この日もその店の暖簾をくぐったのは、彼女だけだった。
東沖島泊地の宿舎街のはずれにある、小さな居酒屋。そこの正面の戸から割烹着を来た女が顔を出し、ため息をつきながら暖簾をおろした。
暖簾を竹竿からはずして大切に折りたたむと、カウンターの上に置く。そこで彼女はふと、物憂げなその瞳を、奥の座敷に壁にかかった長方形の額に向ける。
もう、このあたりで潮時、なのかしら。いや――。
彼女はそんな思いを振り払うように、座敷の上置いてある手拭い入りの木桶を取ると、湯浴みのために裏口から出ていった。
彼女の名は鳳翔。同じ名前が、暖簾にも書かれていた。泊地や鎮守府で居酒屋を営む艦娘は輸送艦や補給艦と相場が決まっていたが、彼女はいずれでもない、立派な軽空母であった。
鳳翔はかつて機動部隊の旗艦として、初期の深海棲艦掃討作戦に従事していた。後継の正規空母や新型軽空母が登場してからは一線を退き、予備役の扱いで航空戦や対空戦闘の演習を受け持ってきた。その際鳳翔は常々、教え子の艦娘たちにこう伝えてきた。
「私が教えるのは、敵機や魚雷から身を守るための方法よ。もし皆がこれから大海原で戦うことになっても、私が教えたことを役立てて、何としても生きて帰ってきなさい」
それでも鳳翔のもとには、時々教え子たちの轟沈報告が届いた。報告に来た者の大半は、沈んだ艦娘と同じ艦隊に配属された同輩たちである。見た目には何も変わらなくても、鳳翔の目には彼女たちの姿がどこか空ろに見えた。しかし戦う者にとって永遠の別れはありふれたものである。ゆえに鳳翔もそこまで深入りはせず、気持ちの処理は本人たちに任せていた。
ある時鳳翔は、教え子からの報告を聞くと、普段通り下がるように言った。しかしその教え子は、いつまで経っても下がろうとはしない。そんな教え子に、どうしたの、と声をかけたその時、教え子はその場に跪くと、涙まじりに沈んだ戦友との思い出を語り始めた。
その時はじめて、鳳翔は「残された者」たちの傷を知った。彼女たちがどこか空ろなのは、悲しみを必死に堪えていたからだった。どうしようもないほどの悲しみを堪えるには、いささかの感情をも捨て去るしかなかった。そうしなければ、小さな感情のほころびから、堪えきれずにあふれてしまうのだ。
この時鳳翔は数時間ほど、その教え子の話を聞いてあげた。それ以来、鳳翔は報告に来た艦娘たちの話を、無理をさせない程度に聞くようになった。
そしてその年の秋、鳳翔は横須賀の司令部へと呼び出された。彼女自身の、今後の身の置き方を決めるためである。
改装を受けたとはいえ、鳳翔は第一線で戦うには心もとなかった。このような艦娘が選べる選択肢は二つ。この先も予備役として演習の教官をしながら、自分が必要とされるほど戦局が悪化するのを待ち続けるか、それとも艤装を脱いで通り名をもらい、「普通の女」となるか、である。横須賀の提督はそう説明すると、最後に付け加えた。
「率直に、君のやりたい、と思うことを教えて欲しい」
しかし、鳳翔が選んだのはどちらでもなかった。
「私は、他の艦娘たちのために居酒屋をやりたいと考えています」
「ほう、それはどういうことかな」
驚きまじりに理由を尋ねた提督に、鳳翔は答えていった。
過酷な任務に身を置く艦娘たちの話を聞いて、少しでも気持ちを楽にしてあげたいと思っていたこと。
居酒屋には、辛さから酒にはけ口を求める艦娘が来るだろうということ。
そして何よりも、戦う以外の方法でも、誰かの役に立ちたいという思いがあったこと。
