TALES OF CRYING ―女神の涙と黒い翼―   作:ILY

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第二頁 神域

 穏やかな声で挨拶をされた一行は返答に窮する。

 特に突如禁忌の剣の暴走の危機に晒され、そこから必死に森の中を駆け、不自然な闘技場に辿り着いた事で警戒心が高まっていたエッジは一先ず剣を納めつつも、ヴェールの女性のたおやかな所作に戸惑いを隠せない。

(アエスの暴走は収まってる……巻き込まなくて良かったけど、たまたまなのか?)

 不自然というなら、彼女の手にする物もとても奇妙だった。

 壺――否、形状や中身を零さない様に上向きで保持している所を見ると水瓶(みずがめ)の類なのかも知れなかったが――兎に角、子供の頭程の大きさが有りそうなその物体をまるで鈍器か何かを構えるかの様に肩に載せている。

 沈黙が長引いて相手に警戒心を抱かせる前に、アキが挨拶を返す。

「こんばんは。あの、何故その様に重そうな物を持ってらっしゃるんですか?」

 初対面でするには少々不躾な質問だったかもしれないが、女性は気にする様子も見せず落ち着いた笑みを湛えたまま答えた。

「そうですね、別に態々(わざわざ)これを持つ必要は無いのです。ただ、この様な場ではつい()れが自然な気がして……感傷だと笑って構いません」

 クリフがラークに目配せする。

(壺持つのって感傷的なのか……?)

(僕の方見られても)

 失礼な事を聞いてしまったかとアキが慌てて取り繕う。

「い、いえ!とっても素敵なオブジェだと思います!」

 アキが慌てて取り繕った表現に思わず、という風にリアトリスも笑いを漏らす。

 戸惑ったり、慌てたりしながらも最初の警戒心を解きつつあるエッジの仲間達の様子を緑衣の女性は穏やかに観察していた。

 彼女の物腰が柔らかな為威圧感はあまり無かったが、彼女は女性の中で一番高身長のリョウカよりも背が高い。

 そこから発せられる気迫というにはあまりに淡く、気のせいで済ませるにはあまりに確信めいた……言い様の無い圧迫間の様なものを、ただ一人クロウだけが感じていた。

(この人間違いなく真っ先に私の方を見た。あの時抜き身の深海の剣を持ってたエッジじゃなく、私を)

 クロウは自分が皆の中にとけ込めているとまでは思っていなかったが、だからと言って一切の深術の行使もせずに警戒される覚えは無かった。

 そんな事を初見で彼女にしてきたのは後にも先にもリアトリスただ一人。

 それも(シン)の一族としての感知能力あっての事で、ラークやリアトリスの反応からするとこの女性が「シン」である可能性は低い。

(エッジやフレットみたいに何処かで血を引いてるだけって可能性も考えられるけど、でもハーフのエッジは目の前で私がラーヴァンを実体化させるまで宝珠の力に気付かなかった……能力には個人差があるとしても、やっぱりさっきの反応は不自然すぎる)

 

 張り詰めたクロウの緊張を、穏やかな青年の声が途切れさせた。

「どうかしたんですか?」

 その呼び掛けに緑衣の女性を含めた全員が振り向く。

 この闘技場には入場用のものと思しき大拱門(アーチ)が二箇所ありエッジ達が入ってきたのとは逆の方――今しがたヴェールを被った女性が歩いてきたのと同じ側からリアトリスと同年代程の青年が近寄ってくる。

「あら、クレスさん」

 クレス、と呼ばれた青年は麦藁(むぎわら)色の髪を邪魔にならない様に赤いバンダナで縛っており、動きやすそうな革鎧の上から白い板金鎧を纏うことで特に上半身を重点的に防護している人物だった。ヴェールの女性と違ってこちらは明確にエッジ以上に大振りな長剣を帯びており、明確に戦士である事が分かる。

