――頼■■す……イグド■■ル■■の原■を。私■代■■■調■■。……■■か。■うか。
奇妙な声が聞こえる。
男性のような、女性のような。いや、そもそもが声などという音ではなく、まるで文字が直接脳に刻み込まれてくるかのような。
――どうか。
そんな、不思議な現象。だが、それでも。それは確かに声だった。
「あれ?」
そんな声が聞こえたのと同時に、彼は目を覚まして――直後、悪寒を感じた。同時、背後で甲高い音が鳴り響いた。いたるところから悲鳴上がった。
「っ」
それはほとんど生存本能から来るものだった。彼はその場から飛びずさる。視界の端に、数人の男女が自分と同じようにしていたのが見えた。
瞬間、目の前を高速で過ぎ去る、影。次いで感じる、風。見れば、慌てたように過ぎ去っていく大型トラックの姿があった。
つまり、彼は道路のど真ん中で呆然自失していたということなのだが――。
「……」
彼は周囲に目を向けた。ビルの立ち並ぶ渋谷の街の中、ざわめく人々。先ほど視界の端に見えた者たちも、無事なようだった。しかし、それにしても。
道路の真ん中で呆然自失するのが流行っているのだろうか、とそうぼんやりと考えた彼は首を振った。道路、それも渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で呆然自失とするのが流行りなどありえないからだ。
「ふぅ」
そこまで考えて、彼はようやく冷静な思考が戻ってきたのを感じていた。危機が去ったことを感じて、身体が生きているということを実感したからだろうか。
荒い呼吸が、唸る心臓音が、自分が生きていることを証明していた。同時、「ん?」と疑問に首を傾げる。
自分の手を見た。足を見た。身体を触って、頬を抓った。痛かった。
「いやいやいやいや、なんで!?」
周りの人々が奇妙な目で自分を見てくることにも気に止めず、彼は混乱のままに叫ぶ。ともすれば、ただの変質者だ。
だが、他人にどれほど奇異の目で見られようと、そのことに気づけないくらいに彼は混乱していた。
まあ、それも彼の事情を知れば当然だった。誰だって、
「小さい!」
彼の体は十歳かそこらまで若返っていた。若返りと言えば若返りだが、それにしても限度があるレベルだ。
なぜこうなった。彼は頭を抱えるが、いくら考えてもわからない。
記憶を手繰る。だが、それらしき記憶は見つからない。それだけではなく、前後の記憶があやふやだった。
小学生の時、かの世界を旅したことは覚えている。それ以外にも、さまざまな記憶がある。けれど、今の自分が何歳で、一昨日昨日と何をしていたのか。そんな直前の記憶が彼には思い出せない。
「なんで……! いや、落ち着け。ふー……ふー……」
意識して息を整えて、無理矢理にでも冷静になることを努める。
見た目相応の頃ならいざ知らず、歳をとった今ならこれくらいは出来るのだ、出来るはずだ。考えて、心を落ち着かせる。
「とにかく、現状確認だ」
ポケットを漁る。だが、ポケットの中で突っ込んだ手が虚しく空を切るだけ。身体中のどのポケットも似たようなものだった。
唯一の持ち物は、手のひらサイズの小さな機械だけ。とはいえ、役には立たないが大切なものだ。彼の相棒である“彼”との繋がりを証明するモノだから。
「これがあるだけマシか」
これがあるだけで、今の異常事態が何でもないような気になる。そう思えて、彼は元気に笑みを浮かべた。
「あれ?」
ふと、その機械が熱を持った気がした。何となしに、彼は顔を上げる。
少し先、数人の男女の中に、黄色いズボンに黒いTシャツを着た赤い髪の少年がいる。
「まさかね」
機械が熱を持ったのは、その男の子に気づかせるためだったような気がした。
行くべきだ。それが自分が生き残るためには一番良い。彼の生存本能が、そう告げていた。
「それじゃ、一旦事務所に戻りましょう」
「そうね。ああっ! それにしても今回はすごいわ! まさか異界に迷い込めるなんて! それにあの女性や少年! まさに幽霊であるかのような――」
