百物と語る英雄   作:オールドファッション

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水着イベを完走するため投稿が遅れてすまない!

※この話は平行世界線の日本の話であり、オリ主は架空の人物です。実際の史実と異なっていても是非もないよね!


番外編
己を語る


ある老人の話をしよう。

 

彼は第二次世界大戦末期の1945年8月6日の午前8時丁度に生まれた。この年号と日付に憶えがある者は数多くいるだろう。

我ら日本人が忘れるべくも無い悲劇の日。広島への原子爆弾投下の15分前のことである。

 

彼はその爆心地である広島市で無傷のまま生まれた子だった。彼がこの大災害地で無事に生まれられたのは、ただ偏に両親の愛情の強さとしか例えようがない。母親は爆風で飛ぶガラス片から赤子を庇い死に、父親は半死半生になりながらも、赤子を抱えながら燃え盛る大地を駆けた。父親が知人宅に着いた頃には父親は立ち往生していたという。

 

子供は五歳になるまで知人に大切に育てられた。知人夫婦は日々、彼の両親がどれだけ立派な最期だったかを説き、その子供である彼を奇跡の子だと言った。彼もそのことに疑問を持ったことはなかった。不思議なことだが、彼には生まれた日の記憶が鮮明に残っていたのである。自分があの地獄のような光景から生還できたことを思えば、それこそどんなに恵まれた子供であるか理解できるのだ。

 

知人夫婦との生活は裕福ではなかったが、困ったことはほとんどなかった。しかし、彼の生誕の経緯からか、親子関係と呼べるものはなく、宝とそれを守る番人のような家族構成をなしていた。むろん愛情はあったが、そこに親の愛情は一切感じられない。

そんな生活も長くは続かず、知人夫婦はピカ(原爆)の毒に侵され死んだ。夫婦は最期に東京に行くように告げる。

 

『死後に残される貴方様を思えば、死ぬに死に切れないが、私たちはもう長くはない。東京に行きなさい。貴方の祖父がきっと助けになってくれると、私たちは黄泉の国から真に願っております』

 

夫婦は最期まで親として在ろうとしなかった。

 

彼は県内を転々として歩き続けた。広島は未だに原爆の傷から癒えず、各地はまだ戦後の混乱期の只中にあった。大地は枯れ果て作物は実らず、貧困は心を荒らし暴力となって人々に蔓延した。彼も貧しさから物乞いの真似をして米兵から菓子を貰ったり、闇市で食べ物を盗み捕まって半殺しの目に遭ったこともある。

 

彼がこのような生き恥を晒しながらも東京を目指したのは、それは裕福欲しさからではない。それは孤独な彼が本当の家族の愛を求めたためではない。それはこの地獄からの逃避ではない。

両親の想いを受け継いだからである。彼は生まれて最初の記憶の中、母が命を賭して自分を守ったことを、父が死ぬほどの激痛に耐えて自分を抱えて走ったのを、原爆で死んでいく人々の悲鳴を、彼は知っている。

 

この子に生きて欲しい、幸福であって欲しい、絶対に守るのだと願って死んだ両親。

 

死にたくない、生きたい、助けてと叫んだ死者たち。

 

生まれてから今まで、家族のいない孤独のなかで、彼らの想いが自分の中にあった。例え肉体が滅び、魂が浄土へ召されたとしても、たしかに彼らが存在していた証が頭の中にある。想いが受け継がれているのだ。

 

”死ぬものか、死んでたまるか!”

 

ただ駆けた。荒れ果て乾いた大地をただ駆け続けた。それは見っともない姿で、多くの人が後ろ指を指して嘲笑う。目障りだと言わんばかりに罵声と礫を投げられた。それでも駆け続ける。

 

”俺は生きている、俺は生きるんだ!!”

 

子供が成長していく姿を見ずに死んだ母がいた。燃え盛る火炎の渦の中で怨嗟の声を一身に受けても走った父がいた。全身の皮膚が剥がれ落ちて焼け死んだ夫婦がいた。ガラス片が頭を貫通して死んだ子供がいた。血と糞尿を撒き散らして死んだ老人がいた。

自分は生きなければならないのだ。自分は幸福でなければならないのだ。そうでなければ、あの日に死んでいった彼らの愛情も想いも願いも全てが無駄になる。それではあまりにも自分と彼らが報われないではないか。だから駆けるのだ。だから生きるのだ。この胸の中に確かに息づく想いと、この地獄のような悲劇を忘れずに戦い続けるのだ。

