第九話 発情
氷妖精の住む湖――その奥に位置する紅い館、紅魔館。その紅魔館の門前で一人の少女が立っていた。緑色の帽子にチャイナ風のドレスを着た赤毛の少女、紅美鈴である。
満面の星空の下で美鈴は自分の運の悪さを嘆いていた。
本当だったら、もう仕事も終えて自分の部屋でゆっくりと寛いでいるはずだったのだ。しかし、フランドールの家出騒動により、美鈴はフランがいつでも帰ってこられるように門の前で寝ずの番を言い渡されていたのである。
「うぅ。少し肌寒いな。さっきまで雨降ってたし……。妹様、早く帰ってこないかなぁ。お腹すいたよぉ」
フランの家出にのっぴきならぬ事情があったならば、美鈴も主君の妹の帰りを待つと言う今の職務にも誇りが持てていただろう。
しかしフランの家出騒動の原因は実にくだらないものがあった。フランが主君であるレミリアの楽しみに取っておいたプリンを食べてしまった事がこの騒動の発端である。姉の楽しみに取っておいた物とは知らずにプリンを食べてしまったフランは、それなりに自分が悪いと思っていたのだろう。素直に謝り、己の非を認めたのだった。本当ならそれでめでたしとなるはずだったのだが、レミリアの激情は収まらず、ああだこうだとフランに強くあたり、黙って聞いていたフランもとうとう我慢の限界が来て、姉妹喧嘩が始まったのだった。
ここだけ聞けば喧嘩とは言え、温かくも微笑ましいイメージを持つ事が出来るだろう。
しかし――その喧嘩の当事者が『スカーレット姉妹』である事が大問題であった。
レミリア・スカーレットとフランドール・スカーレット。
数多の妖怪が跋扈するこの幻想郷に置いても、最高レベルの戦闘力を有する二人の喧嘩。それはある種の頂上決戦に近いものがあった。
紅魔館の堅固な外壁はまるで角砂糖の様に崩れ去り、見る者を癒やす見事な庭園は荒れ果て、あちこちにクレーターが出来、紅魔館は実に無残な状態となってしまった。
この姉妹の喧嘩は、フランが紅魔館から家出したことで終息したが、この無残な紅魔館の後始末に、多くの妖精やボブゴブリン達が多大な労力を強いられることとなる。
美鈴もその内の一人と言うわけである。早く部屋に戻って温かなベットでぬくぬくと惰眠を貪りたいと言うのにこの始末。
本当に自分は運がない
美鈴は星空を見上げながらため息をつくのであった。
「ん? な、なんだあれ?」
空を見上げていると、何か不思議な丸い物体がフヨフヨと空を飛んでこちらに向かってきている。
美鈴は目を見張ると、仰天した。
「い、妹様ッ!?」
その丸っこい物体はフランだった。正確に言うと丸いのはフランが背負っていた男性であった。
フランは美鈴の前にゆっくりと着地した。
「よっと。――ただいま、美鈴」
家出したフランが見ず知らずの男を連れて帰ってきた。一体全体、何がどうしてこうなったのか。美鈴は目の前の状況を把握できずにいた。
「お、おかえりなさいです。あの……妹様? その人は一体……?」
「この人? この人はね、私の大切な人だよ」
「は? え?」
ほんのりと顔を紅く染めて恥じらいを見せながら言うフランに対し美鈴はさらに混乱した。
何の事かさっぱりな美鈴であったが、フランの背負っていた男――ブタオを見た時、ある事に気付いた。
「あれ? 妹様、その人……」
「ん? 駄目だよ美鈴。ブタオおじ様がどんなに素敵でも、私が先に好きになったんだからね。横取りは、めッだよ」
「あ、いえ。そうではなくてですね。――その人、ものすごく弱ってますよ?」
「ふえッ!?」
とっさにブタオの顔を見ると、酷く蒼白していた。美鈴はブタオの気を読むことで、その状態を把握できていた。
「出血多量による典型的な貧血ですね。早めに処置しないと危ないですねこれ」
「あわわわッ! どどどどうしようッ!? 美鈴どうしようッ! おじ様が死んじゃうッ!」
慌てふためくフランの前に突如として、一人のメイドが音も無くそして前振りもなく現れた。
そのメイドは優雅にフランに挨拶をした。
「おかえりなさいませ妹様」
「さ、咲夜ッ!」
突然現れたメイドに対し、フランも美鈴も特に驚きはしなかった。むしろよく来てくれたとフランは歓喜した。
「咲夜ぁどうしよう。おじ様が……」
咲夜は無表情でブタオを見降ろしていたが、その実美鈴と同様に酷く混乱していた。なんとか無表情をキープ出来たのは、普段の瀟洒な行いの賜物に違いない。
横目に咲夜は美鈴と目を合わせた。状況を説明しろと言う咲夜からの強い視線を感じた美鈴であったが、自分もなにも知らないのだから説明のしようがない。しかし何も言わないわけにもいかず、美鈴は目の前の状況について知っている事だけを告げた。
「えと……この人、弱っているんですよ。出血多量による貧血です」
「出血?」
よく見ると首筋に噛み傷が残っており、そこから出血が見てとれた。この事からフランがこの男から血を吸ったと判断できる。
依然として状況は呑み込めてはいないが、フランがこの男を助けたがっていると言う事だけは把握できた。
主君の妹であるフランの願いを把握した咲夜の決断は実に早かった。
「かしこまりました妹様。その男性を介護いたします」