すべて鳳翔の、いささかも飾ることもない素直な思いだった。
「なるほど、だが戦闘艦が居酒屋を開いた話は聞いたことがない。厳しい道のりになるが、覚悟はできているな」
「はい」
この時の鳳翔の答えには、武人らしい力強さがこもっていた。
提督の言葉もあって、鳳翔は開店の許可が出ないことも考えていたが、翌月の始まりにすんなりと許可は下りた。
輸送艦たちの反発を避けるため、一般の戦闘艦と同じように任地への転属という形ではあったが、それは初めて戦闘艦に出された飲食店の開店許可であることに間違いはなかった。
彼女は予想よりもかなり早く許可の出たことに驚きながらも、これから自分がするであろう仕事のことを考え始めた。
任地はどこかしら。艦娘の一番多い呉?それとも佐世保かしら……
しかし、開店許可が出たのは、彼女が考えていた本土の鎮守府ではなく、はるか洋上の東沖島泊地だった。転属ということは、つまり大本営から出されたれっきとした命令である。希望に沿わないからといって、簡単に断ることはできない。
もしかしたら事実上の島流しになったのかもしれない。鳳翔の脳裏に一瞬、その思いがよぎった。
東沖島泊地の居酒屋は半年前に閉店して以来、そのまま打ち捨てられたままになっていた。鳳翔は店内を掃除し、主計課にかけあって備品をそろえた。そしてカウンター席が五席、二人掛けのテーブルが二台、奥の座敷席が一つの、小さいながらも居酒屋と言って申し分ない店が出来上がった。店内がそこまで荒れていなかったのが、鳳翔の助けになった。
しかし、開店後も、鳳翔の苦労は続いた。
開店して一週間はぽつりぽつりと客が来ていたのだが、それ以降はまったく客が入らなくなってしまったのである。
鳳翔は宣伝のため、張り紙や呼び込みをしたが、まったく効果はなかった。その日の準備がまったくの無駄に終わることも、珍しいことではなくなってしまった。
ある日、その訳をカウンター席で考えていた鳳翔のもとに、三人の艦娘が訪れた。久しぶりの客に、鳳翔は急いで準備を始めようとしたが、三人は席に座るばかりか、鳳翔の行く先をさえぎり、取り囲んだ。
この三人は、客などではなかったのである。
鎮守府や泊地の居酒屋は、たいていの場合外部の人間か、食堂と同じく補給艦や輸送艦が経営している。そして東沖島泊地の食に関しては、補給艦たちの経営する食堂が唯一幅を利かせていた。
食堂の補給艦に言わせれば、鳳翔は商売敵、しかも戦闘艦くずれの素人なのである。気の強い彼女たちが、鳳翔を黙って放っておくわけがなかった。補給艦たちは、前の居酒屋を経営していた艦娘(このとき経営していたのは陸軍所属の輸送艦くずれだった)と同様、何度か脅しをかければ店をたたむだろうとタカをくくっていた。
しかし、補給艦たちの恫喝に、鳳翔は毅然とした態度で立ち向かった。
一線を退いたとはいえ、実際に戦火をくぐり抜けてきた航空母艦である。チンピラ補給艦数人を相手にして引き下がるような並の根性はしていない。それ以降も補給艦たちが来るたびに、鳳翔は一歩も引きさがることなく店を守り抜いてきた。
それでも、客が来なければ店は続けられない。
実は補給艦たちは他の艦娘たちに、居酒屋鳳翔で飲み食いをしないように脅していたのだ。時折客が来たと思えば、食堂の補給艦たちが来て追い返してしまう。おかげでここふた月ほどはほとんど客足がなく、鳳翔の気持ちも折れそうになっていたのである。
南方の秋はまだまだ暖かい。