やがて体すら枯れ果て、骨と皮だけの餓鬼に成り果ても、それでも想いの限り駆けた。

 

しかしある日、彼が川の水を飲もうと川縁に立った時、不運にも足を滑らせ川底まで落ちてしまう。もはや川の流れに抗う力などなく、水流に身を任せて流れていく中でついには意識を手放した。

気がつくと彼は河原に流れ着いていた。幸運なことに溺れ死ぬことは無かったが、それでも精魂尽き果てた彼に動く気力は残ってはない。あとはこの場で命が尽きるのを待つばかりかと、彼は生まれて初めて悔しさから涙を流した。

 

するとそこに何かが流れてくるではないか。霞む視界で見開いてみると、蜜柑がいくつも流れている。おそらく川上の方でなっていた蜜柑が落ちて運ばれたのだろう。自分に吸い寄せられるように流れてきた蜜柑を、彼は皮ごと噛り付いた。

 

”美味しい”

 

口に広がる皮の苦味と果実の酸味。だがそれ以上に蜜柑の甘みと旨みが飢えた体に染み渡った。それから来る日も桃、杏、梅、枇杷、葡萄、無花果と、多種多様な果物が流れ続け、彼はそれらを余すことなく食した。時折、獣たちが少年に近づくことはあれど、決して襲うような真似はしない。枯れた命に自然の恵みが息吹を起こし、彼は瀕死の状態から奇跡的に回復した。

 

こんな体験をすれば大多数の人は、自分の身に天運を招いたのだと信じるだろうが、彼は違った。自分がこうして今も生きているのは、自分の中に息づいた多くの想いの一念が作用したものと信じて疑わなかったのだ。そして同時に、別の大きな存在による力も感じた。彼は死の淵から生還したことで自分に特殊な目が宿っていたのに気づいた。自分や他のものから漂う力の流れを視認できたのだ。生命の流動、星の息吹、龍脈。言葉にするには余りあるそれを求め山奥を目指した。

 

暗闇の中でただ膨大な流れ日に導かれ、光の差す開けた場所に出る。その瞬間、言葉を失った。

自然だ。それは初めて彼が目にした日本本来の豊かな大自然の姿があった。広島の大地には無かったものがそこにはあったのだ。

 

青々と生い茂る緑、精強な獣たち、清涼な水の流れ、柔らかで暖かい苔生した土、澄み切った星空。果てなき美しさと雄大な力強さ。それらから発せられる膨大なエネルギの奔流を感じ、唐突に頭の中でその現象を構築する数式が生まれた。それはまるで厳しい修行を耐え抜いた先で僧侶たちが経験する悟りを開く心境に近い。

 

そして悟るのだ。

自分の命を救ったのは紛れもなく、この自然だったことを。

母なる大地はその慈愛を持って恵みを与え、父なる天空は星の光で道行を指し示す。人類はこの偉大な親の生命の元でしか生きてはいけない。子は親の愛情はなくては生きていけないのだ。

 

”有難う、有難うっ”

 

胸あるのは感謝だった。両親が亡き現在も、自然は親とし見守れていた。自分が今まで孤独ではなかった事実だけで、彼は本当の意味で人間になったのだ。再び人間として生まれ落ちた彼の誕生を祝福するように、エネルギーの奔流は激しい渦を巻き地球全土を駆け巡る。その年は、全世界で稀に見る豊作となった。

 

 

 

 

彼が県境に差し掛かった時、父のことを探していた下男と出会い、彼は東京の祖父の家までたどり着いた。祖父の家は明治時代に栄えていた華族屋敷であったが、跡取りであった一人息子が外人の娘と駆け落ちしてしまい、今まで行方知れずであったという。新聞やラジオ放送で人探しの広告を出していたが、ようやく息子から電報がやって来て広島にいたことが判った。しかし先の原爆の混乱で中々使者を出せずにいたらしい。

 

彼が両親の最期を祖父に告げると、祖父はその厳格な風貌を崩して涙を流した。

 

『本来なら生まれて間もなく落すはずの命、それが今まで戦火を駆け抜けて生きていたとは……斯様な巡り合わせは、お前の両親二人の念が招いたものであろう。子一人であの戦後の広島の地に残してしまったのは儂の責任だ。案ずることなく、たとえ儂の死後だろうと屋敷に身をおき続けるといい』

 

