北大阪 千里山高校にて 作:JP
その日は特筆して語るようなことはない普通のある春の平日だった。まぁ、あえて何かを付け加えるのであれば、四月にしては少しだけ気温が高く、暖かいというよりも少し暑いと感じる日だった。空にはこれでもかというほどの快晴が広がり、白い雲は視界の片隅に申し訳ない程度に映るばかりで、雨が降る気配を微塵も感じさせなかった。本日は晴天なり。
そんなある日の朝、俺はひたすらに自転車を漕いでいた。
格好は我が千里山高校男子の制服である学ラン。そして自転車の前かごにはペラペラのカバン。教科書一式を全て学校の引き出しに叩き込んでいるため存在理由が特にない学校指定のカバンが申し訳なさそうに自転車を漕ぐ振動に合わせて揺れていた。
――あぁ、もう何で朝からこんな運動をしなきゃならねーんだよ。
心の中でそう悪態をついてみる。四月にしては気温が高いせいか額には少しだけ汗が浮かんでいた。
我が千里山高校はその名前が示すとおりに山に存在する。最寄りの駅から高校近くまでは緩やかな坂が延々と続いており、そして高校近くになるとその坂が一気に急になる。「登校ついでに登山も出来る高校が千里山だ」、そんなジョークがある高校は数多くの高校がある大阪と言えでもここくらいじゃないだろうか。
そんな千里山高校への通学に自転車を選んだことを後悔するようになるためには三日も在れば十分だった。うちの最寄りの駅から三駅、電車で行っても自転車で行っても時間差はそれほどなかったため、お金の掛からない自転車にしたのだが、学校へと向かうたびにその選択は間違えだったのではないかと思う日々が始まった。
一年生の頃は学校に向かうたびに心の中でこの坂道の不満を何十回と呪いのように吐き出していたが、それも二年もすればこの坂道にもなれ、最近は少し悪態をつくだけで済むようになった。
心の中で悪態をつきながらも自転車をこいでいると目の前の交差点の信号が赤に変わった。ブレーキを握ればキーと少しさび付いた音を立てて自転車は止まった。
――はぁ。
そこで息を一つ吐き出す。緩やかとは言え、上り坂で一度自転車を止めてしまえば、また漕ぎ始めるのは労力が大きい。もう、最寄りの駅は過ぎている。後は緩やか上り坂とまるで登山をしているような校門前の急斜面しかない。それならもうここで自転車を降りて押して行こうか。
そんな考えが脳裏に浮かぶ。
左手に巻いてある腕時計を確認する。十時三十三分。アナログの飾り気のない時計は無情にもその時間を指していた。
先ほども言ったが今日は特筆して語るような日ではない。ある晴れた春の平日だ。もちろん、学校も平常運転である。つまり、これが指し示す現実は遅刻という二文字だ。起きた時には既に九時半を回っていた。
――どうせ遅刻なら、ここから自転車押していくか。
急いで行けば間に合うなら兎も角、こうなれば自転車を押して歩いても、自転車を漕いでも変わらない。どうしようもなく遅刻は遅刻だ。その二文字が変わることはない。変わるとすれば同じ二文字の欠席か、三文字のサボりに変わるだけだ。
どうせ今から急いで向かったところで説教は待っているだろうし、それなら、体力温存も兼ねて自転車を押して行った方がいい。
――うん、そうだな。ここからは歩こう。
そんな結論に俺が達した時だった。
「あっ先輩」
背後から声を掛けられた。
聞き慣れた線の細いながらも優しいソプラノの声。後ろを向けば予想通りの奴がいた。綺麗な黒髪のショートヘアに陶器のような白い肌。十人見れば九人は美少女と言うであろう整った顔。少し不健康的に体の線が細い彼女は俺と目が合うと二コリとほほ笑んだ。
「なんだ、怜か」
彼女は名は園城寺 怜。俺の一つ下の後輩だ。
「何だとは何です。こんな美少女高校生の怜ちゃんに朝から会えたんですからもう少し喜んでくれてもええんですよ」
「誰が美少女高校生だ。鏡でも見てこい」
「えー、つれないですよ先輩」
怜は俺の返しが面白くないのか頬を膨らませる。そのあざとい動作でさえ怜のような美少女がやると画になるから卑怯だ。人間やはり外見だということだろうか。人は皆、平等だとはよく言うが、その言葉は嘘に違いない。
