摩耶さまの名のもとに   作:ゆずた裕里

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五 佐世保の屈辱

 報告書を書く手を止めて、高雄は頬杖をついた。

 暮れ行く夕陽に照らされる宿舎街を窓からのぞき見て、ゆっくりため息する。

 

 戦況の変化にともない、高雄のもとには日々様々な艦娘の転属や出世の噂話が舞いこんでくる。

 しかし、摩耶にその知らせが来ることはなかった。

 高雄の脳裏に、摩耶のそばに立ち、ともに歩んできた記憶が思い出される。姉の贔屓目に見てもこの一年半、摩耶は人一倍の努力を続けてきたはず、高雄はそう思っていた。

 それでも認められずにただ耐え忍び、なんでもないように振る舞う摩耶の気持ちを、高雄は知らないわけではなかった。

 

 その時。

 

「第四戦隊の高雄さんってこちらですか?」

 

 窓の向こうから声がする。司令部の郵便担当の艦娘だった。

 

「連絡があります」

 

 高雄はその艦娘から封筒を受け取った。一瞬、摩耶のことかと思ったが、すぐそうじゃないと思い直した。もしそうならば最初に「高雄さんですか」などとは聞かないし、そもそも摩耶に直接司令部への呼び出しがかかるはずだからだ。

 

 高雄は封筒を開け、中身に目を通した。佐世保の秋祭りで開催される、観艦式への招待状だった。

 艦娘たちにとって、観艦式は戦場以外での晴れ舞台である。

 これまで活躍した、そしてこれから活躍を期待される艦娘たちが一堂に会し、パレードのように近海を進んだり、模擬戦を繰り広げたりするのである。日本中の艦娘たちにその名を覚えられる、まさに絶好の機会だった。

 この招待状には、観艦式の先導艦として鳥海が参加することになったため、姉妹艦の高雄たちにも参加をお願いする意味もあった。

 

 その時、午後の演習から摩耶と愛宕が帰ってきた。

  

「ただいまー、あっ高雄、それなあに?」

「観艦式の招待状。今度佐世保であって、鳥海が出るから一緒に出ないかって、司令部から連絡が」

「おっ、やったな!姉貴、ちょっと見せてくれよ」

 

 招待状を高雄から受け取った摩耶は、屈託のない笑顔で招待状を開く。

 その笑顔に高雄はホッとした。ここまでまぶしい摩耶の笑顔を見たのも久しぶりだった。

 

「せっかくの観艦式なんだから、可愛いドレス着ていこうかしら!」

「ダメよ愛宕、公の場なんだからいつもの制服じゃなきゃ……」

 

 久々の朗報にはしゃぐ愛宕をたしなめる。

 しかしその横で、招待状を読み進める摩耶の表情が急に曇った。

 

「ほら摩耶……摩耶?」

 

 愛宕が再び摩耶に話しかけた時には、摩耶は戸惑っているようだった。

 摩耶はふたりを迷子の子どものような目で見つめると、押しつけるように招待状を差し出した。

 

「なあ姉貴……あたしの名前がないんだよ」

  

 高雄は招待状を受け取ると、再び目を通した。

 確かに宛名に高雄と愛宕の名前はあったが、摩耶の名前は宛名どころか、招待状のどこにも書かれていなかった。

 さらにダメ押しのように、高雄と愛宕の名前の隣には『以上』と書かれている。

 これに気付いてからは、高雄も愛宕も先ほどはしゃいでいたのが嘘のように静かになってしまった。

 

「……もしかしたら、摩耶の名前を書き忘れていただけかもしれないわね」

「気を落とさないで摩耶、秋祭りなら招待されなくても行けるでしょ」

 

 愛宕と高雄はできるかぎり摩耶を励まそうとした。

 摩耶は震える声でつぶやきはじめた。

 

「なんで……なんであたしだけ出られないんだよ……!なにが悲しくてあたしだけ外野にいなきゃいけないんだよ!」

 

 突然声を張り上げた摩耶に、高雄と愛宕はうろたえた。摩耶がこれまでこらえてきたものが一気にあふれたようだった。

  

「おちついて」高雄はたしなめるように言った。「なにも観艦式に出られないからって摩耶に問題があるわけじゃないと思うわ」

「問題ないんならあたしも招待されておかしくないだろ!あたしだって……あたしだって鳥海の姉貴だってのによ!」

 

