TALES OF CRYING ―女神の涙と黒い翼― 作:ILY
Another Ending 君と生きる夢を見ていたい
捻れる空気の渦と、世界中から流れてくる暗雲とに囲まれたファタルシス諸島中央部。
この世の終わりの様な荒波立つ
その上空で、世界を支える六つの宝珠の内の一つ――闇の宝珠アスネイシスの力を手にし精神だけの存在となった『ジード』と、同じく闇の宝珠の欠片をその身に宿した少女クロウ、そしてその仲間達とが死闘を繰り広げる。
人の域を超えた力を振るう二者の背にはそれぞれに異なる黒鳥を思わせる羽が術に
「消えろ――ブラッディランス
『ジード』が自分の支配下にある大気中の闇のディープスに命じ、冷気を帯びた黒槍の雨を空から降らせ地上と空中を一掃しようとする。
空気を切り裂いて風切り音を立てる黒槍の表面には、その速度と術自体の帯びた冷気で霜が下りた。
「させない!」
その大規模な攻撃を、防御術を得意とする
彼女は『感知』に使用していた細いディープスの糸を宙で撚り合わせ、七色の輝きを透き通った傘へと編み上げた。
仲間達の立つ島の上空を覆い尽くす程の水晶の天蓋は、降り注ぐ槍の刺突に晒され、鈴を抉りながら鳴らすような千の擦過音を立てる。
ほんの一瞬の攻防の間に空の景色は目まぐるしく変化していく。
役目を終えて砕け散る水晶片と黒槍の残骸とを押し退けて、入れ替わるように今度はアキとリョウカの姉妹が放った炎と氷が『ジード』目掛けて押し寄せる。
「くっ!」
炎の飛ばした水分を追って凍てつかせる様に、氷の生成で乾燥した空気を燃やす様に。
付かず離れず互いを支え合うよう地上から伸びた氷炎は塔の如く隆起し、『ジード』はそれを避ける為に黒い鷹の様な翼で前方に空気を押し出し、反動で素早く後退する。
下がった直後、僅かに動きが鈍った彼の脚に遥か北方から飛来した小さな白い弾が直撃し、身体を冷気で拘束しようとする。
既に一度その攻撃を見ていた『ジード』は身体全体が凍りつく前に被弾した部位のディープスを障壁のように変形させて切り離し、空気中から再び新たな属性元素を集束する事で形を再生しようとした。
「逃がすか!」
防戦に回りつつある相手を見たクロウは、敵を拘束しようと『ジード』と同じ様に冷気を帯びた槍を無詠唱で作り出し四方八方から何本も檻のように突き刺す。
が、『ジード』はそれを拡大させた黒い刀の刃で無造作に凪ぎ払って破壊し、更にはクロウの術を構成していた闇のディープスを自身の身体として取り込んでしまった。
八人の仲間達の連携によって劣勢なのは圧倒的な力を持つ筈の『ジード』の方だったが、最も間近で対峙出来るクロウの力も闇属性のディープスの集合体である『ジード』には通じず決め手を欠く。
「時間がない。どうする、エッジ?」
一定時間、瞬時に任意の障壁を展開するリアトリスの術「リマイン・アーク」は強力無比ではあったが、一度時間が切れてしまえば二度は発動できない。
焦った表情のクロウは、手を繋いで共に飛ぶ少年に問いかける。
彼女と共に空を翔ける彼の右手には、宝珠の力に対抗できる唯一の武器である「深海の剣アエス・ディ・エウルバ」が握られていた。
「考えがある、少しの間だけ手を離して俺を飛ばすこと……出来るか?」
クロウはその提案を聞いて不安げに眉間に皺を寄せる。
「囮になるつもり?出来なくは無いけど、放り投げて真っ直ぐ飛ばすことしか出来ないわよ」
エッジはそれで良い、と頷いた。
「向こうはこの剣の元素破壊能力を一番に警戒してる。だから、挟み撃ちにすれば絶対こっちに注意が向く。俺が正面から注意を引き付ければその間だけクロウは完全に自由になる」
話している間にも『ジード』は二人を引き離そうと降下に転じて進路を変え、クロウもそれを追って速度を上げる。
