少年時代が幸福に思えるとしたら、それは、世界の真実を知らずにいられるからだ。昼の優しく温かな青空は一時の夢想にすぎず、真夜中の静寂に満ちた冷たい虚空の闇こそが宇宙の本質、世界の深淵なる真実である。それに気づかぬままでいられるからこそ、幼き者が見る世界は輝いて見えるのだ。
旧帝国暦四七五年、当時一〇歳のゲオルグ・フォン・リヒテンラーデの周囲に限れば、世界は実に穏やかな幸せが溢れていた。
「父上、母上!」
「あら。どうしたのゲオルグ」
「今日も帝立中央図書館か
「お前は本当に勉強熱心な子だなぁ。しかし、たまには友達と悪ふざけしたりするのも大切だぞ?」
「学校で十分遊んだりしているので、大丈夫です!」
すこし呆れたようにそう言ったエリックに、妻も微笑した。容姿はともかくとして、内面は自堕落な自分にまったく似つかないとエリックは内心思っている。ゲオルグは類稀なる天才児で、更に本人としても自らの能力を磨くところを最大の楽しみに感じている節があった。
すでにゲオルグは、将来的に帝国官僚となるべく、エリート官僚を多く輩出した貴族のみが通う名門学校に在籍し、そこでも抜きん出た成績を収めていた。しかしそれでは満足できぬ様子ゆえ、数名の家庭教師を付けていたが、砂地が水を吸い込むように知識を貪欲に体得していくゲオルグの成長の速さに、優秀なはずの教師たちでさえ、しばしば閉口するほどであった。
将来を大いに期待されていることが、ゲオルグの自尊心を心地よくくすぐっているのも、勉強好きの一因となっていたのだろう。祖父にして侯爵家当主のクラウスや叔父のハロルドも能力を認めており、エリックとしても誇らしい息子だと思っているのだが、リヒテンラーデ家内部の事情をも含めて考えると、一抹の不安を覚えざるを得なかった。
帝立中央図書館にゲオルグが向かった後、エリックは個室で妻と二人きりとなり、胸中の不安を打ち明けてみた。
「ゲオルグのことだが、このままでよいのだろうか」
「……? どういうこと?」
「あまりに賢しさを見せびらかしすぎではないか、と心配になるのだ。私は無能な男だし、リヒテンラーデ侯爵家の次期当主は弟のものになるだろう。典礼官僚としてごく潰しに甘んじている私と比べ、ハロルドはれっきとした帝国官界の実力者として父を助けているからね。そんな私の子に大きな期待が集まっているというのは、あまり良くないことのように思えるんだ」
「あら、でもハロルドさんもゲオルグのこと好いているでしょ。杞憂でなくて?」
将来ゲオルグに仕事を手伝ってもらうのが楽しみだと言っていたハロルドの記憶がある妻は、そのように楽観視的な物言いをした。あまりにも現実味がない推測である、と感じたのである。それでもエリックは不安気な表情を変えないので、妻は両腕を組んで言った。
「仮に何かあったとして、あの子はあんなに楽しそうじゃない。そうあり続けることで起きる問題だというのなら、それはもう運命とか宿命というものよ。そしてそれを乗り越えていけないほど、あの子は弱くないわ。だから要らない心配よ。それとも、ゲオルグを信じられない?」
「そういうわけではないが……でもたしかに気にしすぎなのかなぁ」
妻の運命論的な物言いに、全面的にではないにしても納得するものを覚えたエリックは微笑みを浮かべてみせた。自分でも考え過ぎである、と思えないでもなかったのである。
後に、それを激しく後悔することになるのだが。
