ハリー・アップッ!! 作:炉心
『青春』と『近いようで遠い。遠いようで近い関係』
今回のテーマはまさしくこの2つです。
「ぬあぁぁぁ~~、クソッ!! こんなことになるんなら、今日はバイクに乗ってくるべきだったよ!! 本当に……もう、さぁっ!!」
悪態を吐きながら、セアレは懸命に乗り慣れない自転車のペダルを踏み込む。
上気する全身と切れ切れ気味の荒い息。全力で目指し続けている駅までの道程はまだ長く、募る疲労と焦りにせっつかれ続ける気分は不快でしょうがない。
「うげぇ。いつの間にかもう7時過ぎちゃってるし。これはどう考えてみても無理っぽいな。この調子だと、8時までには絶対に学校に戻れそうもないじゃないか」
腕時計の時刻盤に視線を落とし、確認した時間は予想していたよりも進んでいる。セアレは普段の生活の中で自転車に乗ることなど滅多にないこともあって、時間配分やペースがイマイチ掴めない。
「せめて学校の最寄り駅とかだったらまだよかったのに……。中途半端に遠い位置の駅で足止めになるとか、ハリーも運悪すぎだ」
少し前に携帯情報端末で確認した交通情報のニュースによると、夕方に発生した人身事故とかの影響で近隣のモノレール全線に運行の遅れや運休が続いているらしい。その上、ダイヤル調整や追い越し待ちとかで足止めを食う状況が頻発しているとのこと。
下手に迂回ルートや代行運転のバス等を使ったところで時間を喰うのは自明の理だし、今後状況がどう転ぶかも予想できない。それらの状況を鑑みた結果、ハリーからの連絡を受けたセアレは、ヒイコラ言いながらもそれなりの距離を自転車で迎えに行かなければならないという指令を仰せつかったわけだ。
「――――もしもし、ハリー? うん。今、向かってるって。多分あと15分かそこらでなんとか着くとは思うから……」
着信を知らせるバイブレーションに震える携帯端末。上着のポケットから取り出して耳に当てれば、鼓膜に飛び込んでくるのは苛立ったハリーの声と矢のような催促の言葉。その声の背後からは、かなりの程度のざわめきが普通に聞き取れる。駅構内からはおそらく退去しているはずだが、人身事故による駅の混乱具合は相当なもののようだ。
「もう駅の外には出てるんだよな? ……中央改札出口の前にあるドリンクスタンドの傍? 了解。駅に着いたらこっちから連絡するから、もうちょっとだけ待っててくれ」
建物の隙間から遠目に目指す駅ビルの影が見え、現在地との距離が大まかだが把握できた。何とか辿り着けそうだ。
「はいはい。全速力で行きますよ。んじゃ」
あまり長く通信を繋いでいたくはない。ハリーの不満と愚痴をなし崩し的に聞き続けなければならなさそうだから。なので、適当に話を切り上げて通話を終えてしまう。あとで会った時に文句を言われる可能性大だけど、セアレとしては今現在の安楽を選択することにした。下手の考え休むに似たり。未来に起こるかもしれない問題は、実際に直面した瞬間にでも考えればいい。
「行く道も地獄なら、帰る道はもっと地獄なんだよなぁ~。俺の人生のサイクリングロードは、山谷ばかりで地獄ばかりか~。あ~、平坦な人生よ。プリーズ・ミー」
友人からのイベント参加を安請け合いしたばかりに訪れたこの不幸。「何か前世で善くない行いでもしていたのだろうか?」と自問自答したくなる心境だが、自問に答えてくれる人間も愚痴を聞いてくれる人間もいるわけもなく、ただ虚しくなってくるだけ。そんな非生産的な思考ならしないほうがマシなのだが、実際にそうもいかないのもまた非生産的思考が非生産的思考であるが所以であったりする。
「もっとまったり余裕を持って観たかったのに……この状況じゃあ、もう絶対に無理だな」
イベント参加を持ち掛けられた時には想像も予想もしていなかったが、予想外想定外の事態は常に起こるもの。ある意味しょうがないと諦めと納得はできてはいるのだが、それでもまあまあ楽しみにはしていたのだ。こんな切羽詰まった状況になってしまい、余裕を持ってイベントを楽しむことが非常に困難になりそうだなとハッキリと現実を突きつけられた分には、それなり以上に残念だったりもするわけで。
