摩耶さまの名のもとに   作:ゆずた裕里

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すれ違う航跡の先に

 天龍と龍田が、最後の面会を果たしてから三十分ほど過ぎた頃。

 摩耶はひとり、大海原の彼方を見つめながら、少し前のことを思いかえしていた。

 

 

 摩耶は天龍の代わりに、龍田とその随伴艦たちを見送りに来ていた。整備の行き届いた艤装を背負った一団に、摩耶は声をかける。

 

「転属してすぐは何かと忙しいかもしんねえけど、時々は手紙でも送ってやってくれよな」

「はい」

 

 答えた龍田は、今まで以上に素直だったように、摩耶には感じられた。それが猫をかぶっているか、それとも本心からなのかは分からない。

 そして出発の時間になり、一団が海上に降り立った、その時。

 

「あの、摩耶さん」

 

 龍田が、埠頭にたたずむ摩耶に声をかける。その声は、懲罰房で天龍に話しかけた声と同じものだった。

 

「天龍ちゃんを、よろしくお願いしますね」

 

 摩耶は一瞬、えっ、と思ったが、すぐさま笑って、おう、とだけ答えた。すると、龍田もうるんだ瞳を閉じて微笑んだ。天使のような、純粋な微笑みだった。

 

 

 今はもう龍田の姿は大海原の彼方に消え、摩耶の心には一件落着した思いと、どこか癒されるような思いが広がっていた。さて、朝飯でも食いに行くか。摩耶は海に背を向け、歩き始めた。

 

 

 

 それから一週間後。

 

 摩耶は鳳翔の手伝いで、店の掃除をしている最中、自警艦隊の駆逐艦から司令部に出頭するよう指示を受けた。つまるところ、足柄からの突然の呼び出しである。

 摩耶はきっと、龍田を最後に面会させた件がばれて説教を食らうんだろうと思い、司令部への道すがら、どう足柄に言い返してやろうかと考えをめぐらせていた。

 

「高雄型三番艦、摩耶。出頭したぜ」

 

 この手の呼びつけに、摩耶も足柄も完全に慣れてしまっている。互いにおざなりの敬礼を机をはさんで見せ、先に口を開いたのは摩耶だった。

 

「で、今日は何の用だ?最後の別れを御膳立てした罪か?」

「何言ってるの摩耶、そんなんじゃないわ。もっと大切なことよ」

 

 もっと大切なこと……?疑問をめぐらせ口を閉ざした摩耶のことなど捨てておくかのように、机上の書類を手に話しはじめる。

 

「本日四月二十五日を以って、第八九三遊撃艦隊の随伴艦に……」

「天龍型一番艦天龍!ただ今……あっ!」

 

 勢いよく開かれた扉と共に飛びこんできた天龍と目があったその時……摩耶の脳裏に龍田の残した言葉がよぎった。まさか、と思いながら再び机の向こうに目を向けると、足柄はにっこり笑って机上に書類を置いた。

 

「以下略。そゆことよ、摩耶。頑張って」

 

  

 

「ようやく名実ともに艦隊旗艦か。ちょっと遅すぎる気もすっけど、ま、いっか」

 

 摩耶と天龍は二人そろって司令部を後にした。摩耶は複雑だがまんざらでもないような顔をしていたものの、

その一歩後ろを歩く天龍は、摩耶を視界にも入れないようにじっと顔をそらし遠くを見つめていた。

 そんな天龍に摩耶が話しかけた時のやりとりで、両者がどんな思いをかかえているかはうかがうことができる。

 

「おう、そんな訳でこれからよろしくな、天龍」

「ああ」

「なあ、あの時さ、営倉でどんなこと話したんだよ?」

「……元気でやれよ、俺もすぐ横須賀に行くから、って」

「ふーん、ま、今回のことは、この摩耶さまに感謝しとくんだな」

「あのな……言っとくけどなぁ!俺は鳥海さんのことは尊敬してる!だけど摩耶!お前のことは1ミリたりとも尊敬なんかしてねぇぞ!あんたを呼ぶ時だって、鳥海さんみたいにさん付けなんて絶対しないからな!」

「ああ、勝手にしな。その方があたしもやりやすいぜ。お前に『摩耶さん』なんて呼ばれちゃ、なんか気持ち悪いからな」

 

 と、こんな感じで、天龍のほうが一方的に突っ張っていたのだった。

 その理由としては、この編成について二人の間に大きな考え方の違いがあった。摩耶にとっては名ばかりの旗艦から名実ともに旗艦になることができた訳であるが、天龍からしてみれば水雷戦隊の旗艦(実際のところ艦隊運営は龍田と共にしていたのだが)の座から引きずりおろされ、旗艦を務めた経験もない重巡のもとに随伴艦としてつけられたのである。天龍が納得いかないと考えたのも無理はない。

 

 そのため、天龍は予備役の時に命じられた駆逐艦の教官の仕事を誇りに思っていた。演習のときに限り、駆逐艦隊の旗艦としてその指揮と指導をするのである。もともと龍田とともに駆逐艦を指揮していたこともあり、その扱いは慣れたものであった。

 天龍は摩耶の艦隊に配属された後もその任務を続けていたが、

 

「この時だけは、俺は俺でいられるんだ」

 

 と考えていた。

 