 クレスは突然現れたエッジ達の姿に眉を顰める事も無く、首を傾げた。

「こんばんは、僕達ここに迷い込んじゃったみたいでね。君達もそうなのかい?」

 彼の柔らかな表情にもやはり敵意は無く、それどころかその人懐こい自然な笑顔は、武装しているにも関わらず緑衣の女性よりも親しみやすい印象さえ与える。

 クロウはさりげなく隣の少年に耳打ちした。

『剣が安定してる内に離れよう』、と。

 エッジは彼女だけに分かるよう小さく頷いて、クレスの問いに答える。

「あ、はい、そうなんです。森の中で迷ってしまって……」

 本当に?と、クレスはヴェールの女性を振り返った。

 この二人のやり取りには、お互いに深く踏み入らなくても相手を尊重し合える類の信頼が滲み出ている。

「ええ、外から歩いて来られた様で」

 女性は視線を動かさないまま答える。

 今度こそ間違いなく彼女はクロウを見ていた。

 クレスは苦い笑みを浮かべる。

「そうか、それは困ったね。僕らも案内できそうにないし」

 眼の前の剣士が本気で考え込みそうになるのを見て、エッジが慌てて切り出す。まさか初対面の相手がそこまで真剣に身を案じてくれるとは彼も思っていなかった。

「い、いえ大丈夫です!来た道を引き返すぐらいならどうにでもなりますから!」

 弾かれた様な勢いで踵を返したエッジは深海の剣の鞘を抱えて走り出し、クロウもそれに倣う。

 その勢いは、礼儀正しいアキが思わず制止を掛ける程だった。

「ちょっとエッジさん、クロウさん!?ああっ……もう、すみません」

 後ろで束ねた黒髪が大きく暴れ、うなじが見える程深々と頭を下げてアキもその後を追う。

 仲間達も会釈したり、ため息を吐いたりしながら続々と慌ただしく来た道を引き返していくが、背の高いヴェールの女性と赤いバンダナの剣士はそれに気分を害する様子もなく静かに手を振り返した。

 

 

「結局何だったんだ?この剣の暴走、急に収まったしここには何も無いし……」

「ひとまず収まったなら良かったじゃん、エッジの精神的なものとかタイミングが原因の暴走だって可能性もあるわけでしょ?」

 エッジとクロウは疑問を口にしながらも来た道を戻って、大拱門の出口一歩手前の所で足を止めた。

 そこから先は建物の外だ。

 二人はどちらからともなく口を噤み、エッジは剣を体から少し離して持つ。

 それから、一呼吸おいてエッジが一歩を踏み出した。

 

 途端、今まで静まっていたのが嘘の様に深海の剣アエス・ディ・エウルバの鞘から蒼い光が溢れ出す。

 勢いよく火花の様に立ち上ったその光は闘技場の壁より遥か上まで伸びる。

「くっ」

 心の何処かでそれを覚悟していたエッジは、踏み出した足をそのまま戻して二、三歩後退する。

 その動きを追う様にして、剣と鞘の間から溢れた光もエッジの手元へと集束していく。

 そこへ、リアトリスが息を切らせながら追いついて来た。

「やっぱり、暴走してたんだね」

 彼女の深刻な表情を見て、クロウは仲間達がこんな森の奥までついてきたのが偶々では無いことを悟る。

「そっか、リアこの剣の異変に気付いてたんだ。道理でみんな現れるのが早いと思った。つくづく『(シン)』の感知能力ってのは桁違いだね」

 クロウは半ば呆れながら褒めるが、リアトリスはそれを無視してエッジに告げた。

 すぐにも仲間達が追い付いてくる。

「……エッジ、もしその剣の制御を失うなら、私とラークはそれを力ずくでも取り上げるよ。禁忌の剣がエッジの命を奪う前に」

 何も、答えることがエッジには出来ない。

 今のは嘘だった。

 ラークは深海の剣の暴走で更なる被害を出すくらいなら『エッジの命を奪ってでも』それを阻止するだろう。

 そして、今エッジにこの破壊の剣を再び御し得ると示す根拠は何も無い。

 だから、彼は黙るしかなかった。

 リアトリスの後からルオンの小さな白い頭がひょっこりと覗き、それに続いて追い付いてきた仲間達が次々沈黙の上に心配の声を重ねて来るのがエッジには辛い。

 

 そんな嫌な空気を、つい先程の剣士の声が破った。

「そうか、その剣を持っていたからここに来たんだね」

 いつの間にかエッジのすぐ目の前にクレスは立っている。

 俯いていたせいか、声をかけられるまでエッジも気が付かなかった。

「どういう意味ですか?」

 アエス・ディ・エウルバの存在を知っているかの様な相手の反応に、エッジは慎重に聞き返す。

 クレスの背後でラークも無言で武器の柄に手を掛けた。

 自分に向けられる疑念を感じたのか、クレスは先に否定する。

「ああ、いやそれの由来や名前を知っているわけじゃないんだ。ただ僕の剣がその剣と呼び合っていたから」

(剣が、呼び合う?)