まあ。だからと言って、ハリーを迎えに行かないなどという選択肢は、セアレの中には存在しないのだが。
「しかしまた、何でハリーの奴、こんな地味系なイベントに参加するなんて言い出したんだろ?」
複合交差点を曲がり、目的地を正面に捉えたセアレ。そこでふと、頭の中で擡げた疑問に首を捻る。
そして、数日前のことを何となく思い出すのだった。
* * *
切っ掛けとなったのは、学校での友人とのこんな会話から。
「今週の週末って暇か? 実はさ、流星群観測をしようかって計画を立ててんだけど」
あまりにも脈絡のない切り出しだった為、「何それ?」と聞き返したら、何でも数十年に一度しか見られない貴重な流星群が接近しているとのこと。それで、ちょうど今度の週末が観測するのに絶好のタイミングになるらしい。テレビのニュースとかでもちょくちょく話題として流れていたそうだが、生憎なことにセアレは知らなった。
「クラスの奴らを中心に何人か誘ってんだけど、どうせ暇だったんならルシーブルもどうだ? 確かお前、この手のも結構好きだったって前に聞いた気がしたんだけど?」
「そんな話したっけ? でも……そうだな、人並み程度以上には興味がある方ではあるな」
セアレ自身は別段に天文少年というわけではないが、それでも星や月を眺めたりすること自体は嫌いではない。そういう時間を無駄だと感じるタイプでもない。
実際、バイクで遠方にツーリングに行く時などは、夜にでもなればサービスエリアに立ち寄って夜空をボンヤリと眺めながら一息入れることも間々ある。
都会では決して見ることのできない、無数の星々の煌めきと吸い込まれるような夜の天蓋を見上げた時に感じる不可思議な感覚。あの……何とも言いようのない浮遊感と寂寥感に身を包まれる感覚。それはまるで……――――世界を呼吸している感覚――――そう思えてくるあの感覚は、セアレの好きな感覚だった。
ともあれ、
「観測するのは別にいいとして、一体どこでするつもりなんだ? どっかの山の中?」
特別な観測スポットにでも行くのだろうか?
もしもそれなりに遠出をする必要があるのならば、目的地によっては渋りたくなる可能性もある。それなりの人数が参加するのなら、面倒な団体行動を避けて一人だけサクッとバイクで現地に行くなんてことは流石に駄目だろうし。
ここで誤解のないよう、ハッキリと言っておくが。別にセアレは皆と一緒に行動するのが苦手なわけでも、必要な機材運びとかを手伝ったりするのが嫌なわけでもない。そこまで自分勝手でもめんどくさがり屋でもない。
「あんまり遠い場所だと微妙なんだけど……」
でも、一応は自分の忌憚のない意見を言っておく。大して意味のない、ぼやきみたいなものだが。
「学校の屋上」
そんなセアレに対して、友人の人差し指が真っ直ぐ天井に向けて立てられる。
言葉と動作に釣られて、思わず頭上を仰ぎ見るセアレ。
「屋上? ……え、何? 学校の? ……出来るのか、それ?」
当然見えるのは教室の天井だけだが、それでもセアレの目には日頃お昼時にはお世話になることも多い学び舎の屋上スペースの光景が目の前に浮かんで見える気がした。
「大丈夫。ちゃんと先生の許可は貰ってあるし、警備とか用務員の人とかにも前々から話は通してある。夜中に無断で忍び込むなんてマネはしねえから。野郎だけならともかく、今回は女子達も何人か参加する予定だしな」
随分と段取りと根回しのいいことだ。友人の意外な一面を見た気がする。
しかしだ。
「……何だぁ? ルシーブル、何か言いたいことでもあるのか?」
「言いたいことねぇ……。ん~~、なんつーか、ほら。女子が参加するって時点で、何かよこしまな意図とか思惑がありそうじゃないかとか、思ったり思わなかったり?」
だって……ねぇ?
