摩耶さまの名のもとに   作:ゆずた裕里

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九 ふたたび、船出のとき(前編)

 居酒屋鳳翔に摩耶が来てから、店には笑い声が絶えなくった。

 摩耶がおつかいや掃除などの手伝いに励む姿は、呉にいた頃では考えられない程に精力的だった。その心情には鳳翔からの一宿一飯の恩義を裏切ってはならないという思いと、銀蝿をして飢えをしのぐような、地面を這いずり回る生活はもう二度としたくないという思いが強くあったためであろう。

 しかし毎日仕事をこなしていくうちに、摩耶の心中にある変化が生まれた。いつの間にか摩耶にも、この店が自分の店だというような思いが芽生え始めていた。

 一方の鳳翔も、人手が増えたのは嬉しいことだった。僻地の居酒屋とはいえ、ひとりで全てのことをこなすのはかなり骨が折れる。それに、先日の大暴れが噂になったのか、摩耶が店にいるだけで嫌がらせの回数が大きく減った。

 そして何よりも鳳翔にとって、何事も一生懸命にがんばる摩耶は心のよりどころになった。それは摩耶も同じだっただろう。

 

 もちろん居酒屋の仕事だけで一日のすべてが終わるわけではない。摩耶は任務を干されていたこの期間内でも、訓練を欠かさなかった。

 体力作りはもちろんのこと、天気がいい日には艤装をつけて近海を回り、岩や防潜網のブイを的に砲撃の練習をした。これらのメニューについては、かつて教官をしたこともある鳳翔が考え、日替わりで摩耶に課していた。

 ある日摩耶が近海を回っていた時に、警備の艦娘が嫌がらせに砲を撃ちこんできたこともあったが、面白え、とばかりに応戦し、返り討ちにして帰ってきたこともあった。

 

 そのような毎日の中で、ひと月が過ぎ、半年が過ぎ、あっという間に一年の月日が過ぎようとしていた。

 

 

 

「終わったよ、鳳翔さん。やれやれ、片付けするのもひと苦労だな」

「おつかれさま。それじゃ今度は……」

「えっ!?まだあるの?」

「ふふっ、冗談よ。お昼にしましょ」

 

 数日前にこの年最初の台風が過ぎ、内地より早い東沖島の夏の空は透き通るように晴れていた。

 摩耶は後片付けでかいた汗を手ぬぐいで拭うと、お茶漬けと卵焼き、きゅうりの浅漬けを美味しそうに食べ始めた。

 簡単ながらもしっかりした味の昼食を、摩耶はものの数分で食べ終えてしまった。よっぽどお腹が空いていたのだろう。

 

「ごちそうさまでした!」

 

 摩耶がきれいに片づけられた食器を前に手を合わせた、その時。

 

「失礼します!」

 

 店の入り口の格子戸を叩く音とともに、明るい声が店内に響いた。

 鳳翔ははい、と返事をしながら店の奥から現れると、ガラス戸がゆっくりと開けられる。

 

 店の敷居をまたいだのはふたりの艦娘だった。

 背の高さはふたりとも高めで、そのうち片方の長い黒髪をサイドテールにまとめた艦娘は、細身の体つきがさらにその印象を強めていた。その顔はどこか精悍な印象であり、あたかも生真面目な武人らしい雰囲気をたたえていた。

 もうひとりの艦娘は長い髪をそのままおろしており、ブラウンの髪に白いカチューシャが映える。体つきは豊満で、どこか自信満々で余裕のあるさまは、まさに『デキる女』といった印象だ。

 そしてふたりとも、紫色のスーツに黒いミニスカートという、まるでバスガイドかフライトアテンダントのような出で立ちだった。

 

 鳳翔はこのふたりの少女に心当たりはなかった。

 だが摩耶はふたりのうちの片方、髪をおろした少女を驚いたようにじっと見つめている。その様子は、とても親しそうというわけでもなければ、因縁の相手というわけでもないように見える。

 一方、髪をおろした少女はそんな摩耶を見て、どこかいたずらっぽく口角をあげる。

  

「懐かしいわね、摩耶」

「足柄か……」

 

 摩耶は表情を変えぬまま、静かにつぶやいた。

 

「摩耶ちゃん、この子を知ってるの?」

「知ってるもなにも、あたしの幼なじみさ。隣のサイドテールがどこの誰なのかはさっぱりだけどな」

 

 摩耶の言ったように、足柄は摩耶と同じ神戸生まれの重巡で、互いに短からぬつきあいがあった。もっとも摩耶と足柄はともに仲のいい艦娘は他におり、とりわけ仲が良かったわけでもない。

 それでもふたりだけで遊びにいくこともしばしばあったため、ほかの重巡や戦艦・伊勢のようにふたりをよく知る者からは「仲がいいのか悪いのかよく分からないふたり」と言われていた。

 

 そんな摩耶の説明の後に、足柄は鳳翔に向き直って礼をする。

 

「改めて、はじめまして鳳翔さん。妙高型重巡洋艦三番艦、足柄です。この泊地でお店をしているという話はかねがねお伺いしておりました。そしてこちらが私の姉妹艦、那智です」

「妙高型二番艦の那智です。お会いできて光栄です、鳳翔さん」

 

