寵姫に復讐鬼は哭く 作:師走
――嘗て、その男は人間でした。
そう。
――フェルナン。
――ダングラール。
――ヴィルフォール。
己を
『あぁ――なんて壮観な景色なのだろう。世界中のどんな美しい景色よりも感動する……』
三人は、その男を人間でなくした原因の者達でした。
エドモン・ダンテスから見て右の位置にいる金髪の初老の男性のフェルナンは、恋敵のエドモン・ダンテスが最愛のメルセデスが結婚することを憎らしく思い、虚偽の密告状を提出してエドモン・ダンテスを、結婚式で逮捕させました。
そしてフェルナンの左隣にいるダングラールという男は、船乗りであったエドモン・ダンテスが出世するのを疎ましく思い、フェルナンに虚偽の密告状を提出するよう唆しました。
そしてそして、そのダングラールの左隣にいるヴィルフォールという男。彼はエドモン・ダンテスが無実であることを知りながらも、自己保身のためにエドモン・ダンテスを犠牲にし、彼を脱獄不可能と言われる牢獄シャトー・ディフに投獄しました。
そう――彼らのせいでエドモン・ダンテスはあの地獄と言うべきこの世の悪性を味わうはめになったのです。
エドモン・ダンテスは何と十四年間。十四年間も、この世の地獄、牢獄シャトー・ディフに収監されていたのです。
恩師でもあり義父とも言えるファリア神父が居なければ、恐らく彼は一生牢獄の中に居たでしょう。
あの耐え難い孤独に一生悩まされ、苦しみ――そして何も残さず死んでいく。そんな未来が用意されていたのです。
ですがエドモン・ダンテスは、悪魔のような発想で監獄塔から脱獄しました。エドモン・ダンテスを息子のように想ってくれていたファリア神父の遺体に代わることで、自動的にシャトー・ディフから脱獄することに成功しました。
そしてファリア紳士の遺言に従い、モンテ・クリスト島に隠された有り余るほどの財宝を手にして――今ここに、至ります。
『さぁ、先手は打ったぞ――次は、
その男は嘲笑います。
ずっと、シャトー・ディフの中で彼らに
その姿はまるで悪鬼のようで――いえ、そう呼ぶのも生ぬるい。
彼の悪性は一点にのみ集中しています。
なのできっと、こう呼ぶのがふさわしいのでしょう。
――そう、彼の名は、もはやエドモン・ダンテスでもありません。
その男の真名はきっと、もう既に――――
☆
「――――巌窟王。もう朝だぞー巌窟王!」
「…………煩いぞマスター。耳元で大声を出すな」
巌窟王は、極上の柔らかさを誇る椅子の暖かさを感じながら、気怠そうな声で応答した。
怠そうな声を出しているのは、寝ているところを己のマスターである藤丸立香に起こされたからであろう。寝起きで機嫌を損ねているわけではない。人間、意識を覚醒しても、多少は眠気を引きずるものである。まぁもっとも、この霊基はすでに人間のものではなく、非人間であるサーヴァントのものなのだが。
「……何か用か、マスター。先程もう朝だと言ったが、俺は書斎で熟睡するほど間抜けではないのだが」
とはいえ、書斎で昼寝をする間抜けではあるのかもしれないが……まぁ、本を読んでいる内につい意識が朦朧になる経験は、誰にもあるとは言わないが読書家ならば一度はあるだろう。睡眠の意味がないサーヴァントという存在であるアヴェンジャーがつい寝てしまったのはあくまでそういう雰囲気に流されてしまったからであるが、であればアヴェンジャーは、一人の読書家として先程の前言を撤回したほうがいいのかもしれない。そう思った。
立香は、どう答えるべきか悩んでいるふうに「うーん」と顎に手を当てた。
「いや、実はなにか用があったわけじゃあ無いんだよね……ただ、なんとなーく巌窟王を起こさなきゃいけない気がして……」
「…………」
立香の微妙な回答を聞いて、巌窟王は眉間に皺を寄せた。
聖杯戦争のマスターは就寝中、己のサーヴァントが歩んだ人生を夢として垣間見ると聞くが――まさかそれに似た現象が起こったというのだろうか。
……なら、この善人な我が共犯者が『何となく起こさなきゃいけない』気持ちになるのも納得いった。
なぜなら巌窟王の過去は――人間の悪意で構成された、惨たらしい復讐劇なのだから。
「……クハハッ」
「出た。巌窟王のけたたましい笑い声」
「マスター――いや立香よ。聞くが、お前は他人を、煉獄よりも劣悪な所に墜としたいと願ったことはあるか?」
巌窟王は、立香と過ごした監獄塔での七日のときのように問う。
「出た。巌窟王のいきなりの質問……いや、そこまではないな。強いていうなら学校のテストで友人に順位を抜かれたとき、『チクショー
