側仕えの女仙たちから悲鳴があがる。それもその筈。かの大英雄の首を西王母が斬り払ったのだから。
誰もが宙に舞う首を見て、顔を青ざめていた。
「……」
「……ッ」
西王母と羿を除いては。
西王母はその場から動いてすらいない。仙人の術で攻撃したわけでもない。
ただ、彼女は殺気を滲ませただけだった。悍ましいほど鋭く、生物の根本的意識を呼び起こす恐怖。それ即ち、絶対的強者、あるいは死と対面した際に発生する生存本能といえる。空間を支配する濃密な死の気配から、人身の生命を守るために瞬時に引き起こされた生命保護の反射反応。それが羿の死を幻視させた。そうしなければ、女仙達はこの悍ましい気配に、自己を食い殺されていたからである。
西王母の持つ本来の権能は『死』。彼女は元々、天の勵、および五残を司る死神。傍らに佇むだけで天地は鳴き、罪ある者には惨たらしい不幸を呼ぶ祟り神。
それから後々、人間の非業の死を司る死神であった西王母が、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神仙」というイメージに変化していっただけに過ぎず、その本質は死である。
数々の悪獣と対峙してきた羿すら、その気配の不快さから眉を顰める。
西王母はしばらくは表情に色を消していたが、口角を上げ、扇子で口元を隠しながら、クハハッと笑った。しかし、その声音は芯から底冷えするような言霊を放っている。
”良い、良いぞ。おまえのような気真面目な男が、こんな洒落たことを言うとは思わなんだ。酒の酔いもあるのだろうさ。許すぞ、おまえの言葉を許そうぞ”
「……」
微塵も恐縮せず、無言のまま儀礼を示す羿に、西王母はさらに悍ましさを増し、言霊を強めた。
”だが、それも一度だけだ。妾が好まぬものは貴様とて知っておろう。妾は約束を違える無法者が嫌いだ。法とは、約定とは、獣畜生どもが知性を扱うための手綱。絶対的でなければ、我らは嘗て傍若無人に隣人を裁いていた暗黒の時代へと戻る。故に、妾は法と約束を重んじている事を、お前は天界に籍を置くころから知っておるだろう?”
「……存じております」
神と人の関係に対し、彼女たち仙人の立場とは常に中立。人でなく、神でもない仙人は、天帝の世界統制に介入しないことを条件に、地上に於ける絶対的力の行使を行える。当然、そんなことを許せば諍いを引きおこすのは確実だが、西王母が絶対的秩序の如く法を敷いている限り、それはあり得ない。
この神仙は、時に他人の足掻く姿や苦悩に満ちた人生を嘲笑うが、自ら悪に手を染めたことはない。彼女の愉悦も、非道も、残酷も、秩序の側面に過ぎず、彼女への畏怖が秩序として確立しているのだ。
”あの日なら、あの時ならば妾は貴様に不死の薬を授けても良かった。天帝に尽くし、人に尽くした貴様が、尽くした者から裏切られ、嫦娥にさえ見放された日ならば、妾は己が法を破り捨てた”
”しかし貴様は言った。恨みなど微塵も感じられない、澄んだ目で『これで良かった』と言ったな。誠実で、領分を弁えて、どんな苦難があっても自分を曲げない、そんな英雄だったから妾はおまえの分の薬まで渡したのだ”
怒り、あるいは落胆。西王母はこの英雄の持つ気質が損なわれたことが我慢ならない。
もし、羿が耄碌したと言うならば、いっその事、大辟(打ち首の刑)を下してやる事が正しいのかも知れぬ。そして次は、この男をそこまで貶めた少年も殺してやる。
