悩ましい。
青州は北海の地、その都。古くは戦国七雄の一角たる斉と、小なりとは言え比類なき栄華と学問の興った魯の境に位置するこの城で、一人の男が悩んでいた。
眉根を顰め、顎に手をやる。その肌に感じる豊かな髭が、廟に祀られた祖先の像に似てきたことを否応なしに想起させる。それが目の前に立つ人間と己との差を一層感じさせ、孔融は思わず唸った。
「……
「はっ」
瑞々しい声が耳朶を打つ。外見に相応な声から察するに、年の頃は未だ二十は数えていまい。いや、下手をすると十余年ほどかもしれない。
成人前に終えるべき声変わりをしていないことから、多少の個人差というものを鑑みても、目の前の可憐な──そう、正しく可憐という言葉がぴったりな──少年は、まだ「子供」であると、聖人の子孫は断定した。
ゆるりと顎から手を離し、孔融は重々しく口を開いた。
「貴殿の話、よく分かった。生憎我らの指揮を執るべき青州刺史は、現在職務を全うするゆとりが無い。そして、長が不在の時は次点の位の者が代理を務めるのが道理。ならば、この青州の要、北海国を預かる者として、刺史に代わり答を返そう」
辺りに緊張が走る。
「……貴殿の父、
「はっ、お任せください」
俄に官僚達がざわめき出す。無理もない。上辺を取り繕っただけの、あからさまな野心を見逃したのだ。
中華でも指折りの血筋の者が、不正を許さぬ清流の如き人間が、国と称され郡より高貴とされる地の為政者が、こんな寒門の出の、僻地の頭目の倅に頭を下げる。
道理にも礼にも外れる事態を目の当たりにし、儒の智篤く優秀な官僚達は、誰ひとり驚愕を隠せなかった。
孔融様は何をお考えなのだ。
東夷と変わらぬ様な田舎者共の誘いに乗るなど、ご乱心なされているのか。
東夷同然どころか、実際に東夷の軍を率いていると聞くぞ。
賊徒どもから民草を守る為としても、黄巾がいなくなったところで奴らが黄巾に取って代わるだけだろう。
申し出云々を余所にしても、孔融様が頭を下げられるとはどういうことなのだ。それも、こんな若僧に──。
ざわめきの止まぬ広間。泡のように湧き上がる部下の戸惑いをそっくり予想してみて、孔融はほんの少し口角を上げた。
彼等にとってみれば今の状況はまさに噴飯ものだろう。必死に上司の深謀を推し量ろうとする彼等には悪いが、孔融の決断の一番大きな所にあったのは、この若僧を気に入ったという、ただそれだけのことに過ぎなかった。
名を融。字を分挙。そして姓は孔。中華の歴史に燦然と輝き、歴史の堆積に埋もれることのないその名声。
孔融は、かの儒家の開祖、孔子の末裔だった。
聖人孔子の一族。その肩書きは、常に孔融に付きまとった。
幼い頃から他より秀で、血と才に裏打ちされた彼は当然の如く出世していった。本人も己の血を誇りに思い、血に恥じることの無いよう努力した。
しかしそのうち、彼は気付いた。自身の思う自らの有り様と、周囲の期待する有り様は違うということに。
自他共に、孔子の血に恥ずかしくない行動を、と考えていながら、そこには大きな隔たりがあった。孔融は血への忠義を、「祖先に負けぬ立派な働きをすること」と理解していた。対して周囲は、孔子の末として、「孔子に一切反しないこと」を求めた。
孔融個人の偉業ではない。ただひたすらに、孔子の説いた儒教、その模範足ることをこそ求めたのだ。
──なんと窮屈なのだ。
孔子の子孫と色眼鏡で見られることは構わない。幼少から言い聞かされたように、立派な働きをすることにも異論はない。だかしかし、己が己たる心、其処に秘める思想まで束縛されるのは我慢ならなかった。
昔、孔融は他人と議論を交わしたことがある。そのとき彼は、儒教においては絶対とされる親への忠義を部分的に否定した。
もし父と赤の他人、その二人が死にそうになっているときは、父がその他人より劣った匹夫に過ぎなければ他人の方を助けるべきだ。
そう言った孔融に向けられたのは、驚きや反発を通り越し、最早怒りすら込められた視線。
あれ以来、孔融は持論を口にしなくなった。かつて諸国に見向きもされず、時には書も論者も弾圧された儒学。焚書坑儒をからくも逃れ、漢の時代に入りようやく日の目を見たその学問によって、今度は他の学説が排撃されようとは。
だから彼は、言葉ではなく行動によって己たろうとした。一見儒者らしく振る舞っていれば、あとは勝手に周囲が納得する。時に常識から外れた行動をとったとしても、周囲の人間は勝手に色眼鏡で見、「何か深い考えがあるに違いない」と勝手に思い込んでしまう。上から目線の宮廷の連中には、玉虫色の言葉を恭しく礼を尽くして吐けばいい。好きに解釈して喜ぶ。だが、その澱みを波立たせぬよう目を見張るうち、孔融は己自身の目も淀みつつあるのを自覚していた。
目の前の少年を見やる。純朴で、真っ直ぐな瞳をしている。若き日の自身と同じ、青い理想に逸っている目だ。
自分はその時から変わってしまった。聖人の血を引いていようが、政界にあっては汚れた付き合いは必須。好むと好まざるとに関わらず浴した汚濁を思えば、山と平原と清流の満ちる辺境の地で育ったこの少年の方がよっぽど聖人らしい。そう思うのは、野心に溢れた遼東太守は兎も角、今青州に来ている公孫恭という少年が、心から人々の為を思っていることが分かったからだ。
喧騒が止んだ頃、再び孔融は口を開く。
「今、各地で黄巾討伐の兵が起こっている。我等もそれに加わりたいが、領地を守るのでも精一杯なのが現状。それでは余りに不甲斐ないというものよ。大したことは出来ぬが、せめて我が領地にいる間くらいは適うだけ融通を利かそう」
「格別のご配慮、痛み入ります」
「気にするな、民のためだ。……では話も付いたところで、貴殿にも急ぎ為さねばならぬこともあろう。今日はもう下がられるが良い」
「は、ではこれにて失礼致します」
踵を返して消えていく少年の姿。華奢で狭いその背中を頼もしく思いながら、孔融は骨ばった手で髭を撫でた。
書いてたら一区切りついちゃったしここから無理に繋ごうとすると時間かかりそうだったので思い切って投稿しました。お前の投稿を待ってたんだよ!って兄貴たちは肩透かし食らった気分かもしれないけど許してください!何でもしますから!(天丼)