 この日も天龍は、受け持っている三杯の駆逐艦たちと朝早くから演習に行っていた。これもただ摩耶と一緒にいたくなかっただけ、なのかもしれない。

 

 

 

 摩耶は夜通しで書いた報告書を出し終え、足柄たちのもとから帰るところだった。若干汗ばむ南国の五月晴れの中で、

 

「くそ暑いなぁ。朝風呂でも入ろっかな」

 

 と、解放感からかどこか上機嫌だ。

 

 そんな気分で摩耶が浴場に向かった、その時。脱衣場から、すすり泣くような声が聞こえてくる。これからさっぱりしようという時にどこか水をさされたような気がしながらも、摩耶はその理由が気になり、脱衣場の暖簾をくぐった。

 

 その向こうでは、まだ小さな子どものような駆逐艦二杯が、ベンチに腰かけて氷嚢を手にしくしくと泣いていた。その隣では、天龍が前かがみになって俯いている。残りの一杯は浴場内で入渠中らしく、「一番ドック 入渠中」の札が風呂場への扉の横にかかっていた。そして、みな一様に頬が熟れたリンゴのように赤く腫れていた。

 

「天龍、お前……どうしたんだよ」

 

 摩耶が問いかけるのに、天龍はため息をついて立ち上がると目で合図を送り、脱衣場の外に出る。駆逐艦のチビどもに、あまり情けない姿を見せたくないんだろうな、と思いをよせながら、摩耶も天龍の後に続く。

 

 

 

 脱衣場の暖簾のかげで、天龍はしぶしぶ話し始めた。

 

「朝練が終わって、俺たちはシメにジョギングをしていたんだ。そしたら北上と大井と出くわして……」

「北上と大井?」

 

 北上と大井は、重雷装巡洋艦の二人である。この二人は半年ほど前からこの泊地に着任したようだが、居酒屋鳳翔に来ることもなかったため摩耶はよく知らなかった。時折ふたり一緒にいるのを見かけるくらいである。

 

 天龍の話によれば、一同は足を止め、駆逐艦たちとともに北上と大井に敬礼をした。しかし大井は答礼もせず、敬礼の些細な間違いを指摘した。

 それで天龍が謝罪しことが済めばよかったのだが、大井は怒りを増した。どうやら北上との散歩を邪魔されたことが気に入らないらしく、大井の話は指導から天龍の人格攻撃へと移った。そして、

 

「ここで土下座しなさい!北上さんへの不敬罪よ!」

 

 と言うに及んで、天龍も堪忍袋の緒が切れた。

 

「お前、さっきから聞いてりゃガタガタと抜かしやがって!」

 

 しかし大井は、まったく動じることなく言い返した。

 

「何よその態度は?あなた、ただの(・・・)軽巡よね?」

「ああ、それがどうしたってんだ?」

 

 さらに天龍が言い返すと、大井は天龍の耳元でささやきかけた。

 

「私たちは重雷装巡洋艦よ。つまり、あなたより階級は上なの。下手なことしたらあなたをこの子たちの前で営倉送りにもできるのよ。分かる?」

 

 そう聞いて、天龍は何も言えなくなった。実際の艦隊でないとはいえ、天龍には駆逐艦たちを指揮する責任があった。そうである以上、営倉送りになってはその不名誉が随伴の駆逐艦たちにもおよぶ。先日天龍が龍田をかばって営倉送りになったのも、それを心配してのこともあった。それもあって、天龍にはもう後がない。たたでさえ営倉入りの前科もちなのに、さらに汚名を被ることはできない。

 天龍が沈黙を続けていると、大井は満足げに続けた。

 

「まったく、演習の教官がこんなのだと、駆逐艦も可哀想ね。だから、今回は私がまとめて叩き直してあげるわ。感謝しなさい」

 

 そうして大井は天龍に対峙すると、

 

「歯を食いしばりなさい!」

 

 そう叫んだ直後に、天龍の左頬を張った。続いて右。さらに制裁は続き、数えること十一回。天龍はふらつきながらも耐え抜いた。

 痛みよりもじんじんするような、腫れ上がった感覚が残る中、大井は駆逐艦たちにも同様に制裁を加えた。天龍は自分の後ろで加えられる制裁を、見ることができなかったという。

 

 

 

 経緯を語った天龍の顔には、やるせなさと怒りが満ちていた。きっと制裁を加えられるときも、同じような表情をしていたのだろう。

 しかしこのような制裁は、どこの鎮守府や泊地でもありがちなことではある。摩耶は漠然とひっかかるものを覚えながらも、とりあえずこの件はてっとり早く終わらせようと考えていた。

 

「ふーん、ま、あとはあたしに任せな。あたしがガツンと言ってやれば、あいつらだっておとなしくなるだろ」

  

 その瞬間、天龍は目の色を変え、キッと摩耶を睨みつけた。

 

「お前には関係ねえだろ、俺の好きにやらせろよ!」

 

 どうやら天龍はあくまで自分の手で解決したいらしい。復讐心や駆逐艦たちを守れなかったやるせなさが、その根底にあるのだろう。

 摩耶も、その気持ちは分からないでもなかった。

 