「ないない。ないって。……いや。ぶっちゃければ、そりゃ多少の期待的なものが絶対にありませんとは言えなくもないけどさ」
流石に完全に否定はできないのがリアルな現実。素直な真実。
年頃だもん。男の子だもん。仕方ないさ。うん、仕方ないって。
「だけどまぁ、少なくとも今回の目的はガチで流星群観測だから」
「ま、その辺は何でもいいけど」
何にせよ、参加するかどうかで言えばセアレの答えはある意味で決まっているのだが。
「いいよ、参加する。ちょうど暇だし。面白そうだし」
折角の友人からお誘いなんだから、多少の面倒があったって参加するのが良好な友人関係を築き続ける上でも大切だろう。もっとも、こんな面白そうなイベントに参加する機会を逃す手はないだろうが。
「ほいよ。ルシーブルの参加決定な」
調子の良い掛け声と共に素早く携帯端末のメモツールにセアレの名前を追加していく友人。なんか意外に几帳面。この友人が律儀な幹事型の人間だったとは思わなかった。
「今時点の予測だと、夜8時くらいから徐々に見られるらしいけど………一応学校に入るのは7時前後くらいかな? あんまり早く来て、ただ待ってるってだけなのもあれだし」
『夜の学校』ってシチュエーションだけでも充分に楽しそうではあるが、今回の目的が流星群観測ならば、そっちの楽しみはまた今度の機会にと言ったところだろう。
「あ、そうだ。夕飯はどうすんだ? 各自で食ってからくるのか? それとも、途中で買い出しとかに行って、学校に持ち込むのか?」
「ギリギリまでバイトが入ってる奴らもいるから、集合した後で買い出しには行くつもり。ただ、特に予定のない何人かは先に集合して、どっかで適当に食べとくか。って感じの話もしてるけど。そこら辺はルシーブルに任せるさ」
「――――あれ? 今度の流星群観測の話? もしかして、ルシーブル君も来るの? 参加組?」
「ほらね。やっぱり私の予想どおりじゃない。ルシーブル君も参加するって言ったでしょ」
「そうみたいだな。じゃ、ルシーブル。晴れて仲間になったついでに、買い出し部隊でも協力頼むぜい。観測機材とかを持ち込むメンバー以外が買い出し担当になりそうだからな」
セアレ達の話を聞きつけたのか、同じく参加する連中が何人か集まってくる。その後はもう、特に語るまでもないくらいに普通にグダグダな感じの駄弁りモードへと移っていったのだが。
ただひとつ言えることは、この時点ではハリーが参加する予定などはまるでなかったし、まさか参加するとはセアレもまったく想像すらしていなかった。
だが後日。正確にはその翌日の放課後。
家に帰ろうとしていたセアレの肩をいきなり背後から掴んできたハリーが、「オレも参加するからな」と何やらもの凄くおっかない表情で言い放ってきた。
それはもう、鬼気迫るとはこう言うものかと、「いいよな?」と目以外は爽やかな笑顔に転じたハリーに対して、ただ無言で同意を示すために頭を上下に激しく振るしかないくらいに圧倒的な感じだった。口調は疑問形だったけど、実際には承諾を強要しているとしか言いようがないくらいのプレッシャーを感じた。
ハリーに一体何があったというのか? 誰かに何か言われたのだろうか?
