全ての現象には予兆がある。
大地震直前の鳥たちのざわめき。津波の引き潮で干上がった海岸。嵐の前の静けさという言葉があるが、言い得て妙なものだ。それが時代の転換期であれば尚更、強大な予兆が現れる。しかし、その予兆を感じ取れる者など殆どいない。おそらく神であってもそれは同じだ。
「そんな事だから人にすら反逆されるのだ」
世界に多くある神話の反逆劇を見て皮肉的な微笑を彼女は浮かべる。何とも恐れ多い言葉だが、それを咎める者は居なかった。
古来より東海に
崑崙は貊国の西北にある。その広さは八百里四方あり、高さは一万仞(約1万5千メートル)。さらに一万一千里(4千4百万キロ)もそびえ立つ九重の楼閣。四方は城壁に囲まれ、四十の門とそれを守護する開明獣に守られている。
中国神話において崑崙は天界と地上を結ぶ天梯のひとつ。そして文明の生命の源である黄河の水源でもある。神々を持て成す仙果の桃園では鳳凰が醴泉の水を飲み、龍は天上へと駆け上り天界へと連なる浮遊する山々を塒を巻いて通り過ぎる。神代の神秘と自然の雄大さを詰め込んだ箱庭は正しく桃源郷。その全てが彼女の所有物である。
彼女は神の如き仙人。人はそれを神仙と呼称する。
時代の皇帝に不老長寿の仙果を授け、全ての女仙の統括者である西王母。後の神仙思想や道教思想の根幹となり、集める信仰は神に匹敵する女仙。
しかし当の本人は何をするでもなく、真昼間からただ涅槃仏のように寝そべっている。絶世の美人は何かするだけで絵になるのだから気楽なものだ。だが逆に言えば、彼女が動かずとも世界は正しく回っていると見える。それこそ、彼女の様な神話の大役が動く事など稀なのだろう。
だからこそ、この時が神話の変わり目だったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
鳥の囀りに目を開き、西王母はふと気付いた。
何も変わらない日常の中に存在する漠然とした違和感。あまりにも朧げで、言葉にさえ出来ない小さな異質さ。
西王母の生活は楼閣の中から外を眺めるだけのものだった。庭には仙果の木が幾つかあったが、あんな物は手を掛けずとも勝手育つ。時折、客人が訪れる事もあるし、その逆もあった。時代の王や天帝に舞を見せたこともあった。それは何百年も前から天が定めた運命をただその通りになぞって進んでいるだけ。それは何の出来事も起こらない日常と変わらない。
退屈な日常、とは思わなかった。いや、思えなかった。仙人となった今ではそんな感性すら失ったのかもしれない。それとも、人間性とは羽化登仙の過程には不要の物だったのか。仙人を神のように崇め立てる者がいるが、神と仙人では精神構造が大きく異なっている。神という奴らは思いの外感情的で俗物染みたものだが、仙人には欲もなければ感情も希薄。煩悩を切り捨てたことで逆に満たされてしまったのか。万能感に溺れ心が麻痺しているのか。それとも目的を果たしたからか。今となっては当の自分たちすら判らない。
それでも、人間の頃の私ならこんな日常は退屈だと断言するのだろう。そう西王母は夢想する。
予兆を感じた取った瞬間、自分の中に残った人間としての感性が退屈な日常に変化があった様に幻視させたのだと決めつけた。
だから、その日訪れた予期せぬ来客に西王母は目をぱちくりさせたものだ。
東海の蓬莱から訪れた客人。百花仙子が女子の様に燥ぎ語ったのは俗世の人間の子の話だった。
ある日、彼女の管理する花精の一つが宿った桜が落雷で焼け焦げ、幹を引き裂かれた箇所から腐食が始まった。落雷で精神を削られた花精には桜から出る力もなく、宿木の桜が治るのならば花精の精神も回復するのだが、桜の腐食は進み共に衰えていくばかりだった。
