤子を抱いた妙齢の女性が椅子に座っていたことに、ゲオルグは一瞬驚いた。すぐにそれがだれであるのかを察し、今日は懐かしい顔によく出会う日だと思った。
「ルビンスキーの差金か。足がつきかねないことは遠慮してほしいのだがな」
「違うわ。ルビンスキーは関係ない。私がドミニクに頼んだの」
「あいつがか」
ルビンスキーと協力関係を構築して以来、彼に付き添って暗躍の補佐をしているドミニクの存在もゲオルグの知るところであった。聞けば、自治領主時代からの
「ま、そういうことであれば、ここに来たのはお前自身の意思か。いったい何の用だエルフリーデ」
エルフリーデの対面の椅子に腰をおろし、顔を合わせていない数年のうちに容姿も雰囲気も随分と様変わりした
「別に。ただリヒテンラーデ一族の、それも本家の次期当主になる予定だった男が近くにいるなら、会っておきたいと思うのがそんなにおかしくて?」
「ああ、おかしいな。深窓の令嬢をしていた頃ならばいざ知らず、時代と社会の荒波に揉まれまくった今のお前がそんなくだらないことで危険を犯すとは思い難いが。ああ、もしや……」
一度言葉を切り、ゲオルグは視線をエルフリーデの腕の中で天使のように眠っている赤子に向けて、歌うように言葉を再開した。
「ルビンスキーがその子の父親を利用した陰謀を考えているのでやめてほしいという懇願か? 子も産んだことだし、情が移っていてもおかしくは――」
「それはない!」
鋭利な殺意に満ちた視線でエルフリーデはゲオルグを睨んだ。その種の勘ぐりは、彼女の矜持を傷つけるものであった。
「あれは私たちリヒテンラーデ一族の仇なのよ。どうして私の家族をほとんどを殺した主犯を守ろうだなんて私がしなくてはならないの?」
「主犯……? それをいうなら内戦を終わらせるなり粛清に走った皇帝ラインハルトのほうが……ああ、そういえば一族処刑の指揮をとったのがロイエンタールであったか」
「ずいぶんと軽く言うのね」
言っている途中で思い出し、なんでもないことのように得心した又従兄弟を見て、エルフリーデは非難の色を乗せてそう指摘したが、ゲオルグは一笑に付した。
「ハッ、一族を粛清されたくらいで被害者ぶるような人生を送っていないのでな。なにせ幼い頃から一族内で殺し殺されをしてきたのだ。そんなことにこだわって自ら選択肢を狭めるなど、愚の骨頂であろうよ」
そう言われるとエルフリーデは何も言い返せなかった。リヒテンラーデ家次期当主の座を巡ってゲオルグは叔父のハロルドと激しい暗闘を繰り広げていたのは、旧王朝時代から周知の事実であった。証拠は残っていないが、叔父が放った暗殺者から身を持って庇う形でゲオルグの母は亡くなり、そしてゲオルグは一〇年近い雌伏の時を経てハロルドを謀殺したのだと社交界ではもっぱらの噂であった。
社交界に顔を出していた頃のエルフリーデは、そんな噂があるゲオルグのことを軽くであるが恐怖を覚えていた。分家であるコールラウシュ家は、そうした陰惨な争いとは無縁であっただけに余計にそう思ったところがあった。友人たちの中には「だからこそ刺激的でいいじゃない」とゲオルグに秋波を送っていた者もいたが、エルフリーデは正直理解できなかった。
ゲオルグの容姿は、まず眉目秀麗といって良いところだが、それが霞むほど怖い要素があるではないかと思っていたのだ。しかし今となってはそうした怖さをゲオルグから感じないのだから、彼の言う通り自分は相応に社会に揉まれたのだろうとエルフリーデは思った。
「しかし一族の処刑を指揮したのがロイエンタールであるなど、どうやってお前は知ったのだ?」
「当の本人から教えられたのよ。私の父親がどんな醜態を晒していたかとか、他にも色々懇切丁寧に教えてくれたわ」
「……思っていた以上にロイエンタール元帥には悪趣味な一面がおありだったようだな」
力無くゲオルグは首を横に振った。死んだ側近のダンネマン警視長の妹との間で起こしたトラブルで関わっていたから、ある程度はロイエンタールという男を直に知っているつもりであったが、わざわざ褥を共にしているような女の憎悪を煽るようなことを口にする必要もあるまいに。
