必ず、かの憤怒の友から逃げ切らねばならぬと決意した。
メロスにはわけがわからぬ。メロスは、村の商人である。
あまり仕事はできないが、、、
―悪戯に対しては、人一倍に積極的であった―
メロスは爆走した。必ず、かの憤怒の友から逃げ切らねばならぬと決意した。メロスにはわけがわからぬ。メロスは、村の商人である。あまり仕事はできないが、悪戯に対しては、人一倍に積極的であった。
ある朝メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此このシラクスの市にやって来ていた。
メロスには父も、母も無い。女房も無い。二十の、強気な姉と二人暮しだ。この姉は、或る町の律気な青年を、近々、花婿として迎える事になっていた。
結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳や祝宴の御馳走、余興の小道具など沢山の買出しのために、はるばる市にやって来る羽目になったのだ。
とりあえず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。
今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。
路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。
若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します。」
「なぜだ。」
「曰く悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」
「なんだと。王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
聞いて、メロスは激怒した。
「あきれた王だ。話をつけてくる。」
メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」
暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以もって問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かく、どこか白いゴリラを彷彿とさせた。
その短剣は単なる玩具のそれであったが、メロスはこの王を無性に煽りたくなった。
「市を暴君の手から救うのだ。」
とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」
王は、憫笑した。
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独はわからぬ。」
「はっ、ぬかせ」
メロスは、つぶやいた。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。キサマは、民の忠誠をさえ疑っておるのだろう?」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりだ。信じては、ならぬ。」
暴君は落着いて呟つぶやき、はたと溜息をついた。
「わしだって、本当は平和を望んでいるのだ。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」
メロスはさらに嘲笑した。
「罪なき人々を殺し、積まれた死体の上で享受するといいさ。」
「だまれ、下賤の者。」
王は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ。」
「ああ、王よ。どうやらあなたは私が思った以上にお悧巧《りこう》さんらしいな。ああ、残念だ。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でここに居るというのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限をもらおうか。たった一人の姉に、明後日の結婚式の買い物をたのまれていてね。。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってくると誓おう。」
「ばかな。」
と暴君は、嗄しわがれた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言いよる。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「約束は守ろう。」
メロスは言った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。姉が、私の帰りを…いや、この荷物を待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よかろう、この市にセリヌンティウスという石工がいる。私の無二の友人だ。やつを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を殺すといい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なことを言うやつめ。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。ただし、少しでもおくれたらその身代りを殺す。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろう。」
「ありがたき」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスはこの愚かな王にあきれていた。煽る気も失せていた。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、二人の友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスはあきれ気味に首肯うなずき、メロスの肩をぽんとたたいた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの二十の姉も、きょうは弟の代りに店番をしていた。よろめいて歩いて来る弟の、疲労困憊こんぱいの姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく弟を問いただした。
「なんでも無い。」
メロスは答えなかった。
「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければいけないんだ。確か明日が結婚式だったよね。はいこれ頼まれた物。」
姉はいろいろ言いたそうではあったがあきらめているようだった。
「どうよこれ。綺麗な衣裳だろ。さあ、これから行って、村の人たちと準備をしなければ。結婚式は、あすだからね。」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。
そうして、姉のことを幸せにしてくれ、と頼んだ。
婿は驚き、夜中にどうした、こちらは明日の仕度していたからよかったが、訳を教えてくれないか、と答えた。
メロスは、訳はない、ただ言うタイミングを逃したくなかったのだ、と更に押してたのんだ。
婿は困惑していた。とはいえ明日は結婚式。夜明けまで議論をつづけるも不毛だと、どうにか婿をなだめ、すかして、泊まり込んだ。
結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。
祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍うった。
メロスも、満面に喜色を湛たたえ、しばらくは、王とのあの約束を忘れるほどに楽しんだ。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。とはいえ、友を売ってしまっている。早くいかねば、雨が小降りになってくれるとありがたいのだが。本当は少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスのような男だからこそ、やはり未練というものが在る。
今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。俺はのみすぎてしまったから、ちょっとトイレにいってくる。あなたの弟になれて嬉しかったよ。」と言った。
花嫁は、夢見心地で首を傾げていたが、微笑んでメロスの頭をなでた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「姉をよろしく」
といった。
花婿は首をひねってはいたものの、てれているようだった。メロスは笑って村人たちにも会釈えしゃくして、宴席から立ち去り、トイレに行くふりをして静かに玄関から出て行った。
薄明の頃、村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃。メロスは、間に合うだろうか、いや、まだまだ大丈夫、約束の刻限までには十分時間がある。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、最後にはどんなふざけあいをしようかと考えながら悠々と歩いていた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。いくつかのネタは出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。さらば、ふるさと。いつのまにか雨も止やみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額ひたいの汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。姉たちは、きっと幸せになるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。そろそろ残り3里に到達した頃、降って湧わいた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、とうとうと下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁はしげたを跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚さらわれて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。
メロスは川岸で困り果て、こうつぶやいた。
「ああ、勘弁してくれよ!」
濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽おり立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。もういいや、どうせ濡れてるし。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「待て。」
「何の用だ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放してもらおうか。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私には残念ながらいのちの他には何も無い。他をあたるんだな。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「ははあ、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたな。煽りすぎたか。」
山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒こんぼうを振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「仕方ない」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙すきに、さっさと走って峠を下っていった。一気に峠を駈け降り市まできたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と思いセリヌンティウスの家にいき、家主がいないことをいいことに飲み物をとり服を着替えた。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代きたいの不信の人間、まさしく王の思う壺つぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎なえて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。とりあえずセリヌンティウスのベッドにごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。少し休みたかった。約束を破る心は、みじんも無かった。人は煽るが私は不信の徒では無い。私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。姉の一家も笑われる。私は友を欺あざむいた。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも俺を信じた。俺は君を、沢山煽った。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は眠いのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。
――私は四肢を投げ出して、意識を手放した。
5分ほどで目が覚めた。
日没まであと4刻ほどとなったころ、処刑場の外壁の上から顔を出し、セリヌンティウスの様子を見ていた。彼は私を信じて待ってくれているようだ。最後の掛け合いは決めた。あとはしばらく最後に食べたいものでも食べ飲みたいものでものもう。セリヌンティウスのお金で。どうせ死ぬのだ。少しくらいよかろう。
死力を尽して、メロスは走っていた。ぎりぎりに走りこむ演出にリアリティを出すためだ。メロスは疾風の如く刑場に突入した。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」
と大声で刑場の群衆にむかって叫んだ。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられていた。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、目薬をさし
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス。」
メロスは眼に涙を浮べて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、君の家で一番高い酒を飲んだ。財布の中身も使った。4刻も前から君を見て爆笑していた。殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯うなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、君を信じていた。微塵の疑いもなく信じていた。君が私を殴ってくれなければ、良心が傷んで私は君をこれ以上殴れない。」
メロスは足に唸うなりをつけてセリヌンティウスの股間を全力で蹴り飛ばした。
「「ありがとう、友よ。」」
片方は呪詛を込めて吐き捨てるように、片方は誰にも聞こえないほど小さな声でさびしげにつぶやいた。
それから、互いにサバおりをかけたが、人々にはひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いたようにしか見えなかった。
群衆の中からは、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
『万歳、王様万歳。』
空気を読んだ二人は人々ににこにこえがおを向けていたが、やがてメロスは走り出した。