ずっと離れた海面の音が一気に大きくなり、肌を駆け上がる強風が髪を逆立たせる感覚に二人は目を細めた。
「うん、時間さえ貰えればこっちも策は無くはない、でも――」
躊躇いながらもクロウは、自らが手を引く少年の瞳を振り返る。
飛ぶ能力を持たない彼を空中に投げ出すのは、自殺行為に近い。
それでもエッジは、いつか炎の中に二人で飛び込んだ時と同じ笑みで彼女の惑いに応えた。
「大丈夫だよ、信じて」
「……死なないでよ、エッジ」
クロウは彼の足元に闇のディープスを集束させ、それを確固たる足場として機能する様に座標を固定する。
エッジはそれを蹴って加速し、クロウは彼の手を両手でしっかりと握ると回転の勢いを乗せ『ジード』目掛けて投げた。
エッジが飛び出すのとほとんど同時に、クロウも交差する様な軌道でより上空を目指して一直線に飛ぶ。
翼を持った少女と離れたエッジの身体を支える様に、空気中の黒いディープスが絶えず細かい粒子となって実体化しては推進力を生み出すように彼の後方へと流れていく。
クロウの術によって急激に高度が落ちるのは避けたものの、その実ただ速度を維持するだけの偽りの翼はエッジに自由に動く権利を与えない。
少年は真正面から二回り以上も大きな相手と対峙した。
「一人で向かってくるとは、武器の力を少し過信しすぎたな――ブラッディランス
『ジード』は懐に飛び込んでくる少年の姿に足を止めて向き直り、幾重にも重なる「ブラッディランス」の発動でそれを出迎える。
空気から滲み出すように現れた黒槍の群れは、『ジード』目掛けて真っ直ぐ飛ぶエッジを円錐状に包囲した。
それは端から見れば蟻地獄の中心に向かっていく獲物そのもので、地上から様子を見ていた仲間の内の一人であるクリフも堪えきれず声を上げる。
「エッジ!おい、あれ何とか出来ないか!?」
先程と同じ様にリアトリスの命で空に張り巡らされた網に光が走り、水晶の壁を形成していくが、豆粒程の大きさに見えるエッジの所までは届かず壁はその手前で閉じた。
「ダメ、高度が高すぎて私の術じゃ届かない」
複雑な術の行使で憔悴した彼女の言葉に、クリフは何も出来ない自分の拳を怒りで握りしめる。
何も出来ない歯痒さは、宙に居るクロウもまた同様だった。
(エッジ……)
一度囮を任せた以上後戻りは出来ず、彼女は必死に囲まれたエッジの姿を視界から締め出して飛行の速度を上げる。
先程までよりも、もっと速く。
彼女に出来るたった一つの事をする為に。
制動も軌道修正も効かなくなる程に、クロウは自分の限界近い速度まで加速を続け、その姿は瞬く内に戦場から遠ざかった。
「くっ、
自らの身体目掛けて林立する冷たい黒槍の穂先を、無我夢中でエッジは払い除けた。
型も何もない
力と力、正面からのぶつかり合いは一見エッジに分があるように思えた。
例え一本で人の肉を貫き骨を断つ程の威力を持った槍であろうと、触れただけで生命を奪うような極低温の霧であろうと、深海の剣の力は容易くそれらの術を実体化させている
けれどそれはあくまで、「触れれば」の話。
剣を一度振り下ろせば、次に剣を振るう為にエッジは手首を返さなければならない。
そして、元素破壊の力が効力を発揮する剣の攻撃範囲は「飛ぶ斬撃」として範囲が広がっていようと、真正面から見れば「線」でしかない。
津波の様に押し寄せる黒い槍の嵐を、エッジが防ぎきれる道理はなかった。
冷たい感触が彼の脇腹を抉り、剣を握る右手に大きな裂傷を作る。
鉄の武器と遜色ない硬度になる程圧縮された闇属性の冷気は、その傷さえ凍りつかせ流れ出る血を塞き止めた。
「うっ――ぁ!」
利き腕が流れ出た僅かな血と共に一気に触覚を失っていく感覚と、想像を絶する痛みに顔を顰めながらも、エッジはそれでも致命傷を避けるように自分の頭目掛けて飛んでくる術を切り裂く。