 足柄に紹介された那智も恭しく頭を下げた。

 摩耶は、足柄が遣欧艦隊に選ばれたり秘書艦試験を好成績で合格したりするなど、出世街道を万進していたことは風の噂で聞いていた。この様子を見る限りでは、どうやら那智も同じような道を歩んできたようだ。摩耶の進んできたような泥臭い道とはまったくの無縁だったことだろう。

 摩耶はどうにも面白くなさそうに椅子に腰かけ、脚を組んで足柄と那智に向いた。

 

「で、こんなクソ溜めみたい泊地にふさわしくないエリート二人がなんの用だ?」

「私、この泊地の指揮艦に任命されたのよ」

「そっか、おめでとう。歓迎するぜ」

 

 摩耶は祝う気などさらさらなさそうな口調で言った。もっとも、ここに配属された艦娘全員ならば摩耶でなくても同じ反応をしただろう。摩耶も実際にここに来た当初は、同じような歓迎のされ方をした。ある意味ではこの泊地特有の風土病みたいなものだった。

 

 ここで、『泊地指揮艦』について簡単に説明しておこう。

 四鎮守府やトラック泊地のような大きな泊地では、艦娘の指揮は『提督』と呼ばれる人物がとっている。しかし東沖島のような末端の泊地では、提督の代わりに泊地指揮艦に任命された艦娘が鎮守府や大規模泊地の提督から命令を受け、所属する艦娘を動かしている。ちなみに東沖島泊地の命令は、横須賀鎮守府から出されている。

 

 そして、前任者の引退を受け、このたび配属されたのが足柄、というわけだ。

 だが、摩耶は何か腑に落ちないところがあったのか、足柄に尋ねはじめた。

 

「でもさぁ足柄。指揮艦として配属されるならもっとマシなところはなかったのか?

 それにお前だけじゃなくて、お前の姉妹艦も一緒に来ているってのはどういうことだ?まさかひとつの泊地に指揮艦ふたり、なんてわけはねえよなぁ?」

「そのことは後で話すわ。でもその前に……」

 

 そんな摩耶の疑問に答えるように、足柄は摩耶に話しはじめる。

 

「私たちがこのお店にきた理由は三つあるの。一つ目は鳳翔さんへのご挨拶。残り二つは、摩耶、あなたのことよ」

「えっ、あたしに用があるのか?」

「そうよ。ちょっとした提案があってね」

 

 言いながら足柄は、摩耶とテーブルを挟んで反対の席についた。摩耶と足柄の視線がかち合った。

 ちなみにふたりがこのように向かい合って席に座ったのは神戸以来だった。だがふたりはそのことに感慨を覚えることもなく、両者の間には妙に緊張した空気が張りつめていた。

 そんなどこか奇妙な光景の中、足柄は静かに話しかける。

 

「私が遣欧艦隊から戻ってしばらく横須賀にいた時、そこの提督からこの東沖島泊地の指揮艦をするように命令を受けたの。

 でも私だって、この泊地のよくない噂はいろんなところで聞いてたわ。だからここに行くように言われた時、私もただじゃ引き受けなかった。司令部に、『私の選んだ艦娘たちと一緒に転属させてもらえるなら引き受ける』って交渉したの。

 きっと私以外にオファーをかけてた子たちはどんな条件でもこんなところはお断りって子ばかりだったのね。司令部も快く受け入れてくれたわ。それで那智やほか数隻、私の知り合いの艦娘と一緒に、みんなでこの泊地にきたってわけ」

「みんな一緒に地獄に道連れってわけか。でもどうしてそんなこと?この島にお前の国でも作ろうってか?」

「そうじゃないわ。だってこの島じゃ、憲兵だってまともに機能してないんでしょ?それなら自分の身を守り泊地の風紀をただす、『自警艦隊』が必要だって思ったの。

 摩耶が今まで、このお店を守ってきたみたいに、ね。今だって、那智以外の子たちはみんな闇屋に乗りこむ準備をしているところよ」

 

 摩耶は表情を変えずに、じっと足柄の話を聞いていた。実際ここの憲兵は役立たずであり、ろくな捜査もせず前の泊地指揮艦にゴマをするだけで、かつて摩耶もその犠牲になったこともあった。

 ゆえに摩耶はこのことに対し、不信感を拭いきれなかった。ちなみにその憲兵は泊地を去ったものの、今はもと陸軍の輸送用潜水艦という、なんとも頼りなさげな憲兵がひとり、司令部の横の小屋に住んでいるだけだった。

 

「役立たずの憲兵の代わりに、お前らが憲兵をやろうってのか。つまりしょっぴくもしょっぴかないも、足柄、お前の胸三寸ってところだな」

「大丈夫よ。私たちもあくまで憲兵に協力する、って形でやるだけから。

 那智も『自警艦隊』の規律は新選組の局中法度並みに厳しくしてるみたいだし、まともに治安を維持する人が誰もいないよりはマシでしょ」

  

 そう言うと足柄は両肘をテーブルの上につき、からませた指の上に顎をのせた。

 

「で、そこで相談なんだけど。摩耶、あなたも私たちの『自警艦隊』に入らない?