閉まりかけた大浴場の、追い焚きもされないぬるま湯で温めた体で、鳳翔は店へと戻る。店の二階には畳敷きの和室があり、そこが彼女の寝室だった。
「そういえばお魚は……」
店に誰も来ないからといって、明日のことを考えないわけにもいかない。主計課の艦娘たちは、鳳翔のことを知ってか知らずか、食材の配給はしてくれている。しかしそれも、いつ食堂の輸送艦たちの圧力がかかり、とめられてしまうかも分からない。
そんなことを考えながら、鳳翔が裏口に差し掛かった時だった。
現役時代に幾たびの敵機の轟音を聞き分けてきた鳳翔の耳が、店の隣にある食糧庫の中の、 かすかな物音に気がつく。ネズミなどの小動物でない、確実に誰かがそこにいる。
ここ数日、鳳翔は何者かによる食料の持ちだしに悩んでいた。いわゆる『銀蠅』である。今こそ、その不届き者を捕える絶好のチャンス、鳳翔はそう思った。
裏口の戸のそばに備えてある懐中電灯を手にすると、鳳翔は食糧庫へ飛びこむ。
「そこにいるのは誰?」
その口ぶりや眼光は、現役時代のそれへと変わっていた。懐中電灯の光とともに呼びかけると、闇の中に缶詰の転がる音が響く。
すぐさま光を音のした方角に向けると、闇の中、壁を背にした不届き者の姿が浮かび上がった。
不届き者の少女は、見るからにやつれていた。できて日の浅い生傷が体のあちこちに見え、クマのできた青い目は光りなく鳳翔を見据えていた。
鳳翔はその少女を捕えて店に連れこむと、そのままカウンター席に座らせた。盗もうとした代物も、カウンターの上に置く。コンビーフにいかの燻製など、そのまま食べられるような物ばかりだった。
不届き者の少女はうつむいたまま顔を上げようともしない。しばらくお互いに黙っていたが、鳳翔が口を開く。
「名前と所属している艦隊を言いなさい」
普通、このような食糧の『銀蠅』がばれたなら、どんな制裁を受けてもおかしくない。倉庫番の艦娘が相手ならば、問答無用のリンチや半殺しは当たり前である。
もっともその手の制裁をする気など最初からなかった鳳翔だったが、今は目の前の少女のことが少なからず気になり始めていた。
というのも、他の艦娘なら捕えた際に逃げようとしたり抵抗したりするものの、不届き者の少女は一切その素振りを見せなかったからである。変に素直なその態度は生まれつきのものか、それとも全てを諦め覚悟を決めたからなのか。
「もう一度言うわ。あなたの名前と艦隊は?」
少女の口は相変わらず、横一文字のまま開かない。鳳翔は小さくため息をついたその時、ようやく少女から返事がかえってきた。
正確に言うと、少女の腹の虫の返事であった。
その音を聞かれて恥ずかしげに俯いたその姿に、鳳翔はこれ以上尋問する気を失ってしまった。ため息をついてそのまま厨房に向かうと、慣れた手つきで準備を始めた。
残りものの冷やごはんに、卵に、わけぎ。それに少女が持ちだしたコンビーフ。他にもいくつかの食材を小さく切り分けると、鳳翔は中華鍋の中に入れていく。
ただ少女は、どこかきまり悪そうに鳳翔に言い放つ。
「い、要らねえよそんなもの!あたしは物乞いじゃねえ!」
「じゃあ物乞いより泥棒のほうがまともだって言うの!?」
鳳翔の一喝に、少女は黙り込んで俯く。そしてそのまま視線は鍋の中に注がれた。ごはんが、いり卵が、色とりどりの野菜が鍋の中で音を立てるさまに、少女の目は輝きを取り戻しかけていた。
「はい、できました。めしあがれ」
鳳翔が少女に差し出した皿の上では、ご飯の一粒一粒がほのかなキツネ色になった山盛りのチャーハンが湯気を立てていた。