その一撃をすり抜けて彼の腹部を、止められなかった「ブラッディランス」が貫いた。
僅かな声はその最初の一撃の時だけで、続く二撃、三撃目が彼の身体に突き刺さった時にはもう何の悲鳴も上がらなかった。
出血があまりに多すぎたのか、冷気で完全に塞がらなかった傷から
『ジード』を目前にして、少年の身体は完全に停止する。
動かなくなった敵の姿に彼は安堵するでもなくただ胸を痛める様に顔を顰め、ため息を吐いた。
「これが結末だ」
担い手を失った深海の剣は光を失い、音もなく遥か下方へと落ちていった。
「嘘……でしょう」
何かに反射した太陽光に、リョウカが最初に気が付く。
悠遠な天空での出来事の仔細は、地上から見て取る事が出来なかった。
けれど、エッジが決して自分から武器を手放す筈がないという事実と、鏡面の様に強く反射するそれが禁忌の剣であるという事実が、リョウカの最悪の想像を裏付ける。
(――お願い、間に合って)
クロウは必死に願いながら高速飛行の根幹たる、自身を起点とした深術の放射の勢いをもう一段階引き上げた。
身体を幾重にも保護する障壁越しに、彼女の
絶えず行われるその噴射の反作用は、彼女の身体を瞬く内に一瞬前に居た地点から運び去っていく。
直線的な動きで
速度を大幅に上げた事で加速度的に増大する揚力に合わせ、身体の運動を制御する右肩の宝珠の欠片の意識――
速くなればなる程、それに反比例して軌道の変更は緩慢になる。
大きなループを描く航跡雲を後に残しながらクロウは百八十度方向を変えて狙いを定め、同時に「自分」の意識の方をもう一つの術の準備の為だけに集中させ始めた。
彼女が実戦レベルで扱えるディープスの属性は水、風の二つ。
しかし、クロウはそれ以外の四つの基礎属性も含めた全てのディープスを同時に自分の手の中へと集束させる。
扱いに手慣れた二属性とは違い、他の属性はなかなか手の中へと集まらない。
クロウは焦る気持ちを抑え、深呼吸と共にリアトリスの教えを思い出す。
(苦手な属性を操るには……より強い感情でディープスに訴えかける)
クロウは最も不得手とする火属性から始めた。
内なる炎を呼び起こすのは怒りの記憶、しかしそれは必ずしも怒りが火属性のディープスを司る事を意味しない。飽くまでクロウにとって連想しやすい繋がりがそれであったというだけ。
そして、彼女にとって真っ先に浮かぶ「怒り」の記憶は、
(こんな時に何であいつの顔なんて思い出さなきゃいけないのよ)
クリフの能天気とも言える大笑。或いは自分を子供扱いしてきた時の顔を想起して、クロウは眉間に皺を寄せる。
とはいえ、その感情は憤怒という様な類のものではなかった。
もっと怒りを覚えた経験などいくらでもある。しかし、この記憶は連動して彼女の様々な思い出を呼び起こす。
例えば、自分以外の誰かと一緒に空を翔けた事。
例えば、一緒に作って食べた料理の味。
宿でアキと遅くまで話していて、リョウカに怒られた事。
何もかも諦めた時に差し伸べられたエッジの手。
修行の時だけはやたら厳しかったリアトリスの眼。
思い起こせば止めどなく湧いてくる何気ない日常の日々と、離れてみて初めて知った孤独の意味。
そして、自分を認めてくれる仲間のかけがえのなさ。
記憶を一つ辿る度、形の無い心が中身を伴った温度を持っていく。
いつの間にかクロウの手の中は七色の光で溢れていた。
この術――『
『きっとクロウは、アスネイシスの力なんて無くても凄い
しかし、クロウは
(それは私の才能や力なんかじゃない。だって、私が思い出すのは十六年間も生きてきたのに、この一年足らずの旅の事ばっかり)
エッジと出会ってから彼女は「思い出」を知った。
それが自分を変えたのだと、クロウは分かっていた。
(全部エッジがくれたんだ、今こうして戦う勇気も力も。だから……だから!)
