白玉楼の一室。
そこには、顔を真っ赤に染めながら俯いている八雲紫と、その横で大いにワクワクしている幽々子が居る。
幽々子は、紫の肩を揺らしながら、子供の様にねだっていた。
「ねぇ紫ぃ。そのブタオさんって人のこと、もっと教えなさいよ。どんな人? ねぇどんな人なのよぉ」
「うううるさいわね。別に良いでしょ! 別に……」
「妖夢も気になるわよね~。紫の想い人のこと」
二人の茶菓子の片づけをしている妖夢に幽々子は振った。
いきなり振られたため、少しキョどりながら、妖夢は答える。
「ええと……は、はい。気になります」
「ほら見なさい。妖夢も聞きたいって言ってるわよ?」
女三人そろえば姦しいとはよく言ったものである。
幽々子のからかいに困った様子の紫を見て、妖夢も内心不憫に思ったものの、実のところ幽々子以上に気にしていた。
幻想郷の賢者。
八雲紫の二つ名であるが、その名にふさわしい風格と美貌の持ち主。
幻想郷の誰もが尊敬する、この『大人の女性』に、まだ未熟な少女である妖夢が憧れと僅かな高揚を持ちえるのは無理からぬ事だろう。
そんな女性が、恋にときめいている。気にならないはずがない。
妖夢は、茶碗を片付けながらも、その耳は幽々子たちの方へと傾いていた。
「ねぇ紫。そのブタオさんって人、この白玉楼に招待しなさいよ。紫なら一瞬で連れてこれるでしょ?」
紫が教えてくれないものだから連れて来いと提案する幽々子。
当然、紫は顔を真っ赤にしながら反抗する。
「だ、駄目よ! 彼だって忙しいし……。それにアレから結構たったもん。いきなり現れたりなんかしたら驚かれちゃうし……。それにもしも忘れられてたら……」
モジモジと指を絡めながら言い訳する紫に、幽々子のフラストレーションも急激に跳ね上がる。
乙女な友人をからかうのは楽しいが、モジモジとイジけているだけの光景は、中々にイラっとするものである。
「あんもうッ! 気になってるんでしょ!? 毎日スキマから覗くくらいにッ。だったら会っちゃいなさいよ! 時間が経てば経つほど、彼から貴方の記憶が薄れていく事になるのよ? それに他の女とデキちゃったりも……」
「む、うう……」
幽々子の言うとおりである。
ブタオと出会ったあの日から、彼の事がいつも脳裏に浮かびあがる。
幻想郷の糧となって欲しいと言う願いを快く引き受けた青年。
彼は言った。『紫殿のためにこの命を捧げたい』と。
(私のために……か)
あの時の感情は――。今も言葉に出来ない。
あの感情は一体何だったのか……。
顔に熱が灯り、心臓の鼓動が大きくなって……。しかし決して不快な気分ではなかった。
ブタオと別れて幾日の月日がたったある日、スキマから彼の姿を覗くと、なんとあの紅魔館の使用人として働きだしているではないか。
レミリアが、人間の使用人を雇っている事を少し不思議に思ったが、咲夜の例もあるし、気まぐれの多い彼女の事だ。何か思惑があるとか、そう言うのではなく、単なる気分的なものだろう。
スキマから覗いたブタオは、随分と明るくなった様な気がする。初めて会った時は、影を落とした暗い雰囲気を纏っていたと言うのに。
彼の笑顔を見ていると心が温かくなる様な、不思議といい気分に浸れる。
それから紫のブタオの観察の回数が増え始めた。ブタオの成長を見ていくのは、何とも楽しかった。
しかしだ――
ブタオが、他の女たちと仲よさげにしている風景だけは、気分が悪かった。
仕事と関係なく、他の女と仲よさげにしている風景は見たくなく、その時だけは紫はスキマを閉じて物思いにふけるのであった。
(何だろう……。ブタオさんが、他の女と一緒にいるところを見ると、とても気持ち悪い)
ブタオの観察の回数が増えるにつれ、ブタオが他の女と仲良くしている光景も多くなってきた。
そのたびに、スキマを閉じては、気になってまた開けて――。閉じてはまた開けるの繰り返し。
紫も幽々子に言われるまでも無く、自分が何かおかしな事になっているのを自覚している。
この想いを相談すれば、このモヤモヤとした感じが無くなるのではないかと、幽々子にブタオの事を話したものの――。
想い人だと勘違いされる始末である。
しかも勝手に盛り上げられて……。
そんなのではない。そんなのでは……。
しかし、幽々子の言葉は、紫のモジモジとした心に冷や水をかけた様で、紫もブタオに会ってみようと思い立ったのであった。
「そうね……。幽々子の言うとおりね。ちょっと会ってこようかしら? 気になるし……」
「そうよそうよ! 思いたったら即行動よ! さッ。早く連れてきて!」