そう告げた祖父は翌日の朝、安堵したように亡くなった。祖父もまた息子の最期を知るが為と、老い衰えていく中その一念にて命を現世に繋ぎ止めていたのだろう。祖父の死後、莫大な遺産を受け継いだ彼は旧華族や政界の大物たちから魔の手を伸ばされたが、祖父に数十年来仕えてきた秘書執事たちと祖父と親交あった方々の助力もあり、無残に食物にされるようなことはなく確固たる地位を確立した。

 

彼はその財力で両親の駆け落ち後の足取りを辿り、両親が昭和日本を代表する自然学の権威であると知った。彼の広島での不思議な経験と両親の残した研究成果を見れば、彼がその後、この分野を志したのは当然の成り行きと言えるだろう。何分、両親から遺伝した学者気質と生まれ持った特異な記憶力があり、その道の専門家としては最高峰の逸材であった。やがては自然環境保護運動の先達者である南方熊楠に習い、戦後の混乱期の中で数少ない自然環境保護問題に着手した学者として、地球温暖化の影響が強まる後世では高く評価されている。

 

彼にまつわる多くの逸話として、陛下に今後の環境問題の進講を行ったことが、逸話の中で一目して一番に目に止まる内容である。

 

若くして学者となった彼の研究は幅広く、生物学、天文学、物理学、化学、農学、薬学、民俗学を独学していた。

彼が記した論文は地球の温暖化現象、それに伴い再生可能エネルギーとバイオ燃料の普及の必要性には、現在の学者たちも度肝を抜くほど正確なものであり、それは当時としては先進的内容だった。かれの名声は陛下の耳にも届き、生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだ陛下もその研究に偉く感心なさった。

 

進講の際は、陛下の身辺を警護する者たちの面持ちは悲痛なものがあった。彼が原爆の落とし子と思えば、それは仕方がないことである。何より間接的ではあれど彼の両親の死は陛下に責任がある。公然と石を投げつけられたとて、それは文句の言いようがない。

 

誰もが何事も起こらぬように祈る中で、当の二人は満面の笑みを浮かべて、深々とお辞儀をした。

 

”かの地で起きた悲劇の一切をお伝えするため、今日まで陛下にお会いする日をずっと待ち望んでおりました。この晴天の下で陛下とお会い出来たこと、広島の英霊たちの導きのものと存知ております”

 

彼が語った言葉の一つ一つが、絵の具となってその場の皆の頭の中に入り、広島の地獄の情景を鮮明に描き出した。特別、詩人のように語りが上手かった訳ではない。それでも、彼の言葉から思い、想い、憶い、念いが伝わった。

彼の言葉はラジオ、テレビという媒体となって日本全土に響き、日本人は勿論、在日していた外人までもが涙を流した。悲しかった訳でも、悔しかった訳でもない。人々はその思いに胸を打たれ、ただ感謝の念を感じたのだ。

 

『君を生んだ両親を僕は誇りに思う。亡き広島の人々の代わりに言わせて欲しい。――生まれてきてくれて有難うと』

 

その日、陛下の決して悲しみに崩れなかった表情に、流れた一筋の涙を彼は生涯忘れないだろう。

当時、ウォルターリード陸軍病院に入院していたマッカーサーにもこの時の放送は伝わり、彼は病床の中でこう語っている。

 

『嘗て、私は陛下を日本における最高の紳士であると記した。ならば彼は日本における最高の語り手だろう』

 

 





OF『主人公が登場するすると言ったが、間違ってはないよ?』(震え





・南方熊楠
昭和日本の生物学者。広範囲の分野に多くの研究を行っており、高度な専門家であったと評価されている。
熊楠は自然保護運動における先達としても知られ、神島の保護運動に力を注いだ。この島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。
イングランド王立外科医師会に保管されているバベッジの脳と同じく、その脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして保存されているらしい。

・陛下
昭和のあの方。戦争責任で偏見を持つ人がいるが、当時の現人神というカリスマ性は平成の我々には計り知れないものがある。戦後、暗殺の危険があったのにも関わらず日本各地を行幸し、原爆から2年後の広島に訪れ人々を安心させた。
また生物学の権威であり、生物学研究については、その気になれば学位を取得できたほど優秀な方であった。「雑草という植物はない」と言ったとされることでも有名で、日本の自然を愛されていたことが窺える。

・マッカーサー
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を務めたアメリカの軍人、陸軍元帥。
陛下との会見では自らの命と引き換えに、自国民を救おうとしたことに大いに感銘を受けたとされている。また戦争責任を調査するよう要請したがマッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。マッカーサーと陛下は個人的な信頼関係を築き、マッカーサーは陛下は日本の占領統治の為に絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。

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