セアレには、まったくもって謎だった。
* * *
(ほんと、何でハリーは参加してんだろうねぇ)
「んぁ? なぁ、セアレ。お前、今何か言わなかったか?」
「うんにゃぁ。何も言ってな~い」
内心の呟きに直感鋭く反応したハリーに対し、セアレは「地獄耳だな……」と思いつつ素知らぬ風を装って応じる。
ようやく駅でハリーと合流して、然も当然のように荷台に腰掛けたハリーに急かされて学校への帰路へと着いたセアレ。
往路には存在しなかった重みと人の気配を後部から感じ、あきらかに踏み込みが重くなったペダルをエンヤコラと漕ぎ続ける。よく考えてみれば、ハリーとの自転車での二人乗りは結構珍しいシチュエーションなのだが、お腹部分に添えられている手の感触はバイクに乗っている時と変わらず、何だかその辺の微妙な違和感が不思議な感覚でもあった。
「どう考えても学校に着く頃には8時を過ぎるな~って思ってさ。絶対に間に合わないよな」
煌めくような人工の明るさが支配する繁華街を少し外れ、少しだけ夜の気配が深くなる住宅街へと差し掛かり、学校まではあと半分強ほどの距離だろうか。時間的にはもう完全にタイムアップ確定だろう。
「間に合わない、って。そう思うんなら、さっさとオレを迎えに来い。それから、少しでも早く学校に着けるようにキビキビと自転車を漕ぎやがれ」
「頑張って迎えには行っただろ? さっきも言ったけど、俺的に全速力だったし」
バイクの時と違ってヘルメットをしていないからか、ハリーが喋るたびに首筋あたりに吹きかかる息に、首筋の裏を中心に広がる変にむず痒い感覚を誤魔化すように口を開くセアレ。返ってきたハリーの物言いに己の頑張り様をアピールするが、あまりしつこくは言わないのは、合流した時点で悪かったハリーの機嫌を失言で再び損なわないようにするためだ。
ついでに合流した時の様子を端的に描写すると。
人でごった返す駅周辺を必死で通り抜け、息を切らして迎えに来たセアレの顔を見るなり、「おっせぇよ。どんなけ人を待たせんだ」と、あまりにもな第一声から始まり、「人混みが暑苦しくてウザい」だの「ずっと立ちっぱなしで疲れた」だのと普段のハリーに比べれば珍しいくらい愚痴と文句が出るわ出るわ。案の定、セアレが通信を一方的に切ったことに対する不満もたっぷりで、その件に関しては余計なことを言って火に油を注ぐわけにもいかないセアレとしては、とりあえず下手に出まくって宥めるほかないような感じだった。
因みに、これはハリーの名誉の為にも言っておくが、この一連のやり取りの中で流石に息切れしまくっているセアレをそのまま放置することはなく、ドリンクスタンドで買ったであろうスポーツドリンクを差し出し、労うくらいの優しさは見せてはいた。いつ買ったものなのか、かなりぬるめではあったのだったが。
(って。そんな余裕はなさそうだな)
「うぐっぬぅぅぅっ!!」
不意に重くなったペダルに、セアレは心の内での冷静な呟きとは裏腹な厳つい呻き声を小さく漏らす。
(ぬっ! ぎぃっ!! ぐのぁうっ!!)
踏み込むたびに掛かる圧倒的な負担。腰、太腿、足の筋へと襲い来る負担に思わずハンドルを握る両手にも力が入る。
(そ、そうか。当たり前か。行きが下り坂なら、帰りは当然上り坂になるに決まってるか)
ハリーに悟られたくないという、ささやかな男のプライドで必死に表情には出さないようにしながら、それなりの傾斜の坂道を速度を落とさないように一気に駆け上る。何故か急に芽生えた男のプライドを保つためにセアレは何気ない風体を装ってはいたが、滲み出る雰囲気を完全に隠すことなどできない以上、実際にはハリーにはバレバレだった可能性も非常に高かったのだが。真相は関しては、『神ならぬ、ハリーのみが知る』だった。
(あ、これ無理だわ。無駄にしんどい)
そして、己の行為の無意味さに即座に気づいて、セアレは早々に男のプライドを捨てることにする。無理してまでハリーに対して虚勢を張る意味なんて、本当に今更すぎて意味がないのだから。
「おい、セアレ。どうした? 何でこんなとこで急に止まってんだよ?」
何とか坂を上りきるまでは止まらずに突っ走りきったセアレだが、その時点でほぼエネルギー切れと相成った肉体は坂を上りきると同時にシステムダウン。ヘタったその身を自転車のハンドルにもたれかけて、その場で小休止とする。