少女の目は、しばらくの間チャーハンをじっと見つめていたが、ふと鳳翔の目とあった。
「ここは来た人に食事を出すところよ。何も言わないで食べてちょうだい。話をするのはそれからね」
鳳翔がそう言うと、少女はうつむいて皿を見つめた。しばらくそうしている様子を見て、早く食べないと冷めちゃうわよ、と鳳翔が言おうとしたその時。
少女はれんげを手にすると、突き動かされたように一気にチャーハンをかきこみはじめた。そのあまりの勢いに鳳翔は驚き、すぐにお冷を用意した。鳳翔は少し多めにチャーハンを作ったつもりだったが、どうやらすぐに平らげてしまいそうだ。
少女が豪快にチャーハンを食べる様子に、鳳翔は顔をほころばせた。自分の料理で誰かが生きる希望を取り戻してくれることほど、嬉しいことはない。
鳳翔は、少女が一息ついたところで、あらためて聞き直した。
「私は鳳翔。このお店と同じ名前よ。あなた、名前はなんていうの?」
少女は先ほどのとげとげしさはどこへやら、静かに答える。
「……摩耶」
「摩耶ちゃん、ね。ふふっ、いい名前ね」
そう言って、鳳翔はにっこりと笑った。一方の摩耶は、そう言われて言葉を失ってしまった。初めて自分の名前を「いい名前」と褒められてどう反応していいのか分からないのか笑うこともなく、落ち着きなく瞬きを繰り返している。
鳳翔はそんな摩耶の思いをしっかりと感じ取っていた。
「摩耶ちゃんも、ずっと辛い思いをしてきたのね。人って一度道から外れると、なかなか戻れないから。本当に因果なものね」
その時であった。
入口の引き戸が大きな音を立てて開かれると、そこから声が張りあがった。
「なんだお前、この前叩きだした戦闘艦じゃねえか!」
その声に、店内の空気が一気に張りつめた。入口には、数か月の間鳳翔に恫喝を続けてきた、あの補給艦たちが立ちはだかっていた。
摩耶はいつのまにか立ち上がり、補給艦たちを睨みつけていた。鳳翔は異様にギラついた摩耶の目を見て、摩耶と補給艦たちとの間に何かがあったと察した。私が脅されたのと同じ、いやそれ以上の何かを……。
「摩耶ちゃん、なにがあっても手を出しちゃだめよ、私がなんとかするから」
摩耶は鳳翔を一瞥した。その瞳のギラつきはおさまっていた。
「よう、あんた、こいつに何してんだ?」
「見て分からないかしら?お客さんにご飯を作ってるのよ」
「こんな薄汚ねえ奴が客ねえ……あんた、こいつが何やらかしたのか知ってるのかい」
補給艦たちはゆっくりと摩耶のそばに寄りながらつるし上げでもするかように話す。
「こいつはなあ、自分が沈みたくないからってわざと営倉入りになるようなことをして、自分の艦隊の連中を見殺しにしてのうのうと生きてやがる卑怯者だ!あたしらだって、こんな奴に飯を食わせるこたあないって、叩きだしてやったのさ」
「だからあたしは……!」
「黙ってろ!」
反論した摩耶の顔面にグラスの冷や水が浴びせられる。
次の瞬間、摩耶は逆上して水を浴びせた補給艦の襟につかみかかり……止まった。
「触んな!」
補給艦は摩耶を振り払った手でそのまま摩耶の左頬を張った。
奥歯を食いしばりぐっとこらえた摩耶の赤く腫れた頬を見て、鳳翔は心配になった。ごめんね、もう少しの辛抱よ。こんな連中すぐに追い払うから……。
自分の服に泥でもはねられたような顔で制服の襟元を正しながら、補給艦は鳳翔に向き直る。
「……あんたも戦闘艦だったんなら、こいつがどんな外道かってことくらいわかるだろ」