募る焦燥に反して彼女の頭は酷く醒めていて、翼をはためかせ鋭い眼差しで『
大気を劈く轟音に気付いて『ジード』が背後を振り返る。
しかし、その時には既に音の速度を越えたクロウは全てを終わらせていた。
「描け、希望の
堅牢無比な防壁ともなる七色の水晶は、制御不能に近いクロウの速度と合わせて攻撃に転用された事で、「深海の剣」の概念的な破壊とはまた異なる意味で、あらゆるものを切り裂く刃となった。
『ジード』の身体は裂傷から六つに避け、一撃の元に本体である闇の宝珠アスネイシスを抉り出される。
唸りを上げた空気の波は『ジード』の残骸に止めを刺すだけには留まらず、一拍遅れて海面に波紋の尾を引く。
その結末には目も暮れず、彼女は術者の消滅と共に黒槍の
「エッジっ……生きてるでしょ、ねえ」
『ジード』から取り返した不完全な宝珠を膝元に置き、クロウは眠る様に目を閉じた少年に呼び掛ける。
血塗れで降りてきた二人の姿にリアトリスやアキは口元を押さえて言葉を失い、他の仲間も何も言わなかった。
普通なら駆け寄ってくるはずの仲間達が動かないこと――それが何を意味するのか理解しながらも、クロウは認められず少年の身体を揺する。
いつの間にか、重症の人間を相手にしているとすれば強すぎる力を掛けていることにも彼女は気付かなかった。
「返事してよ……信じろって、言ったじゃない」
泣き出しそうな声でクロウはそう吐き捨てる。
こうなる可能性を薄々感じていたリョウカも、いざ予感が現実となると表情を保つのに精一杯で内心激しく動揺していた。
(もっと早くに気付かせるべきだった。貴方がクロウに生きてて欲しいと思うのと同じくらい……或いはそれ以上に、クロウもみんなも貴方に生きてて欲しいと思ってたこと)
涙を隠すため自身の胸に顔を埋める妹を抱かなければならなかった事に、彼女は感謝する。
その小さな身体にさえ頼らなければ、今のリョウカもまた真っ直ぐ立っていることが出来なかった。
皆がエッジを囲み押し黙る中で、彼の傍らに俯くクロウの喉に、抜き身の剣が突き付けられた。
誰かが息を飲むのが聞こえ、彼女はゆっくり顔を上げる。
剣を突き付けていたのは、ラークだった。
リアトリスが信じられない様子で声を上げる。
「ラーク、いくらなんでも今は――」
その言葉を遮る様にしてラークが答えた。
「いいや、今しかない。『ジード』の持っていた宝珠の欠片を回収した今、ここで戦えないなら……僕らはずっと、クロウとは戦えない」
その判断の正しさを証明する様に、ファタルシス諸島上空の暗雲は晴れなかった。
島の周囲の竜巻は崩れた世界の均衡を思い知らせる様に一層激しさを増して、海水を巻き上げる。
クロウは自身に剣を向けてくる彼の表情に、初めて見る苦悩の色を見付けて驚く。
もう一度、懇願する様にラークは言う。
「僕達と戦ってくれ、クロウ」
断ることも出来る――今のラークに本気で訴えれば、戦いを先延ばしにすることも出来る事をクロウは何となく感じていた。
(でも……そこまでして皆を危険に晒してまで私だけ生きても仕方ない)
彼女はもう一度動かないエッジの顔に目を落として、それから魂が抜けた様にふらりと立ち上がる。
「……いいよ、やろう」
本気で対峙する二人を見てリアトリスも時が来たのを悟り、杖を握る手に力を込めてラークの側につく。
クリフが何か言いたそうに口を開き、それに気付いたラークは他の仲間達にも声をかける。
