「げ、幻想郷……?」
聞き慣れない単語にブタオは戸惑った。
紫はブタオの心情を解してか、笑顔のまま説明を始める。
「そう。幻想郷とは忘れられたり、存在を否定された者たちが集まる世界。人と妖怪が共存する理想郷。現代風に言うのならファンタジーの世界ですわ」
「ファンタジーの世界でござるか? いきなりメルヘンな話になったでおじゃるな」
「現代社会を生きてきた貴方からすれば確かにメルヘンな話に思えるでしょう。しかし幻想郷は存在するのです。そしてその世界は、科学やテクノロジーではなく、魔法や神力と言った力が支配する世界」
「ますますメルヘンな世界でござるが……今の吾輩の状況を鑑みるに、決して世迷言とは思えぬでござるな」
ブタオは自分の周りを見渡して呟いた。そして目の前にる女性もまた、人間とは違う何かである事を本能的に理解した。
「幻想郷なる世界がある事は分かったでござる。しかし吾輩をそこへ迎え入れようとする真意のほどは?」
理由を尋ねると、紫は妖艶な笑みを浮かべながらブタオに面した。
あまりにも妖しい色気に、ブタオは身ぶるいした。
「貴方には、幻想郷の『糧』になっていただきたいのです」
「か、糧でござるか?」
寒気がより一層強くなってきた。
震えが止まらない。
「ええ。幻想郷は我々妖怪が支配する世界ですわ。私は幻想郷の管理者として、人と妖怪の共存できる理想郷を維持する義務があります。しかし妖怪は人を喰らう存在。妖怪が幻想郷の人間を襲い続ければ、人と妖怪との共存はとても難しくなりますわ。――ここまで言えば分かりますか? 幻想郷には、『妖怪の食糧となってくれる人間』が必要不可欠なのです」
先ほどの身ぶるいの正体が分かった。
目の前の女性は、自分を人間としては見ていない。まるで家畜のブタを見るかのような……。
優しい声をかけ、愛情を注ぎながら屠殺する人間の様な。とても冷たい目だった。
しかし――
この震えは、決して恐怖から来るものではない。
実に奇妙な事だとブタオは思う。
なぜ自分はこうも――興奮しているのかと。
(な、なぜでござるか? なぜ吾輩はこんなにも興奮しているのでござるか? )
目の前の女性は、自殺するくらいなら、妖怪の餌になってくれと言っている。死ねと言われているにも関わらず、ブタオは確かに興奮を覚えていた。下腹部に奇妙な熱がともる。
「り、理解出来るでござる。し、しかしまだ疑問が残るでござる。なぜ吾輩なのでござるか? 誇らしい事ではないでござるが、自殺志願者は他にも幾らでも……。それとも自殺志願者は皆一同に集めているのでござるか?」
自殺者志願者は他にもいるはずなのに、なんで自分なのか。率直な疑問だったが、紫は笑みを絶やさず機械的に説明する。
「いいえ。声をかける者には選別を行っていますわ。他の自殺者では駄目なのです。貴方の様な……。そう、貴方の様な、死ぬ事を望み、且つ行方が分からなくなっても誰も探そうとしない孤独な方でなくてはいけないのです」
「……」
「家族や恋人、友人などの繋がりのある者でしたら、いきなり行方が分からなくなったらその人たちが心配します。その点、貴方は人との繋がりと呼べる縁は一切持ち合わせていない。行方不明になっても誰も探そうとしない。『神隠し』の対象者としてこれほど的確な人はそうはいませんわ」
「ッ……」
(彼女は天女ではなく、死神の使いでござったか……。それにしてもなぜでござる? なぜ吾輩は、こんなにも気分が高揚しているのでござる? 吾輩は侮蔑されているのでござるぞ?)