 荒唐無稽、と切り捨てるにはエッジの中でここまでの深海の剣の暴走があまりに引っかかった。

 クレスは害意が無いことを示す様にゆっくりと自分の長剣を引き抜く。桔梗色の幅広で真っ直ぐな刀身が顔を覗かせる。

 青味がかった剣という比較的珍しい共通点も確かにあったが、色味以上にエッジは一目クレスの抜いた剣を見た瞬間、深海の剣と同じ「圧力」の様な物を感じた。

(いや……これはそれ以上)

 本能的に感覚がそう訴えかけるが、同時にエッジの中の論理的な思考がそれを否定する。「万物を分解するという力と同等以上の力などある筈が無い」、と。――そう否定しながらも「それが事実として眼の前に存在する」と訴えかける感覚が否応なく想像を悪い方へと向かわせる。

 その底の知れない長剣をそっとクレスは構えた。

「僕はクレス・アルベイン。この剣はエターナルソード、君の名前は?」

 エッジも一瞬躊躇ったが、深海の剣を鞘から抜きそっと相手の剣と合わせる。蒼い刀身の光は何かを待つ様に穏やかだった。

「エッジ・アラゴニートです。この剣は深海の剣、アエス・ディ・エウルバ」

 二振りの剣が十字に交差する。

 普通なら他人の武器と接触させたりすれば深海の剣はその武器を即座に破壊してしまうが、不思議とエターナルソードに傷は付かず、エッジ自身接触の前から大丈夫だという奇妙な確信があった。

 クレスは静かな闘志を以てエッジの顔を正面から覗く。

 間近で見上げるクレスの表情は優しげであっても、同時に戦うものとしての強さを秘めており、エッジはややそれに気圧される。

「僕と闘って欲しい。本気、でね」

 心の揺れを見透かす様にクレスは念を押す。

 エッジはすぐには答えられなかった。

 肌が彼との実力差を感じていた。

(俺なんかで相手になるのか?……でも、応えるのが礼儀か)

 しばしの逡巡の末、エッジは頷く。

 二人は一旦剣を下ろし、闘技場の中央部へと引き返した。

 途中エッジは「敵なの?」と視線を向けてきたルオンに笑みを返す。

 まだ剣の暴走を心配している様子のリアトリスは、このまま戦いに挑むことに複雑な表情をしていた。

 と、先程から静観していた緑衣の女性がエッジとクレスの前に立ってその歩みを止めさせる。

「クレスさん、その戦いに先立ってまず私が少し時間を戴いても?」

 今まさに戦いを始めようとしていたクレスは戸惑いながらも足を止め、話を聞く。

「どうしたんですか?グリューネさん」

「貴方もその二振りを衝突させるというのがどの様な事か気付いているのでしょう。だから、その前に済ませておきたい事が有るのです」

 ヴェールと神秘的な雰囲気とを纏った女性――グリューネは柔らかな笑みと共に啓示の様にクロウを指差した。

「私と戦ってはくれませんか?クロウさん」

 クレスを初め皆が、一見戦意の欠片も無さそうな彼女の発言に驚く。

 が、当の指名された本人は何と無くこの展開を予想しており、やや諦めの混じった表情でグリューネの視線を受け止める。

「……分かった」

 クロウの答えを聞いたグリューネはふっ、と落ち着いた相好を崩し、純真な少女の様な笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、では決まりですね」

 二人は驚く程あっさりと戦う事を決めてしまうが、これに慌てたのはクレスだった。

「ちょ、ちょっとグリューネさん本気なんですか?」

 突然割り込まれただけでなく、その指名した相手が投げナイフ以外武器らしい武器も持たない少女である事に彼は困惑した様子を見せる。

 しかし、グリューネはそれを杞憂だと諭す様に目を細めた。

「別に殺し合いをする訳ではありません。それに、その娘はクレスさんが心配する程弱くはありませんよ」

 そうでしょう?とグリューネは同意を求める様に笑みを浮かべながらクロウを見つめ、彼女に顔を(しか)められる。

 まだ少し納得のいかない様子のクレスは隣にいるエッジを安心させる様に耳打ちした。

「……もし本当に危なかったら僕が割って入るよ」

 エッジは、クロウもその対戦相手の女性も両方が心配だったが、両者が距離をはかりながら向かい合ったのを見て、他の仲間やクレス達に倣い渋々観客席と解説された石造りの段差へと足を向けた。