「ちょっ、ちょっとタンマ。休憩させてくれ。マジで今の坂はしんどかった。本気で疲れた。ギブアップ寸前」
「情けねぇ~な~。あれしきの坂を上ったくらいで。大体、休憩休憩って。さっき駅にきた時も一回休んでたじゃねぇか」
乳酸の溜まりまくった太腿に違和感を覚えながら、『疲労困憊です』的な荒い息を繰り返して現状の様子を訴えかけるセアレだが、生憎ながらハリーからは優しい気遣いの言葉が返ってくることはなかった。
そんなハリーは、斜めなった自転車の荷台に横座りで腰掛けたまま、絶妙のバランス感覚で姿勢を維持しつつ地面に触れそうで触れないギリギリで足をブラブラと揺らしながら、「ヘタレ」だの「男のクセに情けねぇ」だのと言いたい放題だ。
「全速力で駅まで迎えに来て、少しの休憩しかない状態で更に必死こいて自転車を漕ぎまくっている俺に対して、もうちょっと優しい労りの言葉とかないのか? それくらいしても罰は当たらないと俺は思うんだが?」
流石にセアレとしても、この状態の自分に対するハリーの『情けなさで呆れ果てて仕方ない』といった具合の表情は納得いかない。それこそ、抗議の声も出ようというもの。
だが、何故か我が儘女王の如き本日のハリー様には通用しないようだ。
「普段からバイクにばっか乗って。楽ばっかして。ほとんど運動しないのがそもそもの原因だろ。自業自得ってやつだ。悔しかったらトレーニングなりをして、もうちっと体力をつけろよな」
「待て、ハリー。ちょい待て。その言い方だと、俺がまるでひ弱なモヤシ人間みたいじゃないか」
「違うのか?」
セアレに言わせれば、ひ弱なモヤシ人間云々は別として、バイクの運転自体はハリーが思っている以上に結構体力を使うと主張したい。しかし、残念ながらこれは実際にバイクを運転したことがない人間にはいくら言ったところでまず伝わらないだろう。自転車とかの人力で動く乗り物と違って、人力以外の動力で動いているというイメージと事実がある以上は致し方ないことでもあるのだが。
「はぁぁぁ。まったくな~。何だかさ~。まあ、もうアレだけどな~……」
本当にまったく。何をどうすればいいのやら。
セアレは肉体の疲労とは違う種類の疲れが、突然ドッときた気がした。溜息とかは極力吐きたくはないけれど、吐かずにはいられない。
分かってるはいるのだ。この状態はアレだ。ハリーがセアレにだけ時々見せる、ある種の気紛れ我が儘モードなのだ。その理由とか原因とかは考えても無駄。有効な対処方法は……絶賛模索中(数年越しで)。誰か答えを知っていたら是非とも教えて欲しい。
「お? おい、セアレ。その今にも坂を転げ落ちそうな顔を上げて、空を見てみろよ」
「坂を転げ……って、どんな顔だよ一体……」
ハリーの酷い言いように、セアレは頬の筋肉が引き攣るのを感じる。ほんと、自分が今どんな顔をしているのかが非常に気になって仕方がないが、残念ながら確認しようがないので早々に諦める。
そして、何だか重く感じる頭を持ち上げたセアレは、
「凄いな……」
思わず感嘆の声を漏らした。
「周りの家とか街灯の明かりとかが邪魔で、多少見えづらいけどな」
背後からのハリーの声を聞きながら、セアレの視線の先では数多の星が夜空に瞬いては流れている。
星の雨が降る夜の到来だった。
周囲の家々や道路の先の方など、いたるところからも歓声や喜色に満ちた声が上がっている。
しばし、無言で星空を見上げ続ける二人。
ふと、セアレは服の裾を後ろからほんの少しだけ掴まれているような気がしたが、口に出すことはなかった。
きっと、交わすべき言葉の全ては、この燦々たる流星雨の下に溶けていたのだろう。
「そう言やぁ。ガキの頃は流れ星が見えなくなる前に三回願い事を唱えれば、その願いは必ず叶うって信じてたよな」
沈黙を破ったのは、ハリーの何気ないような響きの呟き。
セアレは耳に届いた声に何故か心の片隅で違和感を覚えながら、その理由がまるで分からない。ただ、振り向いて見た時のハリーの雰囲気が少しだけ弱気な感じがしたのは気のせいではないと思う。
「願ったらいいじゃないか。これだけの数の流れ星だ。今ならきっと、余裕で三回唱えられるだろ?」
「何を願うんだよ」
「そりゃまあ……」
何を願う?