 そう言うと摩耶は寝台に寝転がってぐったりしてしまった。極度の興奮が、連日の演習で疲れた摩耶の身体にこたえたのだろう。

 高雄は寝そべる摩耶の横に腰かけて、その肩を撫でた。

 

「摩耶、確かに今は、何もかもがうまくいっていないって思うかもしれないわ。それに鳥海に先を越されて、いろいろと焦る気持ちもあるかもしれない。でも、摩耶のがんばりは、きっといつか花開くときが来るわ。その時まで、一緒にがんばっていきましょ」

 

 摩耶は肩をすくめて答えるだけだった。

 

  

 

 そして、佐世保の秋祭りの数日前。

 埠頭には佐世保に向かう艦娘たちが集まり、出発を待っていた。

 

 その中で、高雄は腕時計に目をやりながら、あたりを見回していた。

 すると隣の愛宕が、突然大きく手を振った。

 

「ちょーかーい!」

「あっ、愛宕姉さん!」

 

 愛宕の呼ぶ声につられるように、鳥海は人ごみを全力でかき分けながらふたりのもとにたどりついた。

 高雄と愛宕は、ひとまわりもふたまわりも成長したような鳥海の姿を、ニコニコ笑顔で出迎える。

 

「久しぶり!さすがね、観艦式の先導艦に選ばれるなんて!」

「ありがとう、これも姉さんたちのおかげ……あっ、摩耶?」

 

 摩耶は高雄と愛宕の後ろに隠れるように立っていた。鳥海はそれを不思議に思ったが、この時は何かの冗談かと考えていた。

 

「どうしたの摩耶!そんな後ろにいて……」  

 

 何も知らずに楽しげに呼びかける鳥海に、高雄がたしなめるように言う。

 

「鳥海、摩耶は今回の観艦式に出られないの」  

「ああ、だから出発も祭の前日なんだ」

「そうなの……」

 

 はにかみながら言った摩耶に、鳥海は少し残念そうに答える。

 

「……でも、佐世保では一緒よね?そうよね!」

「ったりめーだろ!じゃあ、佐世保で会おうぜ」

 

 そう言って摩耶は人ごみの中に消えていった。

 高雄はその姿に、摩耶の隠された思いを見た。鳥海に弱さを見せたくないという思いが手にとるようにわかった。

 鳥海は久しぶりに摩耶と遊びに行けることを楽しみにしているようで、幸か不幸かその思いには気づいていない。

 

 

 

 

 そしていよいよ、佐世保の秋祭りの日がやってきた。

 

 陽がのぼってようやく暖かくなってきたころ、摩耶たち一般艦娘の艦隊は佐世保の港に着いた。

 祭はすでに始まっていることもあり、佐世保の埠頭は到着した艦娘たちでごった返している。その中を摩耶はかきわけながら、鎮守府近くの公園を目指した。

 鳥海たちはもうすでに到着して、公園の野球場付近で待ち合わせと約束してある。

 

 しかし摩耶には、ひとつ気にかけていることがあった。鳥海との距離感である。

 摩耶は出発前に鳥海と会ったとき、自分の反応にぎこちなさを感じていた。

 もちろん、摩耶に観艦式の旗艦に選ばれた鳥海をうらやむ気持ちがまったくなかったわけではない。それでも摩耶はそんな感情を置いておいて、この祭りを鳥海と楽しみたいと考えていた。

 しかしその反面、どこか今までと違うような感覚も覚えていたのである。

 

 鳥海と会った日の晩、摩耶は日向と杯を交わしながら、そのことについて話していた。

 

「……そうやって話したんだけどさ、前とは何か違うような気がするんだよなぁ。なんか変な気分だぜ」

 

 摩耶の口ぶりは一見、そこまで気にしていないようだった。摩耶はいつのまにか、悩んでいるところを隠すのが得意になっていた。

 そんな摩耶の言葉に、日向はゆったりとした口調で返す。

 

「まあ、人は誰でも時間が経てば、考え方も思いも変わっていくものだからな。でも、変わっていくものもあれば、変わらないものだってあるんじゃないか?瑞雲だって改装や改修を重ねても、根本的な性能は変わらない。それと一緒だ。そして、そういう変わらないものが、結局は一番大切なものなんだと、私は思うぞ」

 

 摩耶はその変わらないものが、自分の考える鳥海の姿だと思いたかった。

 

