これ以降は不定期になります。
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人は、人生の中で、必ずしも悪というものを経験し、実感する。
いじめてくる他者であったり、理不尽な要求をする上司であったり、善意と履き違えた空気の読めなさであったり――
――なによりも、それらを分別しながらも一向に行動の変わらない、自分自身だ。
だが、本当に気に入らない悪とは何なのか。
歯を食いしばり、天を見上げ、応報すべき悪とは――それを行うものは誰なのか。
それがわからない時、わかっても殴れない壁が立ちふさがる時、誰しも必ずこう叫ぶのだ。
「世の中クソだな」
◆◆◆
まるで随分と、長い時間が経ったようだ。
週ごとに気持ち悪く整頓され、気味の悪いように書物の収められた本棚。
窓ガラスから射す陽の明るさを頼りにそれを眺めながらも、ソファに腰を奪われている。
とある一人の中年男性は、魂が抜けたように呆けていた。
かつて真都に起こった、既に滅び去った異端教会勢力の最後の反乱。
それから実に五年半は経過していた。
異端教会とは、『要の神<サークリング・ゴッド>』を信仰する正統・サークリング教会に反目する反教会。
絶対の別主信仰を抱き、諸人とは絶対に分かり合えぬ咎を背負ったヒトデナシの集団である。
人徳、道徳すらも破り捨てたその集団は事あるごとに不自然なほどの氾濫へと至り、幾度となく真都の安寧を崩してきた。
だが、五年前に起こった『それ』は、過去記録されていたどの規模の氾濫よりも規模が大きく――そして凄惨であった。
目を血で先走らせ、扇動された教徒は実に真都の過半数を多い、何処からともなく発信された量産機械が爆裂し、街を破壊した。
更には別働の暗殺者がサークリング教会を襲撃し、異端の首魁と思われるものは徒党を引き連れ王城へと押し入り、制圧せしめんとした。
王は実力を互角とする何者かに動きを抑えられ、真都は壊滅の危機そのものであったという。
後年の研究家もこの大事件が何故鎮圧されたのか、首を傾げたという。
まるで嵐が過ぎ去ったあと、それを奇跡のせいとしてしまうように、掴めない空を地上で眺めている感覚。
だが腰を落とし、自らの事務所で黄昏れる彼は、彼らは、その日のことを忘れなかった。
否――忘れられなかったのだ。
「キャベツー、ねぇキャベツー?」
かんかん。かんかん。
事務所の入り口扉を叩く音が響く。
けたたましく、そそっかしく、何よりも耳障りだ。
こちらに関心のある者の物音というのは、怠惰という集中を突き崩すには十分に過ぎる。
「…ふぁーあ、二度寝しとこ」
「高山キャベツか!!!!起きなさい新キャベツ!!!」
扉が盛大に蹴り飛ばされ、先程は静寂だった空間を荒々しい轟音が支配した。
「おおおおおおおおおおああああああああ!!!??」
「足立さ~ん、収穫の時でーっす☆」
脳を揺さぶる轟音。
唐突なあまりの衝撃にソファが浮き上がりかけ、そのはずみにソファから男が転げ落ちる。
頭から床に直撃した男は身悶えし、悲痛な叫びを上げながら転げ回った。
その有様を舐め回すように、あるいは憐憫するかのように、女性二人が男を見下していた。
「畑から遂に切りはずされた新キャベツ。
彼は馬車に載せられる中で思ったの…そう、ついに僕も食べられるときがキたんだって」
「誰が喰われるか腐女子共!!さっさと消えてくれ!!」
「あら足立さん、そんなこと言って良いんですか?」
「「同人誌にし――」」
「既に何度もされてるから言ってるんだよ!!わかるか!?あぁん!?」
心底迷惑な顔…否、既に被害を受けまくってげんなりとした顔をした男。
冴えない黒髪に、ひょうきんが形になった華奢なスーツの男――足立透はやけくそ気味に声を荒立てた。
その様子を見てなおも笑顔になる性根の悪い女性二名。
「私達は最も理解しているわ。だから作るんだもの…そうよね、マルゴット?」