ハリーの言葉に頭を傾げるセアレ。漠然とした疑問に答えを求める。
ハリーが願うようなこと。ハリーの叶えたい願いと言えば何か。
それは―――――――――
「次のインターミドルシップで優勝出来ますように……とか?」
「バカセアレ」
(え? 馬鹿にされた? 俺、『バカ』って言われた? わざわざ気を利かせたのに?)
心の底から呆れたような口調で呟くハリー。切り捨てるような調子の応答に対して、セアレは訳が分からずにいた。普通なら怒りが込み上げてきそうなものだが、予想外の返答に対する混乱が大きすぎてそんな隙すら生まれない。
「何だよそれ。何で俺がバカになるんだ? だって、ハリーの夢だろ? 優勝したいんだろ?」
そう、ずっと見続けている夢。本当の本気で叶えたいと願っているはずの夢。ハリーの一番の夢。その夢を叶える為に毎日毎日必死で努力して、痛い思いや辛い思いもして、悔しさに歯を食いしばりながらも諦めずに頑張っている。そして、それだけじゃないこともセアレは知っている。傍目には後ろを振り向くことなく、前だけを見て真っ直ぐに進んでいるようなハリー。でも、本当は何度も何度も弱気になって落ち込んだり、挫けそうになって人知れず涙していることがあるのも。流した涙の分だけ強くなっていることも。
世の中にはどんなに強く願っても努力しても叶わない夢がある。幼い子供じゃないんだから、そんなことは言われなくてもセアレにだって分かってる。夢をただの夢じゃなくて現実のものとして実際に手に入れられる人間なんて、それこそほんの一握しかこの世には存在しないことも。
目覚めの世界で見る夢とは、正しく選ばれた者達にしか与えられない限られた栄光なのだから。
それでも、ハリーならばその夢の栄光を掴めるんじゃないかと、きっと掴めるはずだとセアレは思っている。知り合いとしての贔屓目だとか、門外漢の素人的楽観的観測だとか皮肉られたって気にしない。幼い時から誰よりもハリー・トライベッカを見てきた。ずっと間近で見てきた。ちゃんと見てきた昔馴染みであるセアレ・ルシーブルがそう思うのだ。それを論破できる論理なんて、この世界のどこにだって存在するはずがない。
「バ~カ。そりゃあ、優勝はしたいさ。絶対に叶えたい。ずっと目指し続けているオレの夢なんだからな。でもよ、それはオレ自身の意志と手にした力と努力とでだ。流れ星さまに叶えてもらうような、そんな他人任せなもんじゃないんだよ」
「……そうか」
そうだった。ハリーはそうだった。自分の夢を他人任せにするような人間じゃない。欲しいものをただ欲しいと叫ぶだけじゃなくて、手も伸ばせば足も動かす、身体ごと体当たりで常に向かっていく人間だ。強請らず、勝ち取ろうとする人間だ。
誇らしさと愛おしさが胸を衝く。
「ハリー……なんだな」
「何言ってんだ? オレはオレに決まってるだろ。あと、お前のその表情は一体何なんだ?」
セアレの不思議な物言いに疑問顔になるハリー。セアレが突然浮かべた変に暖かい表情と視線も疑問顔になった原因だ。
「ん? ぬふふふふふふふふ」
「セアレ。お前、それはマジで気持ち悪いぞ」
意味深に笑ってみせるセアレに対して、ハリーは鋭く言葉を放つ。でも、そんなハリーの冷たい言葉と視線なんて何のその。「ハリーがいつまでもハリーらしくて、お兄さんとしては嬉しいよ」的な生暖かくも若干上から目線な思考を巡らし、「うんうん」と内心で頷くセアレ。
「う~~ん、よっしゃ! ちょっち休んで体力も回復したし、そんじゃあさっさと学校に向かいますか!!」
軽く伸びをして、元気の湧いてきた身体に更なるエネルギーを送り込む。充電完了。さあ、いざ行かん。友人達の待つ学び舎へ。
「それにしてもなぁ。こうやってバカみたいに綺麗な星空を眺めてると、なんか……『世界を呼吸してる』って感じがするよなぁ」
「えっ?」
前を見据えてハンドルを握り直し、出発しようとペダルに足を掛けたセアレだが、耳を掠めるように聞こえたハリーの小さな呟きに、間の抜けた声を伴って再び振り返る。