「つまり、瑞雲が瑞雲たるためには……」

 

 から始まった、その後の日向の話は耳に入らなかった。摩耶はせっかくの祭なのだから、鳥海と以前のように遊びたいと考えていた。でもこのままではそうもいかない、そんな気がしていたのである。

 

 なんかねえかなぁ……佐世保の地に降り立った今、ふたたびそんな事を考えてはじめていた、その時だった。

 

「珍しい大陸産のビールはいかかですかー!」

 

 摩耶の耳に、威勢のいい売り子の声が飛びこんできた。摩耶の向いた先には『青島ビール』の幟を背に、氷水と緑色に輝く瓶の入った桶が並んでいる。摩耶はその物珍しさに、桶の中をのぞきこんだ。

 

「大陸のビール?」

「はい、ドイツから中国の青島に技術が伝わって生まれた、名物のビールなんですよ!」

 

 摩耶は少し考えてから、

 

「じゃあ、もらおっかな。四本!」

「まいど!」

 

 これが切り札になると信じて、瓶を四本受け取った。

 

 

 

 日米の艦娘がキャッチボールをしている野球場の、一塁側ネットの外。

 どうにも浮かないような顔をしてため息を吐く鳥海がそこにいた。

 

「大丈夫、摩耶はじきに来るわよ」

「いや、そうじゃなくて」

「出発が目の前になって、不安になったのね?」

 

 高雄の声掛けに鳥海は小さく頷いた。

 鳥海たちは今しがた、佐世保から西海市を回り、長崎へと向かう観艦式の説明を聞いた。当初聞いていた、大村湾をぐるりと回るだけの行程から、長崎で一泊する旅になったのだ。その先導艦である鳥海が不安になるのも仕方はない。彼女もこれまで旗艦としては、瀬戸内海から出たことすらなかったのだ。

 

「大丈夫、鳥海ならできるわよ」

「それに私たちだって一緒に行くんだし、ね!」

「ありがとう、でも……」

 

 姉たちの励ましに鳥海はほんの少しだけ笑顔をとりもどした。

 

「この航海は私の力でなしとげないと。だってこれから先いつかやらなきゃいけないことだし、それに長崎は私の生まれたところだもの」

  

 そう言いきった末妹の姿は、高雄と愛宕にはとても頼もしく見えた。

 

「……だけどもしひどい間違いをしそうになったら、そのときは教えてね」

  

 そう鳥海が続けたその時。

 

「おーい、みんなぁ!」

「摩耶!」

 

 片手に緑色の瓶と紙袋をかかえた摩耶が、満面の笑みで手を振りながら近寄る。その顔はほのかに赤い。

 瓶に気付いた高雄はまっさきに声をかけた。

 

「どうしたのそれ?」

「あんまし見かけないもんだったからさ、買ってみたんだよ。中国のドイツビールだってさ!」

「なにそれ~中国なの?ドイツなの?」

「もう、細かいことはいいんだよっ!ほらっ飲んで見ろって!案外すっきりして美味しいんだ」

 

 相変わらず無邪気な反応の愛宕に瓶を渡す摩耶。

 

「あと、紙袋のこれ、佐世保バーガー買ってきたんだ」

「そうなの?私たち昨日食べちゃったのに……」

「でも今日は食べてないだろ?」

「う~ん、まぁ、確かにね~」

 

 押しつけるように袋を愛宕に渡し、摩耶は瓶をもって鳥海に声をかけた。

 

「ほら鳥海もさ、祭なんだからな」

「私はいいわ、ありがとう」

 

 鳥海は手のひらを摩耶に向けた。こんな時に悠長に酒など飲む気分じゃなかった。それでも摩耶は酒が入っているせいか、それとも祭の気分のせいか、どうにも下がらない。

 

「まだ出発まで時間あるだろ、いいじゃねえか」

「いらないってば……」

「摩耶、そこまで言うなら私が貰うわ」

 

 ふたりの押し問答を見ていた高雄がそこに口を挟んだが、 

 

「そんなこと言うなって鳥海、ほら……」

「いらないって言ってるでしょ!」

 

 きっと摩耶の目を睨みつけ、鳥海は言い放った。代わりに瓶を受け取ったのは高雄だった。

 

「ありがとう、摩耶。摩耶だってみんなのために買ってきてくれたんだもんね」

「ま、そうだな。ありがとな姉貴」

 