紫の決断に、子供の様にはしゃぐ幽々子であった。
苦笑いしながら、紫はスキマを開き、彼女の空間へと姿を消した。
紫は、スキマの空間からブタオを確認する。何とも暇そうにベッドに横たわっている。
(ブタオさん……)
ブタオの顔を見るととても心が穏やかになっていくような気がする。
悪くない気分だった。この居心地の良さをずっと感じていたいものであった。
だが、それとは対照的にブタオの様子が、どこかすぐれない。
体の調子でも悪いのかと思ったが、ブタオの呟きに紫は赤面する。
『紫殿……。会いたいでござる』
切なそうに呟くブタオの言葉に、紫はブタオのベッドからスキマを開ける。
悲鳴を上げながら落ちてくるブタオ。状況が分からず、キョロキョロと辺りを見渡すブタオに紫は優しく声をかける。
「お久しぶりですわね。ブタオさん」
◆
ブタオが八雲紫の隙間に落ちた瞬間、紅魔館の全員に戦慄が走る。
その異変の重大さに真っ先に気付いたのは、美鈴だった。
突如として、紅魔館内にあったはずのブタオの気配が途切れたのだ。何の前触れも無く突然に――。
同時に美鈴は、駆けだしていた。
「お、お嬢さまあぁッ レミリアお嬢様ぁッ! ぶ、ブタ――ブタオさんがッ! ブタオさんの気がぁッ!」
美鈴の不吉をはらんだ悲鳴は、ことが何かの冗談ではなく、“ブタオの身に何かが起きた”と言うあってはならない出来事に真実味を持たせていた。
美鈴は、レミリア達の名前を叫びながら大急ぎで、ブタオの私室へと駆けだす。
するとそこには既に咲夜が、ブタオの部屋の前で膝を屈しながら茫然としている。
「さ、咲夜さんッ!」
美鈴はすぐさま咲夜に駆け寄る。何があったのかと問い詰めても、咲夜はただ茫然と目の前の“空き部屋”を眺めていた。
「美鈴ッ! 咲夜!」
遅れて、レミリアとパチュリーの二人が、美鈴達のブタオの部屋へと駆け寄ってきた。
二人とも、茫然と佇んでいる咲夜達を見て、酷く吐き気を催した。
レミリアは、声を震わせながら二人に尋ねた。
「う、嘘よね? 二人とも……。あ、あはは、冗談きついわよ? わ、私達をお、驚かせようなんて――」
レミリアの言葉に、二人は反応しない。変わらず、目の前の部屋を見て茫然としていた。
あってはならない。
今、頭によぎっている事が現実にあってはならない。レミリアは、足を震わせながらブタオの部屋へと向かい――。
二人のあの反応は、私達を驚かそうとしているだけで……。
そうだとも。あの部屋を覗けば、おどけたブタオの笑顔があって、美鈴も咲夜も引っかかった私達を笑って、みんな笑顔になって――。
だが、そんな未来など在りはしなかった。
レミリアの眼前にあるのは、変わらずただの“空き部屋”だった。
「バカな……そんなはずは――」
パチュリーは、目を見開いたまま、静かに呟く。まるで信じられないものを目にしたかの様に。
みんなが茫然と佇んでいる中、レミリアだけは震える足を運ばせ、ブタオの部屋に入る。
「ぶ、ブタオ? かく、かくれんぼのつもり、かしら? 主人を前に失礼よ、で、出てきなさい?」
既にいなくなったブタオを呼び続けるレミリア。
その姿が、あまりにも痛々しかったのか、彼女たちの中で比較的にまともだったパチュリーが、レミリアの愚行を諌める。
「レ、レミィ……。やめなさい」
「なな何をいってるのパチェ……。ブタオ? お茶を出しなさいよ。めめ命令よ、聞こえてるの? ブタオ……」
瞳孔の定まらない目で、レミリアはブタオを呼び続ける。
ブタオが居ないと言う事実と、自分たちの主であるレミリアのあられもない行動を見て、忠誠心の最も高かった咲夜は、声を荒げて泣き叫んだ。
それに釣られて、美鈴も歯ぎしりしながら涙を流す。
パチュリーも心が潰されそうな想いだった。ここで泣き叫べたら、どんなに楽になれるのか。
しかし、自分までも狂乱するわけにはいかない。
心を強く持ち、レミリアを強く諌める。
「やめなさいレミィッ! あ、あなたがそんなんじゃ……。他の者も動揺するから――。ぶ、ブタオは、もうここにいない」
ブタオがいない。
パチュリーのその言葉は、僅かばかりのレミリアの希望を打ち壊した。
何かの冗談なんかではなく、ブタオは本当に消えてしまった。
その事実を認識した時、レミリアは口から血がにじみ出るほど歯ぎしりし――
そして叫んだ。
「お、おおおおうおおおおおおおあぁぁぁぁッッ!!!!」
彼女の叫びは、紅魔館内に響き渡った。
ご、ごめんね紅魔館のみんなッ!(ゲス顔)