「んっだよ……。オレの顔に何かついてるか?」
凝視したハリーの顔は半眼で眉を寄せ、唇や頬も全体に引き締めた表情で、夜の薄暗がりの中ででもハッキリと判別出来るくらいに憮然としたもの。それは、実は不機嫌と言うよりは、照れ隠しの時にハリーがよくする表情だとセアレは知っている。
「あ~、うん。何だかほら。『世界をなんちゃらかんちゃら』とか。ぶっちゃけ、クサい台詞だな~って思ってさ」
いろいろと思うことも言ってみたいこともあったが、結局は返す言葉としてセアレの口から出たのは軽口だった。
「るっせぇ。そんなこと、思っても言わないのが花だろうが」
対するハリーも流石に自分が口にした台詞がかなり恥ずかしいものだったと気づいたのであろう、赤らめた顔を隠すようにあさっての方向へと向ける。
いくら顔をそらしたところで横顔に見える頬とか耳の赤みは隠しきれるものでもないのだが、セアレはそのことを指摘するよりはもっと建設的な選択をすることにした。
「でも、そうだな。確かにすごく不思議な感じで、この星空に吸い込まれそうな感覚をどう表現するかって言えば、『世界を呼吸してる』って言い方はピッタシな気もするな。ハリーの言うとおりだ」
嬉しいと思う瞬間がある。
昔は同じ歩調、同じ速度、同じ感覚で進んでいたはずなのに、いつの間にかこの真っ直ぐな少女だけがどんどん先に遠くに行ってしまうような日々の中で、まだ自分達には言葉だけでは言い表せない繋がりが確かにあるのだと気づく瞬間。
セアレは流れる星に願う。三回でも百回でも願う。
この少女との大切な絆が、紡いできた繋がりの軌跡が、途切れることなくこの先も続くようにと。
たとえこれから先、お互いがどのような道を歩んだとしても。
「――――もういいだろ。さっさと学校に行こうぜ」
「ああ、悪い。そうだな。行きますか」
ハリーの焦れたような声に反応し、セアレもいい加減出発しないとヤバいことに気がつく。
すでに本来の予定していた時間はとっくの昔に過ぎている。一応、駅に着いた時点で学校への帰りが遅れそうとのメールは送ってはいるが、あまり遅すぎると流石に心配をかける可能性もある。道草を食っている時間はないのだ。
荷台にハリーが座り直したのを確認し、セアレは再び自転車を漕ぎ始める。
自転車は徐々に加速し、景色は流れ出す。一瞬たりとも止まらずに回転する車輪は、今の時そのもの。
ふと、ハリーは思った。
(オレの願い……か)
自分自身に問い掛けるような内心の呟きと共にゆっくりと視界を上げれば、そこには変わらず流れる燦然たる星々の煌めき。そして、視界を下げれば見えるのは見慣れた萌木色の髪と背中。いつの間にか、随分と広くなったような気がする昔馴染みの少年の背中。
『何か』が。
ハリーの中で、『何か』が、一瞬だけ声を上げる。
「――――――――――――」
そして、再び見上げた星空へと吸い込まれる。
「……あれ? ハリー。今さ、何か言った?」
運悪く交差点の信号が赤に変わった為に自転車を停止させたセアレは、ハリーに何かを言われた気がして後ろを振り返る。
昔も今も変わることのない、何の衒いもない表情をハリーに向けるセアレ。良くも悪くも予想どおりいつもどおりの表情。
そんな昔馴染みの少年の変わらない顔を見たハリーは、
「……バカセアレ」
呆れとも嘆きともとれない微妙な表情を浮かべて、これもいつもどおりと言えるようになってきた盛大な溜息と呟きを吐く。
「このニブセアレが」
そして、少しだけ固めた拳でセアレの額に向かって軽く小突きを放つ。
流れる星へと託した想いが、このちょっと鈍感な少年にも少しは伝わるようにと願いながら。
原作13巻とかを読んでいても、ハリーは実はかなりロマンチックなタイプの性格なんじゃないかと思ったりします。
それにしても、傍から見ていたらどうなんでしょうね。セアレとハリーのこの状態は。