ブタオは自身の内にある――そこに確実にある『愉悦』の感情に戸惑っていた。
バカにされているのに。
死ねと言われているのに。
それでも、悦びを感じずにはいられない。
美人にブタと呼ばれる背徳的な悦びとは少し違う。もっと違う何か――。充実感にも似た感情が、ブタオの全身を駆け巡っていた。
「それで――どうかしら。ただ死ぬなんて余りにも勿体ないわ。貴方のその命、他者の為に使ってみてはいかがかしら?」
「わ、吾輩が、その……断ったら? どうなるのでござるか?」
「これと言って何もありません。私たちは貴方の意志を尊重いたしますわ。有無も言わさず幻想郷へ送ったりは致しません。――もし、断った場合はただ元に戻るだけですわ。ここでの会話は全て記憶から消えて、首を吊っている状態に戻るだけ」
「断れば……元の場所に戻って死ぬだけでござるか?」
「ええ。貴方が他の者の為に死ぬなんて御免だ、と申したとしても構いませんわ。むしろ顔も知らぬ者たちの為に命を差し出せと言っている我々の方が、常識から逸脱しているのですから」
断ればただ戻るだけ。
首を吊ったあの状態に。
断ったら、あの時の自殺の続きが再開するだけ。
「ゆ、紫殿……一つ尋ねたい事があるでござる」
「何かしら。何でも聞いてくださいな」
「その……紫殿は、その……吾輩の事を必要としているのでござるか?」
「……?」
紫はブタオの質問の意図を読み取れずにいた。
何と答えてやるべきか……。ほんの僅かな間だが、紫は頭の中の計算を止めた。命を差し出して貰う相手に対し、損得を計算に入れて答えるのはあまりにも失礼な事だと紫は判断した。
そして、口にする。嘘偽りない言葉を……。
「ええ。私は……。いいえ。私たちは貴方を必要としているわ」
「ッ!?」
紫の『必要としている』と言う言葉を聞いた瞬間、ブタオの胸に痛みが込み上げてきた。
痛い。凄く痛い。しかし決して苦しい痛みではない。むしろ――
いつの間にかブタオの両目に涙が浮かびあがっていた。
「ぶ、ぶふぅ……ぶ、ぶひぃ……ほごぉ……」
「ど、どうしたの? いきなり泣いて……」
ブタオの豹変に、紫は唖然とした。
最初から失礼な事しか言っていなかったが、それでもブタオは平静に聞いていた。
良い歳をした中年デブの醜男が子供の様に泣きじゃくる。その様相は余りにも見苦しいものがあるが、紫は子供をあやす様にブタオを宥めた。
「す、すまんで、ござる! でも、な、涙が……涙が止まらないのでござる!」
「貴方がどうして泣いているかは分かりませんが……。膝をお貸しします。しばらくこうしてるといいですわ。落ち着きますから」
跪いて泣きじゃくるブタオに、紫は膝を貸し与えた。
ブタオは紫の膝の上で泣いた。
涙と鼻水が紫の衣服にこびり付くが、紫は嫌な顔一つせずに、ブタオの頭を撫でてあやしていた。
しばらく泣き続け――
不思議な感覚だった。泣いている時の情けなさ。膝を貸してもらった時の気恥ずかしさ。そして泣き終わった後の解放感。一度に無数の感情が放出された感覚だった。
ブタオは落ち着きを取り戻していた。
「す、すまんでござる。情けない所を見せてしまったばかりか、紫殿の服も汚してしまって……」
「気にしてませんわ。落ち着いた様でなによりです」
「ぶひぃ」
紫の笑顔に、ブタオは顔が熱くなるのを感じた。
泣いている時とは違った気恥ずかしさがある。
「それにしても、どうして泣いてしまったの?」
紫は疑問を口にすると、ブタオは恥ずかしそうに答えた。
「恥ずかしい事でござるが、吾輩……誰かに必要とされた事がなかったのでござる」
「必要とされなかった?」
「吾輩、幼い時からいつも苛められ、ずっと引きこもりをしていたでござる。誰からも必要とされず……きっと両親も吾輩の事をずっと邪魔な存在だと思っていたに違いないでござる。紫殿が、吾輩の事を必要と言ってくれた時は、本当に嬉しかったのでござる。余りにも嬉しくて……泣いてしまったでござる」
ブタオはようやく気付けた。
死ねと言われているのにも関わらず、どうしてこんなにも気分が高揚しているのか。
なぜこんなにも悦びを感じているのか。
誰かに必要とされたから。
他人を不快にしかしてこなかった自分が。ただ消費するだけの自分が。ただウンコを製造する事しか出来なかった自分が。
必要とされている。
貴方が良いと。そう言って……。
紫には分からないだろう。もしかしたらブタオ自身分かっていないのかもしれない。
誰かに必要とされる。その事実がどれだけ報われるのか。どれだけ救いになるのか。
「決めたでござる! 紫殿! 吾輩、幻想郷へ行くでござる!」