「天龍、我慢しな。また営倉入りになったらそれこそとんでもないことになるぜ」

「ちっ、それがどうしたんだよ!」

「駆逐艦どものこと考えろよ!お前がまた営倉にぶち込まれでもしたら、あいつら出来損ないの軽巡に教えられた、出来損ないの駆逐艦呼ばわりされるかもしれないんだぞ!?」

 

 頭に血がのぼった天龍は、繰り返される『出来損ない』呼ばわりに反応してしまった。

 摩耶もそこまで考えずにいつもの調子で口にしてしまったのだ。

 

「うるせえ!お前なんかが、偉そうに口出しすんじゃねえよ!」

「ああそうかよ、じゃあ勝手にしやがれ、クソがっ!」

 

 こうなってしまっては、もう売り言葉に買い言葉だ。天龍は舌打ちをすると、廊下の向こうに消えていった。駆逐艦たちのこともあるのですぐに戻ってくるだろうが、どのみちここにいても摩耶にできることはない。摩耶が何を言ったとしても、天龍は聞く耳を持たないだろう。

 摩耶はため息をついて、暖簾の向こうをのぞく。駆逐艦たちが怯えたように摩耶をみていた。先ほどのやり取りは、どうやらすべて聞かれてしまっていたようだ。摩耶は駆逐艦たちを安心させるために、

 

「まあ、あたしに任せときな」

 

 と言ってウインクを投げかけた。相変わらず駆逐艦たちは不安げな様子だったが、摩耶は浴場を後にした。摩耶は廊下を歩きながら、これからどうするかを考えていた。

 とにかく、再び天龍が大井に喧嘩を売る前に、何か対策を打つ必要があった。

  

  

  

 

 居酒屋『鳳翔』では、初夏の季節からざるうどんの提供をはじめていた。『鳳翔』は夜は居酒屋だが、昼間は暖かい雰囲気の定食屋でもあった。

 この日の昼もカウンターで、華奢な体つきをした金髪の軽巡が、海老、レンコン、ナスといった色とりどりの天ぷらとともに、ざるうどんに舌鼓を打っていた。

 

「んー、確かにあのふたり、なんか偉そうな気がしますぅ。キタガミさんはキタガミさんでめんどくさいですし、大井さんはうちの駆逐艦を難癖つけてはいじめるし、本当なんなのもう……。もうふたりまとめてどっかに飛ばされちゃえばいいのに……」

 

 可愛い顔しながら毒づいている、この金髪のツインテールの軽巡が阿武隈である。ほかの艦娘からはシンプルな愛称で「あぶ」や「あぶちゃん」と呼ばれている彼女は、普段は駆逐艦を引きつれ、輸送護衛や偵察の任務に従事していた。普段は愛嬌たっぷりの性格なのだが、このように時折毒をつく癖があり、それが原因で東沖島泊地に飛ばされたんじゃないか、と噂する艦娘もいた。

 彼女の隣の席で摩耶はこれまでの経緯を説明し、大井と北上についての話を聞いていた。しかし延々と続く愚痴に、さすがにしびれをきらしたようだった。

 

「あのなあ……あぶ、こっちはお前のくだらねえ愚痴を聞くために来たわけじゃねえんだよ。天龍を助ける方法、なんかいい案ないか?」

「それなら摩耶さんは重巡なんだから、天龍さんの代わりに殴っちゃえば……」

「いや、それだったら大井と同じ理屈じゃねえか。それは嫌なんだよな」

「ぜいたくですねぇ。だったら天龍さんが下手に動く前に柱にでも縛っちゃいましょう」

「お前なんかに聞いたあたしが馬鹿だったよ……」

 

 ため息をついて摩耶が立ち上がろうとしたその時、阿武隈はふとつぶやく。

 

「ていうか、雷巡と軽巡に階級の違いってあるのかなぁ?」

「え?」

「だって、雷撃戦に特化した装備の軽巡が雷巡なんですから、装備の違いしか差はないと思うんですけどぉ……」

 

 確かに阿武隈の言うとおりだった。

 摩耶も重雷装巡洋艦、いわゆる雷巡と軽巡の階級の差についてはよく知らなかった。天龍の話にどこか引っかかるものがあったのも、この一点だった。雷巡と軽巡の間に階級の差がなければ、一方的な私的制裁は通らない。

 他に突破口が無い以上、この一点にかけるしかない。

 その時、店の裏手から野暮用を終えた鳳翔が帰ってきた。摩耶は早速疑問をぶつける。

 

「鳳翔さん」

「あら、どうしたの?」

「雷巡と軽巡ってさ、階級に差はあったっけ?」

「うーん、ごめんなさい、微妙なところだからちょっと分からないけど……。足柄さんや那智さんに聞いてみたら?」

「いや、それはちょっと……」

 

 足柄や那智に知れると、勝手に詮索しだして面倒なことになるかもしれないと、摩耶は考えていた。それに昔なじみの重巡であることもあってか、摩耶自身あまり足柄や那智の世話にはなりたくなかった。そんな摩耶に、鳳翔は提案する。

 

「それなら大淀さんに聞いてみたらどうかしら?」

 

 大淀はこの泊地の通信員であり、足柄とは古くから付き合いのある、事実上秘書艦のような存在でもあった。しかし司令部付でありながら自警艦隊として活動することはあまりない上、口の堅さではどんな艦娘にも信用が置かれていた。

  

「あっ、その手があったなぁ!よし、急ぎの用だからよ、あたしは行くぜ。あと……」

 