 そうは言ったものの、摩耶は明らかにがっくりと肩を落としていた。摩耶はじっとビールの瓶を睨みつけた。

 気づいた時には、高雄と愛宕は鳥海の後を追って鎮守府近くの商店街へと向かっていた。摩耶は、口をつけていないビールの瓶をその辺のアメリカ艦に適当な英語をしゃべって押しつけると、ゆっくりと鳥海たちの後を追いかけていった。

 

 

 

 

 出鼻をくじかれた形になった摩耶は、口数も少なかった。商店街を歩いている間も、鳥海たちの一歩後ろで、摩耶はどこか冷めたような目で立ち並ぶ店や露店を眺めていた。そんな中、愛宕たちの会話が聞こえてくる。

 

「ねえ鳥海?長崎にはどんな美味しいものがあるの?」

「えーと、チャンポンとかの中華とか……あとは、鯛?」

「鯛!?いいじゃない!楽しみ~」

 

 そうだ、こいつらはあたしを置いて長崎まで行くんだっけ。せめて佐世保にいる間くらいは楽しくやれるかと思っていたのに……。

 そう思った摩耶は、何もかもが馬鹿らしいものに思えてきた。ただ時間だけが、むなしく過ぎていった。

 

「……それじゃ摩耶、また明日の夕方ね」

「おう」

 

 高雄たちが観艦式のために去っていってようやく、摩耶は解放されたようなそうでないような、複雑な気持ちに襲われた。

 公園の芝生の上でひとり、摩耶は寝転がる。正面の野球場から気持ちのいい音とともに、大空をホームラン球が横切っていく。摩耶は指を銃の形にすると、指先で白球を追った。もう一発くらい景気よく飛ばねえかな、と思っていると……

 

「あら、摩耶じゃない!」

 

 摩耶が隣を見ると、ライトブラウンの髪をポニーテールに縛った、ブレザー姿の艦娘が、摩耶を見下ろすように立っていた。

 

「ご機嫌よろし……い訳でもなさそうね」

「誰かと思えば、熊野じゃんか!」  

「見たところ、思いっきり暇人って感じね」

「じゃあこんなところで、独りでぶらぶらしてるお前はどうなんだ」

「もう、久しぶりに会ったのに、その言いぐさはひどくなくて?」

「ったく、変わってねえなぁお前は」

「こんなところで立ち話もなんだし……どこかゆっくりできるところに行きません?」

「よっしゃ、じゃあ佐世保バーガーの店はどうだ?」

「いえ、そんなのよりもっといい所を知ってますのよ」

 

 摩耶と熊野は公園を出て、佐世保川にかかる橋を渡る。その向こうが、鎮守府にほど近い商店街だ。

 先ほど姉たちと歩いた商店街だが、また熊野と歩くのでは印象が違う。

 

「こうして一緒に歩くのは神戸以来ですわね」

「そうだっけ?あたし、お前と遊びに行った覚えないけどなぁ」

「遊びに行ったのも片手で数えられるくらいね。あなたいつも別の子と遊んでましたもの。なんていったかしら、あのぐうたらの……」

「加古か?」

「そうそう!」

 

 思い出話の続くうちに、摩耶と熊野は一件の店の前にたどりついた。

 建物はレトロなレンガ造りで、窓はすりガラス。店内の様子は外からでは分からない。木製のドアの隣のガラス棚には料理のサンプルがあり、その前に黒板のスタンドプレートが立っている。今日のお勧めは特製のサンドイッチと書いてあった。

  

「ここか」

「ええ。お姉さまに教えてもらいましたの」

「なんか古臭そうな店だなぁ」

「野暮なこと言わないの。入ってみたらきっと驚きますわよ」

 

 熊野の開けたドアの向こうは、摩耶の思ってもいない空間が広がっていた。

 店内はそこまで広くないものの、壁は鏡張りのため一見どこまでも広がっているように見える。そんな壁にはかつて軍艦や軍属の船で使われていたと思しき操舵輪や救命胴衣、時計などがかけられ、一見すると美術館や博物館のようであった。店の明かりが少々薄暗く、床に赤いカーペットが敷かれているのも、より一層そう感じさせた。

 さらに奥に入ると、天井から石油ランプがぶら下がっている。そしてテーブルの隣のガラス棚にも、懐中時計や羅針盤などの海軍に関わる小物からアンティークの卓上ランプまで、様々なものが飾られていた。

  