「こうなると部長は本当に長いよね」
談笑しながら歩いていく彼らを、慌てて追いかけた。ここで見逃せばどうなるかわかったものではない。
「あのっ――」
しかし。
「お前さんちょいといいか?」
そんな彼を呼び止める、低い声。同時、彼は後ろから肩を叩かれた。
思いもよらない方向からの刺激に、彼はビクッと肩を震わせて振り向く。そこにいたのは、軽く着崩したスーツに、深緑色のコートとベレー帽を被った男性だった。
「俺ぁこういうもんだ」
「げっ」
そう言って男が見せたのは、警察手帳。又吉吾郎と書かれたそれは、この上ない身分の証明となる物品だ。役職も合わせると又吉警部ということになる。
「あいつらにも話を聞きたいところではあったが……ま、あいつらの行く先はわかるからな、後回しだ。まずはお前さんだ」
又吉警部が彼だけに話しかけてきたのは、言わずもがな、小学生くらいの少年が道路で交通事故を起こしそうになった上に、
まあ、犯罪を未然に防ぐという意識と親切心からの行動だ。
「お前さん、何であんなことした? ワケありか? まさかそんな歳で世間に嫌気が差したとか、そんなことはないだろう?」
「……そりゃ、まぁ、もちろん。オレは生きているんだ。自殺なんて、それだけは絶対に死んだってするもんか」
「へぇ。そりゃあ良い心がけだ。それじゃ、何であんなことした?」
「それは……」
「それに、俺ぁ少し前からあの道路を見ていたが、どうにもお前さん
「……むぅ」
彼もどう自分のことを話していいのかわからなかった。
いつの間にか交差点の真ん中にいて轢かれそうになり、しかも若返っていて、記憶も微妙にあやふやです。誰もこんなことを信じてはくれないだろう。
とはいえ。何も核心に迫ることを話せない、というのは不審に思われるだけだ。
「そうか。じゃあ、お前さんの名前は?」
「オレは……堂本コータ」
そうして、彼は自分の名前を名乗る。
「ふむ、コータね。良い名前だな」
「どうも」
「それじゃ、次だ」
コータはその後も又吉警部の質問に答えていくのだが――どうしても、年齢やその他諸々答えられない質問が存在していた。
先ほどの現象からして、この受け答えからして、何か特殊な事情がある、と又吉警部は察したのだろう。
「お前さん、ちょいと着いて来てもらうぞ。何、悪いようにはせんから」
彼はコータを連行することにした。
「……わかりました」
警察から逃げられるはずもないし、逃げてもいいことはない。だからこそ、コータは又吉警部についていくことにする。その中で、自分の見たこともない携帯を何度も又吉警部が使っていたのが、コータの印象に残っていた。
「さて、車で移動するぞ」
車に乗せられて、移動する。
パトカーではなかったが、覆面パトカーかもしれない。なんとなく自分が犯罪者になった気がして、コータは緊張した。
「どこへ行くんですか?」
「署だ。何、安心しろって。俺ぁ、お前さんみたいなはみだしもんの扱いは慣れてんだ。取り調べにはちゃんとカツ丼出すぞ」
「えっ」
「あっはっはっ。冗談さ、冗談! お前さん、ずいぶんと緊張してるみたいだからなぁ」
「そりゃそうでしょうよ!」
豪快に笑う又吉警部は、本当に手馴れている感があった。
「警察の人ってもっと怖いイメージありましたよ」
「そりゃ、そうする必要がある相手にはそうするさ。グレてもいない、何もしてない、お前さんみたいな子供相手にそんな対応してどうなるってんだ」
「何もしてないって……何かしたから連れてかれてるんじゃないんですか?」
「お? 自白するか?」
「あっ。そんなわけない! 何もしてないです!」
「ま、安心しろや。お前さんみたいなやつを見捨てるわけにはいかねぇからな。お、電話だ。ちょいと失礼」
片手でハンドルを動かしながら、彼はもう片方の手で器用に電話する。
「おう、俺だ。頼んでおいた……ん? んん? あぁ?」
その表情はだんだんと不可解な何かを聞いたような、そんな厳しいものへと変わっていった。
信号待ちで停止した時、電話を切って、画面を少し眺める。「やっぱりな」と又吉警部は呟いた。