 摩耶は阿武隈の海老天をつまみあげ、口の中に放りこんだ。

 

「ああっ、私のえび!」

「もし天龍のやつが喧嘩してるって見かけたり聞いたりしたら、真っ先に教えてくれよな。頼んだぜ!」

 

 言い終わる頃には、摩耶はもう店の外へと消えていた。きっと阿武隈が追いかけても、格子戸の前にえびのしっぽが落ちているだけだっただろう。

  

 

 

 

 

 宿舎街を少し抜けて、海に面した波止場の一角には、地面がタイル張りで、ブラウンとベージュの市松模様になった、小さな公園のような場所がある。そのはずれの海を一望できるベンチに、二人の少女が座って昼食をとっている。一人はブラウンのロングの髪、もう一人は三つ編みの黒髪。

 ロングの少女が弁当箱からおにぎりを取り出し、三つ編みの少女に手渡す。二人はここでささやかな昼食を楽しんでいた。

 

「はい、北上さん。召し上がれ!」

「ありがとね、いただきまーす」

 

 この二人こそが、今朝天龍とその駆逐艦を張り倒した、あの大井と北上なのである。しかし今の二人には、そんな暴力的な香りは微塵も感じさせない。まるで仲のいい……いや、仲の良すぎる艦娘姉妹、といった感じである。

 

「美味しいよ、大井っち」

「良かった!北上さんに褒めてもらえてうれしいです!」

 

 これまで何百何十回と口にした北上の言葉に、大井の機嫌はさらによくなった。そのままおかずの入った弁当箱を取り出しにかかると、北上はおにぎりを見つめた。本土にいた頃に、みんなで食べた大井のおにぎりのほうが、美味しかったような気がしていた。

 

 

 

 北上は、ここまで駆逐艦に強くあたらない頃の大井を知っている。

 北上たち球磨型軽巡の姉妹は一緒の艦隊に配属されることはほとんどなく、それぞれが北や南の様々な泊地に分かれていた。しかし北上と大井の二人だけは例外だった。そのため、二人の絆は他の姉妹艦よりもより深いものとなっていった。

 

 他者から見るとその関係は奇妙に見えたのか、ふたりはしごきやからかいの的になることが多々あった。しかしそのような仕打ちを耐えるほどに、ふたりの絆がより深まっていったのは確かだった。

 それでも北上は、大井が時々、

 

「もし私たちが戦艦や正規空母だったら、あんたたち全員……」

 

 などと怒気を含んだ声でつぶやいていたことを覚えている。

 

 さらにふたりはこの頃、今の天龍と同様に駆逐艦の教官をしていた。

 

 かつての帝国海軍では上官によるビンタなどの制裁は日常茶飯事で、その風習は艦娘たちにも一部引き継がれ、特に軽巡と駆逐艦の間で指導が行われる際にそれは顕著であった。軍紀の厳しい鎮守府や泊地では、宿舎から軽巡のビンタの音が鳴りやむことはないと言われた時期もあった。

 しかし、北上はそのような指導ができる性格ではなかった。基本的にマイペースな彼女は、ビンタで分からせるよりも流れに任せる指導を好んだ。そのため北上はしばしば、他の巡洋艦や空母から『手ぬるい』と言われることもあった。時には大井との関係ともからめて酷いことを言われ、自信を失いかけたこともあった。

 

「あたし、教官向いてないかもしんないなー」

 

 そんなことをつぶやいたときも大井は、

 

「そんなことを言わないでください。北上さんは北上さんのやり方があるんですから。駆逐艦だってついてきてくれてますし……」

 

 と、いつも北上のそばに立ち優しく励ましていた。

 

 

 

 しかし、ここで大井の変貌を決定づける事件が起きた。

 

 大井と北上は突然、青森の大湊にある警備府へと呼び出された。姉妹艦のうちひとりが、入渠だけでは治せないほどの重傷で入院したのことであった。

 さすがの北上も、重傷を受け全身を包帯にくるまれた姉妹艦の姿を見て狼狽を隠せなかった。北上が隣の大井を見ると愕然とした表情で、取り乱す寸前、といったような様子であった。その日の帰り、大井は北上に言った。

 

「北上さん。私、絶対に北上さんを護ります。何があってもそばにいますから」

 

 しかし、大井の顔に前向きさや力強さのようなものが一切感じられなかったことが、北上は忘れられなかった。

 

 その数日後のことである。

 

 北上と大井のふたりは姉妹艦の件について司令部に書類を出しに向かった。だが大井は途中で判子を忘れたことに気付き、ひとり駆逐艦たちと過ごしていた待機部屋に向かった。しっかり者だった大井がこの時忘れ物をしたことを、まだ大湊でのショックが抜けていなかったのではないかと、北上は考えていた。

 しかし、大井は部屋に向かったっきり戻ってこない。おかしいな、と思った北上は、自身も部屋へと戻っていった。

 

「大井っち、判子は……」

 

 何の気なしに部屋の扉を開けた北上は、目の前の光景に驚愕した。

 大井は扉口の北上の背を向けるように仁王立ちしており、その手には野球の木製バットを二回りも三回りも大きくしたような制裁用の木の棒、通称『海軍精神注入棒』が握られていた。