人間とは実に不思議なものだ。たとえ、特に決められたことではないというのに、それが当然視されていると、ひどく理不尽と感じる生き物だ。保証されていないものとは、元来脆いものであるというのに。
リヒテンラーデ侯爵家の書斎で二人の男が話をしていた。一人は侯爵家当主にして帝国官界で一、二を争う実力者たる侯爵家当主クラウス、そしてもう一人はその次男にあたるハロルド・フォン・リヒテンラーデである。
「……いま、なんと仰いましたか?」
「聞こえなかったわけでもあるまい。次期当主をだれにするか。しばし見合わせると言ったのだ」
リヒテンラーデ侯爵クラウスは、鋭いというよりは険しい視線を、出来の良い息子に向けていた。
「おぬしも変わらず有力候補ではあるがな。最近、有力な対抗馬ができた」
「……ゲオルグのことを言っているのですか」
込み上げてくる苛立たしさを理性で抑えながら、ハロルドは切実に父に訴えかけた。
「たしかにゲオルグは将来有望な子です。若いのに随分と才気ばっていて、行動力もある。当家にとって、大きく利益を齎す存在になることでしょう。実際、私の子より遥かに才能がある。ですが、あいつが当主の座を争うとなれば、私の次の代の話のはず。何故、私の対抗馬になるというですか。家督の継承に悪い前例を残したくないというのであれば、養子縁組でもして次々代の当主と位置付ければよろしいでしょう。兄上は無能でありますが、父上の遺伝子を受け継いでおりますし、ゲオルグをそうすることは特に問題もないはずです」
「おぬしの言いたいこともわからんではないが。既に決めたことじゃ」
リヒテンラーデ侯爵家の家督の継承を問題視しての指摘であったが、クラウスは気にも留めぬように流した。老獪な官僚政治家たるクラウスが気にしているのは、家督継承の問題が複雑化する懸念よりも、ゲオルグ個人に対する憂惧であった。あの孫は、一〇歳にして大人顔負けの能力を有するに至っている。それが不安の種であった。
クラウスはゲオルグは才に溢れすぎるあまり、驕慢になっていると認識していたのである。それ自体は問題ではない。若いどころか、まだ幼いといっていい年頃であるのだから、増長するのはむしろ自然なことである。だが、そこに圧倒的な才能が伴っているとなると、その驕慢さを維持したまま成功を重ねることだろうし、早々挫折を覚えることなどあるまい。つまりこのままではろくに矯正されることもなく、ある程度は大成するだろうと感じたのである。
しかし、その後は? これがクラウスには大きな懸念なのである。若くして己が才能をひらけらかし、周囲への気配り、謙虚さを知らぬ者は凡俗なる者達から疎まれる。どこかで躓いた時、周りの者どもはこれまでの鬱屈もありゲオルグを破滅の淵から奈落へと突き落とそうとするだろう。破滅するのがゲオルグ個人だけであればよいが、必ずや宮廷でリヒテンラーデ侯爵家全体の責任問題とされることだろう。というよりも、そういう問題にされる立場までゲオルグは驕慢なままのし上がれてしまうであろうと思わせる天才児ぶりなのだ。
家長としてクラウスは早いうちに出る杭は打っておく必要を覚えたのだ。リヒテンラーデ家は、ルドルフ大帝の御世は数多ある帝国騎士家に過ぎなかった。そこから何十世代も経て堅実に帝国に貢献して侯爵の位階にまで成り上がった家柄である。自己の才能を過度に頼む半端な疑似天才というやつは、ある意味では無能よりもリスクが大きくて困るといった思考がそこにはあった。
「もし納得できぬというのであれば、“家”に迷惑をかけぬ範囲で好きにすればよい」