またしてもゲオルグは視線を眠っている赤子に向けた。そして自分達リヒテンラーデ一族の中でもっとも新しい子に対し、随分と難儀な因果を持つ血脈を背負って生まれたものよと内心思った。
「ではなにか。その悪趣味な男を確実に破滅させてくれ、とでも頼みに来たのか」
「あの男は生来の叛逆者よ。放っておいてもどうせ自分自身の野心に引き摺られて破滅するに決まってるわ」
「ほう。なかなかおもしろい見解だな」
ずいぶんと憎悪が先行した見方であると感じたが、部分的には自分のロイエンタールに対する認識と相通じるところがあったので、ゲオルグは苦笑した。私人としてはともかくとして、公人としてのロイエンタールは堅実な気質の持ち主で、上昇志向の強い男であるがあくまで常識の範疇内のことであって、ある種の分を弁えている男でもあるとゲオルグはみなしていた。
たとえロイエンタールがラインハルトがいない時代のゴールデンバウム朝の世に生まれていても、親友のミッターマイヤーという不確定要素さえなければ、現実よりさらに十数年の年月が必要になるにせよ、皇帝より元帥杖を賜るところまで危うげなくいけたことだろう。エルフリーデの言う生来の叛逆者を思わせる振る舞いは、一種の自覚的パフォーマンスにすぎぬと分析していたのである。
そういう点から言えば、ゲオルグは今の世情でロイエンタールが皇帝ラインハルトに謀反を起こすというのは些か考え難い。少なくとも主体的な意思によるものではないだろう。だが、そんな認識を抱いているゲオルグをして、ルビンスキーから聞かされた陰謀の構想は、それなりに現実味を覚えるものであった。
しかしその陰謀の花が開くまでには相応に時間がかかる。その時間を利用して、ゲオルグはルビンスキーの風下に立っている状態を挽回し、可能であればルビンスキーを思考の陥穽に落とし込み、自らの権力の回復につなげるところもまでもっていけるように秘密組織の態勢を整えるつもりであった。
「ん? ということは、私の父上の最期についても聞かされているのか」
ふと疑問に思った。本当にそれだけであった。あの情けない父親がどのような無様な醜態を晒したのであろうかと、にわかに興味が湧いただけであった。
「……あなたの父親は、処刑場にあなたがいないと知って“それならよかった”と安堵したように処刑台に登ったそうよ」
いつもの冷笑的仕草なんでしょうけど、あの男にしては珍しく敬意を感じるような口ぶりだったわね、と、エルフリーデは続けようとしたが、それ以上口を動かすことができなかった。前方から背筋が凍るような冷気を感じたかからであった。
ゲオルグはいつの間にか椅子から立ち上がっていた。瞳の奥で、粘着質な闇がゆっくりと蠢き始めていた。怒りでもなく、悲しみでもなく、凍てつくような虚しい何かが渦巻いていた。エルフリーデを、見下ろす視線は、空恐ろしいほどに冷たいものであった。
そんな視線を浴びせられたからか、それとも母親が居竦んだことを微かな腕の力から感じ取ったからか、リヒテンラーデ一族の中でもっとも幼い赤子が目覚めて大声で泣き始めた。慌ててエルフリーデがあやしはじめるのを見て、ゲオルグは我にかえって手で顔を覆った。
「……会話がしたかったなら、赤ん坊を連れてくるべきではなかったな」
呆れたようにそう言って、ゲオルグはそそくさとシャワールームに向かって足を運び、ドアを開けながら言い捨てた。
「何を話したかったのかよくわからんが、赤ん坊を泣き止ませたら今日はもう帰れ。私もここをさっさと引き払いたいのでな」
ゲオルグはシャワールームに入り、変装メイクを洗い流した。そして素面になった自分の顔を鏡越しに見た。らしくもないが、そこに“天真爛漫な少年”の面影を感じ取り、思わずうめいた。
「それで、私が許すとでも、思っていたのですか」
口からこぼれた言葉は、はたして誰に向けた言葉なのであろうか。自分か、父か、それとも、一族全体に対してか。そこまで考えてゲオルグは口の端を皮肉げに歪めた。ああ、実にくだらない感傷に、今の自分は浸っているのだと。
滅びの皇女アグネスについての詳細は「薔薇の皇女殿下の物語」を御覧ください