「どうかしたんですか?」
「俺の推測が間違っていなかったことがわかったのさ。お前さんは相当変わった事情があるみてぇだ。尚更、署まで行くわけには行かねぇ」
「えっ」
電話で一体何を聞いたというのか。自分すら知らないことを知ったのか。コータは気になった。だが、又吉警部が教えてくれそうな気配はない。
「安心しろや。だから、こういう時に頼りがいがある場所を頼ることにした」
「頼りがいのある場所?」
そして、車はどこにでもあるコインパーキングで停められた。
「行くぞ」
又吉警部はコータを連れて歩いて行く。
着いたのは、中野ブロードウェイだった。上層に集合住宅が、下層にいくつもの店が集まる、大型の建物である。
コータは来たことがなかったが、その存在だけは知っていた。
だが、知っているからこそ解せない。又吉警部の言う、“こういう時に頼りがいのある場所”とやらがこんな場所にあるとは、コータにはとても思えなかったのだ。
このまま着いていってもいいものか。そんな疑惑を覚えながらも、コータは又吉警部についていく。
「ここだ」
「ここは……」
彼らが止まったのは、“暮海探偵事務所”と書かれた場所だった。
「探偵事務所?」
「おう、そうだ。ここの探偵とはちょいと知り合いでな。それなりに頼りにしてるのさ」
「……普通、警察と探偵ってウマが合わないというものでは? 同業者ですし」
「ハッハッハ! 俺ァ見ての通りはみ出し者でな。じゃなきゃ、お前さんの言う通りさ」
直後、複数人の学生らしき男女が扉から出てくる。おそらくは客なのだろう。どうやら、この事務所は探偵にありがちな客不足とは無縁のようだった。
というか、どことなく見覚えが有る。先ほどの交差点にいた、彼らだ。
「やっぱりか。ま、今はお前さんのことだ」
去っていくその学生たちを見送って、コータに入口で待つように告げてから、又吉警部は探偵事務所の中に入っていった。
「……むぅ」
コータは手持ち無沙汰になってしまった。
だから、というわけではないが――少し好奇心が働いてしまった。
「よいしょ、っと。ま、聞こえるわけないか?」
扉に耳をつけて、中の会話を聞く。まあ、傍から見ているとだいぶ怪しい。コータの見た目が小学生相当でなければ、きっと通報されていただろう。
とはいえ、彼自身もわかっていた通り、流石に中の会話を聞き取ることはできるはずもなかったのだが。
その一方で。
「おう、何やら客が来てたみたいだな。キョウちゃん、今いいかい?」
探偵事務所の中へと入った又吉警部は、中で寛いでいた金髪の女性と、高校生くらいの赤髪の少年に会っていた。
「又吉警部! こんにちは」
「おや、おじさん。依頼ですか? ええ、いいですよ。どうぞ座ってください」
又吉警部にキョウちゃんと呼ばれた金髪の女性は、又吉警部を来客用のソファーへと促した。
この部屋内は、テレビやパソコンのような日常家電もあれば、ホワイトボードや相当数のファイル資料もある。だが、部屋の真ん中に置かれた向かい合ったソファーと机だけは綺麗だった。
「おう、ありがとな。依頼内容を簡単に言うと、少年を一人預かって欲しいんだよ」
「……ウチは託児所ではありませんよ、おじさん」
「少年といっても……ワケありでな。こっちにまわす方がいいと思った」
「ワケあり? ほう」
「そうだ。本人に聞かせるのも忍びないんでな」
又吉警部の口調からして、そのワケは本人も知らないということなのだろう。本人も知らないワケ有り。正直言って、金髪の女性も興味をそそられた。
「くれぐれも本人には言わないでくれよ」
二人に他言無用の念を押して、又吉警部は話し出した。
「怪しいと思ったんで、そいつの名前をちょいと調べてもらったんだよ。そしたら……」
「そしたら?」
「……そいつ、
「老衰? 少年ではなかったのですか? ……いや、だとしたら偽名を騙っているという線も……――」
「写真を送ってもらったが、そいつ自体は数年前に死んだ奴と瓜二つなんだよ」
「でしたら、孫とかですか?」