 

 ―――――――――――

 

 二人以外の人間が下がるまで対峙したクロウとグリューネの間には緊迫した空気が流れる。

 エッジは重苦しい空気に耐えきれなくなり、自身と同じ様に不安げな顔のアキに尋ねた。

「大丈夫かな?クロウ自身も勿論心配だけど、クロウ加減が利かなくなる時があるから」

「私も同意見です、こんな危険を負う必要なんて……」

 後ろから、リョウカが腕組みをしながら溜め息と共にその疑問に答えた。

「貴方達は深術とか基本的に独学で学んできたから馴染みが無いかもしれないけど、武術同様実戦形式の訓練は深術士(セキュアラー)だってやるものよ。一つ一つの術が例え完成されていようとそれを実戦で使いこなすのは全く別の技術だもの。戦況に合わせた選択肢の取捨選択、攻撃を受けるかもしれないストレスのかかる環境下での確実な詠唱、場合によっては術だけに頼らず自分の身体を動かして相手の動きに対応する判断力……必要とされる能力は多いし、詠唱時間なんて隙を生じる技術である以上その判断・先読み等の重要性はとても高い。そういうのを鍛えるには結局実践が一番だもの」

 姉の淡々とした解説を聞いてアキが反論する。

「そもそも今ここでそれを行う必然性が無いと言っているんです」

 目を吊り上げた妹を前にしてもリョウカは冷然と続ける。

「あの子が心配なのは分かるけど落ち着きなさい。私だってクロウが何故戦いを受けたのかは分からないわ。ただあの子自身が決めた時点でもう私達が口出しする事じゃないのよ」

 それからリョウカは(なだ)める様に語調を和らげて、付け足した。

「クロウが自分で助けを求めてきたらその時は助けてあげなさい、それだけで十分よ」

 アキもエッジもその言葉で再びクロウの方へと向き直ったが、その顔にはまだ不安がありありと出ていた。

 

 いつでも始めて問題ない様に身構えるクロウの正面で、円形の競技場の反対端近くまで距離を取ったグリューネは水瓶を肩に乗せた彫像の様なポーズのまま動こうとしない。

何時(いつ)でもどうぞ」

 構えもしない相手にクロウは躊躇する。

「どうぞって言われても……」

 仕方なく彼女は水のディープスを周囲から集束(コレクト)し詠唱を開始するが、無抵抗の相手と大勢が見守る前で自分一人が攻撃しなければならない状況に彼女はひどい居心地の悪さを感じた。

「じゃあとりあえず――アクアエッジ!」

 小さな見えない程の粒子が寄り集まって水滴となり、そして三つの円盤状の水の塊へと変化して回転速度を上げる。

 クロウの合図と共に飛び出したそれらは、それぞれ異なる軌道でグリューネへと襲いかかる。

「……」

 が、術を放たれた当のグリューネはそれを何処か不服そうに見つめた。

(何もしてこない?)

 クロウは相手が防御どころか身じろぎもしない事を不審に思うが、その理由はすぐに明らかになる。

 打撃によるダメージを狙った水の歯車はその(ことごと)くが対象を外して、グリューネの背後の壁を打ち付けた。

 彼女が少しでも動いていたら逆にその直撃を受けていただろう。

 クロウは自分の甘さに舌打ちする。

(普通の術を使うのが久し振りだからって狙いを外すなんて)

 間を置かずクロウは直ぐ様、次の術の詠唱を開始する。

()()がれ、奔流(ほんりゅう)――」

 多量のディープスがクロウの周囲に集まり、ヴェールを被って悠然と佇む女性の周囲へと流れていく。

 先程の「アクアエッジ」には発動から到達まで若干の時間差があったが、今度の術は直接対象の周囲で発動した。

「スプレッド!」

 グリューネの周囲の見えない容器を満たすかの様に水位を上げ、彼女の姿を覆い尽くしたその水流は、中心目掛けて殺到しその衝突の勢いで高く水柱を上げる。

「――本気を出して構わないのですよ?クロウさん」

 澄んだ声が響いた。

 それと共にクロウの放った水流がまるでカーテンか何かの様に開き、水飛沫を避けて目を閉じたグリューネが無傷のまま姿を表す。

 それを見てクロウは冷や汗と共に確信した。

(やっぱり、さっきの攻撃も外れたんじゃない、間違いなく攻撃が逸らされてる)