「――フッ」
「あっ、鼻で笑ったな!」
立香は少し不機嫌そうにした。
「いやいやすまない。あまりにも我がマスターが、浅いところにいたからな……それでこそ、我が共犯者と言ったところか」
「……それ、褒めてるの?」
「あぁ褒めてるとも。まるで、エデのよ――ッ」
巌窟王は、己が最愛の者の名を言いかけた口を塞いだ。
「……失礼したマスター。お前は、お前だ。エデではなかったな」
「ねぇ巌窟王。確かエデって、アヴェンジャーの――いやごめん。何でもない」
追求してはいけない雰囲気を感じ取ってか、立香もアヴェンジャーと同じく口を塞いだ。
「フッ、気に掛ける必要はないマスター。今や俺はお前に仕えるサーヴァント。聞きたい話があれば聞くがいい」
「……じゃあ一つだけ、気になっていることを」
立花は巌窟王の心内に踏み込むべきか否かを悩みながらも、最終的には覚悟を決めたような顔面をした。
「実はさ、巌窟王と過ごした監獄塔の四日間を過ごしたあとに『モンテ・クリスト伯爵』を読んだんだよ」
「ほぉ」
自然に口角が上がる感覚を巌窟王は覚えた。
モンテ・クリスト伯爵――つまり、巌窟王の出自である書を読んだということだ。
モンテ・クリスト伯爵とは、アレクサンドル・デュマ・ペールが綴ったある男の復讐劇を描いた書であり――『復讐鬼』の名を世に轟かせ、アヴェンジャーを座に至らせた原因である。
その本を読んだということは、大雑把に言えばアヴェンジャーの人生そのものを視られたと同義だ。過去の行いを見られる。人によればそれは恥辱に塗れたことなのかもしれないが――アヴェンジャーは、己がマスターが自身の出典を見たと聞いて嬉しかった。
もしそれを読んだことが切っ掛けで、人間の悪性の醜さ、愚かさを識ってくれれば、これほど嬉しい事はない。
まぁとはいえ、あの監獄塔での七日間を正気を保ったまま生き延びた我がマスターの事。恐らくは『エドモン・ダンテス』という
しかしてそれは間違っている結論ではない。だからこそアヴェンジャーは、心底から歓喜に震えることができないのだ。
立香は、続きの言葉を紡ぐ。
「……まぁとはいえ、実を言えば小説の翻訳版じゃなくてコミカライズなんだけど、それでも気になったことがあって。『モンテ・クリスト伯爵』のエドモン・ダンテスは苛烈な
「ふむ、それで?」
「だけどサーヴァントとして現界したエドモン・ダンテス――いや、『巌窟王』は、
「……何でって、おいマスター。それを当人の俺に聞くのか?」
巌窟王は深く嘆息した。
「いやまぁ、聞くべきことじゃあ無いとは分かっていたけどね」
「"せっかくだしこの機に聞こうと思った"、ということだろう? 確かに、聞きたい話があれば聞けと言ったとは俺だがな……生憎だが、俺はその回答を用意はできない」
「えっと、言いたくないならいいんだけどね」
「違う、そういうことではない――ただ、それは俺自身も分からないからだ」
「分からない?」
「あぁ」
巌窟王は、復讐鬼だ。
それは憎悪と復讐のみの、全てを灰燼と帰すまで荒ぶるアヴェンジャーに他ならない。
この世界に寵姫エデはおらず、ならばこの身は永劫の復讐鬼で在り続けるまで――そう在るべきだが、もし巌窟王の隣に最愛のエデがいたとしたら――巌窟王は、巌窟王でなくなるのだろうか。
人間に戻れる。
エドモン・ダンテスのように。
……そのような仮定、一度も想像したことがないと言えば嘘になるかもしれないが――あまり、想像したくない仮定である。
なぜなら巌窟王は復讐鬼なのだから。『復讐鬼の偶像』を捨てた巌窟王をなど、それはもう巌窟王の死亡に等しいのだから――考えたくないと感じるのは、普通のことだろう。
いや――
「……分からない。けど、もしエデに逢えるなら――それは、なんて素晴らしいことだろうか」
その呟きは、自然と漏れ出たものだった。
立香は思案するように手で顎に触れた。
「……そうか、なるほど。巌窟王は、その子がほんとに好きなんだね」
「あぁ、愛しているとも。エデ――」
その名を呼ぶだけで、確かな高揚を巌窟王は感じる。
名から感じる暖かみは、まるでかつて監獄塔で哭くように呼んだ
エデ。巌窟王の霊基は、確かにこの名を求めていた。
「そうか、やっぱり――うん、じゃあ頑張んなきゃいけないな!」
立香は何かを決意したように、やる気に満ちた顔面をした。
立香が何を企んでいるか、この時の巌窟王はまだ気づいていなかった。
藤丸立花の性別についてはご想像にお任せします。