サァ、と風が麦穂の上を駆け抜けていく。頭を重くした麦たちは億劫そうに体を揺らし、そろそろ収穫祭が近い事を村に告げていた。
黄金色をした麦の海の中、ゴトゴトと音を立てゆっくりと馬車が進んでいく。ブルルンと嘶く馬の鼻先には炊事の煙が絶えず立ち上る村。
麦畑を駆け抜けた風は、仄かに甘い香りを孕んでいた。
馬車の揺れで、揺蕩う意識が引き戻される。幌の隙間から見えていた赤々とした林檎の果樹園がいつの間にか見えなくなり、辺りには麦が揺れている。私はいつの間にか眠っていたのだな、と気づきゆったりと目を擦る。
時々、軟らかな風が幌を被った馬車の中を通り抜けていき、目覚めてすぐのぼやけた頭を擽った。
時折小刻みに揺れる馬車の後ろから、少しだけ顔を覗かせると視界いっぱいに黄金の海が広がっていく。
「わぁぁぁ」
幾度も見た風景な筈なのに思わず声が漏れてしまう。ハッと気づき慌てて口を噤むが、もう既に遅くその声は御者に届いてしまう。
「おや、ようやくお目覚めかい? あんまり気持ち良さそうに寝ていたから起こすのも憚られたよ」
なんて愉快そうに、恰幅の良い体を揺らす。
そして、からかうような口振りでこう聞いてくる。
「で、騎士オリヴィエ様や、敵は居そうかね?」
「ふぇ?」
いきなり自分の名前を言われ、惚けた声を出してしまう。敵……敵?
御者台に座る男の言葉は、寝惚けた頭を素通り。しそうになったが、すんでの所で踏み留まる。
馬車に乗る際に、馬車の護衛をする代わりにタダで乗せて貰うことを約束していた事を思い出す。
比較的軽装な皮の鎧を軋ませつつ、慌てて振り返り周囲を確認するが、聞こえてくるのはゴトゴトという馬車の音や、農民たちが歌っているのであろう聞き慣れない歌ばかり。
危険地帯と言われる部分を何事も無く抜け、あまりにも長閑な風景が広がるので、つい意識を眠気に預けてしまっていたのだ。
「う、うぅぅ、て、敵は居ません……」
恥ずかしさのあまり赤面するが、その勤務態度に御者は怒る事無く、はははと笑い飛ばす。
「お嬢ちゃんの代わりに、そこの犬が見張ってくれていたよ。良く訓練されているねぇ」
と、傍らで眠っている白い犬を親指で指し示す。
平均的中型犬よりも少しばかり大きい身体を持っており、狭い馬車の中で極力場所を取らないように丸まっている。
真っ白い雪を連想させる白い毛を持ち、丸まる姿はまるで雪のテーブル。ふさふさの毛並みはさわり心地がとても良く、とても暖かい。寒い日の野宿では毛布の中に入れて抱き付いて居たりもする。
その毛並みに輪をかけてふさふさな尻尾がパタンと揺れる。普段触ろうとすると、怒るように吠えられる部位で私的秘境の地である。
今なら触れるのでは、なんて思いつつも手を伸ばすが、勝手に触れて嫌われるのは嫌だったので途中で手を引っ込める。
だから、代わりによしよしと頭を撫でてやる。軟らかな陽射しに触れたような暖かさが右手に伝わってくる。
「ありがとね、ブランシェ」
自分にずっと付いてきてくれる相棒の名を呟く。
苦しい時も辛い時も、ブランシェが居てくれたから立ち直れた。
撫で撫でしていると、おじさんは微笑み前方に視点を戻す。
話す話題も無く、再び馬車から乗りだし、麦畑へと視線を向ける。金色の波が目の前を走っていく。秋口に入り肌寒さを伴った風が革製の鎧を撫でた。
もう秋なのだなーなんて思いつつも、馬車に引っ込みブランシェへと抱きつく。ブランシェは迷惑そうに目を閉じ、尻尾をぺちんぺちんと此方の太ももに当てていた。
しばらく、ゴトゴトと揺られていると微かに甘い香りが風に混ざってやってくる。
御者さんも気づいた様で、馬の動きに少しだけ気を配る。そして、此方へ振り返る事無く言葉を投げ掛ける。
「お嬢ちゃん、もうすぐ小麦の名産地 フルール・ド・ブレに着くよ」
フルール・ド・ブレ村。
この村には古い言い伝えがある。
この村がかつて無い程の飢饉に喘いでいた時に一人のボロ切れを纏ったみすぼらしい男がやって来て、少しのパンとワインを要求したそうだ。
悩む村人たちの中、その男の声に応え、一人の美しい少女が進み出る。少女は本来自分で食べる筈であったボロボロのライ麦パンと、残り少ないワインそのまま分け与えた。
その男は神に祈りを捧げ、持っていた杯にワインを注ぎ、少女の持つライ麦にそのワインに振りかけた。
「このパンを神へとお捧げ下さい、さすればこの村は救われるでしょう」
半信半疑でパンを教会へと持っていき、少女は教会へと祈りを捧げた。いつの間にかボロ切れの男は消え去っており、悪魔にでも化かされてしまったかと思いつつも夜を明かす。
明くる朝、村人の叫ぶ声で目を覚ました少女は光輝く麦畑を目にしたそうだ、枯れていた麦畑には花が咲き乱れ、生き生きとした黄金の麦が一晩にして現れた。
この奇跡の恩恵は今日でも続き、上質な麦が収穫できる地帯として非常に有名となっている。
その言い伝えが元で、この村では、その男と少女を祀り、収穫祭では若い男はボロ切れを纏い、ワインを持ち、若い女は頭巾を被り、パンを持つ。という言い伝えの再現をしつつ町を練り歩く。
そして村一番働いたとされた男が、一番美しいとされる少女のパンにワインを振り掛ける。というのが祭りのクライマックスだ。
この一番になるために若い男たちは日々あくせくと働き、少女たちは一番になることを夢見ながら着飾るのだと伝わっている。
なんて事は知っていたが、私にとって重要なのはそこでは無い! そこでは無いのだ! と、そろそろ不満を述べてきそうなお腹を抑えつつ拳を握る。
この祭りの最中は様々なパンや食べ物で溢れ返り、非常に楽しいハーベスタとなる。
そう、様々なパンが並ぶのだ! しかもお手頃価格で、である。普段銀貨一枚と定められているパンが特例として、この日のみは価格制限が無くなる。つまり、パン食べ放題。まさに夢のお祭りである。
うへへへ、といつの間にか口からこぼれそうになる涎を慌てて拭いつつも、今度は馬車の前方から顔を覗かせる。
遠くから、はしゃぐ子供たちの声が聞こえ始め、村が近い事を教えてくれる。
その風に運ばれる様にほのかに甘い香りが鼻を擽っていき、あと数日もすれば収穫祭と知らせてくれる。今だ見ぬお祭りに胸を膨らませる。
ゴトゴトと野道を馬車が進んでいく。