「それでも今は私の大切なお客さんよ。ひやかしで店に来たんじゃないなら、どんな子かなんて関係ないわ」
「ほう?ご立派だねアンタも。のけ者扱いの戦闘艦同士気が合うのかい」
「私は、私の仕事をしているだけ。何が気に入らないの?」
「ああ気に入らねえな。戦闘艦なんてな、ずっと海に出てりゃいいんだよ!こんなところで生きながらえてんなら、とっとと海に出て敵ぶっ殺して沈んでこい!」
瞬間、鳳翔の瞳から光が完全に消えた。
「今の言葉……ちょっと聞き捨てなりませんね。私たちを何だと思って……」
「黙れ!このくたばりぞこないが!」
鳳翔の言葉になにか刺さるものがあったのか、補給艦は卓上のグラスを鳳翔に投げつけた。グラスは身を守るように屈んだ鳳翔の右耳をかすめて、後ろの壁で粉々に砕け散った。その音と同時に……
摩耶の鉄拳が補給艦の顔面に叩きこまれ、カウンターの背面、テーブル席の椅子とともにひっくり返った。
鳳翔はさらに物が飛んでくるのを恐れ、厨房の中でしゃがみこんだままでいた。摩耶が残りの補給艦二隻を相手に、容赦のない殴りあいを続ける中、耳をふさぎながら全てが終わるのをひたすら待ち続けた。
止むことなく聞こえる悲鳴と暴力の響き。守り続けた店が喧嘩で蹂躙される様に、鳳翔は向き合えなかった。
「とっとと失せやがれ!」
しばらくして聞こえた摩耶の怒号とともに、店内は静かになった。ここまではほんの一、二分程度のできごとであったが、鳳翔には十何分もの時間に感じられた。
鳳翔はおそるおそるカウンターから店内を覗いて、言葉を失った。
テーブルの脚は折れ、いくつかの椅子は原形をとどめないほどバラバラになってしまっていた。床には食器や椅子の破片、割り箸や残飯がバラバラに散らばっている。そしてその中で摩耶は、片足をひきずりながら格子戸に向かう補給艦の尻を蹴り飛ばし、店から叩きだしていた。
信念を持って、ずっと守り抜いてきたお店が、どうして……
悲しみの中から、ふつふつと怒りがこみあげてくる。目の潤みがしだいに身体の震えに変わっていき、鳳翔が摩耶にカッと怒鳴りつけんとした、その時。
突然鳳翔は摩耶に背を向けると、グラスに焼酎をこぼしながら一気に注いだ。そして勢いそのままにあおると、まな板の上にグラスを叩きつけるように置き、目を閉じて何度も深呼吸を繰り返した。
「……なあ?大丈夫……か?」
鳳翔の突然の行動に驚いた摩耶が、恐る恐る声をかけてきた。鳳翔は二度三度大きく息をつくと、おもむろに摩耶に振り向いた。鳳翔は小さく鼻をすすると、怯えているかのような摩耶に、優しく話しかける。
「……ごめんね、おどかしちゃった?心配しないで、お店は私が明日直すから。時間も遅いし、今日はもう帰って頂戴」
そう言いのこすと、鳳翔は早足で奥の階段に歩いていった。逃げるように二階へ向かう鳳翔は、
「で、でも……」
追いかけた摩耶を一瞥もせずに、
「帰って頂戴!」
一喝するように言い放って二階へと消えていった。
ひとり残された摩耶は、階段のそばから店の扉に向かって、散らかった店内をを見回しながら歩いていった。そんな摩耶の目に入ったのは、地面にぶちまけられた食べ残しのチャーハンだった。
摩耶は急に、胸の締め付けられるような思いにとらわれた。そして、久しぶりに暴れまわった疲れが出たのか大きくため息をつくと、そのまま隣にあった椅子に倒れこむように腰かけ、がっくりとうなだれた。
鳳翔は布団の中でひとり、今あったことに思いをめぐらせていた。
どうしてあの一言が、口を出てしまったの?