いずれ共に朽ちるのをただ待つばかりだったところ、そこに美しい蒼目の子が通り掛った。蒼目の子は桜を一瞥すると、治るまで何度も山野に通い手厚く看病したという。
日本ならこの手の話は多いが、この頃の中国は度重なる天災で自然の数が減っていた。数が少ないからこそ自然を大事にすると思うだろうが、それは自然の豊かさを知っているからこその保護意識であり、自然からの恩恵を受けずに生きた人間は自然への愛情、関心という物がないのだ。
しかしその子の目は自然を慈しみ、自然を愛していると花精は言う。
百花仙子はそのこと心底嬉しそうに語った。花を助長させる彼女には蒼目の子に共感する心があり、その治療の技術の高さから蒼目の子を気に入っている様に西王母は感じ取った。仙人だから大きく感情が乱れることはないが、その表情は薄っすらと喜色を帯びている。
予期せぬ来客に驚いたものの、女仙たちを統率する西王母として百花仙子の様子を微笑ましく見つめる。それは母が子を見詰める目は母性の籠った視線だ。
(きっと、たまにはこういう事もあるのだろう)
それからは変化もなく世界は回る。時折、百花仙子からその子供の話を聞く事もあったが、それほど気に掛かる内容ではなかった。
この時はまだ、西王母はただ変わった人間の子供くらいにしか思っていなかった。
それから三年。またもや予期せぬ出来事が起きた。
洛中を始め、中原に広く発生する人間の人口増加。緩やかだが確かに増えている。自然の摂理ならば当然だ。しかし黄河の”異変”を見るに前回の洪水は天の意思が介入している。
恐らく天の事だ。管理可能な上限を超した人口の間引きをしたのだろう。その様なことで一々天変地異を起こす天の大雑把さにため息を吐く女仙。
ならばこの件に天が関わったはずも無く、寧ろ天の意思に逆らう無法者に苛立っている頃か。
余興のつもりで側仕えの女仙たちに調べさせた所、『葛根湯』なる薬が民間で広まっているらしい。その薬は万病に効き、その上薬材は民間でも手に入りやすい物が多いとなれば、これほど広く浸透したことも頷ける。さすがに仙人の薬ほどではないが、俗界の薬材にしてはかなりの薬効だった。
さぞかし名の知れた薬師が作ったものだろう。思いの外に早く下手人の顔が拝めそうだと落胆する女仙。しかしその予想は大きく外れている。作った本人はまだ幼い少年なのだから。
その後も蒼目の少年だと行き着くことはない。薬は少年から英雄へ、英雄から商人や農民へと流れて民間で広まったのだ。それも意図して少年の名は伏せてある故、さらに困難だった。
「ほう。中々、手間の掛かる相手らしい」
西王母が面倒だと溜息を吐き、うっすらと口角を上げた。
西王母に手間を掛けさせるほどの存在がいる。その上、自分の読みの上を行く相手であるのだ。
正史の異端者でありながら、それは彼女の
「ふふっ……」
活きの良い玩具が現れたと笑わずにはいられない。
「西王母さま。天への報告は如何致しましょうか」
報告?馬鹿なことを言うな。こんな珍しい玩具を天界の頭の固い連中に横取りされてなるものか。
釘を刺すため語気を強め言霊を発する。
「良い。今のところはまだ天が介入する必要性はない」
「は、はいっ!申し訳ありません……!」
あまりの神気に当てられ、青褪めた顔の女仙を側目にも入れず、目に移すのは俗世を映す池の水面。
水面は先ほどの神気に当てられ波紋を作っている。庭先にある小さな小石を手に取り、西王母は池へと投げ込んだ。
目を細める。小さな波紋は大きな波紋を乱し、二つの波紋は消えて行く。
「――水面を伝わる波紋を壊すためならば、時には小石を投じる事もあるだろう。ならば小石が水底に落ちて行くまで、精々足掻くが良い」
さて、次なる手は如何なるや。必ずやお前の正体を明かしてやろう。