 自分を穏やかに見つめる女性の翡翠の様な眼を、彼女は急に氷の様に冷たく感じる。

 不意にクロウは当たり前の様に自分に話し掛けてくる相手に疑問を抱いた。

 

(あれ……私……そういえば名乗ったっけ?)

 

 戦いを申し込んできた女性は、手を止めたクロウの姿を観察する様に見つめながら小首を傾げる。

「こちらからも攻撃しないとその気になれませんか?」

 グリューネの細い指の先で、うっすらとその爪が白い光を放つ。

 身体に震えが起きる程急激に気温が下がり息が白くなっている事に気付いてクロウは、はっと顔を上げる。

 その視線の先でグリューネがはっきりとその術の名を宣言した。

「アブソリュート」

 瞬く間に低温状態になっていたクロウの周囲の空気は、彼女を呑み込んで氷結した。

 

 

「――!」

 ラークと共にグリューネの態度を警戒し、固い表情で戦いを見守っていたリアトリスが不意に弾かれた様に立ち上がる。

「クロウ、駄目!その力を人に向けたら――」

 

 

 大人五、六人が丸々閉じ込められる程分厚い氷塊が、内部から粉々に砕け散った。

 その中から何本もの黒槍と共に、本来紫の瞳を漆黒に染めたクロウが飛び出す。

 咄嗟に、ほとんど条件反射で宝珠の力を借りたクロウは、自分の周囲の空気を闇のディープスで固める事で隔離し、集束(コレクト)したディープスをそのまま頑丈な黒い槍として放つ事で「アブソリュート」の攻撃を突破していた。

 詠唱もなく、無造作に膨大なエネルギーを振るう事で強引に引き起こされた術に対する術でのカウンター――クロウ自身意図せず発動する事になってしまったその力は、氷を突き破るだけに留まらず真っ直ぐにグリューネ目掛けて飛ぶ。

 攻撃から逃れるのに必死でそれに後から気付いたクロウは、焦りに目を見開く。

 槍は止まる事なく、風を切る音だけを残して、真っ直ぐに女性の胸へと(かけ)る。

 訪れる悲鳴を。

 咲く血の華を、誰もが覚悟する。

 しかし、そうはならなかった。

 グリューネは胸の前ですっ、と一本横線を引く様に指を動かし、ただそれだけの事で人の命を一撃の下に奪い去る黒槍は軌道を変えられた。

 槍は伴った冷気によって氷片を散らしながらも、玩具の矢か何かの様に綺麗に流され観客席の壁に激突する。

 自身の背面の石造りの壁に突き立って凍り付かせた黒槍を意に介する様子もなく、グリューネはクロウに言った。

「まだ全力ではありませんね」

 今しがた宝珠の力を人に向けてしまった時と比較にならない寒気がクロウの背中を走る。

 自分がどんな規格外の相手と戦っているのか、クロウはようやく理解した。

 

「……あり得ない」

 何が起きたのかを把握していたリアトリスは目の前で起こった現象が信じられずにへたり込む。

 クロウの「ブラッディランス」はごく少量の水によって軌道を変えられていた。

 そもそも闇の宝珠アスネイシスの欠片を宿した彼女の術は正面から受け止める事などまず出来ない。

 『色の水晶(クロマティッククリスタル)』を使えば一応リアトリスにも防御出来たが、それはあくまでディープスの結合の構造的優位に因るもので短時間が限界であり、扱っているディープスの量そのものの桁が違う以上長期戦になれば破られるその場凌ぎでしか無かった。

 防御不能――それがクロウの深術の絶対的優位性。例外は同じ宝珠のより上位の力を操る『ジード』のみ。

 それをグリューネは、手に掬える程度の水だけで防ぎきった。

(クロウの闇属性の深術は全てその強力さ故に強い冷気を帯びてる。だから、水が接触したりすればその部分は即座に凍る……でも、それと接触の瞬間の衝撃を利用してあのスピードの槍の軌道を変えるなんて)

