第一話 「自殺なんて勿体ない。死ぬくらいなら幻想郷へ来ませんか?」
とある一軒家の一室。
ブタオこと武田 雄は絶望していた。
「ぶふぅ。こ、これでこんな糞みたいな世界からおさらばでごじゃる」
武田 雄 年齢35歳 独身 職歴及び異性との交際歴なし。典型的な引きこもり。高血圧、高血糖、高コレステロールの三高メタボ。
彼はドアノブに紐を括りつけ、自分の首に巻き付け、壁に寄り掛かるように座りこんでいた。そして体の重心を徐々に下へと持っていく。首に巻き付けられた紐の圧迫が次第に強くなりはじめる。
苦しい。けど、コレが一番苦しくない自殺の方法――。
ネットにそう書いてあったのだ。
大げさに体ごと首を吊る事は無い。尻を付けた状態でも十分に首つりは可能だと。
頭に血が上らなくなり、ボーとした状態で死ぬ事が出来るのだと。
確かにその通りだ。意識が朦朧としてきた。
徐々に消えつつあるブタオの意識は、過去の走馬灯を映し出させていた。
思えば、碌な人生ではなかったと――。
やはり現世なんぞに何の未練も無い。
彼の生きようとする意志はそこで途絶え、彼は意識を手放した。
◆
何とも言えぬ浮遊感がブタオの体を支配していた。
地に立っている様な感覚ではない。まるで宙に浮いている様な――。
静かに目を開けると、そこは先ほどまで居た自分の部屋ではない。
そこは不思議な空間であった。真っ暗な空間にもかかわらず、はっきりと光を認識できるような――。境界がはっきりとしていない空間だった。
「こ、ここは……あの世とやらでおじゃるか?」
疑問をはっきりと言葉を口から出す事が出来た。
ブタオは自分の体に目をやると、そこにはきちんと自分の体があった。不思議と死んだ感じがしない事に違和感を感じる。
一体、何がどうなっているのか。自分はもう死んでしまったんだろうか。
混乱している最中、ブタオの目の前に傘を持った金髪ロングの美しい女性と、何本も尻尾の生えたこれまた綺麗な女性が現れた。
「こんにちは」
女性はブタオに声をかける。
ブタオはその女性の姿を見て、目を奪われた。
(な、何と見目麗しいおにゃのこでござるか!?)
こんなに綺麗な女性に声をかけられた事なんて生まれて一度もなかった。やはり自分は死んでしまったのだろうか?
「こ、こんにちわでおじゃる……」
震える声でブタオは挨拶を返した。女性は頬笑みを向けながらブタオに言った。
「私の名前は八雲紫。こちらは藍と申します。貴方の名前を教えていただけないかしら」
「わ、吾輩の名前でおじゃるか? ……ぶ、ブタオと呼ばれておりますでおじゃる」
「ブタオ?」
「本名は……武田 雄という名前でおじゃる。しかし恥ずかしい事ながら吾輩は、いつもブタオと呼ばれていたでおじゃる。本名よりも……。こっちの名前の方が呼ばれ慣れて居るでおじゃる」
「ああなるほど。武田 雄。確かに読み方を変えればブタオになるわね。随分と侮蔑の込められた名前ですこと」
「し、仕方ないでおじゃる。こんな体型でおじゃから……」
「……」
ブタオは紫の顔を直視できなかった。
彼女も自分を見て、何とふさわしい名前なのかと、侮蔑の視線を向けてくるのではないかと恐れた。
見目麗しい女性に蔑まれるのはちょっと嬉しいが、侮蔑対象が自分の気にしているものなら単純に傷つく。
しかし、ブタオの思惑とは裏腹に紫の表情は変わらない。
ブタオに対して優しい笑顔を向けてくれるのだ。
「貴方は、自分が何をしていたか覚えていらっしゃるかしら?」
「何をしていたかでおじゃるか? 吾輩は……」
覚えている。ブタオは覚えている。死のうとした事を。
こんな糞みたいな世界からおさらばしたかった。
思えば碌な人生ではなかったとブタオは思う。
小学校、中学校とイジメられてばかりだった。ブタオという名前が定着したのもこの頃だ。良い所の高校に入って、いじめっ子達とおさらばしようと勉強もしたが受験は失敗。結局地元の高校に通う事になって……。いじめていた連中と同じ高校になってしまったのだ。
高校生の時のいじめは鮮烈を極めていた。
好きの反対は無関心なんて言葉があるが、やはり好きの反対は嫌悪だと思う。