これで身の程を弁えて自重するような慎ましさを孫が覚えるのならば良し。だがもし……この障害すら乗り越え、ハロルドと和することなく暗い闘争に勝利して生き残るのであれば、ゲオルグは本物の天才である。その場合はリスク込みでもリヒテンラーデ家の為に甘受する大きな理と利がある証明となる。
書斎からクラウスが去った後、ハロルドは両拳を握りしめて震えていた。
彼は兄エリックのことを無能で怠惰なやつだと蔑んでいたけれども兄として慕っていたし、甥のゲオルグのことだって自分の子であったならと思うくらいに買っていた。いずれ官僚になれば、自分をよく補佐してくれることだろうと思っていた。進んで排除したいとまでは思えない。
しかしハロルドはそれはそれ、これはこれと割り切れる感性を有していた。次期当主候補として相応に実績を積んできた自負もあれば、そういう立場にあることを所与の前提として結んだ各貴族家との協力関係もある。甥のことを可愛いとは思うが、自分の地位を脅かすようなのであれば、話は別だ。
いまや甥は自身に屈服させるか、さもなくばただの障害物として排除すべき対象となった。ハロルドはそれを受け入れ、瞳に冷気を宿し、静かに思案を巡らせはじめた。
多くの人々は、日々を当たり前のように生きている。だからよく錯覚してしまう。当たり前というのは、常識であり、絶対的なものであると。その実、当たり前なんてものはあっさりと崩れ去るものだというのに。
「母上! 母上!!」
血塗れの母親の体を抱きながらゲオルグは泣き叫んでいた。遠方への旅行時に突如現れた暗殺者の魔手から息子を庇ってのことであった。この出血量では、おそらく助からないであろうとゲオルグは即座に理解していたが、そんなこと認めたくなかった。
母は血の泡を吐きながらも、自らの息子を両手で抱きしめ、耳元でか細く囁いた。
「ゲオルグ……最愛の子……貴族として、生き抜いて……」
そう言い残すとガクリと母であったものの肉体から急速に力が抜け、呼吸もしなくなった。ゲオルグは双眸から涙を流し、喉が痛いほど叫んだ。
「母上ェッ!!」
ああ、辺り一面に飛び散っている母の血で溺れ死ねてしまえれば、どれほど良いことだろうか。そんな益体もない感情がゲオルグを支配し、周りの者たちが引きはがすまでゲオルグは母の骸を抱きしめながら泣き叫び続けていた。
だが、その聡明な頭脳はだれが何のために自分に向けて暗殺者を放ち、母の生命を奪ったのかを敏感に察していた。近頃、妙な圧力をしてくるようになった叔父上が黒幕であるに違いない。自分は叔父を心より慕っていたのだが、向こうはそうではなかったらしい、と、憎悪の炎を滾らせた。
それから約一月後、早くも母の葬儀が行われた。叔父ハロルドが何食わぬ顔で参列してきたのは意外ではあったが、内務省による捜査でも直接ハロルドに繋がる証拠はなにもない以上、礼節の上から言えば参列するのは当然といえることであったであろうが、怒りを募ることであった。だが、それだけではすまなかった。
「兄さん、今回は災難だったね」
「ああ、ハロルド……みっともない姿で、すまない……」
エリックは悲嘆に暮れた顔で弟を見やった。彼は妻を失ったと知ったその日から、浴びるように酒を飲んでいたのでアルコール臭を周囲に漂わせていたが、ハロルドは気の毒そうな表情を作るだけであった。
「いいんだ。悪いのは自由惑星同盟とか僭称している卑劣な叛徒どもだ。帝国を支えるリヒテンラーデ侯爵家に打撃を与えんがために、女子供を狙って暗殺者を放った共和主義者どもが悪いのだ」
