その日、四葉家に出入りを許されている医師の心の中は緊張していた。
平静を保ちながら四葉屋敷の中を歩いている。
ちなみに、四葉家の屋敷は旧長野県との境に近い旧山梨県の山々に囲まれた狭隘な盆地に存在していたが、ここは黒羽亜夜子が深夜を浚った際に焼かれているので、屋敷が再建されるまでは東京にある屋敷に移っていた。とはいえ、ここもまた広大な広さを誇っている。
医師はこの時、先日のことを思い出していた。
…………。
医師の前に、容姿の整った美少年がいた。
男である彼から見ても、驚くほどの美形である。
「貴方は、四葉家に出入りを許されている医師の一人ですね?」
「……ああ……そうだ……」
医師はなぜ、自分がこんなところにいるのか覚えがない。確か業務を終えて帰宅する前に一杯ひっかけて行こうと居酒屋に酔ってしたたかに酔い、そして街をふらついていたら、女に出会った……そして女と意気投合してそれから……記憶が無いのだ。
そして目が覚めたら、美少年がいた。
「ここは何処だ……私をどうする気だ?」
「心配いりませんよ。僕の言うことを聞いてくれたなら、すぐにも解放します」
「…………」
九島光宣が、医師に呟くように言う。
「司波深夜の、息の根を停めていただきたい」
「…………ッ!」
医師が思わず顔を青くする。
「な、なんだと……? 今、何て言った?」
「聞こえませんでしたか? 司波深夜の息の根を停めて頂きたいと言ったんです」
「…………」
しばらく、医師は光宣を睨み付ける。そして言う。
「できない……医師として、そんなこと、できるわけがないだろうッ!」
すると、光宣が懐から一枚の紙を取り出した。
それを医師の目の前に置く。
途端に、医師の顔色が今度はさらに真っ青に変わった。
「こ……これは……」
「いけませんよね……医療ミスを隠蔽したり、次期院長選で勝ちたいからって収賄に手を染めたりしちゃあ……」
「…………ッ」
「これ以外にも既に証拠は押さえています。まだ何かありますか?」
「…………」
医師は答えない。
光宣がため息をつき、端末を取り出してある場所に繋げる。そして、端末を医師に渡す。
「…………ッ」
そこに映っていたのは、医師の娘だった。その娘が猿轡に目隠し、さらに手錠をされて身動きが取れないようにされている。
「もう一度言いますよ……まだ何かありますか?」
「……わかった……それで、司波深夜の息の根を停めろというのか?」
「ええ……方法は貴方に任せますよ」
「息の根を停めたら、娘にも私にも手出しはしないと約束はしてくれるんだろうな?」
「勿論です。それ以外にも、仕事をしていただいた分の報酬はお約束しますよ」
「…………」
医師は光宣を見つめる。
自分の娘とほとんど年齢が変わらない少年なのに、感情が全くうかがえない。むしろ、それが恐ろしさを感じさせる。
「……わかった……だが約束しろ……娘には絶対に手を出さないとッ」
光宣が頷く。
そして医師はその2日後、四葉家に深夜の治療のために看護師を連れて訪れたのであった。
医師は、自分が何をしたのかよく覚えていない。
いつものように深夜を診療し、そして薬を飲ませて……そして……その後の記憶が無い。
どうやって治療を終了したのかも、四葉家の屋敷から出たのかも何もかも記憶が無い。それだけ、緊張していたということでもある。
医師は四葉家の屋敷を出てから、ようやく大きく息を吐いた。
これで任務が終わったからだ。
深夜に飲ませた薬……あれは遅効性の毒である。ゆっくり効いていくからすぐに異変が訪れることはない。
医師は急いで、光宣の下に駆け付けた。
「おい。言われた通りにしたんだ。娘を解放しろッ!」
「心配しなくても、娘さんならここにいますよ。ほら」
と、光宣が部屋のドアを開けると、そこに目隠しと猿轡をされた娘がいた。
すぐに拘束が外される。
「それで、言われた通りにしてくれたんですね?」
「ああ……言われた通りにした」
「そうですか……ご苦労様でした」
そして、医師が娘を連れてその場を去ろうとした。そのときだった。
医師と娘の周りに、男が5人現れる。九島家お抱えの魔法師で、光宣の部下である。
「き、貴様ッ。これは何の真似だッ!?」
すると、光宣が医師に背中を見せたまま言う。
「貴方がたに生きていては困るんですよ……それだけのことです」
「き、貴様ッ!」
そして、医師と娘の断末魔の声が轟いた。
その後始末を部下に任せて、光宣はその場を去ったのである。
次回は「亜夜子暗躍」です。