お店を壊されたからだけじゃない……また別の感情があった。近い言葉で言うならば……
失望。
そう、あの時の私はきっと、あの子に期待していた。あの子の素直な姿を見て、この土地でようやく見つけた良心だと思ったのね。でも、そうじゃなかった。他の子たちと同じ、よそに行きどころのない不良でしかなかった、だから。
だから……でもあのときの、私が階段をあがる前のあの目は……。
そんなことを考えるうちに鳳翔は、あおった酒のせいもあり知らぬうちに眠りにおちた。だが、あれこれ思い悩むことの多い性格の彼女にとっては、それでよかったのかもしれない。もししらふであったなら、一時間ほどしてから再び下の階に降り、悲しさを背負いながら片付けを始めていただろう。
東の空が明るくなり始めた頃。鳳翔は身支度を整えていた。
いつも通り髪をとかしている時に、ふと昨日のことを思いだして、手が止まる。
鏡の向こうの自分から目をそらし、鳳翔は長い溜息をついた。
鳳翔はどうにも晴れない思いを抱えて階段を降りたところで、思わず足を止めた。
目の前に広がっている光景が、信じられなかった。
荒れ果てて復帰のめどさえ立てられなかった店内が、昨夜何事もなかったかのように綺麗になっている。床には皿の破片ひとつなく、テーブルや椅子も少しデザインは違うものの、あった場所に元通り置かれている。
鳳翔は何があったの、と言わんばかりにカウンターまで歩いていく途中、何かが足に当たりパタリと倒れた。壁に立てかけてあった箒だ。その時、鳳翔は座敷席の中に誰かいるのに気がついた。鳳翔はゆっくりと座敷の中を覗いてみると、畳の上にほこりまみれの姿でひとり、摩耶がスヤスヤと寝息を立てていた。
鳳翔は全てを察した。摩耶がひとり店の床を掃いている姿や、歩いて五分ほどの倉庫からテーブルを担いで夜の闇を歩く姿、疲れ果てて座敷に寝転び、そのまま眠ってしまう姿が、ありありと浮かんでくるようだった。
畳の上でぐっすりと眠る摩耶は、昨日出逢った時のやつれ果てた様子はなく、むしろ幸せそうであった。
それは、摩耶がこの居酒屋を安心できる大切な場所と考えてくれた、何よりの証拠だった。
やっぱりこの子は違った。私の思ったような、心の優しい子だった。
鳳翔は嬉しさとすまなさで胸がいっぱいになった。その眼は、彼女も意識せぬうちに涙を湛えていた。
鳳翔が主計科への注文などの仕事を終えた頃には、もう時計は十時を過ぎようとしていた。
もうお昼も近いので、さきほど仕入れた食材を使ってまかないの昼食を作ろうとしていた。
かまどの火にかけたお米が沸騰したその時、座敷で何かが動いた気配がした。座敷に目を向けると、摩耶が上体を起こして、目をこすっていた。
そんな摩耶と鳳翔の目があったその時、摩耶は頭を下げて立ち上がり、そのまま出ていこうとした。
「あっ、待って!」
そんな摩耶を、鳳翔は呼び止めた。
「もうすぐご飯もできるから、よかったら食べてって。ご飯できるまで裏で行水して、砂ぼこりを落としてね。こっちよ」
鳳翔は摩耶の手を優しく握り、店の裏に連れていった。
店の裏にはタライと蛇口に繋がれたホースが準備されていた。この泊地では午前中には緊急の場合を除いて浴場を開放していなかった。そのため入渠ではないときは、このように行水で体の汚れを落とすのである。
鳳翔は摩耶に手ぬぐいを渡して、店の中に戻ろうとした。
「手拭いはこれつかって頂戴。また何かあったら言ってね」
「鳳翔さん!」
すぐさま摩耶は鳳翔を呼び止めると、
「昨日は……すんませんでした」
頭を下げ、つぶやくように言った。鳳翔もそれを受けて、