 そしてその奥では、北上と大井が受け持っている駆逐艦たちが、アザだらけで床に正座させられていたのである。

 

「お、大井っち!どうしちゃったのさ」

 

 思わず尋ねた北上に、大井はじっと駆逐艦たちを睨みながら説明をはじめた。

 大井が部屋に戻った時、中から駆逐艦たちの笑い声とともに、

 

「まあ、北上さん正直チョロいよねぇ」

「他の隊と比べて大したことない教官でよかったー」

 

 という、教官である北上を甘く見るような声が聞こえてきたのだという。

 これまで真面目についてきてくれた駆逐艦たちの本心を知って北上はショックを受けたが、それよりもこれまで駆逐艦たちに一切手を出さなかった大井が手を出したことのほうが衝撃的であった。

 

 それ以来大井は、北上以外の何者に対しても、一切容赦をしなくなったのである。人が変わったように無茶苦茶をやりだした、といったほうがより正しいだろうか。

 

 その後ふたりの艦隊は鎮守府で一番厳しい水雷戦隊となったが、大井によるやりすぎの指導が悪名となった結果、半年後に教官の任を解かれている。

 

 それでもなお大井は北上と一緒にいるためには何でもやった。その行動が過ぎたのも、この泊地に送られた理由の一つだったかもしれない。転属後、大井の行動はさらに増長し、北上と関わろうとする他の艦隊の艦娘にまで直接危害を加えるまでに至った。

 北上もこれはやりすぎかと思うこともあったが、その根底には大井の心の傷があることを知っていたため、うまく口出しができなかったのである。

 もう少し自分に勇気があれば、こんなことにはならなかったかもしれない。北上は何度もそう思った。

 

 

 

「北上さん?」

 

 心配するような大井の呼びかけに、北上は我に返る。どうやら考えすぎて、ぼんやりしているように見えたらしい。

 

「気分優れませんか?」

 

 大井は半ば強引に、熱を測るために北上の額に自分の額をつける。ふたりにとって、このようなことはもはや日常茶飯事であった。

 

「お熱はないみたいですね……」

「いや、別にそんなんじゃないからさ、大丈夫だよ……」

 

 大井の目の色が変わった。ごまかすような北上の姿は、もう目に入っていない。

 

「やっぱり今朝のことが気になって……」

「えっ?」

「あの出来損ないどものせいで北上さんが憂鬱に……」

「いや、大井っち?そんなんじゃなくてさぁ」

「……絶対に許さない」

 

 意を決したように大井は立ち上がり、弁当を置き去りにしてどこかに歩いていった。

 北上は弁当箱をかかえ、大井を追いかける。

 

「大井っち落ち着いてよ、一体どうしちゃったのさ?」

 

 北上は精一杯、なだめるような言葉を大井にかける。しかし、こうなってしまった大井はもう止まらない。大井はひたすら、宿舎の方向にむかって突き進んでいった。

 

 

 

 

 その頃。

 摩耶は通信室で眼鏡をかけた細身の軽巡、大淀にこれまでのいきさつを話し、軽巡と雷巡の階級について尋ねていた。別件の仕事をしていたにも関わらず大淀は快く答えてくれたが、返ってきた答えは、

 

「確か、雷巡の階級は軽巡と同じ扱いだったと記憶しているんですが、場合によっては優先して扱うこともありますし、私も確証を持ってそうだとは……」

 

 という、なんとも釈然としないものだった。それでも大淀は確認のために、私用の無線通信で横須賀に連絡を入れてくれた。摩耶は大淀の生真面目さに感心しながら、その優しさに感謝していた。

 

「ありがとな」

「いえいえ。返信は数分くらいで来ると思います」

 

 そう言ううちに、大淀は慣れた手つきで打電を終えた。

 

「ところで、摩耶さんと天龍さんの二人が艦隊を組むことになった時、なんだか仲が悪そうな気がしましたが……」

「まあ、少し前にいろいろあったからな」

「それでもどうしてこの度、天龍さんを助けようと?」

 

 摩耶は大淀の後ろの椅子に腰かける。

 

「……なんていうか、随伴艦に何か問題が起きたら、守ってやるのも艦隊旗艦のつとめだろ?」

 

 かと思うとまた立ち上がって、部屋の中をうろうろと歩き始めた。

 

「あいつだって一応、あたしの初めての随伴艦なんだからな」

 

 返信が来るまで動けないのは分かっているが、どうも落ち着かない。その時ふと頭に浮かんだのは、自身の姉妹艦、高雄のことだった。

 もしかしたら姉貴も、あのときこんな気持ちだったのかな。

 そう考えると、摩耶は少しだけ気持ちが落ち着くと同時に、なんだか申し訳ないような気がした。

 

 

 

 

 

 大井の虎のような眼が、昼下がりの倉庫街にギラリと光る。

 これまでずっと説得を続け、それが駄目と見るや散歩や映画に誘うなど、様々な方法を試してみた北上だったが、変わることのない大井の信念に黙って後に続くことしかできなくなっていた。

 これまでふたりが歩いてきた間は、運のいいことに誰ともすれ違うことはなかった。

 

 大井っちが落ち着くまで何も起きませんように……

 北上は歩き続ける大井の後姿を見ながら祈り続けた。祈り願うしか、道はなかった。

 

 しかしその願いは、聞き届けられなかった。

 