 理屈は単純でもそれを現実のものとするには、手足の様に術を操る精密さと、クロウの打ち出した黒槍のスピードと同等かそれ以上の速度が必要になる。

 誰より術に対する理解が深いからこそ、リアトリスはグリューネの術の使用に垣間見える力の底知れなさに恐怖した。

 

「ブリリアントランス」

 グリューネの言葉と共に先端が発光する笹穂槍に似た形状の武器が五本、何処(いずこ)からか前兆無く現れ落下する跡さえ視認させずに次々大地に突き刺さる。

 それによってクロウは詠唱を中断させられ、剥き出しの地面を転がる様にして回避を余儀なくされる。

(くっ、詠唱は普通だけど、術の発動時間が極端に短い……その上向こうの術のディープスが感知できないんじゃ、どうしてもこっちが後手になる)

 恐れ――という点では例えリアトリスの様な正確な分析能力を持っていなくとも、直に対峙するクロウもまた同じだった。

 自分がどれだけ強力な術を使おうともそれを容易く退(しりぞ)けられ続ける重圧は、否応なく彼女にのし掛かる。

 もはや加減しよう等という発想はクロウの脳裏に一片も無くなっており、彼女は先程から宝珠の力の化身とも言える巨鳥(ラーヴァン)を実体化させようとしていたが、その度グリューネの反撃に先を越され巨鳥を実体化させるのに必要なディープスを安定させる事が出来ずにいた。

 一度、巨鳥を実体化させてしまえば威力が向上した深術と、飛行による優位によって状況を引っくり返せる可能性は十分にあったが、相手の波状攻撃がそれを許さない。

「サーペンツヴァイト!」

 仕方なく彼女は負担を覚悟で自分の身体を通して闇の宝珠の力を行使し、詠唱を破棄する。

 瞳の色を変化させたクロウの(めい)(しな)る二対の鞭が大蛇の様にグリューネに襲い掛かった。

 先程の攻撃で既に「ブラッディランス」の直線軌道を見切られていた彼女は、不規則な軌道の術で相手のピンポイントの防御を封じる。

 

 それに対してグリューネは飛来する攻撃の軌道を無理に見切ろうとはせず、代わりに自身の前面の広範囲に渡って水膜を張った。

 彼女の後方の観客席や壁面まで全てが覆われたことで、空気と水との屈折率の差によって揺らぐ透明な景色の境界が生まれる。

 殺伐とした闘技場の土煙にそぐわない程清純な水のヴェール。

 けれど、その効力は紛れもない本物で、クロウが再度放った反撃を半球状の形状を少しも損なうこと無く打ち払う。

 よく見れば「サーペンツヴァイト」との接触の瞬間水はその箇所だけ確かに凍っていたが、それは本当に一瞬の事で瞬く内に氷は闘技場の壁面の方へと流され水膜は鏡の様な静けさを取り戻す。見た目は穏やかでもその実、グリューネを護るそれは高速で流動していた。

「……これもダメか」

 またも防がれた事でクロウは攻めあぐねる。

 手が止まった彼女に向けて、グリューネが詠唱を開始する。

虚空(こくう)()げし()らぎ()(おり)よ、解放(かいほう)への(くさび)()()め……」

 術のディープスを感知できなくとも、今までで一番長い詠唱にクロウの術士としての本能が警告を発する。

 グリューネの姿は依然として水のヴェールの向こう側。

 それを破る手段が今のクロウには思いつかない。

 彼女の心臓が気味の悪い速度の拍動を刻んだ。

(防げる?何が、どこから飛んでくるかも分からないのに?)

 相手の術の初動を見逃さない様に視線を忙しなく動かしていた彼女は、自分の足が引きずられる感覚に気付いて足元を見る。

 自身の扱う実体を持った冷気の集合体である「闇」とは質の違う、引力と触れただけで肌の内部にまで染み付いて変質してしまう様な澱みを孕んだ沼の様な暗闇がクロウの脚を引きずり込もうとしていた。

(しまっ――)

「ネガティブブレード」

 グリューネが口にした術の名と共に闇の底から、術の本格的な始動を示す紫電が走った。


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