「つれなくて結構だ」
どうせここで乗ったらコイツがつけあがるだけだ。それくらいの事は手に取る様に分かる。何といってもコイツとの付き合いは無駄に長いからな。腐れ縁と言うべきかそれとも何かの因縁とでも言うべきか、もうかれこれ数年も後輩と先輩という関係を続けていれば分かる。
「むー」
「膨れても無駄だ。それよりも、お前こんな時間にどうしたんだ? 病院か?」
またしてもあざとく頬を膨らませている後輩を無視して聞いてみる。
「あぁ、うん。そうです」
御淑やかな見た目にしたたかな性格と、外見と中身が合っていない可愛くない後輩のコイツだが、健康面に関していえば、見た目のまま少し体が弱い嫌いがある。小さい時からよく体調を崩し、酷い時では入院する時すらあった。
「大丈夫なのか、体の方は?」
「ええ、何とか。最近は調子いいです。それよりも、先輩は寝坊ですか?」
本当に体の調子は良いようで、何時もより張りのある声で怜は笑う。その笑顔はどこか含んだような笑顔だった。
「お前、それ俺が寝坊したの分かってて聞いただろ」
「いえいえ、そんなことないですよ」
そう言って怜はまた笑った。何がそんなに楽しいのやら、その楽しさの一パーセントでも俺に分けて欲しいものだ。
「じゃあさっきの含み笑いは何だ?」
「いや、あれですよ。朝から先輩とお会いできて嬉しいなーって思ってたんです」
「嘘をつくならもう少しバレない嘘をつくべきだぞ」
「あっ、そうですか? それなら次からの参考にしますね」
そう言いながら彼女はコロコロと楽しそうに表情を変える。朝から楽しそうで何よりだ。
そして、彼女はひとしきり笑うと、
「先輩、ここで会ったのも何かの縁ですし、学校まで送ってください」
と、病人にはとても見えない軽快な動きで俺の自転車の荷台にちょこんと腰を掛けた。止めることも出来ないような早業だった。
「ダメだ。降りろ」
「えぇ、つれないですよ先輩。ほら、うち病弱ですし、校門まで送って行っても罰当たらんと思います」
「病弱なら尚更歩いて体力をつけた方がいいな。ほら、歩け」
「えぇー、送ってくれてもええじゃないですかー! ほら、美少女高校生怜ちゃんと二人乗り出来るんですよ! 男子高校生なら涙を流して喜ぶ場面とちゃいます?」
「だーっ、もう抱き着くな、ただえさえ今日は暑いに余計暑くなるだろ! それにここから先は上り坂しかないのに何でお前まで乗っけていかないといけないんだよ!」
それにだ、もしも怜と二人乗りなんてして学校に向かってみろ。もしもバレたら怜を狙っている男子生徒一同から抹殺されかねん。本人には死んでも言ってやらないが、コイツは中身は兎も角、外見上は非常に整っている。外見だけ見れば間違いなく美少女の部類にはいる。そんなのだから、怜は千里山高校の男子に人気がある。一年年上の俺の同級生の間でも人気なのだ。それが怜と同級生ともなれば、いうまでもない。
「ぶー!じゃあ、先輩は可憐で病弱の私を置いてさっさと先に行くんですか?」
「何だよ、その不満げな目は……」
「いえ、何も……」
怜はそうぶっきらぼうに言うと、ゆっくりと自転車の荷台から降りた。
「…………」
すんなりと地面に降り立った怜の横顔には少しだけ憂いの色が見えた。
――はぁ。
小さくため息をついて自転車から降りる。目の前の信号は既に二回目の赤色を示していた。
「先輩、どうしたんですか? 自転車から降りて」
「いや、別にここから先は上り坂しかないし、どうせ遅刻は変わりないしな。それなら歩いていこうと思ったんだよ」
怜と目が合う。
そして、彼女はしばらく何かを考えた後、
「なんだ、やっぱり美少女高生の怜ちゃんと登校したいんですね」
そう言ってニコリとほほ笑むのだった。
「言ってろ」
「ふふっ。それじゃあとりあえず行きましょ、先輩」
信号が三度目の青に変わった。無駄に付き合いの長い後輩と同じ歩幅で横断報道に踏み出す。どこからか桜の花びらが飛んできた。そう、季節は春、出会いと始まりの季節だ。
こうして、俺のある春の一日は始まった。ちなみに、この後、学校で遅刻したことについて担任の愛宕先生にこっぴどく絞られることになるのは言うまでもないだろう。