四月二十一日。火曜日。十三時。
パウラの呼吸は乱れ切っていた。
足は重い。肺は締め付けられるほどに苦しく。頭は思考することを拒む。空腹を忘れるほどの疲労だ。
敵の陣地内に侵入してからすでに十六時間ほど経過している。パウラたちは石壁に囲まれた室内を延々と彷徨い続けていた。入り組んだ通路は、まさしく迷宮。体力が消耗するばかりだった。
異変が起こった直後。
地下へと続く階段を見つけた。降りた先は、高さと幅が四メートルほどはある通路だ。そこに巨体の漢が待ち構えていた。その巨体は佇むだけで通路をほとんど塞いでしまっている。サーヴァントだ。それが、この迷宮内での最初の戦闘だった。相手はただ一人。巨体の怒り狂った男。対話を試みる暇も与えて貰えなかった。
パウラは相手がバーサーカーであると確信した。しかし、その情報が戦況を有利に変えるわけではない。
むしろ、ランサーの自由を奪うこの状況下をどうするかで頭が一杯だった。ランサーは槍を思う存分に振れず、防戦一方だ。それとは対照的にバーサーカーは思う存分に力を振るう。この通路での戦いに慣れているのだろう。
退いて上の階に上がれば、すぐにでも追い詰められてしまうだろう。パウラは令呪を一画だけ使い、ランサーの力を引き上げた。ランサーが単純な膂力でバーサーカーを押し出す。二手に分かれている道まで相手を後退させると、パウラたちは右手の道へと走り抜けた。一時的にではあるが、バーサーカーから離れることに成功した。
その後は当てもなく通路を進み続けた。バーサーカーとの戦闘は避けられず、何度も立ち向かうこととなった。これまでに起こったバーサーカーとの戦闘の回数は十を超えている。転進を繰り返し、出口を探し続ける。しかし、活路は見い出せず、成果もない。
――もう、歩けない。
何度、そう思ったか。諦めれば楽になる。何度、立ち止まろうとしたか。いっそのこと、意識を断ってしまえば。全てを忘れてしまえれば。
しかしながら、パウラに刻まれた使命がそれを許さなかった。
足を引き摺るようにしてでも歩く。呼吸がままならなくても歩く。むしろ動き続けていなければ、彼女の意識はたちまち失われるだろう。
「パウラよ、どう思う?」
ランサーは歩きながらパウラに声をかけた。
「どう思う……とは、どういうことですか……?」
呼吸も満足にできないまま、パウラは問い返す。
「この迷宮は奥に進めば進むほど、道が複雑になっていく。道を記憶することは困難だ。しかし、不可能ではない。そう、一番の問題は
ランサーはパウラを気遣うような素振りを見せず、構わずに返答した。
「入口はあるが、出口がない。出口が塞がれたのではなく、
「……迷宮はおそらく、宝具によるもの……この迷宮を生み出したのは、あのバーサーカーで間違いないでしょう……迷宮の怪物……あのサーヴァントの真名はなんとなく、察しがついています……」
「そうだ。あのサーヴァントの真名は予想がついた。ミノタウロス。迷宮に封じられた怪物だ」
ギリシャ神話に登場する英霊、ミノタウロス。
クレタ島を支配するミノス王の妻、パシパエは牡牛との間に子を産んだ。子は人の身体に牛の頭を持って生まれた。生まれついての怪物は人にとって恐怖の対象でしかなく、ミノス王は彼を迷宮へと封じ込めた。
そして毎年、少年と少女が七人ずつ、その迷宮に生贄として捧げられていた。
「しかし、解せないのは出口についてだ。迷宮が英雄によって踏破された経験があるのならば、必ず出口はあるはずなのだ。しかし、その『気配』がまったく感じられない。この迷宮は完全に閉じられているとしか思えんのだ」
三度目の生贄が選ばれる際、自ら生贄として名乗り出る者があった。英雄テセウス。彼はミノタウロスを打倒し、脱出不可能とされた迷宮を脱出したのだ。
ランサーは、その点を突きたかったのだろう。かつて『踏破された経験』を持った迷宮ならば、脱出するチャンスは十分にあるのだと。そう思っていたのだ。