 摩耶はそんな店内の神々しい雰囲気にまるで幻でも見ているかのようにぼうっとしながら、少し奥まったテーブル席に座った。熊野も続いて、摩耶の向かいの席に座る。

 

「どうかしら。私たち艦娘にはピッタリの喫茶店でしょ?」

「うん……」

 

 とりとめのない返しをして、摩耶はほっと溜息をつく。  

 店内の有線放送は『威風堂々』を流し終えると、続いて『カノン』を流し始めた。同時に若い女性のウェイターが注文をたずねる。

  

「私は特製コーヒーとチーズケーキのセットを。摩耶も同じでいいかしら?」

「いや、あたしはケーキじゃなくて……たまごサンドを頼むよ。コーヒーはブラックで」

 

 注文を聞くと、ウェイターはすぐに店の奥に引っこんでしまった。店内には摩耶と熊野の二人だけ。外の賑わいとは対照的に、ゆったりとした、落ち着きのある空気が流れていた。

 

「今のウェイターはちょっと予想外ね。私、てっきり執事みたいなおじさまが来るかと思ってた」

「お前、ここ来たことあるんじゃなかったのか?」

「昔お姉さまと来た時は、おじさまが来てくれてたような……」

「……まあ、確かにこんな雰囲気だったら、白いひげのおっさんの方があってたかもな」

「そうそう、白いシャツに黒いベスト着て、『お待たせしました、ご注文はいかがなさいますか?』なんて言ったりして!」

 

 熊野は低い声でよくある執事の声マネをする。思わず摩耶の顔からも笑みがこぼれる。

 

 そうして会話の弾むうちに、コーヒーが空のカップとともに、フラスコに入って運ばれてきた。

 摩耶は見慣れないフラスコ入りのコーヒーをしげしげと眺める。

 

「珍しいなぁ。こんな形でコーヒー持ってきたの初めて見たぞ」

「サイフォン式ね。フラスコの下から火を当ててコーヒーを淹れるんですのよ。せっかくだから淹れるところ、見てみたかったですわ」

 

 二人はカップにコーヒーを注ぐと、一口目を味わう。

 口当たりのよい味わいの後に、上品な苦みとほのかな酸味が、口の中にひろがる。

 

「うまいなぁこれ」

「香りもいいし、ブレンドにこだわりを感じますわね。摩耶はコーヒーには詳しくて?」

「いや、正直あんましよくわかんねぇんだよな」

 

 その時、ウェイターがふたりの間を遮るようにチーズケーキとたまごサンドをテーブルに置いた。黄色に輝くスクランブルエッグのような卵は、今にもパンからこぼれてしまいそうだった。絶妙な時間でゆでられた半熟卵を使っているのだろう。ほのかに漂う卵と胡椒の香りが摩耶の食欲をそそる。

 

「おおっ、すげぇトロトロ……」

 

 そう言って摩耶が、皿の一番手前のサンドイッチを取ると、絶妙なバランスで並んで重なっていたサンドイッチが倒れ、卵がこぼれてしまった。取ったサンドイッチをよく見ると、パンの端が折り曲げられており、皿の上でこぼれないようになっていたのだった。

 

「あら、不器用なのね」

  

 熊野は言いながらベイクドチーズケーキに舌鼓を打っていた。摩耶も慎重にたまごサンドを口に運ぶ。塩コショウの辛さと卵の甘さのバランスについ食べる手が進み、三つ目を手にしたその時。

 

「そういえば、摩耶のお姉さまたちは?」

 

 サンドイッチを取った摩耶の手が、思わず止まった。

 卵が食パンから皿の上にポトリと落ちる。

 

「ああ、姉貴たちは……わけがあって別行動をとってるんだ」

「観艦式の準備でしょ」

「!」

 

 熊野の言葉が、突然刃物で斬りこんできたように感じた。摩耶は先ほどまでの明るさが嘘のように、言葉をなくしてしまった。

 

「摩耶は行かないの?」

「……ああ、指令が来なかったからな」

「あら、そう」

 

 元気なさげに言った摩耶に、熊野の言葉はどこか冷たいものに映った。  

 

「私聞いたんですの。今回の観艦式が、遣欧艦隊の選抜も兼ねたものだって。当然、選ばれた全員が全員ヨーロッパに行くわけじゃないけれど……選ばれるっていうのは、つまり出世のチャンスですわよね」

 