「どうだろうな。信じられない話だが、俺の勘は
勘。普通ならば信じるに値しないものだ。いくらなんでも、死人が若返って生き返るなどありえないのだから。だが、それでも又吉警部はそれを信じる気になった。
「少なくとも本人に関係する誰かで、当人は自分をその人物だと思い込んでる」
そういう事情があったから、彼はここを頼ってきたのだ。
「……ふむ。それは気になりますね。それで? その本人はどこに?」
「扉の前に待たせてある。ちょっと待ってろ。今連れてくるから」
「いえ、それには及びませんよ。おい、君の出番だぞ。助手くん」
「はいはい、わかりましたよ」
助手くんと呼ばれた赤髪の少年は、やれやれといった様子でドアの下まで向かっていく。その様子には慣れが感じられる。普段からこうであるのだろう。
「さて……さ、て?」
ドアまで歩いた少年は、そのままドアを開ける。その瞬間に――ゴン、と鈍い衝撃がドアの取っ手を持つ少年の手に伝わってきた。
慌てた少年がドアの向こうを見る。そこにはコータが頭を抑えてうずくまっていた。
「ちょ、ごめん! 大丈夫!?」
「いや、オレも馬鹿なことしてた……!いてぇ!」
あれからコータは盗み聞きなどできないのにずっと扉に張り付いていて、少年が開けたドアに頭をぶつけた。それだけのことである。
頭を摩るコータ。まあ、自業自得であるのだが、そんなことを少年が知るはずもない。少年には哀れなことだが、この状況では少年の方が悪いと見られても仕方がなかった。
この場に人が通らず、現場を見られなかったのは少年にとっても、コータにとっても幸いなことだったと言える。
「遅いぞ、依頼人を待たせるな」
「何かあったのか?」
ドアのところにいるままでいつまで経ってもコータを連れてこない少年に、不審がった又吉警部と金髪の女性がやって来た。
「おい、頭をぶつけたのか? ……あぁ、なるほど。お前さん、ドジ踏んだなぁ。ま、自業自得だろう。よし、紹介するよ。こいつがさっき言ってた――」
「っ!?……コータ?」
「え?」
又吉警部が紹介するよりも早く。金髪の女性が呆然と呟いた。コータ、と。知らされていないはずのその名前を、確かに言った。
「なんだ、知り合いだったのか?」
「いや、こんな美人は知り合いにはいない、はず?」
そういうコータは自信がなさそうだった。その目が頼りなさげに揺れている。
「どういうことだ? 別人? いや、しかし……」
「杏子さん? と、とりあえず中へ入りましょう?」
「あ、ああ。そうだな」
赤髪の少年の言葉で、中に迎え入れられたコータだったが、どうにも落ち着かなかった。理由は、先ほどから金髪の女性がジッと見てくるからだ。
一応、コータと金髪の女性は初対面である。初対面のはずである。だというのに、何故か妙に気になる。
「……」
「……」
結果、金髪の女性とコータは互いに互いを見つめ合うような形となっていた。
「初々しい二人のお見合いみたいですね……。それにしては歳が離れすぎてますが……又吉警部、どうします?」
「どうするもないだろう。お前さん、何とかしてくれ」
「えぇ……」
呆れた様子の又吉警部に押し付けられて、少年は金髪の女性の肩を叩く。
女性は恥ずかしそうに咳払い一つ、ようやく再起動した。
「と、とりあえずようこそ、暮海探偵事務所へ。私はここの所長の暮海杏子だ」
「ボクは助手の相羽タクミ。よろしく」
「オレは堂本コータだ」
「ふむ、やはり……それでだ。コータ」
「……?」
「又吉警部から君をここで一時的に預かる案が出ている。私としてはもちろん大歓迎だが……君としてはどうだ?」
先ほどと言っていることから一転して、杏子は歓迎ムードを顕にする。杏子の急激な意見の変化に、タクミも又吉警部も戸惑うしかなかった。
「あれ、さっき託児所じゃないって……」
「おい、キョウちゃん? いや、こっちとしては願ったり叶ったりなんだが……」
戸惑う二人を置いておいて、コータは考える。