「待ちなさい!あなたたち!」

 

 北上は大井の叫びに、心臓が跳ね上がる思いがした。

 ふたりの目線の先には、例の天龍が指揮していた駆逐艦たちがいた。皆大井の呼びかけに反射的に敬礼をし、蛇ににらまれた蛙のごとく微動だにしない。

 

「あなたたちが……北上さんから元気を奪ったのよ!あなたたちのせいよ!全部!」

 

 そう叫びながら、駆逐艦たちに詰め寄っていく大井。駆逐艦たちの表情が、困惑したようになったその時、北上は大井の手首を掴んで引いた。

 

「大井っち、待ってよ!落ち着いてよぉ!」

 

 大井は北上に手を掴まれたまま、北上に振り向く。北上は、その時の大井の表情に驚きを隠せなかった。

 

 大井の顔には、まったく怒りの色が無かったのである。それどころか、大井の瞳は澄み切って輝いていた。どうして、そんなまっすぐな瞳で駆逐艦を殴ろうとするのか、北上には分からなかった。

 

 大井は困惑する北上の目を見つめ返し、どこか悲しげな笑みを浮かべる。そうして手首を握る北上の手をゆっくり外しながら、

 

「北上さん、あなたが手を汚すことはありません……。私がこの子たちを制裁すれば、きっと元気になるから……ネ?」

 

 と、諭すようなような口ぶりで話しかけた。

 この時北上は、すべてを諦めた。放心した北上の前で、再び大井は駆逐艦たちに歩み寄る。

 

「ほら!奥歯を食いしばりなさい!ほら!」

 

 そう言って大井がひとりの駆逐艦の襟元を掴みにかかった、その時。

 

「その制裁、ちょっと待ってもらおうじゃねえか?」

 

 その場にいた誰もが、声のする方に目を向けた。

 視線の集まる先、倉庫の扉のそばに、不敵な笑みを浮かべた天龍が佇んでいる。

 

「お前らみんな下がれ!あとは俺にまかせろ!」

 

 天龍は言いながら、ゆっくりと一同のもとに歩み寄る。

 大井はじっと天龍をにらみながら、掴んでいた手を放す。その目はすでに、先ほど北上に向けていたものとはあきらかに変わっていた。自分の正義を侵害する者への、怒りの眼差しである。

 解放された駆逐艦たちは天龍の後ろへと隠れるように逃げていった。天龍は、駆逐艦たちの足音が聞こえなくなった頃、静かに大井に言い放つ。

 

「なあ、教えてくれよ。一体あいつらが何したってんだ?」  

「いえ?あの出来損ないどもを誰かさんの代わりにしっかり教育していただけよ。あなたもたっぷり教育してあげましょうか?」

「ほう、そいつはありがてえこったな……今の俺に喧嘩売ったこと、後悔させてやるぜ」

 

 天龍は挑発上等と言わんばかりに指を鳴らす。

 しかしそんな天龍を見ても、大井はいささかも動じることなく、

 

「あら、私に手を出しても構わないけど、結果どうなっても知らないわよ?」

 

 と言い放った。その脅し文句に天龍は歩みを止める。

 摩耶に言われたことが、今になって引っかかったようだ。これから大井をしばき倒してやろうかと考えていた、その矢先だった。

 天龍は大きく一息ついた。沸騰するかのようだった怒りがおさまると同時に、下っ腹に力がこもる。

 

 今、やり返しに出るのは悪手だ。

 しかしここまできて、後に引けるはずもない。

 余裕そうな表情をした大井を、天龍は片目でじっと見つめていたが、やがて意を決したように大井に向かって歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 一方、摩耶はまだ通信室にいた。

 大淀が横須賀に連絡を送ってから十数分、首を長くして返信を待ち続けているものの、未だに来る気配はない。

 摩耶はその間もどかしさをまぎらわすように、大井の暴走についてずっと大淀と話をしていた。

 

「摩耶さん、そういうことがあるのなら足柄さんに相談したらどうですか?」

「ああ、そういやあいつら動かねえなぁ。阿武隈とかもやられてるってのに。ったく、足柄も那智もあたしが誰かぶん殴るとすぐ飛んでくるくせによぉ……」

「それは……なんででしょうね」

 

 大淀は摩耶から一瞬目をそらし、苦笑した。

 その時、部屋全体に断続的な、甲高い信号音が響く。

 

「司令部からの返事がきました!少し待ってください」

 

 大淀は聴音器をつけ無線機の電鍵を叩いて返事をすると、リズミカルに鳴る信号通信の内容をメモ用紙に書き始めた。信号に耳を傾けた大淀にはあまり話しかけない方がよさそうだ。

 摩耶がそんなことを考えた、その時である。

 

「摩耶さん!」

 

 摩耶の耳に飛びこんだのは、息を切らせて部屋に飛びこんできた阿武隈の甲高い声だった。ただならぬ予感を察した摩耶が尋ねるよりも先に、阿武隈は話を切り出す。

 

「天龍さんが大井さんに喧嘩を売ったって、この子が……」

 

 阿武隈の陰には、脱衣場で天龍と一緒にいた駆逐艦の一人がいた。

 その駆逐艦によれば、天龍が大井のそばまで寄り、二言三言小声で会話した後、二人して倉庫の裏に消えていったという。

 摩耶の心配していた最悪の事態に、一歩ずつ近づいていた。摩耶は焦ったように大淀に声をかける。

 