 悪い話じゃないと思うわ。あなたは私とは古い友達だからお互い信用できるし、それに摩耶だって、ここのチンピラみたい艦娘にはずっと苦労してきたんでしょ?これまでやられてきた分、私たちと一緒にツケをきっちり払わせてやりましょ。どうかしら?」

 

 足柄は明らかに、摩耶を引きこむために威勢のいい言葉を選んで使っていた。

 しかし摩耶は頬杖をついて足柄の言葉を聞くと、返事もせずカウンターの向こうの鳳翔に目をやった。鳳翔はどこか心配げに摩耶を見つめていた。摩耶はそれに答えるように瞬きをすると、足柄に静かに言い返した。

 

「なるほどな……つまり足柄、こう言いたいんだな?『私の部下になって、悪いヤツらをしょっぴけ』って。そんなのお断わりだぜ。

 悪いヤツらを片っ端からぶちのめすってのは面白い話だけど、あいにくあたしはお前とはまだ『友達』でいたいからな」

 

 その瞬間、那智は一喝するように言い放った。

 

「摩耶!さっきから黙っていたが、足柄は貴様の上官だぞ!口に気をつけろ!」

「関係ねえよそんなの、偉そうに口出しすんな!」

「はい、ふたりともそこまで、ねっ」

 

 一触即発の那智と摩耶の間に分け入るように、足柄は明るい声でなだめた。

 

「まあ、これは命令じゃないから、私も無理強いするつもりはないわ。でもちょっとだけ残念だったかしら」

「まあ、部下にはなる気はないけどさ、言ってくれればできるだけ協力はしてやるつもりだぜ。どうだ?」

「ん、悪くないわね。それじゃ、そういうことで。ねっ」

 

 そう言って足柄は摩耶に手を差し出す。摩耶がその手を握ると、二人はすぐに手を離した。

 

「それで、この件はおしまい。もうひとつの話だけど……」

 

 足柄は言いながら、上着の懐から一枚の紙を取り出す。

 

「呉から、あなたの大規模改装命令が来てるわ」

 

 足柄はテーブルの上で指令書を広げた。

 艦娘の改装とは、いわば艤装や制服の変更である。大抵それらの変更は一日や二日で終わるものではあるが、艦娘が新しい艤装に慣れるため、短くても一週間ほど期間がとられている。

 摩耶は覗き込むように指令書の内容を読んだ。改装実施の日付以外に、足柄が話した以上の事は書かれていない。いったいどういう改装が施されるかさえ、機密保持のためか書かれていないのだ。

 ちなみに改装実施の予定日はちょうど一週間後だった。

 

 「改装はこの泊地でもできるんだけど、せっかくだから呉に戻ってあなたのお姉さんたちに顔を見せてきたら?」

 

 そう言われて、摩耶は沈黙をおいてから答えた。

 

「少し考えさせてくれねえか」

「分かったわ。なら明日の朝までに答えを頂戴ね」

 

 足柄は笑みを浮かべながら答えると、席から立ち上がった。

 

「それでは鳳翔さん、今後ともよろしくお願いします」

「失礼します」

「こちらこそ。お店にも来てくださいね」

 

 鳳翔は店を後にする足柄と那智を見送った。

 摩耶は座ったまま、改装命令の指令書を見つめていた。

 

「呉に帰るの?」

「うん、どうしようかな……」 

 

 鳳翔が尋ねるのに、摩耶はため息まじりに答えると懐に指令書をつっこんで立ち上がった。

 

「ねえ、摩耶ちゃん」

 

 鳳翔は店の奥に行こうとする摩耶の後姿に声をかけた。

 

「何か、後ろめたいことでもあるの?」

 

 摩耶は立ちどまると、そっぽを向くように床を見つめた。

 

「……いや、あたし呉に帰るよ」

 

 摩耶は鳳翔に振り向いて明るく答えた。自分の弱さを、鳳翔に見せないように。不安な思いをごまかすように、摩耶は鳳翔に笑顔を見せながら続けた。

 

「特に後ろめたい、なんてこともないしさ」

「そう……ならよかったわ。いってらっしゃいね」

 

 優しく鳳翔は返した。しかし鳳翔は、そのまま視線を落として続けた。

 

「でも摩耶ちゃんって、あまりそういうこと話さず自分で抱えこんじゃうところ、ない?私ね、そこが心配なの。摩耶ちゃんは明るくて素直ないい子よ。だから、たまに何か隠しているようなときにね、余計に心配になるの」

 

 そう返した鳳翔に、摩耶はなんだかすまないように思えてきた。それでも摩耶は、つとめてさりげなく答えた。

 

「まあ、呉を出るとき、姉貴や妹と喧嘩別れしたみたいになっちまった、ってことくらいかな」

「帰ってもみんなが温かく迎えてくれるかどうか、不安なのね?」

 

 摩耶は小さく頷いた。

 そんな摩耶に、鳳翔は励ますように話しかけた。

 

「一度迷惑をかけたとしても、摩耶ちゃんたちの姉妹艦でしょ?摩耶ちゃんは素直な子だって、一番よく知ってくれてる人たちじゃないの。怖がることなんてないですよ。きっと暖かく迎えてくれますから。だからお姉さんたちや、呉で待っているみなさんを信じてあげて」

 

 摩耶のそばに鳳翔は近づくと励ますように優しく手を置いた。

 

 

 

 それから六日後のこと。

 呉の港には、静かな波が立っていた。

 

 その波が打ち寄せる埠頭を、摩耶はひとり歩いていた。

 