先ほどから感じる懐かしい感じ。そして、自分を取り巻くこの不可思議な現象の数々。それらを総合して考えていると、ふと杏子が期待しているような目で自分を見てきていることにコータは気づく。
その目に負けたわけではない。決して負けたわけではない、が。
「わかった。世話になる。よろしくな、杏子」
結果として、彼は杏子たちの世話になることを選んだ。
「そうか! それは良かった!」
杏子の喜び様はすごいものだった。付き合いの長い又吉警部すら数えるくらいしか見たことがないほどの上機嫌さだった。
「え? 杏子さん、よかったって……?」
「ふふふ。そうと決まれば歓迎会だな。コーヒーを入れよう!」
「うぇ!? ちょ、杏子さん! それは……」
「キョウちゃん、俺はお暇するとするよ。他の仕事もあるんでな」
「え? もうですか? コーヒーは?」
「いい! コーヒーはいいよ! ……コータ。連れて来て難だが、コーヒーには気をつけろ。それと坊主」
「……はい?」
くいくい、と又吉警部はタクミを手招きし、杏子に聞こえないような位置に呼ぶ。
険しい顔で小声で話す又吉警部を見て、自然とタクミも表情を固くした。もしや、コータにはまだ何かあるのかと。
「俺はここ数年……コーヒー以外であんなにテンション高いキョウちゃんは見たことねぇ」
「そうなんですか?」
「ああ。……まさかあのキョウちゃんがああいう趣味だとは思いたくはないが……」
「……趣味?」
何のことかわからなかったタクミだが、「まさかっ?」と愕然とした様子で気づいたようだった。
二人はこっそりと杏子たちのいる方へと視線を向ける。
「コーヒーのリクエストはあるかね?」
「うーん。とりあえずお任せで」
「ほう?」
「杏子が一番良いと思うのなら間違いはないだろうし」
「っ。嬉しいことを言ってくれる。待っていたまえ、現状最高のコーヒーを入れて見せよう!」
そこには心なしか顔を赤くしている、ように見える杏子が上機嫌でコーヒーのリクエストをコータから受けていた。
「いざとなったら、お前がコータを守ってやってくれ」
「……はい」
神妙な顔して頷くタクミに満足し、一抹の不安を振り払って、又吉警部は部屋から出て行った。
「ふふふ、ちょっと待っていてくれ。とっておきのコーヒーを入れてくる。助手くん、コータをよろしく頼む」
「え、ええ」
コータの相手をタクミに任せた杏子は、鼻歌を歌いながらコーヒーを淹れるためにキッチンスペースへと引っ込んでいった。
「……大丈夫だろうか」
果てしなく不安がある。
「コータくん、杏子さんのコーヒーだけど、その……アレだから、いざとなれば逃げればいいから」
「……いや、コーヒーの一つで大げさな」
「大げさじゃないんだ!」
「わ、わかりました」
鬼気迫る表情で詰め寄ってきたタクミに、コータは頬を引き攣らせた。
「あ。なぁ、彼女はいつもああなのか?」
「え? いや、杏子さんがあんな感じなのは初めて見るかな。って言っても、僕もここに来てまだ数日なんだけどね」
「そうか」と納得のいかないような表情でコータは呟いた。とはいえ、彼が一番納得がいっていないのは、ほかならぬ初対面の杏子に対して親愛にも似た情を向ける自分自身であるのだが。
「ん? コータ、それは?」
「それ? 何が?」
「いや、それ……」
そう言ってタクミに言われて、初めてコータは自分が無意識にポケットに入っていたそれを、大事そうに手に持っていることに気がついた。
「携帯ゲーム? 古いもの持ってるんだね。教科書で見たことあるよ。そういうのってアレだよね。数十年前に流行ったんだってね」
「ゲームじゃない」
「え?」
「だから、ゲームじゃない。大事なものだよ。俺と相棒の……――絆と命の証」
まるで宝物を見せびらかすようにそれを――否、それに伴うだろう何かを自慢する彼は見た目相応の少年のようで。
「そっか」
タクミは微笑ましく思えたのだった。
そして、その数分後。
「待たせたな。とっておきの豆を使ったとっておきだ」
杏子がコーヒーを持って来た。
思わずタクミは目を伏せる。ついにこの時が来てしまったか、と。
「っ、これはひどい」