形式的にエリックの妻の死はそういうこととなっていた。事件が迷宮入りすると、とりあえず共和主義者どもの仕業にしておけばよいというのはゴールデンバウム朝末期の内務省の悪癖というやつであったが、今回の場合一応の根拠もないではなかった。
下手人の居住地を調べ上げて警察官たちが捜査に及んだところ、社会秩序維持局が禁書に指定している思想本の数々が発見され、更には自由惑星同盟全史の全巻もあったのである。他に繋がりそうな線も浮かんでこなかったことだし、こんな本を大量に所有していることから思想犯であることは確かだと現場がそういう結論を出して捜査を終了させたのである。
ゲオルグからすれば笑止な話である。第一、リヒテンラーデ侯爵家、ひいては銀河帝国に打撃を与えるために、自分と母を狙う理由とはなにか。それなら内閣閣僚の地位にある祖父、それに及ばないまでも官界の有力者である叔父を狙うべきである。自分や母を殺めたところで、いったいどのような損失を帝国が被るというのか。五年後、一〇年後の自分の活躍を予想して、などと途方もない考えで暗殺を企図したとか、ふざけたことでもない限り……。
「なんなりと頼ってくれ。弟として可能な限り支えるよ」
「ああ、ありがとう。頼りにしている。ほんと、お前には助けられてばかりだ」
エリックがそう言ってハロルドの肩を親し気に叩くのを、ゲオルグは信じられないという気持ちで見ていた。激しい怒りが湧きおこったが、そのままそこで父を問い詰めようとしなかった。公式の席で侯爵家内に亀裂が生じているとみられるような真似をするのは、現状では良い結果を招くとは到底思えぬが故であった。
だから葬儀が終わった後、個室で父と二人きりになったゲオルグは激しく父を問い詰めた。父が見せたハロルドへの態度は、とても妻を理不尽に奪われた夫が犯人に対して向けて良いものであった。礼節上必要だからしたのだとか、そういう次元のものとはゲオルグには到底見えなかった。
しかしエリックは息子からの糾弾に我関せずと素早く酒瓶を開け、ひたすらそれを呷り始めた。ゲオルグは思わず感情的に激昂した。
「父上は恥を知らないのですか!? 父上とて、母上の死に叔父上が関与していることは察しておいでのはず! なのに叔父上に対するあの態度はなんですか! 父上は叔父上にこのまま屈するおつもりなのですか! 妻を理不尽に奪われたというのに!!」
「うるっさいなぁ……」
急速に顔を酒精で赤くした顔で、胡乱な瞳でエリックは自分の息子を直視した。ゲオルグは震えた。その瞳の奥にはどす黒い憎悪が揺蕩っていて、それが自分に向けられていると感じたからである。
「妻の死の責任だと……? それはお前のせいだろうがよ……」
「わ、私のせい……?」
「ああ、そうだッ!!」
エリックは酒瓶に残っていた酒を一気に飲み干し、床に投げつけた。
「お前が私の忠告を聞かず、いつもいつも勉学に励みおってからに! ああ、おまえのせいだよ! おまえの!!」
ペキン、と、なにかが割れたような音を、エリックは言い切った直後に確かに聞いたのである。それは幻聴であったのだろうか? いや、たしかに幻聴であったかもしれないが、壊れたものはたしかにあったのである。
かすかに冷静になった頭で、息子であった者の顔を見てエリックはゾッとした。ゲオルグは父こそは自分と同じ憤りを共有できる存在であると考え、それを求めての言動であったのだろう。それが今、どんな顔をしている?