「敵になるなら命の保証までは出来ないけど、君達も好きな方について構わない」
どちらについても先程まで味方だった相手を敵に回すことになるという状況に、残った三人もしばし躊躇するが、意を決した様子で「
「私は、クロウさんの味方をさせて貰います」
しかし、傍に立とうとする黒髪の少女をクロウは制した。
「アキは手を出さないで」
「一人で戦う気なんですか!?負けたら、死ぬんですよ?」
一緒に戦わせてくれと訴えかける彼女に、クロウは虚勢の微笑みを返した。
「むしろ私が生き残ったら、アキ達の方が危ない……だから、私の為に命を懸けないで」
その笑みを浮かべたまま彼女は、目が合ったクリフとリョウカにも視線で念を押す。
二人もアキに続いて加勢しようと身構えていたが、クロウの意図を汲んでアキの肩に手を置き下がらせる。
そして、輪の中心でクロウは一人になった。
既に術を使う前から髪も瞳も半ば黒く変色している彼女が右手を振ると、それだけでディープスの一部がそれに追従して鞭の様に紫黒の跡を描き、空気までもが彼女の補助をする様に周囲が薄暗くなった。
(これで良い、元々これが私の現実)
自身を取り囲む皆の鋭い眼差しに、クロウはこの仲間たちと和やかに談笑する時間があったことを懐かしく思い出す。
(エッジ、ありがとう。最後に物語の勇者になったみたいな
ラークが引いた左脚に重心を乗せて突進の姿勢をとり、リアトリスがディープスを集め始めたのを感じ取って、クロウもまた後ろに跳ぶ。
動いたのは誰が先ということも無く、皮肉な程に合った呼吸で三人は同時に動き出した。
ラークは踏み込みで瞬く間にクロウとの間合いを詰め、突きを放つ。もし、彼女が直前に後ろに跳んでいなければ黒い障壁に阻まれる事もなく剣はクロウの左胸を貫通していただろう。
その直後、リアトリスの杖から放たれた小さな光の矢が続けざまに四本、カーブを描いて背後からクロウを狙う。
行動を読んでいたかの様な連携で挟み撃ちされた彼女は、ラークの刺突を防いだ前面の深術障壁を後方にまで拡大展開し自身の全周を防御する。
初級術程度のリアトリスの詠唱破棄を、クロウの分厚い盾は圧倒的な質量差で軽々と弾き返し白光を散らす。
が、クロウが息つく暇もなく、今度はその障壁全体が揺れた。
「
リアトリスの詠唱と共に無数の光の針が寸分違わず一箇所目掛けて降り注ぎ、更にそこへ断続的な斬撃音も混ざる。
黒い障壁は始めこそ弓なりの形状で衝撃をきちんと分散していたが、二人がかりでの一点集中攻撃を受ける内に表面に傷が付き、そこから瞬く内に亀裂が広がる。
クロウは亀裂の箇所を内部から補強し時間を稼ぐが、続けるほどに中の空間が狭まり障壁全体の形状も歪になって、より一層ダメージは全体に広がっていく。
(このままじゃ、破られる……!)
障壁の応力が噛み合わなくなって完全に崩壊する前に、クロウは自ら障壁の右側を開放し反撃に出ようとする。
――その瞬間を待ち構えていた様に、そこにはラークが待っていた。
僅かな隙間越しに彼と間近で目が合ったクロウは、ぞくりと鳥肌が立って思わず屈み込む。
障壁の内部、それも今まさにクロウの首があった位置を刃が通過する。
紛れも無く殺すつもりの一撃だった。
戦う時点で死ぬ覚悟は出来ていたつもりでも、いざ頭を切り離そうとしてくる刃を目の当たりにするとクロウは身体の震えを止められない。
(駄目だ、出てくるな……!私はもうその力は使わない!)