”――さあ、”
天帝が世界秩序であるならば、西王母とは浮世の秩序。相対する死は絶対的な秩序を振りかざし再び問う。
”――願いを言ってみよ”
西王母が持つ死の気配が全て羿に伸し掛かる。本来なら質量を持たないそれは膨大な重力を錯角させる。
離れている女仙たちでさえ膝を屈するほど存在感を放つ死を一身に受ける本人は、ついに顔を上げた。
「……」
顔色一つ変えず、震えもない、何かを決意した男の顔があった。
誰もが願いを改めよと願う。
羿はあの日から変わらない、どこまでも澄んだ目を開いて答えを出す。
「薬を授けて頂きたい」
それは女仙たちが返答に驚愕するより疾く、今度こそ実体ある一撃となって羿を殺さんと放たれる。鉄扇を横薙ぎに払うそれは、断刀の一閃となって羿の首へと走った。
甲高い金属音が鳴る。死神の鎌の如き一閃の衝撃は崑崙山を揺らし、中原を地鳴りとなって地を轟かす。大地の憤怒を体現したかの様な衝撃。その震源地である神物の楼閣は崩れる事なく、また、その中心に居る彼らも健在であった。
かつて天帝より下賜された紅き弓。九つの太陽と六体の悪獣を討ち滅ぼした弓は、神々によって創造されし神代の神造兵装である。
細くしなやかな弓は、西王母の鉄扇を弓柄に受けても一切曲がらずにいる。それは羿が弓兵に関わらず、近接戦に於いても弓によって衝撃を逃せるほど卓越した武芸者であるからだ。
羿が神籍から外され、神格を失った今も尚、弓は主人を楼閣に漂う死気から守ろうと輝いていた。それは紛うことなく、弓が羿を主人として認めている事実をあらわす。
”――何故だ”
そして何より、今の一撃を防いだことで分かったことがあった。
羿の魂は堕ちるどころか、寧ろその逆だ。
”――何故、そんな目が出来る!!”
彼の御魂は輝いている。
武芸を志す者は魂の堕落は先ず身体に現れる。西王母自身、先ほどの一撃に手心を加えたつもりはない。羿の技は天界にいた頃よりも更に磨きが掛かっていた。
”おまえ自身が薬を必要としていないことは疾うに察しがついている!それが蒼目の男児の為だというのも分かっている!だが何故だ!何故ただの人間がおまえをそうさせた!何故ただの人間がおまえを此処まで変えた!”
西王母は理解できない。理解できる筈がない。
仙人とは誰もが人間でいることに耐えられなかった者どもの成れの果てである。人間性の抛棄の結果、あるいは末路の一端。
ある者は己の脆弱さに耐えられず。
ある者は己の無知に耐えられず。
ある者は己の無力に耐えられず。
彼らは人間の価値を、可能性を見出せないから仙人になった。それは西王母も同じである。
その人間が、この英雄の魂を救ってしまった。自分ではなく、人間が。
この怒りは羿への落胆から来るものではない。人間が羿を救済した事実を受け入れられない拒絶の怒り。その怒りを以って鉄扇を押すが、鉄扇は丹弓に拒まれ、それどころか、西王母が羿に押されていた。
「かつて私は、私たち神々は女媧が生み落とした人をただ大切に育ててきた。健やかに、真っ直ぐ、善良な子にしようと手塩にかけてきた。だが、私はようやく分かった。私たちは……違えてしまったのだ」
”間違いである筈がない!ただしき治世、ただしき統制こそが人間たちの平穏である筈だ。でなければ、奴らは原始の頃の蛮行に身を染めるだけだ!!”