「いや、違う――!!」
「何が違うとおっしゃるのですか。いえ、失礼しました。父上の御存念はよく理解致しました。これよりは迷惑かけぬように気をつけますゆえ」
「あ……」
たかが言葉。されど言葉である。絶対に言ってはいけない言葉というものがある。自分の感情的な発言で、ゲオルグの心が砕けたのだと、エリックは理解したが今更取り返しがつかない。ゲオルグが黙って部屋から出ていくのを茫然と見ているとしかなかった。
「……違う、違う、違う」
エリックは滂沱しながら、自分で何を言っているのかと思いながらもそう繰り返し唱え続けた。自分の無能、怠惰、無神経、すべてが厭わしかったが、逃げられるものではなかった。
……エリックは救いを求めるように新しい酒瓶を開け、アルコールで喉を焼き続けた。
人生とは、死にぞこないの連続だ。少なくともあの日以来、ゲオルグの日常には、いつも死が寄り添っていた。最前線で叛乱軍と戦っている将兵のように、常に命の危険に晒されていたわけではないが、それでもいついかなる時もゲオルグはそこかしこに淡い殺意を感じ取るようになっていた。あらゆるものに猜疑の目を向けるようになったと言ってもいいかもしれない。
リヒテンラーデ家の次期当主はハロルドであるべき。そう考える者達が放った刺客に、何度となく殺されかけたのだから猜疑心を育んだ当然であろう。食事に毒を混ぜられ、狩りの際に誤射されかけ、時に捨て駒の刺客が殺気も露わに。しかしその度に、ゲオルグは常に生き延び、そして巧みに自らの手駒を増やし、何年も生き延びた。
そしてそんなことを繰り返している内に、ゲオルグはそんな自らの環境に
すると家督争いの暗闘が始まってから密かに距離をとろうとしていた学友たちが、わずかながら戻ってきた。ゲオルグとしては彼ら友人たちを責めようとは思わなかった。自分がおかしいだけで、他家の事情に友人たちが首を突っ込むのを躊躇うのは当然である。ゲオルグは快く疎遠になっていた彼らを赦し、旧交を温め直した。
「昔と比べて、卿は少し変わったよな」
そんな友人の一人と演劇場を見物に行った際に、そのようなことを言われたのでゲオルグは首を傾げた。
「はて、どういう意味かな?」
「言葉通りの意味だ。昔の卿ならば、演劇の類に勉強以外の理由で時間を割くなど無意味な行為である、と、よほどのことがなければ興味を持たなかったであろう。なのに今は積極的に楽しんでいるように見える」
そう言われてゲオルグは笑って頷いた。たしかにゲオルグは無意味な空想をよくするようになっていたのである。幾度となく命を失いかけた。実際に失っていたとするならば、その先にはどのような未来があったのだろうと。もしもあの時、自分が違う行動をしていたならば、そのもしもの今はどのようになっているのだろうと。
またあるいは、演劇で描かれているような異世界、歴史の中に自分がいたならば、異なる立場、役割・出自があった自分ならば、どのようにふるまうのであろうか。そんな無益で無意味な空想を楽しむようになっていたのだ。それをゲオルグは愚かと自嘲しながらも、決して無価値なことではないと思っていた。
だって、人類発祥の惑星のみを生存圏としていた時代であればいざ知らず、今の人類なら恒星が放つ光など、広大なる宇宙の闇に比べれば如何にか細いものであるかを知っている。光放つ恒星なぞ……宇宙からすれば膿に等しい者に過ぎぬもの。しかしそれでも人は光をこそ崇め、闇よりも光をこそ良きものと見なしたがる。現実から目を逸らし、幻想に心を委ねるは人の本質のようなものだと、受け入れたのだ。
「鋭い指摘だな」
ゲオルグは楽し気にそう言ってのけた。
やがてゲオルグは内務省に入省し、警察総局には配属された。官僚養成の大学を飛び級で首席卒業していたことと、リヒテンラーデ侯爵家出身ということもあって、最初から幹部待遇で民事事件部通商課長のポストが与えられた。ゲオルグはその優れた指導力で警察内の諸改革に取り組み、成果を出して加速度的に出世を続けた。