そして、机に置かれたそれを見たタクミは、思わず呟いた。
それは、コーヒーだった。が、白い。何があったのかを疑うくらい、白かった。おまけに目に見えてわかるほど、粘液のようにドロドロしている。
「杏子さん、一応聞きますがこれはどうやって?」
「ふふふ。秘密だ。この出会いにインスピレーションを受け、我ながら初めてとは思えないほどの出来だよ」
「ざ、材料! 杏子さん、せめて材料を……――!」
「それはもちろん秘密だ。だが、ヒントは出そう。キッチンにあったもので作った。ふふ。電脳探偵として是非当ててみたまえ」
せっかく助かった命だが、今日が命日となるかもしれない。タクミは真剣にそう思った。思っていた。
直後、彼は目を見開く。
「へぇ、意外とうまいな!」
それを、コータが美味しそうに飲んでいたからだ。
しかも、本当に美味しそうに。
「……」
見てるだけで吐き気がした。
「この吐き気は匂いのせいだと思いたい。……よくそんな白濁した液体を飲めるね」
「そうか? うまいぞ?」
「だろう!」
今まで見たことがないほどに自慢げな杏子の姿に、そして美味そうに液体Xを飲むコータの姿に、タクミは痛む頭を抑えきれなかった。
ともあれ、コータはアレを平気で飲めるのだ。であれば、心配すべきはきっと彼ではないし、大丈夫だ。だから、そう、我が身を優先させても大丈夫なのだ。
誰にも気づかれないように心中でそんな言い訳をして、タクミは忍び足でそろりそろりとドアへと向かった。「それじゃ、デジモンたちの様子を見に行ってきますね」と聞こえないように静かに告げて。
「デジモン?」
だが、そんな彼の言ったその単語に気づいたのは、コータだった。
「タクミはデジモンのパートナーがいるのか? しかも、この世界にいるのか? それとも自由に
「……行き来? あ、EDENのことか。まぁ、うん。そんな感じかな。コータはデジモン知ってるんだね」
「まぁ、それなりの縁があったしな。昔のことだけど。ちなみにタクミのパートナーたちはどんなのだ?」
「えっと、ね――」
タクミは頭につけていたゴーグルを外し、コータに見せた。が、見せられたコータはきょとんとした顔で何が何やらわからないといった感じだ。
「えっと、これは?」
「あれ、知らない? デジヴァイスだよ」
デジヴァイス、それは現代で隆盛極まる電脳空間にアクセスするために必要なものであり、それ以外にもネットやメールに使うことができる――型式はともかく、老若男女が持っているものである。
一方で、コータにとってのデジヴァイスは違うようで。
「えっ。これが!?」
「そうそう。割と現代の必需品だと思ったんだけど」
「えっ。デジヴァイスが、必需、品……!?」
コータは驚きのあまり目を見開いていた。
その大げさな様子にタクミは少し笑って、ゴーグルをコータにかけてあげた。
「うわ、すげぇ!」
ゴーグルのレンズ部分にまるでテレビやパソコンのような画面が表示されている。SF映画で出てきそうな機械に、自分の知らない間に進んでいた技術に、コータは驚きながらもテンションが上がった。
「今、僕のデジモンたちの様子が表示されてるだろ」
「あ、ああ……ほんとだ。って、六!? この六匹全部お前のパートナーなのか!?」
「え、あ、うん。デジラボに預けてあるデジモンたちを含めればもう少しいるけど」
「マジでか!」
コータの常識では、デジモンと人間は一対一の関係だった。それなのに、タクミはその六倍以上ものデジモンと関係を持っている。
「お前、すごいやつなんだな」
若干の尊敬が含まれた眼差しで、コータはタクミを見る。それは、まるで現代日本でハーレムを築いている者を見たかのような視線だった。
「割と普通だと思うけど。今まで見てきた人たちには複数のデジモンを持っている人なんて珍しくもないし」
そう言ったタクミには、謙遜している様子も嘘をついている様子も見られなかった。
「俺の時はあいつだけだったのに……ずるいというか、羨ましいというか」とコータが呟けば。
「私だけで悪かったな」