「う、うん……。お願い咲夜。おじ様を必ず助けてね」
「勿論でございます。さ、その男性をこちらに」
離れたくないと言う感情を押し切り、フランは未練たらしくブタオを咲夜達に引き渡した。
一挙手一投足、普段のフランとはあまりにもかけ離れている。これはまるで恋する乙女の様だと、この時二人は思った。
「あ、妹様」
「ん?」
目の前の状況につい伝え忘れていた事を思い出し、咲夜はフランを呼びとめた。
「レミリアお嬢様からの言伝です。帰ってきたら一度顔を見せろ、と」
「そう。分かった。お姉さまの所に行ってくる。おじ様の事、お願いね」
「かしこまりました」
紅魔館に向けて足を向けるフランであったが、自分も伝え忘れた事があることに気付き、きびつを返して咲夜達に見向いた。
「あ、そうだ。――ねぇ二人とも」
「はい? なんでしょうか?」
「おじ様を助ける為だから仕方がないけどさ、私ね本当は誰にもおじ様を触れさせたくないの。だからね、もしもおじ様を誘惑しようなんてしたら――絶対に許さないから」
「ッ!?」
それは普段のフランが内包している狂気とは一線を画す、もっとドス黒い何かであった。
圧倒的な強者。絶対の支配者たる吸血鬼の見せる本物の殺意。
その気に当てられ、咲夜と美鈴の二人はとても冷たい汗が流れ出たのを感じた。
それだけ言うと、フランはまた笑顔に戻り、今度こそ紅魔館へと戻っていった。
その場には咲夜と美鈴。そしてブタオの三人だけが残されていた。
「ねぇ美鈴。何があったの?」
咲夜は状況を確認しようと美鈴に尋ねるが、当然美鈴も知らない。
「分かりません。妹様がこの人を連れて帰ってきて……。この人、何者でしょうね?」
「分かるわけがないでしょう。――とにかく、妹様に言われたとおり、この人を介護しなくちゃ。美鈴、運んでちょうだい」
「えッ!? わ、私がですか?」
「当たり前でしょう。人間の私にこんな重たそうな人運べるわけないでしょう」
「なんか、怖いな……。妹様も触れさせたくないって言ってたし……」
「ここに放って置くわけにもいかないじゃない。私は部屋の準備をするから、客室までお願いね」
「は、はい……」
そう言い残して、咲夜はふっと消えた。
取り残された美鈴は、言われたとおりブタオを客室まで運ぼうと彼を背負った。
ずっしりと感じる重量感。背中にブタオの柔らかな皮下脂肪の感触。はずれくじを引かされたような気がしてまたも自分の不幸を嘆く美鈴であったが、背中越しに漂うムワァっとしたブタオの芳香に一瞬だけクラっときた。
(うわッこの人、凄く男臭い。――けどなんでだろう。決して嫌な匂いじゃない。なんかとても安心する様な……おっといけないッいけない!)
自分は何を思ったのかと、ぶんぶん頭を回し美鈴は正気に戻った。
◆
紅魔館の大広間。そこは中世ヨーロッパの王宮の様な造りになっており、奥には権威をあらわす玉座が置かれている。
その玉座に座る少女が居る。紅魔館の主、レミリア・スカーレットである。
妹のフランが帰ってきたと連絡があり、じきにやって来るとの事で、こうしてカリスマらしく玉座でふんぞり返っているわけではあるが、その内心はとても複雑なものであった。
(ど、どうしよう……。フランになんて謝ろう……)
当初は、プリンを食べられたことで物凄く腹が立ったものだが、実際にフランは謝ったわけだし、長く駄々をこねていた自分も非があるのではないかとレミリアは反省していた。
しかし、彼女の高飛車な性格が災いしてか、どうしても素直になれなかった。
どうしようどうしようと頭を悩ませている内に、フランはいつの間にかやってきてしまっていた。
「ふ、フラン?」
「お姉さま。その……た、ただいま」
フランに何を言おうかと悩むよりも早く体と口が出ていた。レミリアはフランの前へと駆けだしーー
「このお馬鹿ッ。こんな時間まで居なくなって……お外は雨も降ってたのよッ! 心配かけさせて……」
「ごめんなさいお姉さま。――それと、プリンの件もごめんなさい」
「そんなのどうだっていいのよ。貴女が無事に戻ってきてくれた方が……ってフラン? 貴女……」
妹の体から発せられる人間のオスの匂いと血の香り。そしてほのかに紅潮した顔と少し粗めの息遣いにレミリアはフランを訝かしく思った。
「ふ、フラン? 貴女、どうしたの?」
姉の質問に、妹は逆に尋ねた。
「ねぇ、お姉さま。私ね……なんかおかしいの」
「フラン?」
「凄くドキドキしててね、疼きが収まらないの。――私、病気になっちゃったのかな……?」
何とも言えぬ色気を醸し出している実の妹に、レミリアは一瞬だけドギリとさせられたが、フランと同じ吸血鬼であるがゆえに、レミリアだけがフランの今の状態に正確に気付いた。
「だ、大丈夫よフラン。部屋に行って少し横になっていればすぐに良くなるから……。今日はもう疲れたでしょ? 部屋に行って休みなさい」
「うん……」
レミリアは信じられないものを見るかのように、彼女の背を見送った。そしてフランが部屋から出て行った後、自分が気付いた事が真実なのか、自問自答するかのように呟いた。
「嘘でしょ……。あの子――発情している?」
紅魔館編スタート。