「なあ大淀!まだなのか?このままじゃ天龍が!」

「あともう少しです!」

 

 大淀も額に汗をにじませながら鉛筆を走らせる。

 せめて軽巡と雷巡の階級に違いはないという確証がとれれば、摩耶も安心して天龍を救うことができる。

 しかし今こうしているうちにも、天龍が上官反逆扱いで捕えられるかもしれないのだ。

 いてもたってもいられず、摩耶は大淀のメモする内容を覗きこんだ。しかし癖なのかわざとなのか、文字がまるで速記のような非常に読みづらい走り書きのため、摩耶には読めなかった。

 摩耶はもどかしそうに口元を押さえ、部屋の一点を見つめて鉛筆の音を聞くことしかできなかった。ここまで心配そうしている摩耶は、この東沖島の地では鳳翔でさえも見たことがなかっただろう。

 

 しばらくすると大淀は、ピシャリと鋭い音を立てながら鉛筆を叩きつけるように机の上に置いた。

  

「読み上げます!」

 

 大淀はメモを破ると摩耶に声をかけた。その様はまるで大規模な作戦時を思わせるような口調であった。

 

「『雷巡は雷装の強化を施した軽巡にすぎない。ゆえに雷巡は軽巡と同じ階級として扱え』以上です!」

「つまり大井は天龍の上官だって考えなくていいってことだな?」

「はい!」

「よっしゃ、これでいける!大淀、もし足柄とかがなにか言ってきたら証言頼むぜ!サンキューな!」

 

 摩耶はそれだけ言い残すと大淀の返事も聞かず部屋を飛び出し、全力で廊下の先へと消えていった。

 

 

 

 司令部を出た摩耶は脇目も振らずに倉庫街へと走った。

 こうしているうちにも、天龍が大井といざこざを起こしている。戦うのはあいつ自身の勝手だ。だけど今、あいつを守ってやれるのはあたしだけしかいないんだ。別に龍田の言葉を義理堅く守る訳じゃない。

 ただ、あいつは……放っておけないんだ。

 

 思いをめぐらせながら倉庫街にたどり着いた摩耶は、あたりを見回して天龍たちの居所を探した。

 そのうちに、ふと摩耶の瞳が、倉庫の壁にもたれかかり俯く少女をとらえた。すると少女は摩耶と一瞬目を合わせ、すぐに目をそらした。摩耶はその少女のもとに近寄った。

 

「お前、北上か?」

「はい」

 

 それだけ聞くと、摩耶は倉庫の裏に足を踏み入れた。暗がりの中に、ふたつの黒い姿が見える。

 

「待ちなっ!」

 

 摩耶の声の響いた倉庫裏の暗がりの中で、天龍は大の字になって転がっていた。ブレザーのボタンは外れ、顔は腫れ上がりところどころ傷ができている。脱衣場の時より相当ひどくやられているようだ。

 そして一方の大井はというと……

 その顔に、傷の一つもなかったのである。

 どういうことだ……と思った摩耶の耳に、天龍の舌打ちが聞こえた。見てみれば、天龍は来やがったなと言わんばかりに摩耶を睨んでいる。

 その反抗的な目を摩耶は睨み返すと、落ち着いた口調で大井に向けて話しはじめた。

 

「大井だな。あたしは天龍の艦隊の旗艦、摩耶ってんだ。お前、天龍を制裁しているみてえだけど……誰の権限だ?」

「はい、私に反抗的な態度をとったので、私の権限で」

「それはつまり、上官の権限で、ってやつか?」

「はい、雷巡は軽巡よりも上の階級ですから……」

「違うな!」

 

 淡々とした口調で話しつつ倒れた天龍をまたいで近づこうとした大井に、摩耶は突っぱねるように言い放った。大井はその一言で歩みを止めると、驚いたような顔をした。そんな大井に摩耶は続ける。

 

「いま司令部で確認したが、雷巡は階級では軽巡と同じ扱いだ!お前がしていたことは上官がする制裁なんかじゃねえ!同じ階級同士での一対一の喧嘩だ!」

「何を言っているの……」

 

 瞳孔の開ききった大井の虚ろな目が、摩耶を睨みつけた。だが摩耶はひるまない。

 

「つまりお前は天龍に殴られたとしても、何も文句は言えねえんだぜ!お前と天龍の二人だけで、好きなだけやり合ってろ!」

「そんな、上官とはいえ……あんまりよ!」

 

 大井が飛びかかるようなそぶりを見せた時には、摩耶は反撃を食らわせる準備ができていた。

 しかしその必要はなかった。後ろからゾンビのように立ち上がった天龍に大井は組み付かれ、背中からどっと倒れたのだ。そしてそのまま天龍は大井の襟をつかむと、怒りに任せて今まで自分がされてきたことをやり返し始めた。

 だが大井も艦娘だ。ただ一方的にやられているばかりが能でない。なんとか襟をつかみ返そうとするのは兵学校でそれなりに武道の心得があってのことだった。

 

 その様子を摩耶はじっとにらむように見つめながら、小さくため息をついた。

 あとは天龍に気のすむまでやらせてやればいい。理不尽な目に遭い傷つけられる、その痛みの分からねえ奴には、その痛みを思い知らせてやらなきゃいけねえんだ。

 そんなことを考えていた、その時。

 