浮かべる暗黒的な微笑は正しく人ならざるモノの相貌。勇者の到来を待つ魔王の如き風格を漂わせる。
しかし少年の次の手を心待ちにしていた所で、次なる来客から盛大なネタバレをされる事も正史には存在することのないことである。
◆ ◆ ◆
「――あの、何かご無礼でもありましたか?」
「………何でもない。気にするな」
酒盛りの中、久しく見えた旧知の客人が語ったのは、ここ数日、西王母が調べていた少年の話。
つまりは壮大なネタバレ。この数日の成果と楽しみを徒労に化したわけだ。
「それで彼は言ったんですよ!」
「……ふんっ」
本来ならこのような無礼者は即座に首を刎ねたいほど苛立ったが、珍しく今回は西王母の方が折れた。
客人があまりにも少年の事を嬉しく語るので、苛立つことすら何だか馬鹿らしく思えたのだ。
「何やら、晴れた顔だな。――
日射の英雄。
嘗て堯帝がまだ天子の位に即位する以前、地上に10の太陽の化身たる霊鳥が一度に姿を現し、地上は多くの命が死に絶える灼熱地獄となった。
当時、まだ神霊であった羿は堯帝の勅命にて下賜された白羽の矢で、内、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。
その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣を退治し、人々にその偉業を称えられた。
しかし、天帝である帝嚳は息子を殺した羿が疎ましくなり、羿とその妻の嫦娥の神籍を剥奪し俗界へと追いやった。これにより二人は不老不死ではなくなる。羿は西王母を訪ね、不老不死の薬を二人分もらって帰るが、疑心暗鬼に陥った嫦娥は自分の薬が偽物ではないかと疑い、薬を独り占めにして飲んでしまう。不老不死となった嫦娥は再び神籍を取り戻し、羿を置いて天へ帰ってしまった。
ただ一人残された羿は、贖罪のため、今も各地を放浪している。
羿に関しては西王母も責任を感じている。不用意に羿に薬を渡すべきではなかったのだ。羿に薬を渡した西王母の行為は天の意に背くものであり、厳しい約定によって羿に薬を与えることを禁じられてしまった。以来、どう顔を合わせたら良いものかと思い悩んで、羿が放浪してからは会うことすらままならなくなって。
だからこうして、むかしのように笑顔を見せてくれたことは、唯々、西王母にとって救いのような気がした。しかし、断りも入れずに勝手に崑崙山を登り、神すら圧倒する開明獣を倒して門を押し開いたことは看過できないほどの騒動だった。まあ、人間の身で、この山を登ることができる奴など、羿か、同じく優れた英雄の類だろう。
「して、羿よ。なにか願いがあって訪れたと見るが、遠慮せずに申してみよ。おまえの頼みとあらば何でも叶えてやるぞ。――――薬以外ならば」
ふふっと、冗談を交えて妖艶に笑う女仙。酒の酔いも回り始め、うっすら上気した頬がまた愛らしい。
しかし、相対する羿の顔からは真摯さがにじみ出ている。
さて、此奴は何を申すかと、耳を澄ます西王母。羿は杯を飲み干し、両手を組み土下座のようにひざを突き、頭を垂れる。
――――薬を授けて頂きたい。
『痴れ者が』
羿の胴体から首が離れた。
伯翳「弓まだかなぁ……」
・天帝
天地・宇宙・万物を支配する神。中国神話では最高神に位置する。
地上の王朝の最高位に天子を置き、天啓を授け、人の世を導いている。
・天子
天帝を奉り、天命により天下を治める君主。
天帝の声を聞くための触覚を持ち、ただしき王の理想像となる人物が天帝に選ばれる。後の治世から天帝へ召し上げられることが確約されている。
・天
神・人・世界・宇宙・万物の総合的無意識。あるいは運命ともいう。
世界を正しくまわすプログラムであり、あらゆる存在の意識を操る。天帝も例外ではない。