 摩耶はテーブルの冷めたコーヒーを見つめ、何も言わない。

 

「噂によると足柄さんも今回選ばれたらしくてよ」

「足柄も!?」

 

 ほとんど反射的に摩耶は言った。

  

「もちろん。神戸の重巡では一番の期待の星ですもの。当然と言えば当然ですわよね」

「そういえばお前、あいつと仲がよかったよな」

「ええ、それにさっき話してた加古さんや衣笠さんも、来年の春にトラックに行くことが決まったとか……」

 

 摩耶は再びテーブルに視線を落とした。そんな摩耶に、熊野は明るく話しかける。

 

「で、摩耶はどう?出世、できそう?」

「ああ……まあな」

「なるほど……じゃあ自分の艦隊を持って、独立してるのかしら?」

「……いや」

「ふーん……そう。でも、あまり無理はしないことですわね」

 

 沈黙が続く。摩耶と熊野の間には、有線放送からの『ドナウ川のさざなみ』が流れるだけ。

 その中で摩耶は、絞り出すように熊野に尋ねる。

 

「なら、おまえはどうなんだ?」

「私は舞鶴で、秘書艦になるための勉強をしてますの。遣欧艦隊の噂も、そのつながりで聞きましたのよ」

「そっか……」

 

 摩耶がなんともいえない反応をした頃には、熊野はすでにケーキもコーヒーも完食していた。

 

「ごちそうさまでした。私はもう行こうと思うけど……」

「あたしはもう少しここにいるよ。ここ、なんか気に入ってさ」

「それはよかったですわ。お会計は私が済ませておきますから、お気遣いなく」

 

 伝票を取り、熊野が立ち上がろうとしたその時、摩耶は声をかけた。

 

「またな」

「それでは、ごきげんよう」

 

 熊野はドアについている鈴の音だけを残し、喫茶店を後にした。

 店内にひとり残された摩耶は、熊野のケーキ皿をじっと見つめた。そして机に右肘をつき、頭が痛むかのように側頭部に手をやった。

 有線の音楽がふと静かになると、店の奥からコーヒーサイフォンのコポコポと沸く音が聞こえてくる。

 その音の中で、摩耶は睨みつけるように店内を見回した。

 摩耶にはもう、つい先ほどまで思わず目を見張ったはずの周りのアンティークが、ただのガラクタにしか見えなくなっていた。

  

 

 

 

 一方、埠頭の一角には観艦式に臨む艦娘たちが集まり、各々が艤装を準備し、すぐにも出発できる準備が整っていた。

 そこはUボートのバンカーのように大きなコンクリートのひさしのようになっており、艦娘たちはそこで艤装の装着および待機をしている。艤装などもそこに隣接されている倉庫に保管されており、外からでは中の様子は分からない。

  

「簡単なことよ、私たちを見てくれているみんなに向かって、手を振っていればいいのよ」

「本当にそれでいいのかしら……」

 

 愛宕と鳥海が緊張をほぐすように、そんなことを話しながら、出番を待っていると……

 

「あなたが鳥海さんね?」

 

 紫色の制服を着た受付嬢を思わせる姿の二人が、鳥海たちに声をかけた。

 

「あっ、羽黒ちゃん!」

「鳥海さん、お久しぶりですね!」

 

 鳥海と羽黒は、長崎で生まれて以来の付き合いだった。ふたりとも落ち着いた性格のためか妙に気が合ったのだ。

 しかし、鳥海に声をかけたのは羽黒ではなく、その隣の長い髪の少女だった。鳥海は彼女のことを知らない。

 

「ところであなたは……」

「あ、こちらは姉の足柄です。あちらが鳥海さん」

 

 羽黒の紹介に、足柄は一歩前に出て握手のため手を差し出すと、明るい声で鳥海に話しかける。

 

「足柄よ。よろしくね」

「鳥海です。こちらこそよろしくです」

 

 鳥海は握手を受けた。だが握手、とはいっても多少手を触れ合わせるだけだった。

 

「姉さんは前の観艦式で先導艦だったんです」

 

 羽黒のその説明に、言われてみれば確かにどこかで見たような気がしたと、鳥海は感じた。

 

