D.C.短編集   作:牙無し

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アンダンテ 前編(純一×ことり)

 少しだけ弾んだ私の鼓動と同じ速度で、彼は日々漂っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2月午前の校庭は活動的だった。

 女子は高跳び、男子は1500メートル走と分かれながら、2クラス合同の授業。

 トラックを走る血脈と、中央のフィールドで跳ね回る心臓。

 自分たちは大きな生物の構成要素で、生命活動のモデルをしているような気分になる。

 

 銀色のポールの肩に足と頭を乗せて寝転がるバーを丁重に跨ぐ作業からは、身の丈の3分の2ほどの高さまで上がった段階で脱落していた。

 運動系の部活に所属していない身としては、上々の結果。

 体を動かすことも、体育の授業も苦手というわけではない。

 歌っているときほどではないけれど、運動しているときもそれなりに“声”を忘れることができる。

 冷えた風に身を震わせて、寒さにも負けない雑草の絨毯に座り込む。

 今、熱量も方角もバラバラな“声”たちは、目の前の闘いに夢中で「白河ことり」を認識していない。

 それはとても気が楽なことだった。

 

 

 

「あっさくらぁ! お前6分半超えたらジャージ脱いでもう2周走ってもらうぞ!」

 

 怒声とも嬌声ともつかない野次は、空気を震わせて、人が人に何かを伝える正しい意味での声だった。

 膝を抱えて授業の終わりを待つだけだった女子の殆どが、声と眉の野太さで有名な男子担当の体育教師へと視線が集中、そしてそのまま60度ほど視線が流れる。

 私もそれに倣った。

 教師の視線の先、みんなの視線の先、私の視線の先。

 明るい飴色の髪を短めに切り揃えられた彼は、完走者が3分の2ほどに上る終了10分前でも校庭の血管を流れている。

 駆け足、というのも躊躇われる遅さ。一応駆け足の体裁を保ってはいるけど、歩く速さとほとんど変わらない速度。

 

 見覚えのある顔だった。

 クリスマスパーティの夜に、月明かりだけが頼りの体育倉庫で。

 少し、意識が遠ざかって、喧騒の遠いいつかの密室まで遡る。

 ぼんやりと青白い光を受けて、楽しげに口元を歪ませた顔。

 白い髭もなかったし、トナカイもいなかったから彼はサンタクロースではなかった。

 少し言葉を交わして、すぐにまた別れることになっちゃったけど、私が名前を預けた、数少ない人。

 思えば、どうして出会って間もない彼に、名前で呼ぶことを許したのだろう。それも男の子に。

 彼の名前は未だわからない。「朝倉」という名字を、今知った。

 

 ゆっくりと走る彼の隣に、フィールドから近づいていく人がいる。

 何故か既に指定ジャージではなく学生服を身に纏っていて、悪戯を思いついた子どものような顔で話しかけている。

 学園で知らない人はいない、お騒がせ名人の「杉並」くん。

 中央委員会でも頻繁に名前の挙がっている重要かつ危険人物。

 彼の名前を英訳すると、「迷惑」とか「傍若無人」とか、「珍妙」と同じ綴りになるんじゃないだろうか。

 多分、常識とか、平穏という言葉を辞書で引けない人。もしくは全ての原因をビックバンに繋げるような人。

 私も去年、彼の確保にちょこっと参加させてもらってはいたけど、全然ダメダメだった。

 そういえば杉並くんの協力者の筆頭に、「朝倉」という少年がいたかもしれない。

 何か良からぬことでもいったのか、杉並くんは朝倉くんに蹴り一発叩き込まれてた。

 繰り広げられるコントに、笑い声が上がる。校庭という生き物の心拍が大きく跳ね上がった。

 同時に再び飛んできた野太い激に、ひらひらと応えるように、周回遅れの血脈は右手を挙げて泳がせていた。

 

 本校の上級生に尋ねればわかるかな?

 風見学園の風紀委員・中央委員には、どこかの諜報機関顔負けのデータブックがある。

 要注意人物の行動傾向を記した、文字通りのブラックリスト。

 事細かなデータの入ったプロフィール帳が渡される未来が見える。

 洒落た筆記体の英字が黄金に輝く表紙をイメージする。

 アメリカドラマみたい。

 

「まぁ、いっか」

 

 なんとなく、彼の素性を調べるのは止めておこう。

 プライバシーを覗き見するのはよくないとか、そういった綺麗な意味ではなく。

 どこか勿体ない気がしたのだ。

 息を吐くようにはぐらかされた、彼の名前。できれば彼の口から、それを聞きたいと思う。

 大好きなものは耐えられずに最初の方に食べてしまうタイプだけど。

 いつになるかわからないそれを待つことに、不思議と焦りや迷いはなかった。

 いつか掘り起こすだろうタイムカプセルを、日常のふとした拍子に思い出すような。

 体はずっと休んでいたはずなのに、さっきより胸の鼓動は少しだけ高鳴っている。

 

 

 

 

 

 そのリズムは、彼の走るテンポとちょうど同調していた。

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