宝珠の欠片の防衛本能を抑え込んで、一旦開きかけた障壁をクロウは再び閉じる事を選択した。
「『
「なっ!?」
しかし、クロウが壁を閉じるより早く白い障壁がその隙間に割り込み、防御を阻害する。既に障壁が展開されてる箇所に、新たな障壁は展開できなかった。
クロウの防御に隙を作ったリアトリスは畳み掛ける様に更なる術を発動する。
「吹き飛ばせ――フォトンブレイズ」
障壁の隙間から火のディープスが流れ込んできて、その周囲を光で編まれた目の細かい格子が覆う。
クロウはその術に覚えがあった。
爆発の火の勢いで光の壁を押し広げ、周囲のものを蹴散らす深術。
本来は相手をなるべく傷付けない目的でリアトリスが使用する術だが、四方を壁で囲まれた今のクロウにとっては話が違う。
一か八かで自身の展開した防御を全て解除し、クロウはその場から跳ぶ。
が、既に彼女の身体への宝珠の侵食は咄嗟の動きに対応できないほど進行していた。
すぐ背後で爆発が起き、足が
「ぅっ、ぐっ!」
事前に練習を重ねたであろうシンの一族二人の無駄のない連携と、手の内を熟知した対応とにクロウは圧倒されていた。
誰かが息を飲む音と悲鳴とが聞こえる中で、彼女は痛みをこらえて即座に顔を起こし状況を把握する。
意外な事に二人はまだ動いていなかった。
背後の彼女を守る様にラークが前、リアトリスが後ろで、反撃を警戒する様に一度攻撃の手を止めている。
クロウは、急に不自然なほど動きが鈍くなったリアトリスの頬が濡れている事に気付いた。
(今ので私が死ぬと思ったんだ……)
そこで彼女は、ここまでの完璧とも言える自分への対策のもう一つの意味を悟った。
普通なら、人は迷いや躊躇いがあると動きが格段に鈍る。けれど事前に何度も繰り返した動きは身体が覚え、思考にあまり左右されずに動けるようになっていく。
訓練というものには迷いを振り払う効果もあるのだ。
二人は数ある戦い方の中からこの様な事前の対応策を選んできたわけではなく、こうしなければ戦えない事を理解していたのだろう。
対策が完璧になるほどリアトリスが迷い続けたのだと思うと、クロウも僅かに胸が苦しくなる。
(私だって戦いたくない、二人を殺して生きるのも、死ぬのだって嫌だ……でも)
もう手遅れだった、何もかもが。
ずっと傍にいてくれた少年と一緒に、クロウの「生きたい」という願望も遠くへ行ってしまっていた。
彼女は顔を上げ、世界を背負うラークの凍り付いた目を直視する。戦う直前に見せた一時の迷いが嘘の様だった。
或いはそれ程に割り切らなければ、
クロウはただ他人と分かち合えないだけでリアトリスと同様に心を痛める彼を今、初めて孤独だと感じた。
(ごめん、ラーク……その強さに甘えさせて)
傷めた脚を引きずり、クロウは真っ直ぐ右手を構えてそこから「ブラッディランス」を打ち出した。
その明確な敵対行動にラークは即座に対応し、身を翻して黒槍の先を避けながらも今まさに飛来する術の方向へ、クロウの元へと駆け出す。
その突進のあまりのスピードに、クロウは唸りを上げて飛ぶ黒槍が遅いようにさえ錯覚する。
ほんの一瞬後には彼が手に握る刃が彼女の元へと到達するだろう。
(せめて、最期まで戦って生きよう)
最後の相手に選んだラークへ、クロウは覚悟を決めて再び術を向けた。
「
――と、風を巻き起こす鞭の様な何かが乱暴に地を削りながら、今まさに決着をつけようとする二人の間に割って入った。
そのあまりの威力にクロウもラークも行動の中断を余儀無くされ、降ってくる土砂から顔を庇う。
砂塵が収まり何が起きたのか見極めようとする両者の目に島の端まで走る地面の亀裂と、その破壊を行った動物の触手とも刃ともつかない黒いものが流れるような動きで主の元へと返っていくのが映った。
身体の一部を変形させて今の技を放ったらしきそれは、少年の輪郭を取る。およそ剣技とは似ても似つかぬ異質な技でありながら、その技の動きと範囲はその場にいる全員が知る「魔神剣」そのものだった。
見慣れた人影に、二人だけでなく見守っていた仲間達までもが信じられないという表情を浮かべる。