「出口の出現に条件があるのではないでしょうか……? 必要な手順や、道具を用意するなどといったものが……」
「必要な道具と手順か。そうなると、事前に真名を知っていて対策を取っていなければ脱出は難しい、ということになるのだろうな。そして、手順とやらが伝説通りならば……」
ランサーは立ち止まった。
すると彼は瞬時に振り向き、パウラの首根っこを左手で掴んだ。力任せに彼女を後方へ放り投げると、ランサーは右手に持っていた槍を突き出した。
火花が舞った。硬質な音が響く。次いで、獣のような咆哮。凶悪な二振りのラブリュスがランサーに迫る。バーサーカーの突きや斬撃はどれも必殺の一撃だ。まともに受け止めれば、防御をした腕は破壊されるだろう。単純な力比べでは決して敵わない相手だ。
しかし、ランサーは槍の柄で幾合もの防御を行った。いずれの攻撃も捌き切り、無傷。柄や体を巧みに動かして、力を分散させたのだ。
驚嘆すべき技術だが、それよりも評価されるのはランサーの精神力だろう。長時間の活動。狭い通路での不利な戦闘。彼の疲労度も深刻なはずだった。いつ集中力が乱れてもおかしくない状況下でありながらも、平時と変わらない冷静さに加え、精彩に富む動き。むしろ、ランサーの集中力は追い詰められるほど上がっているかもしれない。
一瞬の隙を狙って、反撃の一撃。鋭い突きはバーサーカーの肩をわずかに抉った。
決定打を与えられないばかりか、傷を負ったバーサーカーは一歩だけ退いた。
互いに呼吸を整える間が生まれた。
「脱出に手順とやらがあり、それが伝説通りだというのであるならば……まずは貴様を倒さない限り、脱出の糸口は掴めんということだな。やれやれ、骨が折れる」
バーサーカーに注意を向けながら、チラリと後方のパウラを見遣る。
彼女は床に伏したまま動かない。念話で話しかけてもパウラからの反応はなかった。
おそらくは、先ほど投げられたせいで気絶したのだろう。
「ふん、ようやく休んだか。強情な女め。生半可に精神が強い分、肉体の限界を乗り越えて動き続けるとはな。機械ではあるまいに、使命のためなら壊れるまで働き続けるのだろうよ。理想的な奴隷、とも言えるか」
「があああああああ!」
二本のラブリュスでバーサーカーが突きを放った。前方に躱せる隙間はほぼない。いや、躱せば後ろにいるパウラが危険に晒されるため、必然的に迎え撃たねばならなかった。
ランサーは左手の籠手で、ラブリュスの一つをわずかな動きで払った。それだけで軌道が大きくそれていく。最小限の動きと力で効果的に突きの軌道を逸らしたのだ。これをやってのけた英霊がすでにいた。ランサーは彼の技術を一度目にしただけで取り入れたのだ。
生み出された空間。その隙へと、ランサーは踏み込む。
火花が激しく舞い散る中、ランサーは槍の刃を相手の顔面に向けて突き出した。
硬質な音が鳴り響く。
「……化け物め」
ランサーが呟く。
槍の切っ先はバーサーカーの口で捉えられていた。槍はランサーの膂力ではピクリとも動かない。バーサーカーが次の動作に移ろうとする。しかし、それよりも速く、ランサーは電撃的に動いた。
槍から手を離し、相手の顎へと膝蹴りを見舞う。よろめいた隙を狙って、流れるような動きで回し蹴りをみぞおちに向けて放った。鈍い音とともに、バーサーカーは苦悶の表情を浮かべた。この追撃が効いたのか、巨体をふらつかせて何歩か下がった。
ランサーは呼吸を整え、構え直す。
「疲労困憊。足手まといが一名。立ちふさがるは難敵。逃げることも勝つことも容易ではない。敗北は許されない。これぞ窮地。まさに窮地よ。ゆえに滾るぞ。
獰猛な獣のような瞳でランサーは睨んだ。
バーサーカーも負けてはいない。鮮烈な光を瞳に宿して、ランサーに立ち向かう。
互いに咆哮を上げ、駆ける。
二振りの巨斧と槍が交叉した。