「もういいわ、昨日のことは昨日のこと。お店は壊れたらまた直すだけだもの。といっても昨日、お店直してくれたのは摩耶ちゃんよね」
何も言わない摩耶に、鳳翔はにこやかに笑った。
「着替えも持ってきますから。またあとでね」
鳳翔は二階に上がると、押入れから大きな箱を取り出した。そこに納められていたのは桜の花の柄がついた、緑と白の縞模様の浴衣だった。
もとは鳳翔の教え子が着ていたものだったが、これ以外に摩耶の気に入りそうな服を鳳翔は持ってきていなかった。
行水を終えてこの浴衣を来た摩耶は、前とは見違えるようだった。砂ぼこりをかぶっていた髪は薄茶色に輝き、顔の汚れもとれてきれいな白い肌が見えた。そして縞模様の浴衣も、少し裾が短いもののかなりさまになっていた。
「あら、かわいい。少し小さかったかもしれないけど、許してね。これしかなくて」
「いや、そんな……案外こういうのも、嫌いじゃないしさ」
そう言いつつも、摩耶はどこか照れくさげだ。
「気に入ってくれてよかった。さあ、ご飯にしましょ。おなか、すいてるでしょ」
店に戻ると鳳翔は、摩耶の座る椅子の前に昼食一式を並べた。炊きたてのかまど炊きご飯に大きなサバの塩焼き、半熟の卵焼きに簡単なサラダ、豆腐の味噌汁に白菜の浅漬け。すべて摩耶のために鳳翔が準備した食事だった。ここまで立派な食事は、とても居酒屋のまかないだなんていえない。
摩耶が浴衣にタスキをかけ、早速昼食にありつこうとしたその時、
「摩耶ちゃん」
鳳翔は手を合わせて言った。
「あっ、いただきます」
摩耶は手を合わせて言うと、キラキラと光る白いご飯を口へと運んだ。摩耶は目を輝かせながら、どんどんおかずに手をつけていった。
昨晩チャーハンを食べた時とは明らかに違うのが、鳳翔の目にも分かった。ただ詰め込むだけだった昨日と違って、摩耶は明らかに目の前の食事に心を動かしていた。
そんな摩耶に、鳳翔は素直に嬉しさを感じていた。
「もしよかったら、いつでもお店においでね。悩み事があったら、相談にだって乗るわ」
しかし突然、摩耶は箸を止めた。目線を下に落とし、その顔はどこか悲しげだ。
そんな摩耶に、鳳翔が気付かないわけがなかった。
「どうしたの?」
尋ねた鳳翔に、摩耶は小さく答えた。
「それはできないよ」
「どうして?」
「鳳翔さん、なんていうか……正直あたしみたいな奴がいたって、迷惑かかるだけだろ?変なやつらにはからまれるし、店は壊れるし……」
「ううん。そんなことないわ。昨日喧嘩したのだって、私やお店を守ろうとしてくれたんでしょ?それにちゃんとお店だって直してくれたじゃない。摩耶ちゃんもこのお店を大切に思ってくれてたのね。ありがとう」
鳳翔からそう言われて、摩耶はしどろもどろになった。
「いや、そういうわけじゃ……だって、あたしがやったことなんだから、あたしがその始末をしないとっていうか、なんだかスッキリしないっていうか……その……」
摩耶は、自分がとりとめのないことを言っているような気がしたのか、言葉を止めた。しかし摩耶の言いたかったことは十分鳳翔には伝わった。
「でも大変だったでしょ、このテーブルも……」
そう言って鳳翔がテーブルに触ると、脚の高さが不ぞろいなのか、少しガタンと動く。それを見て思わずクスリと笑うと、
「まあ、仕方ないですね。新しいのが来るまではこれでやりましょう」
と言って、厨房へと戻る。そしてあらためて店の中を見回して、
「私のお店はね、摩耶ちゃんみたいな子のために作ったの。悩みを抱えた子や一人ぼっちの子が来てくれるようにって思って作ったのよ。だからそんなこと気にしないで、いつでも来て頂戴」