 摩耶が旅立った時のような呉鎮守府の活気は、今はない。あの日以来深海棲艦の侵攻は激化し、呉の戦闘艦も輸送艦もみな休みなく海に出たり外地に派遣されていた。

 摩耶は倉庫街を歩きながら、二年前の秋祭りの活気を思い出していた。あそこにいた連中のうち、どれくらいが今も生き残っているだろうか。

 そんな彼女に似合わないことを考えながら、摩耶は倉庫街を宿舎に向けて足を進めた。

  

 主計科の前を通りすぎてなお、摩耶は歩みを進める。まだ衣替えの季節には早いが、主計科の艦娘たちは相変わらず忙しそうだ。

 そのときふと、摩耶は鳳翔に言われた、『自分で抱えてしまうところ』が気になりはじめた。

 そうか、やっぱりあたしは、鳥海と双子みたいなもんなんだな……。

 

 摩耶の体の周りを涼しい風が吹きぬける。四季のある内地の風だ。一年中暖かい東沖島には、こんな風は吹かない。この国を離れる艦娘たちは、みなこの風に再び抱かれることを願って戦いを続けている。

 改装のためとはいえ、一度内地を出た身で再び季節を肌で感じられた摩耶は幸せなのかもしれない。

  

 姉貴たちはどこにいるだろうか……と摩耶が考えていたその時。

 

「摩耶!」

 

 高く透き通る声での呼びかけに、摩耶は顔をあげる。その目線の先はるか前方に、こちらを向いて立っている人影が見えた。

 その金髪の大柄な姿は……愛宕だ。

 摩耶が気付いたその時、愛宕は満面の笑みでこちらに向かって駆けだしてきた。そして摩耶のそばまでかけよると、その豊満な身体で摩耶を包み込むように抱きしめた。

 

「やっと見つけた、摩耶……」

 

 明るい愛宕の声が耳に飛びこんできた瞬間、脳裏をさまざまな感情が駆け巡ったのか、摩耶は力が抜けたように荷物をとり落とし愛宕にされるがままになっていた。

 

 

 

「ねえ高雄、摩耶が帰ってきたわよ!」

 

 愛宕が摩耶を連れて部屋に戻った時、高雄は書類を片づけていた。摩耶の姿を見て元気に走り寄ってきた愛宕とはうって変わって、高雄はゆっくりと静かに立ち上がっただけだった。

 摩耶は部屋に入りながら、そんな高雄の様子を前にどうしていいかわからなくなった。

 ふたりとも何も言わず、しばらく互いの姿をじっと見つめている。そして。

 

「摩耶、おかえりなさい」

 

 高雄が微笑んでそれだけ言ったのに、摩耶は改めてふたりに向き直るように後ずさった。そして高雄と愛宕のふたりに交互に目をやると、

 

「姉貴たち、本当に心配かけたな。すまなかった」

 

 泣きそうな声で深く頭を下げた。

 

「バカね、泣いたりなんかして。もういいのよ、こうして無事に元気な姿で帰ってきてくれたんだから。ね」

「もう、らしくないじゃない!摩耶なら私たちの前でも堂々としててよ!」

 

 姉たちの言葉が耳に入ってようやく、摩耶は顔を上げた。

 

「そっか、そうだよな!ははっ」

 

 摩耶は笑っていた。晴れやかというよりも、安心した顔をしていた。それも当然だろう。自分の心からの言葉が、願ってもない形で受け入れられたのから。

 ただ言葉には出さないまでも、摩耶の心は感謝の思いに満ちあふれていた。

 

 と、その時。愛宕が首をかしげながら、ふとつぶやいた。

 

「あっ、そういえば摩耶って、どうして帰ってきたんだっけ?」

「え?」

 

 高雄も摩耶も、キョトンとして愛宕を見つめた。

 

「どうしてって……明日、摩耶の大規模改装があるんじゃない!」

「あ、そうそう!」

「まったく、姉貴は相変わらずだな。よろしく頼むぜ」

 

 摩耶はやれやれ、といわんばかりにため息をついて言うと、そのまま続けた。

 

「そうだ、日向とかほかのみんなは元気か?」

「日向さんは柱島のほうに演習に行ってるの。たぶん夕方には帰ってくるんじゃないかしら」

「あたしのかわりに、また誰か育ててんだ」

「この前駆逐艦の子を五、六人くらい連れているの、わたし見かけたわ!」

「へえ……」

「今晩一緒にご飯食べる約束してるから、詳しい話はその時したら?」

「うん。また瑞雲の話、されんのかなぁ……」

 

 東沖島に聞く前には何度も聞かされた瑞雲談義が、今の摩耶には懐かしく感じられた。

 

 

 高雄の書類仕事が終わると、三人は呉鎮守府内の居酒屋、『三川荘』に向かった。

 摩耶は真っ先に店の引き戸を開いた。『三川荘』は居酒屋鳳翔よりも二回りも三回りも大きく、さらに二階まで席のある店で、主計科を勇退した艦娘が運営している店だった。

 店のランクとしては提督や秘書艦、そのほかのお偉方が行く割烹や料亭よりはいくらか落ちるが、それでも巡洋艦や軽空母、駆逐艦など一般の艦娘にとっては人気のある店だった。

 

 この日はあまり客もおらず、摩耶たちは大き目の座敷席をとることができた。

 だが日向が来るまでの間に何も注文しないのはお店にも悪いので、とりあえず一足お先に飲むことにした。

 それぞれ中ジョッキの生ビールを手に、愛宕が音頭をとる形で宴は始まる。

 