そうして民事事件部長、刑事犯罪部長、警察総局官房長などを歴任していく中で警察内での自己の影響力を増大させ、これまで防戦一方だった叔父ハロルドへの反撃も行うようになった。決着がついたのは四八六年九月のことである。宮内尚書となっていたハロルドが地上車での移動中にエンジントラブルによる爆発で事故死したのである。ゲオルグの手のものが地上車に仕掛けを仕込み、警察幹部として証拠を隠滅してただの事故としたのであった。
そうして母の仇を討ったゲオルグであったが、その内心に復讐の悦びなど沸き起こりはしなかった。ただ、自分の身を脅かす要因のひとつを排除したという認識のみがあった。警察内で頭角を露わにしていく中で、警察内のライバルとなっていたハルテンベルク伯爵など、ゲオルグにとっての暗闘相手は叔父以外にも存在するようになっており、特別重要視する意味を見出せなかったのである。
いや、むしろ虚しさすら感じていたのかもしれない。何を思ったのか、父エリックがハロルドの葬儀の喪主を務めたのもあるが、それに礼節としてゲオルグは何食わぬ顔で参列せねばならなかった。そしてハロルドの妻と子から表面上はともかく、憎々し気に自身を見られたからである。一〇年前と立場が逆転しただけで、同じことが繰り返されただけであると再認識させられたのだ。
それからさほど時をおかず、警視総監が高齢を理由に退官し、ゲオルグにその席が回ってきた。二二歳の警視総監というのは、名門貴族出身者であることを考慮しても若すぎる異例の人事といえたが、警察内の効率化改革を成し遂げ、警察内の対立派閥だったハルテンベルク派をも粛清したゲオルグの就任を阻める者は、内務省内に存在しえなかったのである。
「恐れながら陛下。何卒、ルドルフ大帝の御世のごとくに、改革を行えという勅命を出しては頂けませぬか」
警視総監は社会秩序維持局と皇宮警察を除く全警察組織の頂点に君臨する階級であり、それにふさわしく時の皇帝から警視総監たることを証明する名誉の長剣を賜る栄誉に預かることができる。ゲオルグはその式典の際にフリードリヒ四世に願い出て一対一の対談を望み、開口一番にそう言ってのけたのである。
背景には警察組織の改革を行っている際に、否応なしに帝国の現状を思い知らされたからであった。祖父クラウスは帝国政府の統制下から限度を超えて独自性を発揮しつつある門閥貴族を粛清することが肝要と考えていたが、ゲオルグはそれを招いた原因が貴族階級の危機感の欠如にあるとし、そのための抜本的改革の必要性を感じていたのである。
「クラウスの孫とは思えぬほど直截的物言いよな」
「若さ故のこととお笑いください。しかし今の私の立場で陛下と二人きりで話せる機会などそうありますまい」
だから無礼を承知で単刀直入に話をさせてもらっているといった態度に、フリードリヒ四世はむしろ好感を覚えたようであった。
今上の皇帝は迂遠な物言いを好んでおられぬのではないかと推測していたので、その反応に手応えを感じたゲオルグは、さらに一歩踏み込んだ発言をしてみることにした。
「御不興を被るやも知れませぬが、覚悟の上で申し上げる。昨今の帝国の内情は目を覆わんばかり。放置し続けていれば沈むところまで沈みましょう。臣としては、陛下の御聖断があれば臣下たちの励みとなり、心をひとつとする契機となるかと愚考する次第です」
「ふむ、そちはこのままでは帝国が滅ぶとでも申すか」
「……口の端にのぼせるのもはばかり多いことながら、極論すれば陛下の仰せの通りかと」
「よいではないか」
一瞬、ゲオルグはなにを言われたのかわからず、重ねてきた年齢に比すれば老けすぎており、宮廷では密かに無為無能な皇帝と陰口を叩かれている男を、やや呆然と見やった。
「人類社会の創生からゴールデンバウム王朝があったわけではない。余の代で銀河連邦のごとくに崩壊してもかまわぬではないか。いや、自由惑星同盟とやらがいるのであるから、叛乱勢力に滅ぼされた地球統一政府のごとく、と、言ったほうがよいかの」