「まあ、今回も私が選ばれるかと思っていたんだけど……あなたに譲るような感じになっちゃったわね。ちょっと悔しいかも」

「それは……恐れ入ります」

「ううん大丈夫、別に気にしてないから。それにしても……」

「どうかしましたか?」

「最初見た時、一瞬摩耶かと思っちゃった」

「あっ、足柄さんも神戸の生まれでしたっけ」

「そうよ。昔はよく一緒に遊んでたんだけど……今日、佐世保には来てないの?」

「ええ、一応来てはくれたんですけど……」

 

 鳥海が言った時、火災報知機のようなベルの音が鳴り響く。同時に『まもなく出港です。艦娘は観艦式の陣形に並んでください』とアナウンスがかかる。

 

「まあ、帰ったら摩耶によろしくお願いね。じゃあまた、観艦式が終わったら!」

「鳥海さん、それではまた!」

 

 鳥海たちは足柄と羽黒に会釈すると、二人を見送った。

 

 鳥海は先ほどの自分を悔いはじめていた。

 足柄と羽黒、摩耶と鳥海。共に神戸生まれの三番艦と、長崎生まれの四番艦の姉妹だ。

 鳥海は足柄と羽黒の後姿を見て、切なさを抱いていた。本当ならあの二人のように、私も摩耶と……。

 そんなことを思ったのは鳥海の目の前の、大海原へのゲートが開こうとしている、まさにその時だった。

 

 

 ちょうどそのころ。

 

 摩耶はようやく、喫茶店を後にした。まわりを見てみると、商店街を歩く人は入店した時にくらべ少ない。

 とその時、軍艦行進曲の勇壮な響きとともに、鎮守府の方角からアナウンスが鳴り響いてきた。

 

『大変長らくお待たせしました。これより佐世保鎮守府秋季観艦式、オープニングセレモニーを開始します』

 

 しかし摩耶は埠頭に向かうどころか、急ぐそぶりさえも見せない。じっと埠頭の方角を遠い目で見つめ、動こうともしなかった。

 

 いま追いかけたところで、もう、間にあわねえ。

 

 耳をすませば、埠頭の方角から歓声が聞こえてくる。どうしても浴びたかった見送りの歓声に背を向け、摩耶は静かに歩き始めた。

 

 

 しばらくすると商店街にも人が戻り始めた。摩耶は何をするでもなく、ただ商店街やそのまわりをぶらついていた。

 どうしようもない喪失感の中、摩耶の周りを知らない顔が通り過ぎていく。戦友や姉妹艦と歩く者、道端で話している者……。

 摩耶は気晴らしのために、再び佐世保バーガーの店に足を踏み入れた。店内でハンバーガーとビールを注文すると、窓際の席に座った。

 と、その時……。

 

「あれが高雄型の三番艦。いつもバカみたいに張り切ってるのよ」

 

 ふと聞こえた言葉とせせら笑うような声で、摩耶の喪失感は苛立ちに変わった。声が聞こえたのは摩耶の後ろの、入り口近くの席からだった。おそらく呉での摩耶の様子を見たことのある連中だろう。演習や鍛練など、いろいろなところに顔を出しているとイヤでも目立ってしまう。出る杭は打たれるの言葉通り、そんな摩耶をよく思わない者も大勢いた。

 摩耶は不快感を飲みこむように、ハンバーガーをビールで流し込んだ。三人はそんな摩耶のことを気にも留めずに続ける。

 

「で、実際の能力はどうなの?」

「あそこで一人でいる時点で察してよ。でも今回の観艦式の旗艦、あれの姉妹艦だって」

「可哀想よね、あんな姉妹艦をもってさ。苦労してるでしょうに」

 

 瞬間、佐世保バーガーの包装紙を握りしめた拳が、震えた。

 摩耶にとって、高雄たち姉妹艦は心のよりどころであった。ただ自分をコケにされるならどうでもどうでもよかった。しかし全くの赤の他人が自分の姉妹艦をだしに役立たずと罵倒されることに、摩耶は耐えられなかった。

 よりにもよって、摩耶が心から信じている者の言葉として、摩耶を役立たずと貶したのだ。

 それを冒涜と呼ばずして何であろうか。

 怒りと悲しみと鬱屈した感情が一気に渦巻き、はらわたの煮えくり返るような思いとともに、不快と形容するにはあまりにもどす黒い激情がこみあげてきた。

  

 突然、ビールの入ったジョッキを手に摩耶は立ち上がると、一団へとかけよった。そしてあっけにとられたような顔の一団にビールをぶちまけ、その頭に容赦なく鉄拳を振り下ろした。

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