「摩耶さん、お願いします!喧嘩を止めてください!」

 

 今までだんまりを続けていた北上が、摩耶にすがるように頼みこんだ。そして北上は大井のこれまでの顛末を話しはじめた。ふたり常にいたことであらぬ噂を立てられたこと、姉妹艦が負傷したことにショックを受けたこと、そしてそれ以来、すべてが変わってしまったこと。

 摩耶は黙ってひととおり聞いていたが、その表情はいささかも変わることはなかった。  

 

「つまりそれが『指導』の理由ってわけか」

「大井っちだって本当はあんな性格じゃないんです、だから、喧嘩を止めてくれませんか」

 

 北上は頭を下げる。しかし摩耶は、

 

「お前の言いたいことは分かる。でも、階級を盾に一方的に天龍たちを殴ったツケだけは、きっちり払ってもらわねえとな」

 

 そう静かに言うと、何度も頭を下げる北上から目をそらすように、摩耶は天龍と大井に目を向けた。

 

 はじめはそれなりに技の掛け合いをしていた天龍と大井も、互いにあざと傷と砂ぼこりにまみれ、髪をつかみ合ったり平手ではたきあったり、まるで子供のような喧嘩をしている。

 

 そのような中、大井は天龍の髪をつかもうと天龍の左目のあたりに手を伸ばした。

 しかし指の間から髪はするりと抜け、かろうじてその手に、天龍の左目についている眼帯の紐が引っかかった。紐が引かれ、眼帯が天龍の左目から剥がれたその瞬間、大井の動きは止まった。口は驚きを隠せぬようにぽかんと開けられ、目は見開かれたままじっと天龍の左目に向けられていた。

 その動揺の一瞬に、天龍の鉄拳が大井の右頬を打った。隙をついたというよりも、まるで突然逆上したかのような一撃だった。

 大井はそのまま腰からがっくりと倒れ、天龍はすかさずその上に馬乗りになった。

 そして大井の襟をつかむと拳を見せつけながら、天龍は怒号を浴びせた。

 

「いいかてめぇ、今までのはなぁ、お前が殴った俺の駆逐艦の分だ!」

 

 だが大井は、完全に戦意を失いぐったりしていた。

 

「今からは俺の分だぜ……」

「天龍!」

 

 拳を振り上げた天龍に、摩耶は叫んだ。

 

「もういい!やめろ!残りは次の機会にとっとけ!」

 

 天龍の右目の端が摩耶の力強い視線をとらえると、襟をつかむ手が離れ、空中で止まった拳はゆっくりと下りる。天龍はそのまま大井の右手指に引っかかった眼帯をむしり取り、倉庫の壁際に寄ると、左目を摩耶や北上に見せないように眼帯で再び覆った。

 その間に摩耶は、

 

「北上、終わったぜ。お前とあたしの出番はここからだ。行きな」

  

 と促した。北上は頷くと、天龍の冷ややかな視線を気にも留めず大井のもとにかけより、その肩を担いだ。そして摩耶にすれ違いざまに軽く頭を下げると、大井に励ますような言葉をかけながらドックの方角へと歩いていった。

 摩耶はそんな二人を見送ると、二人とは逆の方向に歩いていこうとする天龍を呼び止めた。

 

「天龍」

「なんだ」

 

 砂ぼこりで白くなった上着を肩にかけ、天龍はうんざりしたように答えた。そんな天龍に、摩耶はかけよる。

 立ちどまった天龍の鋭い目線と、それを受け入れるような、優しげな摩耶の目線が合う。

 

「あたしが来るまで、大井に手を出さなかったのか」

「お前が手を出すな、って言ったからな」

 

 天龍はまた、「あたしが助けてやったんだ、ちょっとは感謝しろよ」みたいなことを言われるものだと思い、内心うんざりしているようだ。

 しかし……。

 

「天龍、お前……強いじゃんか」

 

 優しげな声で思ってもみないことを言われた、その照れ隠しか、

 

「あっ、ああ、先にやられてなきゃ、完璧にぶちのめしてやってたぜ」

 

 天龍が傷だらけの顔で言うと、摩耶はクスクス笑い出した。

 

「なんだ!」

「だってこんなボロボロの顔して言ってんのが、なんか面白くてさぁ」

「痛って!」

 

 摩耶が天龍の頬をつつくと、天龍は緊張が解けてしまっていたのか、あれだけ猛攻を耐え抜いていたのが嘘のように露骨に痛がった。

 

「ほら、鳳翔さんとこに手当てしに行くぞっ。あっ、そういえば昼飯まだだったなぁ」

 

 

 そう言った摩耶の顔を見つめて、思わず天龍は心乱れた。

 にっこりと笑った摩耶の顔が、天龍にはほんの一瞬だけ、鳥海に見えた。

 

 天龍はなんだかおかしな気がした。さっきまで大井に啖呵を切っていた摩耶。いま目の前にいる、無邪気な摩耶。そして優しく声をかけてくれた、どこか鳥海を思い出させる摩耶。みんな同じ摩耶なのだ。

 なんだかその変わりようが面白くて、まあ、つきあってやるか、と思わない気もしないでもない天龍なのであった。

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