「末期のそれらに比べれば、現下の帝国は遥かにまともではないかと臣は考えますが……」
なにやら会話が危険すぎる方向に進んでいる。ゲオルグは内心そう思ったが、話を打ち切ろうとは思わなかった。銀河帝国は専制国家であり、人類唯一の主権者たる皇帝の内面を知っておくのはリスクを考慮しても価値がある。
「どうせ滅びるならば、せいぜい華麗に滅びればよいのだ。少なくとも余は何も決めるつもりはない。そちがどうしても皇帝の勅令による改革を望むのならば、そちが簒奪でもしてやればよかろう」
「一考の余地はございますな」
少年警視総監はからかい交じりの簒奪教唆を涼し気に受け入れたので、皇帝は愉快気に笑った。実際のところ、ゲオルグは簒奪によって帝国の全権を掌握することを考えないわけではなかったのである。もっとも、それは確実に祖父クラウス・フォン・リヒテンラーデとの対立を招くゆえ、祖父が寿命で亡くなった後にリヒテンラーデ家を纏めてから初めて具体案を考えるべきこととしていたが。
だが、簒奪というのは、ゲオルグにとってはあまり望ましい手段ではなかった。彼なりにゴールデンバウム朝銀河帝国という祖国に愛着があるし、始祖ルドルフから始まる王家の血脈には、帝国貴族の一人として自然な敬意を持っている。だがなによりも――
「しかしながら陛下。ゴールデンバウム王家は五〇〇年に渡って人類社会の上に君臨してきたのであります。その事実自体が支配者としての正統性を生むものです。不逞な共和主義者どもがどうなのかは知りませぬが、少なくとも多くの帝国の人間にとって、黄金樹の血統はいまだ縋るべき寄辺であります。簒奪というのは、それを成す者に、大衆を魅了してやまぬ光暉を放ち、新しい寄辺を提供する宿命と義務をおのずから背負います。でなくば、華麗さなどまったくない、陰惨たる滅びが待っているだけのことでしょう。人は現実の闇よりも光に満ちた幻想をこそ好むもの。やってやりきれるかどうか、正直に申して私はさほど自信があるわけではありませぬ。ゆえ、私めが位人臣を極めた後、陛下がまだ玉座におられれば同じ進言をします。それでもなお、陛下の決心が変わらぬのであれば、改めて考えることといたしましょう」
「……」
皇帝フリードリヒ四世は虚無に満ちた瞳でゲオルグを見返したが、何も言い返さなかった。
その年の暮れにフリードリヒ四世は急逝し、その直孫にあたる幼帝エルウィン・ヨーゼフ二世が帝位についた。この即位に伴い、祖父クラウスは帝国宰相に就任し、家の爵位も侯爵から公爵に位階をあげた。それに伴ってゲオルグも警察総局長を兼務したまま内務次官となり、帝国官界におけるリヒテンラーデ派閥の影響力を強め、リヒテンラーデ公爵家は宮廷と帝国中央官衙の支配者へとのし上がった。
しかしその栄華は一年ほどしか続かなかった。門閥貴族連合との内戦、リップシュタット戦役終結後、軍部を支配していたローエングラム派が即座にリヒテンラーデ派の粛清を開始し、リヒテンラーデ一族のほとんどは処刑台への道を進むことを強制された。
自分はなんとか逃げ延びることができたが、父エリックはその際に無様に処刑されたのだろうとたいして気にもとめていなかったが、エルフリーデが語ったところによれば、父は自分が捕まらずに逃げきったことに心底安堵し、放心したように処刑されたらしい。あの軽蔑してやまぬ父が……。
「ん……あぁ……」
目が覚めた。ああ、そうだ。代表連絡部に戻ったのち、ひどく疲れていたのでゲオルグはそのまま仮眠室で眠ってしまったのだった。きっとそのせいで変な夢など見てしまったのであろう。
陰を落とした表情で、ゲオルグは独り言を呟いた。
「そのような最期だったからといって、私が許すと思うのですか?」
顔をあげ、天井を眺めたが、その視線は天井以外の場所を見つめていた。
「本当に愚かで優しい人ですね、父上は」