「それじゃあ、カンパ~イ!」

「乾杯!」

 

 明日の改装のことなど忘れてしまったかのように、摩耶はビールを一気に飲み干した。

  

「そうだ、姉貴たちは最近どうなんだよ。まだ転属とか言われてないのか?」

 

 摩耶が尋ねたのに、答えたのは高雄だった。

 

「まだ摩耶には言ってなかったわね。私、来年の春にシンガポールへの転属が決まったのよ」

「へえ、すごいじゃんか!」

「出撃するだけじゃなくて、修理や改装をする艦娘の管理も頼まれててね。今はその勉強をしてるの」

「ふーん、でもシンガポールっていったら、高雄の姉貴よりも愛宕の姉貴のほうが似合ってそうだけどだな。あそこイギリスの艦娘も多いし。なあ」

 

 話をふられた金髪蒼眼の姉、愛宕は照れたように答えた。

 

「そう?うふふ、でもわたし、あまり英語離せないし……」

「愛宕、私だって英語は、いま勉強しなおしてるところなのよ」

「あっ、高雄が最近よくわからない本読んでたの、あれ英語の本だったのね?」

「ずっと一緒にいて気付かなかったのかよ……。でさ、愛宕の姉貴はどうなんだよ?」

「私はまだだけど……こんな時代だし、どこかにお呼びがかかるのもそう遠くはないんじゃないかしら」

「だったらさぁ、姉貴も東沖島に来いよ!」

「え~、嫌よ」

「どうして?」

「どうしても」

「なんだよそれ……でもいつかは呉に誰もいなくなっちまうのか。なんだか寂しいな」

「もう、摩耶まで鳥海みたいなこと言って……」

 

 と、愛宕はそこまで言いかけて、口をつぐんだ。

 高雄と愛宕は、摩耶が呉に戻ってくるにあたって、できるだけ鳥海の話はしないように示し合わせていた。しかしここで愛宕がふとこぼしてしまったことで、どうにも話さなければならないような状況になってしまった。

 それでも話すのは気が引けるのか、高雄も愛宕も口をつぐんでいると……。

 

「そうだ、鳥海はどうしてる?地中海からは帰ってきたんだろ?」

 

 そんな状況を察したのか、摩耶のほうから聞いてきた。

 

「西方海域のカレー洋で掃討作戦をやってたんだって。一回改装で呉に帰った時にそう言ってたの。その後は、トラック泊地で艦隊旗艦をやってるみたいよ」

「そっか……よかった」

 

 どこか心配げな高雄たちに、摩耶は笑顔を見せた。だがその笑みはいつもの摩耶のはじける笑顔というよりは、安心した思いのにじみ出た、どこか陰のあるものだった。

 

「あの日のことが原因で鳥海のやつ、もうやめるなんて言い出したりしてないかずっと不安だったんだけどさ、それを聞いてホッとしたよ」

「もう、摩耶も意外に心配性なのね!」

 

 そんな摩耶に、愛宕は明るく返事をする。しかし摩耶はその隣で、高雄が俯いて小さくため息したのに気づいた。

 

 その時、店の勝手口方向から落ち着いた声が聞こえてきた。  

 

「高雄、すまないな、少し遅くなったぞ」

「日向!」

 

 摩耶は気持ちを切り替えるように声を張り上げると、座敷をおりて日向を出迎えた。

 

「摩耶、久しぶりだな。あの日のことは姉さんたちからさんざん言われてるだろうから、私からは何も言わない。無事に帰ってきたから全部帳消しだ」

 

 そんな日向のとなりには、駆逐艦が三杯立っていた。

 

「この駆逐艦たちは……?」

「いまさっきまで私が対空迎撃を教えていた子だ。今日はこの子たちも仲間に入れてやってくれないか。みんな、あいさつを」

「よろしくお願いします!」

 

 摩耶は可愛らしい敬礼をする駆逐艦たちに笑顔で答えた。

 

「つまるところ、みんなあたしの後輩ってわけだな。よろしくな!」

  

 摩耶は日向たちをつれて座敷に上がった。

 高雄と愛宕は頭を下げて、日向たちを迎えた。日向は摩耶の隣に座り、駆逐艦たちは向かいの愛宕の隣に座った。

  

「お忙しいところありがとうございます、日向さん。なに飲みますか?」

「そうだな……生にしようかな」

 

 日向が言った途端、駆逐艦の中でも背の高い、黒髪の少女、が元気に

 

「ならわたし、注文してきますね!」

 

 そう言って立ち上がると、カウンターのほうに駆け足で去っていった。

 日向はメニュー表を手にとると、一瞥してそのまま駆逐艦たちに渡した。

 

「みんな、今日は重巡の姉さんたちのおごりだから、好きなものを食べていいぞ」

「はい!ありがとうございます!」

「まあ、そういうわけだからさ、姉貴よろしく!」

「わかりました。みんな、遠慮しなくてもいいですよ」

 

 しばらくして黒髪の少女とともに帰ってきた店員に、駆逐艦たちは思い思いの料理を注文していった。

 楽しげに頼む駆逐艦たちの様子に、摩耶は目を細める。

 

「みんなたくさん頼むなぁ」

「あまり大勢で食べに行くことも最近なかったからな」

 

 答えた日向に、高雄が尋ねる。

 