言葉で押せど、力で押せど、理で押せど。論理は進まず、鉄扇は進まず、正義は進まず。
今ここでは羿こそが絶対であった。
怒りに我を忘れ、西王母が己の権能の象徴たる仙杖に手を掛けたところで、「あっ」と羿の気の抜けた、そしてどこか懐かしむような様子で言葉が出た。
「ああ、そうか。彼は――貴方によく似ている」
同時に、死気が止まった。
羿のその言葉に、西王母は茫然自失とする。
「……く、はは、くはははははははっ!!」
暫く停止した西王母が、今度は狂ったように笑った。口元を隠しもせずに大口を開けて笑った。
笑い苦しさに耐えられず床に尻を落として、ごろごろ転がる。それには死の面影はもう無い。
これには女仙たちと羿も目を丸くする。
やがて西王母は笑い疲れ、だらしなく寝そべる彼女は苦笑ぎみに言った。
「……敗けだ。妾の敗けだよ」
「それは承知したということで宜しいのですか」
「ああ、約束どおり薬はくれてやる。その小僧の病にも心当たりはあるしのぅ。だが、妾がそれを愚物と断じたならば殺すが……それでも良いのか?」
「構いません」
「即答か。おまえは良くても、小僧の方は青ざめて首を横に振るやも知れんぞ」
わりと核心に迫った冗談だが、羿はこれにも否と即答した。
「あれが愚物である筈がない。あれは――時代を動かしますぞ」
「おいおい……あまり妾を笑わすな」
言葉ではそう言うものの、西王母も内心では思うものがあった。本来ならあれはこの時代に於いても、それなりの要人となる人物である。しかし正史ではまだこの頃に葛根湯は生まれず、人の総数が増加することもなかった。
これは伯翳を起点とする転換期の予兆なのだ。
それがどう転ぶのか、西王母にも分からない。ただひとつ言えるのは、これから時代は大きな変化を迎える。たとえ天の介在により正史が修正されたとしても、一度立てた荒波は多くの爪痕を残すだろう。
「小さな波紋を起こすかと思ったが、思ったよりも大きくなりそうだ……」
仄かに感情的な言葉は天に届かず、消え入る。
◆ ◆ ◆
「なあ羿よ。本当におまえは薬はいらないのか」
羿の去り際、西王母は再び問うた。これに羿は首を横に振る。
じつは羿が再び神霊に戻る方法は三つある。
一つは帝嚳が羿の罪を許すこと。しかしこれは可能性は皆無といえる。
もう一つは人が生前に行った偉業により神格化されること。先の天帝や英雄たちは皆が人々に文明をもたらし優れた武勇を以って神霊へ祭り上げられた。羿は神格を失っているので人間も同然。この方法が適応される。
しかしこれは天帝の見定めた人間に限りであり、これにも帝嚳が介在する余地がある。
そして最後が不老不死になること。かつて嫦娥が神霊に戻った方法である。
「いやなに、今のおまえならな。不老不死の薬をやっても良いと思ったのさ」
この男の答えなど既に分かっている。それでも尚、思わず口からこぼれた言葉は、ただ、”惜しい”と思ったからだった。
羿は変わらない澄んだ目で、いつも以上に満足そうに笑っていう。
「人間もなって見れば中々よいものですよ。何より今は、老いることが楽しい」
「そうか……ならば何も言うまい」
本人はきっとこれっぽっちも皮肉だと思っていない言葉が、ただ羨ましく感じる。
珍しく憂いを帯びた顔の西王母は、また珍しく優しい笑みを浮かべた。
「では、達者でな」
「はい、お達者で」
開明門から出て行く後ろ姿を見て西王母は安堵して見送った。
だがこの日、女仙たちは、その優しい笑みがどこか悲しそうに映っていた。
――そして数日が経ち、崑崙山へ手紙を届ける青鳥が知らせを届けにきた。人よりも数倍大きな体を持つ鳥が咥えた手紙は二つ。
一つは再び黄河に大きな氾濫が起き、多くの死者が出た。その数は葛根湯により救われた人間と同じ分だけ。
もう一つの手紙は西王母も読まずに分かっていた事実。
「なるほど、未だ世界は正しくまわるか……」
皮肉気に笑う顔はあの日の別れの悲しみを含んだもの。くしゃくしゃに歪んだ文面は短く、重々しい現実。
『
かくして天に抗う無法者は裁かれ、正史は正しく、残酷に紡がれていく。
波紋はまだ水面に小さく漂う。
伯翳「――――逝ったか」
・不老不死の神格化
不老不死は神仙思想や道教における重要な要素。不老不死の神仙が実在するとし、人間が神仙になることを目的する思想は神格=不老不死として中国神話に現れている。
不老不死となり神や仙人なるのは中国神話のシステムである。
・西王母
中国神話に於いて絶世の美女とされるが、山海経の西山経の一説では『人のすがたで豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾)を戴く。彼女は天の勵(水害、干魃、地震、などの天災)および五残(5つの残酷な刑罰)を司る』と記述がある。
・仙杖
仙人が持つ力の具現化したもの。西王母の杖は山海経の海内北経の「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」から抜粋。
・五残
5つの刑で墨、 鼻切り、足切り、宮(性器を処分)、太辟(死刑、打ち首)