そう言いながら鳳翔は、摩耶の青い瞳を優しく見つめた。視線の合った摩耶は恥ずかしげに、手元の卵焼きの皿を見つめる。しばらく摩耶はそうしていたが、何か気になることでもできたのか、突然鳳翔に声をかけた。
「ねえ、鳳翔さん」
「なあに」
「鳳翔さんはさ、軽空母だろ?主計科でもないのに、どうしてそんな考えで居酒屋を作ろうと思ったんだ?」
「そうね……」
鳳翔は少し間をおいて、静かに答えた。
「戦う以外にも何かをしてみたかった、ってところかしら」
「えっ?」
摩耶は自分が予想していたような答えと違っていたからか、不思議そうに首をかしげた。
「深海棲艦と何度も戦って戦って、こうやって沈むことなくずっと生かしてもらっているうちに、海に出て戦うだけじゃなくていろいろなことをやってみたくなったの。
だって、何かを壊すことしかできなかった私たちが、こうして何かを未来に残せる姿になれたんだもの」
鳳翔は自分の手を優しく見つめ、軽く握りながら答えた。
そして座敷の壁にかかっている、写真の入った額に目を向けた。
その額の中に納められていたのは、大海原を進む白黒の船……艦娘として生まれ変わる前の『軽空母・鳳翔』の写真だった。
「つまり私は、私として精一杯生きたくなったのかも。鳳翔という名の『艦娘』として……」
そこまで言って、鳳翔は摩耶がポカンと口をあけて自分を見つめているのに気付いた。鳳翔はふと、自分がひどく妙なことを言ったような気がして恥ずかしくなり、照れ隠しのように笑った。
「……今のは冗談ですよ。ごめんね、おかしなこと言って」
「いや、ぜんぜん!」
摩耶はまるで我に返ったかのように、大げさに首を振った。
「分かるような分からないようなどうもハッキリしない感じだけど、でも鳳翔さん、いまなんかすごい事を言ったような気がするぜ」
「ありがとう、摩耶ちゃんは優しいのね。私、摩耶ちゃんみたいな子がいれば、大変なことも頑張れるような気がするわ。なんか不思議ね」
鳳翔の言った言葉が、ちゃんと摩耶に伝わったかどうかは分からない。しかし鳳翔は、それでもいいと思った。
いつか摩耶ちゃんも、きっとわかってくれる時がくるはず。そして自分なりの答えを出してくれるはず。
その日まで、私も一緒にいれたらいいけれど……。
そんなことを考えていると、ふたたび摩耶は鳳翔に声をかけてきた。
「鳳翔さん」
「どうしたの?」
そう返した鳳翔の目を、摩耶はじっと見つめていた。鳳翔にはその瞳が、青く澄んだ、きれいな瞳に思えた。
「あたし、今日からこの店にいていいか?」
そうはっきりと言われ、鳳翔は驚いた。まさか客としてではなく、住みこみを希望するなど思いもしなかった。
「手伝いだってするし、メシは作れないけどいつか作れるように……」
と、そこまで続けたところで、鳳翔はもういいわ、と言うように、笑顔と一緒に摩耶に手のひらを見せた。
住みこみの準備は何とかなるし、居酒屋の経営はやることが多く人手がいるため、鳳翔には願ってもないことだった。
そしてなんといっても、一緒にがんばってくれる仲間ができるのは、自分にとっても大きな励みになる。
鳳翔が断る理由は、なにもなかった。
「ええ、もちろんよ」
鳳翔が答えたこの瞬間、摩耶は自分の居場所ができたと実感したのか、ほっとしたような笑みとともに頭を下げた。
「……ありがとう」
摩耶の口からこぼれた感謝の声は、もう昨日までの摩耶の声ではなかった。誰かへの優しさを心に秘めた、呉での摩耶の姿がそこにあった。