何故か杏子が反応した。しかし、小さく呟かれたその言葉にはコータもタクミも気づかない。
「……でも、テリアモンにハグルモン、パルモンに……パッと見だけど、みんなお前のことを信頼してる。良いやつらじゃないか。きっとお前が良いからだな」
「そ、そうかな」
「照れるなって、事実だしな。……それにしてもいいなぁ」
本当に羨ましそうに、名残惜しそうに、コータはゴーグルを外してタクミに返した。
「ふ。成長期の子供が何だというのだね。私の方がずっと……――」
「え?」
「杏子さん、何か言いましたか?」
「いや、何でもないが。ああ、もうコーヒーはいらないな」
コータの飲みかけのコーヒーを、タクミの手をつけていないコーヒーを、杏子は明らかに不機嫌な様子でそれぞれ回収する。
「おい、何で杏子はあんなに不機嫌になってるんだ?」
「えっと、どうしてだろう。たぶん、コータが言った言葉が気に障ったんじゃ?」
「えぇ? うーん。俺のせいかぁ? だって、見てみろよ。杏子のやつ、お前のゴーグルを恨めしそうに見てるぞ」
「そう? よくわかるね」
もちろん、杏子が自分を見ていることくらいはタクミもわかる。だが、恨めしそうかどうかまでは数日の付き合いであるタクミにはわからない――とはいえ、だ。
コータにはそれがわかるのだから、やはりコータは元々杏子さんと知り合いなのではないだろうか。そう考ると、今の杏子さんの不機嫌さがわかるような気がする。
ぼんやりとタクミはそんなことを考えて、肩を竦めた。
「ふん……」
不機嫌そうに自分の机に向かってパソコンで調べ物をし始めた杏子と。
「……うーむ」
そんな杏子を見つめながら、自分の考えごとに没頭し始めたコータと。
「僕の職場は大丈夫なのかな」
賑やかになった早々に妙なことになっている職場を見て、タクミの脳裏に大きな不安が過ぎったのだった。
********
ちなみに次の日の朝。
「おはようございます」
いつもと同じようにタクミは探偵事務所に出勤して来た、のだが。
「き、杏子さん」
「おや、助手くん。予定よりもずいぶんと早い到着だな。結構」
「い、いえ。それはいいんですが……それは?」
「む? ああ、コータか。私と共に早朝に来たせいで眠くなったらしくてね」
「いや、そういうことではなくてですね」
タクミは眠るコータ、を背負っている杏子の姿を目撃した。まるで疲れた幼子を連れて帰る父親の如き姿だ。
ついでに言えば、そうしている彼女の顔はタクミが見たことがないくらい幸せそうで、楽しそうなものだった。
「ああ、昔を思い出してな。良いだろう?」
「き、杏子さん! そろそろ依頼人が来るかもしれませんし、起こした方がいいんじゃないですかね!」
これはまずいかもしれない。昨日の又吉警部の警告が思い出され、次いで恩人が新聞に載る光景を正確にイメージし、タクミは焦った。
「はぁ。ここは規則正しく依頼人が来るわけではないだろう? であれば、時間を見てそういう考えに至るのは軽率な考えではないか? まだまだだな、君も」
「いや、そういうことじゃなくて! 依頼人が来なくても杏子さんはすることがあるでしょう!」
「考えが足りんな。今日やるべきことは昨日の夜のうちにもう終わらせた」
「なんて無駄な行動力っ。く、ならさすがに依頼人が来ていきなり事務所の主が寝てる少年を背負っているってのは体裁悪くないですかね?」
「君も体裁を気にするようになったか。それが果たして良いことか悪いことか」
「とりあえずコータを移動させましょう! 話はそれからです! たまには僕がコーヒーを淹れますから! ねっ」
「ほう。私の数少ない趣味を奪おうというのか。ふむ。果たして助手くんが私の舌を満足させられるのか……」
詰め寄ってきたタクミに杏子は薄ら笑って、コータを起こさないように器用にソファーに寝かせた。
それでいて彼女はどこか名残惜しそうにしている、気がして。
「……あぁ、なんでこうなったんだ!」
タクミは溢れ出る疑問を口にしたのだった。
彼がその答えに辿り着くのは、まだ先の話である。