「日向さん、この子たちとも何かつながりが?」

「この子たち、司令部からの紹介なんだ。世界各国の基地が深海艦からの空襲を受けているから、対空に特化した子たちを育ててくれと言われてな。でも対空迎撃を教えるなら、私以外にもっとうまい艦娘がいるはずなのになぁ。それこそ伊勢とか……」

「でもそれってさ、日向が司令部から信頼されてるってことだと思うぜ」

 

 摩耶がそう言うのに、日向ははにかみながら返した。

 

「そうか、摩耶もお世辞が言えるようになったか」

「まあな」

 

 摩耶も笑って返したその時、注文した料理が次々と運ばれてくる。

 鉄板のフライドポテトや鶏のから揚げ、シーザーサラダにそろそろ旬の終わりを迎える牡蠣のフライ。

 テーブルの上は、まるでパーティでの食膳のように華やかになっていった。

 

「それじゃ、私たちも、乾杯!」

「乾杯!」

 

 愛宕の声掛けと同時に、この場の全員がグラスをぶつけ合った。

 摩耶は再びビールを飲み干すと、宴を楽しむ高雄や愛宕、日向、駆逐艦たちの笑顔を見た。摩耶は長い間一人か、そうでなければ鳳翔としか食事をしたことがなく、大人数で食事をしたのはこれが久しぶりだった。

  今度こんなに大人数で飯を食うのは、いつになるだろうか。摩耶はそう考えると、

 

「おーい、生、もうひとつ頼むぜ!」

 

 声を張り上げておかわりを注文した。

 

 そしてその日の晩、摩耶は久々に普通の艦娘のように、寝台で眠った。

 今までずっと居酒屋鳳翔の二階や座敷に布団を敷いて眠っていた摩耶にとって、寝台で眠ることにどこか懐かしさを覚えた。そんな安心感と東沖島からの航海による疲れやほろ酔い気分のために、摩耶は消灯時間よりも早く眠りに落ちた。

 眠る摩耶の顔は、無意識のうちに隣の、かつて鳥海のものだった寝台に向けられていた。最後に鳥海と寝台の中から話をして、もう三年の月日が経とうとしていた。

 

 

 

 翌朝、空気のまだ冷たい鎮守府の中を、摩耶はひとりジョギングに励んでいた。

 昨夜の宴の後、摩耶は久しぶりに深い眠りについた。

 ただ、東沖島で鳳翔の手伝いをしていたために、鳳翔にならって他の艦娘よりも早く起きる習慣がついていた。それに、いよいよ改装の日が来たということもあって、気持ちが昂ぶっていた、ということもあっただろう。

  

 倉庫街のそばを通り、埠頭をかけ抜けていく摩耶。

 毎日体力作りのために走っていた、摩耶にとってはおなじみのルートだ。

 摩耶はかつての自分の姿を思いながら、前へ前へと走っていく。懐かしさと明日への希望の入りまじる思いが、摩耶の心を満たす。

  

 そんな摩耶は、ふと埠頭に面したベンチに、誰かがいることに気がついた。

 昨晩、日向の連れてきた駆逐艦のひとり、背の高い黒髪のポニーテールの駆逐艦だった。注文をする時にまっさきに取り次いでくれた少女だ。

 ベンチのそばに艤装を置いて、その細身の身体をしなやかに動かしてストレッチに励んでいる。

 摩耶が彼女の名前を思い出しながら近づくと、少女は摩耶に気づいたのか、敬礼をしながら挨拶をした。

 

「あっ、おはようございます!昨日はごちそうさまでした!」

「おはよう、えっと……悪い、なんていったっけ」

「秋月型、一番艦の秋月です!」

 

 早朝にもかかわらず、秋月は元気いっぱいに答えた。

 摩耶も息を整えながら、秋月のそばに近づいていった。

 

「毎日こんな早くに起きてるのか?」

「はい、日向さんの朝練の前に体操してるんです。もしよければこの後、摩耶さんも一緒に対空演習、しませんか?」

「悪いけどやめとくよ。あたしの艤装、昨日のうちに工廠に返しちまったからな」

 

 そんな秋月の足元でまるでペンギンのようにヨチヨチ歩いているのは、彼女の艤装の十センチ連装高角砲、通称長十センチ砲ちゃんであった。

 このように、一部の艦娘の艤装には、まるで生きているかのような反応を見せるものもいた。

 摩耶はこのような艤装を見たのははじめてであり、最初は驚いていたものの、見ているうちに次第にどこか可愛らしく思えてきた。

 

「この子たちとは、演習の時も寝る時もいつも一緒なんです」

 

 秋月は長十センチ砲ちゃんを一体、その細い腕に抱きながら明るく答えた。その足元では、もう片方の長十センチ砲ちゃんが、まるで抱っこをせがむかのように小さく飛び跳ねていた。秋月はそれに気づくと、たしなめるように声をかけた。

 

「はいはい、順番だから……そうだ、摩耶さんも、この子抱っこしてみますか?」

「えっ、いいのか?」

「はいっ!大丈夫です!どうぞ!」

 

 そう言って、秋月は抱いていた長十センチ砲ちゃんを摩耶の腕に移すと、もう一体の長十センチ砲ちゃんを抱きかかえた。

 摩耶の腕の中で、長十センチ砲ちゃんは小さな手足を動かしていた。その様子はたとえ艤装だとしても、まるで生きているようにしか見えない。

 その愛くるしさに、摩耶は自分の心が癒されるような思いがしたのか、思わず長十センチ砲ちゃんをぎゅっと抱きすくめる。すると長十センチ砲ちゃんはびっくりしたようで、摩耶の腕の中から秋月のもとに戻ろうと、小さな手足をじたばたしはじめた。