少年の姿をしたそれは戦意を感じさせないゆっくりとした歩みで、けれど確実にクロウを守れる位置へと移動してきた。
「信じて、って言っただろ」
「エ、ッジ……?」
彼の身体はクロウの右肩同様、闇の宝珠の欠片に侵食されていた。致命傷であった筈の腹部の傷があった場所を起点として全身へと樹枝状に細く枝分かれした黒い筋が皮膚と癒着して広がっており、その変化は首を過ぎ顔にまで及んでいる。
リアトリスはすぐに先程までエッジと共に宝珠があった場所を確認し、そこに滲んだ血痕以外何も無いことに気付く。
「そんな……クロウだけじゃなく、エッジまで」
受け入れがたい事実に衝撃を受けながらもリアトリスはラークと共に武器を構え、今度は二人を倒そうとする。
しかし、エッジは戦う姿勢を見せず両手を上げて彼らを制した。
「待ってくれ、もう戦いは必要ない。宝珠なら――ここに在る」
ラークはその真意を計り兼ねて最初は警戒を解かなかったが、クロウの手を取って何かを始めようとする彼の姿からその考えを悟り目を丸くする。
「エッジ、君は……クロウと一緒にアスネイシスの代わりになるつもりなのか?」
ああ、と頷く少年の背後で竜巻の壁がゆっくりと消え始める。それと共に島の上空へと集まっていた暗雲も緩やかに散っていき、その切れ目から光が覗く。
『ジード』がその力で乱した二世界間の均衡が、少しずつ元に戻り始めていた。
その光景を見守っていたクリフらは一先ず最悪の事態を回避出来た事を悟り微かな安堵のため息を漏らすが、シンの二人の表情は険しいままだった。
ラークは一度は自らが剣を教えた弟子に問い掛ける。
「僕らが今ここで戦わなくても、二つの世界のシンの一族は君達が宝珠の力を持っていることを良しとしないだろう。仮に戦いにはならなくても君達はこの先ずっと、人ではなく世界を存続する柱であることを求められる……それでも君は、その道を選ぶのか」
エッジは躊躇い無く首肯する。
「出会った頃から変わらないね、自分の愛する物のためなら自らも顧みず世界さえ敵に回すその厄介な意思の強さ……君は本当にジードそっくりだ」
最後の一言と共にどこか呆れた様に、けれど少しの寂しさを含んだ微笑を浮かべ、ラークは三日月を形作る一対の刃を畳んで鞘に納めた。
リアトリスは驚くほどあっさりと引いた彼に、戸惑いを隠せない。
「良いの?ラーク」
「ああ、まずは族長達に報告しないと。僕も焔螺旋で世界が繋がっている内にイクスフェントに戻らないといけないしね。今は……今だけはそうしよう」
それが意味するのは戦いの終わりではなく、一時の休息に過ぎない可能性をリアトリスは知っていた。
シンの一族の使命は「宝珠の力を人に渡さない事」――例え『ジード』を倒しても、エッジとクロウの手に闇の宝珠がある限り本当の意味で二人の使命が終わる事は無い。
しかし、それでもラークもまたこの瞬間に自分と同じ想いであることが、リアトリスは嬉しかった。
「うん、そうだね」
ようやく言葉を交わす余裕が出来て、エッジとクロウは互いの黒く染まった姿を間近に見る。
明るい日の光の下で認める彼の姿のあまりの変わり様に、クロウは彼が生きていた事を喜ぶ事が出来なかった。
「エッジ、自分が……何をしたのか分かってるの?」
「ああ、分かってる」
何でも無い事の様に答える少年に、クロウはせめて少しでも弱みを見せて欲しくて同じ問いを重ねる。
「あんた、人間じゃなくなっちゃったのよ?『ジード』と同じになっちゃったのよ?……何時あいつみたいに心を冒されるかも分からない」
それでも表情を変えず、ただ無事を喜ぶ様に向けられる優しい視線に耐えかねてクロウは拳で彼の胸を叩く。
彼女の手に返ってくる温度は、硝子の様に冷たかった。
「私は……もう眼だって殆ど見えないのに!触ってるモノが人なのかそうじゃないのかも分からないのに……そんな壊れかけの人間の為に何で」
その拳を手のひらでそっと受け止めて、エッジは俯いた彼女に心からの笑みを返す。
「それでも俺は、クロウに生きていて欲しかったんだよ」
明るい日の下、ようやく世界に生存を許された少女を、新たな魔王となった少年は抱き締めた。