だって、無関心でいて貰いたいのにみんなしてバカにして……。
積極的に関わってくる。
トイレの中に閉じ込められた。机の中にネズミの死骸を入れられた。ノートを破り捨てられたり靴やカバンが無くなるなんてしょっちゅうだ。
高校二年生に上がる頃には完全な人間不信に陥っていた。結局出席日数が足りなくなって留年し自主退学した。
両親は、そんな自分を見て酷く落胆した。
親の汚物を見るかのような目に耐えられなくなって、一日中部屋の中にいた。
両親との仲は決して良いものではなかったが、幸運だったのは親は自分を追い出すことなく、食事と寝床を与え続けてくれた事だ。
定期的にある程度のお金も渡してくれた。そのお金でマンガを買ったりゲームを買ったりしてますます人と接しなくなった。
こんな生活が続くわけがないと頭で分かっていても何も出来なくて……。
そして、その終わりは突然やってきた。
両親が他界したのだ。
事故だったと聞いている。ブタオの状況を考慮してか、葬儀関係は全て両親の親戚がやってくれた。
しかしそれだけだ。親戚たちもブタオにはあまり近づきたくは無かったのだろう。葬儀や遺産の手続きが終わればもうブタオの前には現れなかった。
自分を養ってくれる両親はもういない。
今更働く事も出来やしない。年齢云々の前に人とまともに話す事が出来ないのだから。
そして死のうと思った。
こんな糞の様な世界よりは少しはマシな世界に行けると信じて……。
「覚えてるでおじゃる。吾輩は、死のうとしたのでおじゃる……」
「理由を聞いてもよろしいかしら」
「理由でおじゃるか……」
ブタオは紫に理由を離した。
人との会話が下手なブタオは、呂律の回らない口調で紫に伝えた。紫は嫌な顔一つせずにブタオの話を聞いていた。
紫が嫌な顔一つしない為か、ブタオは自分でも意外だと思えるほど饒舌だった。
誰かと話す事がこんなにも楽しいものなのか、とブタオは思った。
「そう。貴方は随分と苦労なさったようですわね」
「わ、吾輩が……く、苦労している? 吾輩をバカにしたりしないでおじゃるか!?」
「ええ。貴方は随分と巡りの悪い星の下で生まれたようですわね。貴方の今までの生には同情すべき点が多々あります。辛かったでしょうに……」
「う、嬉しいでござる。そんな風に言ってくれる人は初めてでおじゃる」
彼の心は悦びに満ちていた。
ここが天国だった。
イメージしていた天国とはかけ離れているけど、こんなにも美しい人に話が出来たのだから。きっと彼女は天女様に違いない。ブタオはそう思っていた。
ある程度落ち着きを取り戻した時に紫はブタオに尋ねた。
「さて、武田さん……少しお話、よろしいかしら」
「は、話でおじゃるか? もちろん良いでおじゃる。でも――」
「どうかされて?」
「わ、吾輩の事はその……ブタオと呼んでくださらぬか?」
「ぶ、ブタオ? でもその名前は侮蔑の――」
「良いのでおじゃる。武田 雄という立派な名前は吾輩には似合わぬでござる。武田は戦国時代に活躍した武将、信玄公と同じ性でござる。それほどの大人物と同じ性を持つなど片腹痛いでおじゃる。それに――」
「それに?」
「わ、吾輩も先ほど気付いてしまったのでござるが、ゆ、紫殿のような見目麗しい女性に、その……『ブタ』と呼ばれると、何かこう込み上げてくるものがあって……その……」
「……」
「や、やはり吾輩は気持ちが悪いでござるか?」
「……そんな事はありませんわ。呼び慣れた名前の方が落ち着くという気持ちは、私にも分かります」
「ぶひぃ」
ブタオは目の前の女性が天使か何かに見えた。
「それではブタオさん。用件に入らせていただきますわ」
「はい、でござる」
「貴方が先述したとおり、貴方は自殺を図りました。しかし貴方はまだ死んではいません」
「こ、ここはあの世とやらではなかったでおじゃるか!?」
「ええ。ここは私が作りだした『隙間』と言う名の空間。貴方が死ぬ寸前にここへ引き入れました」
「なにゆえ……」
紫は、屈託のない笑顔を向けて言う。
「ブタオさん。自殺なんて勿体ないですわ。死ぬくらいなら――『幻想郷』に来ませんか?」
新作です。
完結目指してがんばっていきます。