 

「ははっ、やっぱりそっちのほうがいいみたいだな」

  

 摩耶はほんのちょっぴり残念そうに、秋月の腕の中に長十センチ砲ちゃんを返した。

  

「この子たち甘えん坊で、昨日もご飯食べに行く前に宿舎においていくのに大変だったんです」

 

 秋月は左右の腕に長十センチ砲ちゃんを抱きながら、ベンチに座った。摩耶も秋月の隣に座る。

 摩耶も秋月も、昨晩の酒席では一対一で話すことはなかった。やはり大人数での飲み会の席では、あまり深入りした話はしづらい。その上、途中から愛宕からの無茶振りをきっかけに戦艦から駆逐艦までひっくるめての一発ギャグ大会が始まってしまったため、そんなことを話すテンションではなかった。

 そんなこともあって摩耶は良いチャンスとばかりに、昨日秋月に話せなかったことを聞いてみた。

 

「秋月はさ、日向のこと、どう思う?」

「いつもみんなのことを気にかけている、本当に頼りになる先輩です!」

「……瑞雲の話とかよくされてるだろうけどさ、ちゃんと聞いてるか?」

「はい!毎回すごく勉強になってます」

 

 秋月は屈託のない笑顔で答えた。

 そんな秋月の純粋さが少し不安になったのか、摩耶はやんわりと日向の瑞雲の話について説明しはじめた。

 

「日向の瑞雲の話、ためになるけど同じ話を何回もするときあるんだよな。あたしもフロートの話を何回聞いたかわからないぜ。たぶん十回以上は聞いてると思う」

「そうなんですか……気をつけます」

「まあ、気をつける、とまでいかなくていいけどさ、その時になってうまく相手すれば大丈夫だぜ」

「はい!ところで摩耶さんが日向さんのもとで演習を始めたのは、防空巡洋艦を目指してたからですか?」

「うーん……別にそういうわけでもないなぁ」

 

 摩耶は腕を組んで答えた。

 

「あたし神戸にいた時、伊勢っていう日向の姉貴と知り合いでさ、呉に来た時に紹介してもらったんだ。そこからは鍛練の時間とかで一緒だったんだけど、せっかくだから対空戦についてとか、いろいろと教えてもらおうと思ってな。本当のこと言うと、あたし実は防空巡洋艦うんぬんってより、まずは自分の艦隊を持ちたかったんだよ」

「巡洋艦でそう考えてる方、やっぱり多いですよね」

「まあな……。秋月はさ、防空駆逐艦になりたくて日向のところにきたんだっけ。やっぱり対空が得意だったからか?」

「はい。それもあるんですけど……」

 

 秋月は長十センチ砲ちゃんを降ろし、自分の両隣に座らせた。

 

「私、同じ艦隊の皆さんをお守りしたいって、ずっと考えてきたんです。一緒に練習してる他のみんなもそういう子たちばかりで……摩耶さんも、そういうお気持ちってありませんか?」

「あたしは、よくわかんねぇな。守りたいとかって思わないことはないんだけど、なんか違うっていうか……。あたしだけが少し変わってんのかもしれないけどな」

「そんなことないですよ、大丈夫です!だって、この子を抱いたときの摩耶さん、本当に優しいお顔をしていましたから」

 

 秋月の言ったその言葉に、摩耶はどきりとした。

 そんな摩耶の隣で秋月は、膝に乗ってきた長十センチ砲ちゃんの頭を撫でながら続けた。

 

「誰かを守るって、心の優しい人じゃないとできないって私思うんです。だから摩耶さんにもきっといつか、誰かを守りたいって思える、そんな自分を好きになれる日が来ますよ」

 

 摩耶は秋月の言葉を聞きながら、じっと黙って下を向いていた。

 

「摩耶さん?」

 

 そんな摩耶の顔を秋月が覗き込むように見た時、摩耶は言葉をこぼすように言った。

 

「あたしは、優しくなんかねえよ」

 

 そして秋月の返事を聞かないためなのか、間髪入れずに、

 

「お前は立派だな、秋月。他の駆逐艦でここまでのこと言えるやつってそうそういないぜ」

 

と続けた。

 

 それでも秋月は嬉しそうに、

 

「ありがとうございます。私、このことだけは本当だって信じてるんです」

 

 目を輝かせながら答えた。

 ここまではっきりと言い切れるのは、本心からそうだと信じている何よりの証だった。

 自分の軸があって、そしていつも明るく、素直に感情が出せる。

 摩耶は、そんな秋月のことがうらやましく思えた。

 

 その時であった。

 

 突然鎮守府全体に、耳をつんざくようなサイレンが鳴り響いた。

 まるでまだ眠りの中にあった呉鎮守府を、完全にたたき起こすかのような響きだった。

 

 ベンチに座って、あれだけ楽しげに話をしていた摩耶と秋月の表情も、一気に固くなる。

 

「空襲警報か……?」

「そうですね」

 