「ねー、ガッちゃん?うふふ」
「があああああああああああああああ!!!」
足立は頭を抱えた。
これこそが巨悪だ。絶対なる悪だ。
奴らはここで滅ぼさなければならない。例えこの命に替えても。
だがこいつらと心中するなど、人生最大の汚点と言っても違いなく、彼は即座にこの思考に蓋をした。
改めて二人の女性を一瞥する。
双翼を生やした金髪と黒髪の女性だ。
金髪の女性は白い羽を生やし、黒髪の女性は黒い羽を生やしていた。
まるでデザインベイビーかのように、美しい対称性を具現化した白と黒の芸術。
そう、その特に比較に値する巨乳と貧乳もガンッ
「ぐへぇっ」
「久しぶりに顔合わせて真っ先に見るのがそこかしら糞キャベツ」
「足立さんのえっちー!」
「…マルゴット・ナイト。マルガ・ナルゼ。君らなんだい?仕事の用事かい?僕は忙しいんだ。惰眠を貪るので」
「自分でオチつけてんじゃないわよ」
マルゴット・ナイト。マルガ・ナルゼ。
久しく顔を見た彼女たちは、もう彼とは9年半も前からの腐れ縁になる。
かつて星の智慧派教団と呼ばれた異端教会の本部から、騒動を経て脱走を果たした被験体。
デザインベイビーでこそ無いものの、その容姿や体質、双翼はそれ以前の実験によって後天的に形作ったモノにほかならない。
その内容は凄惨極まるため割愛するが、彼女たちはその上で、最も早くに社会復帰を果たしたと言えるだろう。
脱出後半年もたたずに相応しい職に就き、衣食住を確保したその才覚と努力には、敬意を評さざるを得ない。
得ないのだが――
「同人誌が書きたいだけなら帰ってくれ」
「書きたいからこそネタ仕入れに来たんだけど、わからない?」
その収入源はこの通り、同人誌だ。
いや、同人というジャンルそのものに疎まれる要素はない。真都に反映した由緒正しき文化の一つである。
だがこの二名――特に黒髪貧乳のマルガを中心としたサークル『真黒髪翼』は、悪名高い出版サークルとしても有名だ。
圧倒的速度とスキャンダル性の高さ、何よりも知名度を武器として、彼女たちの同人誌のネタにされたものは即座に多大な風評被害を受ける。
作者と、大量の読者によって、訴えられない程度にだが、本人の名誉が毀損されるというもの。
悲しいかな、その被害は泣きたくなるほどに足立にも向いていた。
「……はぁ」
「まーたため息ついちゃって。最近なんかないの、面白いこと?」
「僕がそんな面白いかい君ら?最近はもっぱら暇だよ。荒仕事もだいぶ減っちまったし」
そう、暇だ。
異端による前代未聞の大事件から数月経った頃。
魔物の大洪水…トレインが前触れ無く起こったことを最後に、突如として秩序が訪れた。
地脈の暗黒域を原因とした魔物の大量発生が日を増すごとに少なくなり、今では既に発生数が比較的緩やかなもので固定された。
当の暗黒域はすっかり沈静化し、異界もトレインも過去のものになった。
真都の人々はこれを期に復興に励み、数年ですっかり元通りか、それ以上の平穏な営みを取り戻した。
それまで忙殺されていた足立探偵事務所が一転、暇人の肥溜めと化した瞬間である。
「足立さん、お金は大丈夫なんですか?タッちゃんも仕事ないって言ってますけど、給金出せてるんです?」
「達也の分が出せないわけねぇだろうが、何年世話したと思ってる?むしろアイツがようやく金の使い方を覚えてせいせいしたくらいだ」
そう、出せないわけがない。彼らの貯金は他が思う以上に多い。
五年半前の事件当日、足立と『双嬢』――マルゴット・マルガの三名は、真都に差し向けられたとある大災害を退け、撃滅のきっかけを与えた。
事前に街を滅ぼすに値した災害を引きつけ、その解決に貢献した功績とした、とても扱いきれぬ大金を極秘裏に王から授かったのだ。
「ほんと、なんで『帝』なんて相手にしたのか、今でもさっぱりわからんがね」
「それよねー。私達もキレてたけど、あんなのが来るなんて聞いてなかったわ」
「真面目に死ぬかと思ったもんね!」
最大級の魔物の一種である竜種。その序列四の内の二位。
この序列二位でさえ生きる伝説とも謳われ、一国を滅ぼしうる力を秘めているとされる。
千年より先の歴史こそ遡ることがおよそ出来ないこの世界では有るが、この帝竜が古くより大災害として人々に恐れられたのは、最早想像するまでもない。
三人は、真都城下街に進行せんとした帝竜を少数で海にまで引きつけ、真都の所有するもう一体の帝竜との決戦まで持ち込ませた。
その際に三人共重症を負い、だが死ななかったことは奇跡と言っても良い。
この対決の数日前、彼らは大切なものを弄ばれたと感じ、故に怒り、俯瞰して物事を探っていた。
些細なきっかけだったのかもしれないが、そうして繋がった帝竜との接敵が、彼らを当時の影の英雄の一人へと押し上げた要因である。
「世の中クソ…」
本来なら貧乏くじの極みである。
平凡な闇探偵に過ぎなかった男と同人作家が、生きる伝説を目の当たりにしてなおもひるまず挑んだ。挑んだだけ。
それで死んで、無様な犠牲として終わるはずだっただろう箇所だった。
だが。
「ってわけでも、ないのかね」
だが、現に彼らはここに生きている。
生きて、思い出したかのように平穏を貪っている――無論、平穏なのは真都中がそういうムードだからでもあるが、しかし。
「ま、正統な報酬ってやつはあるってことね」
「それでずっと怠けられてもすっごいだらしないんですけどね?」
「あーうるさいうるさい」
報われた、と言っても良いのだろうか?
程度の差はあれど、ここにいるものたちは皆、かつて理想から追い落とされた身。
それがこうして惰眠を貪り続けられるなど、昔では想像もつかなかったことだ。
高潔な騎士を目指しされど失墜し、闇を駆けるようになった者。
陵辱の限りを尽くされ、逃げ延びて尚、かつての闇を忘れることができなかった者。
同じく陵辱され、その無惨の余り、喜怒哀楽を喪失してしまったもの。
この事務所に集まったものたちは、得てしてそういった失格者だったというのに。
「…達也のやつね、最近、私達をデートに誘うのよ?」
「…ほう。金をよく使うようになったと思ったが」
「最近タッちゃん、少しずつシャイになってきたんだから!可愛いったらありゃしないです」
司波達也。これも9年来の足立の腐れ縁であり――彼がたまらず保護した少年だった。
星の智慧派教団の陵辱によって感情を凍結し、物事の機微が判別できなかったその姿は、彼にとって最も見るに耐えない姿だった。
見るにたえない――犠牲の象徴だったのだから。
「そうかいそうかい…でもどうせエスコートはお前らだろ?」
「そんなことないですよ!デートスポットはタッちゃんがすんごい一生懸命に考えて来てくれますし!」
「緊張度合いや今後のイベントが少し顔に出るのが悩みだけどね」
だが、ここ数年ですっかり調子が戻ってきたと見える。
無作法では有るが…恥ずかしいが、息子のように世話をし続けた結果か、はたまた達也自身が自ら掴み取った感情か。
「ぷふふっ、ははははははははは」
「「ふふ、あははは、うふ」」
何か幸福が還ってきたのだろうか、彼はそう思わずには居られなかった。
「良いネタ一つ見っけね…そんな顔で笑うアンタ、見たことないわよ」
「うげっ、迂闊だったくそっ、しっしっ」
「はいはいツンデレお疲れ様ですー」
「……ふん」
で、彼女たちはその達也の幼馴染とも言える二人だが、何も昔から彼女らに思う感情はそれだけではない。
特に今ならば、アイツを――いや、あえて言うまい。
足立は何かを言いかけ、そして口をつぐんだ。
「――なぁ、君たち」
だからこそ。
自らの身の回りの理不尽が払拭されてきたと感じるからこそ、気になる『モヤ』が疑問として浮かぶのだと。
彼はその思いを、口八丁に乗せた。
「僕達の平和は、特定の誰かさんから奪い取ったものじゃないかと思わないかい?」
この団欒とした空気は、たしかにその瞬間、停滞を見た。