 洋上の深海棲艦からの本土への空襲は、これまでも横須賀やその周辺などで例があった。しかしいずれもこちらが制海権および制空権を確保した状態での攻撃だったため迎撃に成功し、損害も抑えることができた。今回も足摺岬沖の洋上で警備をしていた駆逐艦や海防艦からの連絡で、空襲警報が発令されたのだろう。

 しかし油断はできなかった。先のタラント港などの空襲は近海の制海権および制空権を確保した状態であったにもかかわらず、泊地の機能を大きく破壊されるほどの被害をこうむった。原因は目下調査中であったが、より高性能の艦載機による空襲や、敵潜水艦からの艦載機での空襲が同時に行われたのではないかなどさまざまな憶測が出るばかりで、事実はいまだに判明していない。

 とにかく、この呉鎮守府がタラント港の二の舞になる可能性は十分にあった。それゆえに摩耶も秋月もゆったり構えることはできなかった。

 秋月は背中に艤装を背負いながら、摩耶に声をかける。

  

「摩耶さんは防空壕に避難してください。他のみんなが来るまで、私が食い止めます」

「でも……お前ひとりで本当に大丈夫か?」

「迎撃は沿岸警備の子たちとも合流して手伝ってもらいますし、私たちだけでもある程度の時間稼ぎはできるでしょう。私のことより、今は自分のことを第一に考えてください。それでは」

 

 秋月は艤装に長十センチ砲ちゃんが乗ったのを確認すると、摩耶に敬礼をしてそのまま埠頭から海へと飛びだしていった。

 摩耶はただ、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 

 足摺岬沖で艦載機が確認できたとすれば、呉鎮守府まで飛んでくるのにざっと二十分。それまでに秋月のもとに日向たちも来れるだろうし、防空壕に避難するのにも十分時間はある。

 

 摩耶は司令部の方角に向けて歩みを進めた。警報が発令されたことで、すれ違う艦娘の数も増えてきた。ただ、摩耶と同じ方向に向かう艦娘のほとんどが輸送艦で、摩耶と同じ戦闘艦はほとんどが埠頭の武器庫の方角に向けて駆けていった。

 

 その流れの中で、摩耶はひとり秋月のことを考えていた。

『優しい顔でした』と言ってくれた秋月の笑顔。腕にひしと抱いた長十センチ砲ちゃんから感じた息吹。

 もし万が一何かあれば、もう二度とその感覚に触れることはできない。

 

 それに、自分と同じ方向に逃げるのが輸送艦ばかりなのも気になった。

 本来なら、戦闘艦である自分が守るべき連中だ。そんな奴らと一緒に、自分が逃げていてどうすんだ。

 東沖島でのできごともあったためか、摩耶の瞳は闘志に燃え上がった。

 

 あたしの腕を、ようやく試す時が来たんだ。やってやろうじゃねえか、この野郎。

 

 そう思った摩耶が、武器庫に向かおうとした、その時だった。

 

「摩耶!どこ行くの!?」

 

 サイレンの切れ目に聞こえた呼び声に、摩耶は振り向いた。声の主は愛宕だった。

 高雄もその隣で艤装を背負い、いつでも戦える準備ができていた。

 

「何してるの!?早く防空壕に避難して!」

「いや、あたしだって戦うよ。この格好でも機銃くらいは使えるからな」

「馬鹿言わないで、艤装が無きゃ海に出れないじゃない!陸の上で戦うにしても海の上みたいに速くは動けないし、回避行動だってとれないのよ」

「だけど、秋月がもう港に出てる。これから姉貴たちも行くんだし、日向だって行くんだろ。こんな時に、あたしが行かなくて誰が行くんだ」

「摩耶、私が許しません」

 

 断固として摩耶に戦わせまいとする高雄の顔を、摩耶はまるで睨むかのように見つめながら言い返した。

 

「またかよ!いつもいつもあたしばかりのけ者にされて……あたしだって艦娘だってんだよ!」

「でも、それで摩耶が傷ついたら、話にならないじゃないの!せっかく帰ってきてくれたのに……」

「……!」

 

 愛宕の言葉に何も言い返せず、奥歯を噛みしめた摩耶に向かって、高雄はたしなめるように語りかける。

 

「摩耶、あなたはサナギよ。今はあともう少しで蝶になって大空へはばたく、それまでの大切な時期なの。今日だけは私の言うとおりにして、後方にさがっていて頂戴」

 

 摩耶はしばらく黙っていたが、小さく頷いた。

 高雄と愛宕はそれを確認すると、

 

「心配しないで、私たちだってやれるってところ、摩耶に見せてあげるから。またね」

 

 微笑んでそう言い残し、埠頭の方角へと駆けていった。  

 

 ひとり取り残された摩耶はサイレンの響く中、大空を見上げた。

 先ほどの高雄の言葉を、思い返していた。

 

 偶然にも摩耶は昔、朝のジョギングの途中で蝶の羽化を見たことがあった。

 朝露の中で少しずつ美しい蝶に変わり飛び立っていくその姿に、艦隊旗艦を目指し日々努力していた摩耶は勇気づけられた。

 

 姉貴、何もわかってねえな。

 サナギってのは、自分の力で殻を破って外に出て、蝶になるんだ。

  

 そう思った瞬間に、摩耶の心に胸騒ぎのような、熱いものがわきおこった。摩耶は昂ぶる思いを落ち着けるように息をつくと、心の赴くままに歩みを進めた。振り向くことなど、考えもしなかった。

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